2010.11.22

人民の意思を待ちながら 

大屋雄裕 法哲学

政治 #人民の意思

いま、政府によって出された命令があなたにとってきわめて不条理であり、従うことが到底できないと感じられたとしよう。あなたとしてはそれに反発し、そのような命令に従う理由はないと主張したいのだが、では何をその根拠にするべきだろうか。

私の意思を根拠にできるか

ひとつの考え方は、とにかく私が従いたくないのだから従わないと言えばよいというものである。しかし、もちろん現実にそう言い放つことは可能だが、その主張を正当化することはなかなか難しい。

なぜなら、少なくとも民主政国家では政府の命令の背後に、そのような命令を出すことを認めた人民の支持があると想定しなくてはならないからで、にもかかわらず私は従わなくてよいというなら、その時、私自身を人民の多数より優先すべき存在として・特権化して扱ってしまうことになるだろうからである。これは個々人の自由と平等を基礎とすべき近代社会においては、非常にまずい。

特権化という批判を避けるために、あらゆる人がそのように、自分の従いたくない命令に従わないと言ってよいのだと主張してみようか。平等の要請を満たすことはできるだろうが、しかし大方の人がただちに予想するとおり、そのような社会は機能しないだろう。

世の中に稀少な財(需要の合計が供給量を上回るような財)が存在するかぎり、その分配が何らかの方法で決定されなくてはならず、そして全員の需要を満たすことは(定義上)できないのだから、誰かが感じるだろう不満を抑えて一定の分配状況を強制することが、社会を安定的に存在させるためには必要だからである。

私の意思だけを根拠にする議論は、どうにもうまくいきそうにない。

普遍的理念か、「我ら人民」の意思か

だとすれば残された選択肢は、大きくふたつである。

第一に、人権とか自然法とか、とにかく普遍的で人為では動かし難いなにものかに訴えること。第二は別のかたちで表現された人民の意思を根拠とする方法。個人か組織かという問題を横におけば、問題の構図は司法府による違憲立法審査権の正当化と同じことだ。

人民の代表たる議会が制定した法律を、そのような民主的正統性を欠く裁判所がなぜ無効にできるのか。法律家はえらいので人民とは違う特権的な地位が与えられているのだというモデルを取らないとすれば、答は先程の二つの選択肢に対応したものになる。

つまり、人民の意思といえども、人権とか自由とか平等とか正義とかいった普遍的理念を犯すことはできないのであって、それらを守るべき役割が裁判官には与えられているという考え方がひとつ。だが、ただちに問題になるのは、本当にそのような普遍的理念が人民の意思すらも制約し得るようなものとして存在するのかということと、それを解釈する権限がなぜ裁判所にのみ与えられているかということである。

これらの問題を回避しようとすれば、もうひとつの選択肢を取ることになる。つまりたとえば、違憲立法審査の根拠となる憲法自体が、人民の意思にもとづいて作られたものであり、しかも多くの場合にそれは、人民の大多数の承認にもとづくか、革命のように特権的な瞬間に由来するものだ。

違憲立法審査とは、だから、司法府と立法府の対立ではなく、憲法に表現された人民の意思と・現在の政府を選んだ人民の意思の相克、同じ人民の意思のうちどちらを優先させるかという問題だと理解するのである。

そして、憲法を作った政治は「我ら人民」が直接に関与した特権的なものだと、たとえばアメリカの憲法学者ブルース・アッカーマンのように主張するか、あるいは長期的に安定し・熟慮にもとづいた結果としての憲法を、選挙結果に表現されるような短期的な意思、移ろいやすく感情に左右されて不安定なものよりも尊重すべきだという、共和政的な議論を選ぶことになるだろう。

市民的不服従と違憲立法審査制

だがこのように、同じ「人民の意思」といっても長期的なものと短期的なもの、あるいは特権的なものと、そうでないものの差があり得るという想定を受け入れるなら、我々は、現在の政府を成立させた人民の意思と、現時点のそれとのあいだにも、じつはそのような違いがあり得るのではないか、という問いに直面することになる。

実際、政府を成立させる人民の意思とは(日本の場合)、先の衆議院総選挙の時点で・選挙制度を通じて表現されたもののことであり、それはたとえば同じ時点で全有権者に対して各政党への支持を確認した結果の総計とも、まったく同じ選挙を一定期間のあとに実施した場合の結果とも、異なり得る。現在の政府に命令を下す権限を与えた人民の意思は、じつはすでに存在していないかもしれないのである。

おそらくここに、「市民的不服従」と呼ばれる行為の可能性がある。それは、自己一身の利益を図るためでなく、公共的な振る舞いとして・暴力的な反抗ではなく「従わない」という平和的な手段によって・政府の命令に抵抗することである。

インド独立闘争におけるマハトマ・ガンディーの思想や、アメリカ人種解放運動におけるバス・ボイコット事件が典型として想定されよう。あるいは、ベトナム戦争への反対を貫くため、徴兵検査で名前を呼ばれた際に進み出ることを拒んだモハメッド・アリの行為も、そのようなものと言えるだろう。

もちろんそれは、当時の政府の命令に反するものである以上、犯罪とみなされる場合があり、現にアリも徴兵忌避の容疑で逮捕され、訴追されている。それでも人々が「不服従」を選択する理由が本当にどこにあったかについては、さまざまな可能性があるだろう。

自分の意思だけは特別だと信じていたのかもしれないし、神の教えや普遍的正義のような理念の正しさを確信していたのかもしれない。私が言いたいのは、現実の動機はどうあれ、それを民主政的に正当化するとすれば、それは「人民の意思への呼びかけ」として理解されることになろう、ということである。

じつは同様に理解できる例を、違憲立法審査制から探すことができる。

世界恐慌後の深刻な不況を克服するために、アメリカのF. D. ルーズベルト大統領がニューディールと呼ばれる政策を展開したことはよく知られているだろう。だがそれらを実現するために制定された法律の多くは、1935年前後に連邦最高裁による違憲判決を受けることになった。判事たちの多数派は、経済に対する強力な介入を行なうニューディール諸法は、合衆国憲法が保障してきた自由への不当な制約だと考えたのである。

もちろんこのとき、選挙を通じた正統性はルーズベルトの側にあった。それでも憲法に拠って抵抗することで公共的な議論が喚起され、人民が自らの意思を問い直すならば、次の選挙という機会に人民は政府への不信任を表明するかもしれない。

現在の人民の意思が「政府を作った意思」と乖離していないこと、政府が人民の支持を失っていないことを確認しないあいだは、根本的な憲法体制の変動を避けるというように、この時期の連邦最高裁の動きを理解することができるのだ。

だから同様に我々被治者も、人民の意思へと呼びかけ、それが自らの不服従こそを「正しかった行為」として追認してくれることを期待して、政府に従わないことができるのかもしれない。

少なくともそれは現実的には(アリのように刑事責任を問われることを覚悟すれば)可能であるし、すでに述べたように現在の政府をかたち作った人民の意思がすでに幻であるかもしれないという、間接民主政に必然的な時間的違いがあることを考えれば、不服従の可能性を物理的に消去してしまうような制度は望ましくない、とも言えるだろう。

モハメッド・アリも、連邦最高裁では無罪判決を得ることになった(とはいえ、それはアリを良心的兵役拒否者と認めなかった行政手続の不備を原因としたもので、彼の行為が正しかったかどうかという点には沈黙したのだが)。たとえそれが政府の命令に反し、犯罪とされるような行為であるとしても、我々はいつか来るであろう人民の意思を待ちながら、その可能性に賭けることができるのである。

人民の意思は待たれながら

とはいえ、ただちに三つのことを補足しなければならないだろう。

第一に、人民の意思は来ないかもしれない。私の不服従がやがて到来する人民の意思を先取っているだろうというのは、あくまで私の予測であり、本当はそうではないかもしれない。

少なくとも、1935年の連邦最高裁の場合はそうだった。36年にルーズベルトは圧倒的な多数で再選を遂げ、議会でも多数派を占めた。一人の判事がニューディールを許容する立場へと転じることによって、最高裁の抵抗は終わりを告げた。

すべての不服従が人民の意思の到来による救済を約束されているわけではなく、救われないものは単なる違法行為であり犯罪であるにすぎない。

第二に、じつは人民の意思の到来によって正当化されることを信じて賭けているのは、政府の側も同じだということである。いやむしろ彼らは少なくとも一度は人民の意思によって支持されたからこそ政権についているのであり、だからこそ我々に命令する正統性を得ているわけだ。

したがって、彼らがその命令に反した人間を処罰しようとすることも一応は正当なのだし、またそれは我ら人民の意思を顕現させるために必要なことでもある。誰かが市民的不服従の可能性に賭けたとして、しかし政府がそれを無視しあるいは冷笑し、何事もなかったかのように振る舞うとすれば、人民が自らの意思の所在を問い直したり、あらためて表明する機会も与えられないだろう。

不服従を「人民の意思への呼びかけ」として真剣に受け止めるならば、政府はそれに取り合わなくてはならない。彼を弾圧することがむしろ彼を尊重することであり、彼を単なる犯罪者ではなく抵抗者にするのである。

第三に、仮に我ら人民が不服従者の行為を良しとするなら、我々自身が彼のもとを訪れなくてはならないということである。一人ひとりの人民の行動の総和以外に、「人民の意思」などありはしない。彼の行動を認めつつ、しかし彼のように不服従を選択するでもなくただ待ち続けるとすれば、人民の意思はついに現れないだろう。

抵抗者の「賭け」が報われるかどうかは、我ら人民すべての行動にかかっているのだし、そもそも彼が賭けざるをえない状況を作り出したのは、(過去の)我ら人民の意思である。「賭け」が成功したとき、彼は英雄のごとくみえるかもしれない。しかし我々がすべきなのは彼を英雄として称えることではなく、英雄を必要とした我ら自身の過去の選択を恥じることなのだ。

推薦図書

不服従・抵抗を考える際に注意しなくてはならないのは、まず、すべての抵抗が正当なものと(事後的にすら)認められるわけではないということだ。数十年前に愛犬を保健所に連れて行かれたから引退した厚労省の官僚を殺害しましたという事例のように、本人としては正当な抵抗のつもりなのだがどれだけ聞いても了解不能であるような行為もある。

また、その事例では端的な暴力が手段として選択され、したがって我々がそれを平和的な不服従ではないと批判することも容易なのだが、積極的な行為と不服従・暴力と非暴力の境界線が必ずしも明確でないことにも注意する必要がある。たとえばアリの徴兵拒否が市民的不服従であるとして、ではすでに徴兵されていたものが脱走するのはどうだろうか。それを支援する行為はどうか。

本書は、ベトナム戦争中に脱走米兵の支援を行なった当事者の証言だが、これらの組織自体がソ連による支援を受けていたことも、冷戦終結後には明らかになっている。少なくとも行為が英雄的にみえるというだけで、それを評価することは慎むべきだと、そこまでは言えるのだろう。

プロフィール

大屋雄裕法哲学

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。

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