2011.02.28

最高と最低の道徳

大屋雄裕 法哲学

政治 #他者危害原理

「法的に正しいことでないこと」は、「法的に間違っていること」である。あるいは、合法でないことは違法であると言ってもよい。では、「道徳的に正しいことでないこと」は「道徳的に間違っていること」だろうか。「政治的に正しいこと」はどうだろうか。

法的な正しさ

法的に正しくないことは、間違ったことである。法律は、世界のすべてのことがらを「合法」と「違法」というふたつの区分へと綺麗に押し込めることを、その本質としている。

もちろん合法か違法かの判別が難しいとか、なかなか確定しないということもある。日本でもっとも長くかかった刑事裁判である甲山事件では、無罪判決が最終的に確定するまでに事件から25年が必要となった。しかしそれでも最高裁判所の判決が最終のものであることが憲法81条で規定されている以上、いつかは確定的な結論が得られるはずなのであるし、それまでのあいだも結論はすでに決まっているはずであって、その観測が十分にできていないにすぎない。

シュレディンガーの猫がいまこの時点で生きているのか死んでいるかはわからないが、そのどちらかであることは決まっているように、それは確定しているが知られていないことであるにすぎない。

そして、違法な行為は基本的に犯罪であり、制裁の予告を通じて禁止される。もちろん単純売春や未成年者の飲酒・喫煙のように、違法だが犯罪とはされていない行為もある。だがそれでも、違法行為である以上は民事上の不法行為責任の基礎になるなど、法的な制裁によって抑止されている、とは言ってよいだろう。

このように「違法」とされたことが法的な強制を伴って禁止されるからこそ、多くの思想家たちはその限界について論じてきた。

他者危害原理と最低限の道徳

J. S. ミルによる「他者危害原理」はその典型である。彼は、国家がある行為を禁止することができるのは、それによって他者に危害が生じる場合に限られるとした。言い換えれば、自分自身にのみ危害が及ぶような行動(たとえば自殺)や、現実の危害は生じさせないような行為(キリスト教徒が多くみている前で妊娠中絶の合法化を主張する演説をぶつ、というのはどうだろうか)を法によって禁止するのは許されない、ということである。他者を傷つけない限り、何をすることも法的には許されている。

逆に言えばそれは、「違法ではないこと」=「合法であること」のすべてが、社会から高く評価されたり他の人々に許容されたりするものではない、ということを意味している。自分の財産を食いつぶしながら朝から晩まで飲んだくれている人間がいたとして、そのような生き方は高く評価できないと考える人はいるだろうし、友人付き合いなどもってのほかだと思う人もいるだろう。

あるいはそう思う人が社会を構成する圧倒的多数であって、その結果彼は友人も知人もなく寂しい人生を送ることになるかもしれないが、それはそれで仕方がない。国家の強制が働いているわけではないので他者危害原理が直接適用されるわけではないし、そもそも「イヤな奴とは付き合わない」ことも、それによって他者に直接的な危害が及ばない行為だから他者危害原理によって保護されている。ミル自身によっても、この点は以下のように明確にされている。

人は誰でも他人についても否定的な意見に基づいて、他人の個性を抑圧するためではなく、自分の個性を発揮するものとして、さまざまな方法で行動する権利をもっている。たとえば、その人との付き合いを求める義務はない。付き合いを避ける権利をもっている(ただし、避けていることを誇示する権利はない)。人には、付き合いたい相手を選ぶ権利があるからだ。(ミル『自由論』173-4ページ)

「法律は最低限の道徳」と言われることがあるのは、この反映である。法はあくまで、自由にふるまう人々が共存するために絶対排除しなくてはならない行為のみを規制するためのものであり、それに反しない行為が道徳的に正しいことは保証しないし、行為の動機とも関係はない。盗みは悪いことだから手を染めないという人と、発見されたときの処罰が怖いからやらないという人は、法的には区別されない。

だが繰り返すと、その違いはわたしが友人を選ぶとか、われわれの代表を選ぶという場合には意味をもつだろう。法は強制力によって社会を支配する強力な手段だが、社会のすべてをカバーするものではないのである(近年、「食に関する適切な判断力を養い、生涯にわたって健全な食生活を実現することにより、国民の心身の健康の増進と豊かな人間形成に資すること」ことを理念として掲げる食育基本法(平成17年法律63号・2条)のように、この範囲をこえて人々の内心を規律することを目指すかのような法律も増えてきており、「おせっかい立法」の問題として立法学的にも取り上げられるようになっているが、それはまた別の話、ということにしよう)。

法律の論理の限界

「良き法律家は悪しき隣人」という格言もあり、法律家かどうかは微妙だが一応法学部に奉職している身にとっては不愉快なところはある。しかしやはり大学のなかでみていると、「中二病」ならぬ「法学部二年生病」のごときものがあることは否定できない。それは、要するに「法的に正しいこと」の意味をめぐる誤解から生じている。

たとえば、自分は知らなかったが離婚する前から元夫が別の女性と不倫関係にあった、しかも相手の女性はその当時まだ別の男性と婚姻中であったと告発した女性がいたとしよう。われわれが告発された女性から聞きたいことがあるとすれば、告発の内容が事実なのかとか、一体どういう考えでそういうことをしたのか、動機や理由はどういったものかということだろう。

法律上は前夫との婚姻がつづいていたといっても、酒に酔っては暴力を振るう夫から身を隠していたのだが、相手は離婚協議にすら応じないというような状況であれば、「なるほどやむを得ない」というようなこともあろう。あるいは悪いこととは知りつつも「真実の愛」に目覚めたとか言われれば感動する人すら出るかもしれない。要するにそれらが、われわれが今後その女性とのお付き合いをどうするかという問題に関係するからである。

一方、その不倫行為が損害賠償請求の基礎となる不法行為にあたるかどうかといったことは、基本的にどうでもいい。「違法なら(道徳的にも)悪いことだ」とは言えるかもしれないが、「告発した女性の婚姻はすでに実質的に破綻していた、だから不法行為ではない」と言っても、書類上の絆があるあいだは夫婦であることに変わりないと思う人もいれば、客観的状況はともかく、前妻が納得していない状況で次の女性に手を出せば不倫だし、それを知りつつ付き合う女性も(道徳的に)同罪だと思う人もいるだろう。

こういう人たちに「法律的に間違ってはいない」という基準は意味をもたないし、繰り返すがそのような基準をとる自由も他者危害原理で保護されている。さらに言えば、そのような基準を採用している人に対して「法律的には間違っていない」と反論すれば、その正誤は別にして、反論しない場合よりかえって評価を下げることになるかもしれない(「屁理屈で言い訳している!」)。

相手が他の人々なのか国家なのか、あるいは犯罪や不法行為責任を問う場なのか、相手への(積極的)評価が問題にされているのかといった文脈の問題を無視して、とにかく合法なのか違法なのかに集中して議論することは、あまり良い結果をよばない。この点を無視して「合法なんだから批判されるのはおかしい」などと主張するようになると「法学部二年生病」である。

良き法律家と悪しき隣人

もちろん、法律の世界ではこの「合法か、違法か」という基準が支配的に機能するので、初学者がその点に関する鋭敏な感覚を養うのは悪いことではないし、道徳的なるものが法的な強制の世界に持ち込まれる傾向(「間違いなく悪人なんだから証拠がどうだろうが有罪にしてしまえ」)に抵抗するのは法律家の役割なので、「健全な常識」をある程度無視できる必要もある。

しかし、法律家が誰かのために・代理人として働くとき、依頼人の周囲で働く他の基準を無視して「合法か、違法か」だけで争えば、依頼人の人生全体には悪影響を及ぼしかねない。

「前婚はすでに実質的に破綻していた」という反論は、だから悪いことをしたのではないという主張を含んでいると受け取られやすい。そのように「開き直る」のと、「悪いこととは知りながら愛情に負けた」と泣き崩れるのと、どちらが世間の同情なり理解なりを集め得るか、それはもちろん当人のキャラクターやそれまでの行動、周囲の状況に依存する話であって簡単に答えが出る問題ではないが、しかしその答が法律の世界の内側にないことだけは確実だろう。

あるいは法律の内部にも、事情変更の原則や可罰的違法性論のように、一般社会的な感覚や常識を反映するための仕組みが組み込まれている。こういったことに気づき、高学年になるにしたがって、法律の世界の内部の論理と社会の反応のバランスを取れるようになるのが法律家としての成長ということになるだろう。

さて問題は、しかしそれが治らないまま・法律の形式的な論理には優れているので司法試験にも通ってしまうような人もいるということで、かつそういう人は世間の反応や他の価値基準からの評価を無視して法の世界内部で勝敗を争えばたしかに有能なので、一定の評価を受けるという点にある。

世間がどう噂しようがこの刑事裁判で無罪を勝ち取りたいと思えば、そういう人を選んで頼むとよろしい。しかし頼む方でさまざまな評価軸と法の世界での勝敗の区別を踏まえておかないと、なるほど裁判には勝ったが社会的な評価も友人知人も失ったということにはなりかねないのである。

法律プラスとしての政治

一方、「政治は最高の道徳」という言葉が本当にアリストテレスに遡るのか、福田赳夫元首相が要約して生み出した言葉なのかわたしは詳らかにしない。だがその意味するところは明白で、つまり政治は法律プラスのなにものかであるということだ。人が政治家になるためには、法律を守っているだけでは十分ではない。公民権を失ってもいけないので「最低限の道徳」たる法律を守っている必要はあるが、それだけで他者からの支援を集めて当選できるわけではない。

本当に道徳的である必要があるのか、道徳的であるようにみえればいいのかといった論点はあるが、他者の内心などみえない以上さしあたり問題ではない。重要なのは、とにかく政治家にはたんに国家から干渉されない水準の行動をとるだけでなく、誰を支持するか、あるいはまったく誰も政治的には支持しないのかを自由に選ぶことのできる人々に、その義務はないがこの人を支持したい、この人と付き合いたいと思わせることができなければならないということである。

だから政治家にあるスキャンダルが持ち上がったとして、人々から嫌われたり支持されなくなるようなことではあるが法律は犯していないというとき(たとえば不倫のような私生活上の非行はこれにあたるかもしれない)、犯罪ではないというのは市民として失格でないことの理由にはなっても、政治家としての資格には影響するだろう。

もちろんそれを有権者がどう受け止めるかも法律からはわからない問題である。犯罪であっても社会的には評価されるようなこともあるだろうし(犯罪かどうかに疑義もあるがsengoku38氏による尖閣動画流出事件などはどうだろうか)、まったく合法的な行為であっても人々から嫌われる原因になることもある(所属政党を転々と変えることが犯罪に当たらないことは言うまでもないが、しばしば政治家としての支持を失う原因になっているようである)。

法律という統一された・二値論理的な評価軸ではなく、さまざまな他者たちのもつさまざまな評価基準によって判断されることに耐えられないならば、政治の世界に入ってくるべきではないのである。

問責決議と合法性

さて、同様のことは政治家の・政治家に対する関係についても言える。誰と党派を組み、誰と議論して議会を運営していくかということについて、なにか積極的な行為を個々の政治家が強制されることはない。

日本の国会法は、議会審議に応じる義務を規定していないから、それぞれの議員には審議に応じるのか応じないのか、政府提案に同意するのかしないのかについて決める自由がある(もしそうでないとすれば自民党は55年体制をもっと楽に運営することができただろう)。もちろん理由もなくずっと審議を欠席すれば有権者からの評価が下がるかもしれないが、それは政治の世界の問題であり、法的な問題ではない。

参議院の問責決議が、衆議院の不信任決議と異なり法的な効果をもっていないことは事実である。したがって、問責決議を受けた政治家が反省を表明するかしないか、行動を改めるかそうしないか、参議院での審議に出席しようとするかしないかは当の政治家が法的には自由に決めてよい。

だが法的なことを言うなら、同様に参議院の議員たちにも問責決議を受けた大臣に対する質疑には応じない自由がある。それによって生じる影響はすべて政治的なものであり、法的な効果ではない。

政府が政策実現することを責任として担っているとすれば、法的に正しいという基準を満たすだけではなく、十分な支持を獲得できるだけの政治的な正しさを調達する必要がある。合法性という「最低限の道徳」さえ満たせば誰に批判されることもないという法律の世界の基準が政治の世界にも通用すると堂々と主張するような「法学部二年生病」の人間が、政策実現という責任を果たすことはできないだろう。弁護士選びの例と同じく、その種の人間にうかつに幻惑されないことが、大失敗を避けるためには必要なのである。

人は直接には自分だけに関係する点での過ちのために、他人から厳しい扱いを受けることがある。だが、これらはすべて自然なものであり、いうならば過ちの当然の結果なのであって、処罰のために意識的にとられたものではない。軽率な人、強情な人、自惚れている人(……)は、他人に低く評価され、好意をあまりもたれないと覚悟しておかなければならないし、それに抗議する権利はもっていない。(ミル『自由論』174ページ)

推薦図書

他者危害原理を確立した、近代リベラリズムの古典。議論の歴史的な背景や意義、対象の範囲(国家なのか社会なのか、どの範囲の個人に適用されるのか)などを確認するためにも、通読しておきたい。古典新訳文庫の訳はこなれていて読みやすい。

プロフィール

大屋雄裕法哲学

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。

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