2012.12.10

データで政治を可視化する 

菅原琢×荻上チキ

政治 #世論調査#選挙制度

「ダメ出し」ではなく「ポジ出し」を! 非難やあら探し、足の引っ張り合いはもういい。ポジティブで前向きな改善策を話し合おう――。気鋭の評論家と政治学者による対談。印象論で語られがちな政治の見方を変える方法とは? (構成/宮崎直子)

政治学の中の計量分析

荻上 SYNODOS編で今年7月に刊行した『日本の難題をかたづけよう』では、菅原さんに第二章「データで政治を可視化する」をご執筆いただきました。菅原さんがデータにこだわり続ける理由とは、一体何でしょうか。

菅原 現代の政治学では分析手法として計量分析は非常に重視されています。たとえばマクロ経済学では、国が公開したような公的なデータに従って研究をする人が多いと思いますが、政治学の場合は基本的にそういった公的なデータがほとんどない。特に政治家というのは、自分たちのデータを出したがりません。

皆さんあまり知らないと思いますが、衆議院の本会議に誰が出席していて欠席しているかということは実は公開されていない。おそらく正式な記録も取られていない。そうやって、自分たちのデータを隠蔽しようとする人たちが向こう側にいるのが、政治学における計量分析の構図です。

でも、そこを何とか学問として研究していかなければならない。そう考えたとき、データを発掘し、編集し、分析するという仕事は重要なのです。そのように考えて、データ分析に携わっているという感じです。

荻上 なるほど。たとえば国勢調査をはじめ、国は国民の状況を把握して様々なデータを公開しています。GDP、物価指数の遷移、食糧自給率、エネルギー自給率等々、中には謎の数字もありますが……。いま国の体力はこれくらいだから、うちの省庁にこれだけの予算を付けてくださいというようなことが行われているわけですね。

しかし、「政治家が何をしているか」は、民間あるいは研究者がデータを出してくれないと透明化できない。もちろん市民もそうした問題意識を持つ必要があります。

計量分析の広がり

荻上 政治評論の歴史において「データで政治を可視化しよう」という意識が高まってきたのは、まだまだ最近のことです。これまで主に二つの方法論がありました。一つはジャーナリズム的な手法で、永田町における人間関係や派閥問題をとりあげ、次の政治動向を占うというもの。

もう一つは社会評論的な手法で、思想同士の対立で政治の動きを読み解いていくもの。例えば、九〇年代までの冷戦構造が終わり、社会主義と共産主義を目標とする社会が崩れて自由主義に変わり、その先にやってきたのは自由主義の勝利ではなく、ネオリベラリズムである……というような。

そうした文法がヘゲモニーを握っていたという感じがしますが、いまは徐々に、計量分析がもう一つのスタンダードになりつつあると思います。これはいつ頃からでしょうか。

菅原 これもあまり知られていないことですが、政治学における計量分析はそれなりに歴史があります。日本で言えば、朝日新聞社の記者だった石川真澄さんは、同紙が収集したデータを使って政治学的に今でも重要な様々な発見や理論を残しています。政治学者の三宅一郎さんは世論の研究の第一人者として70年代から活躍しています。世論調査を用いての政治意識研究はさらに前からあります。しかし、以前はコンピュータが普及していなかったので、限られた人たちがやっていた。コンピュータが普及したのは九〇年代後半以降なので、それに合わせてデータを取ることも増えていきました。

政治学会が発行している雑誌に『年報政治学』というものがあります。ずっと岩波書店が出していたのですが、数年前に出版社が木鐸社に変わって、分厚さが二倍になり発行数も年二回になりました。この際に、計量分析を行う論文も大きく増えています。今では政治学関係の学術誌を開くと、多くの論文が計量的な分析を行っていて、政治史や政治思想のように昔ながらの論文はかなり目立たなくなっています。

荻上 その転換は何がもたらしたのでしょうか。「計量ソフトが進歩したから」というのは他分野でもよく聞く話です。

菅原 それも含め要因は複数重なっているでしょうが、根本的には論文を出したい人が増えたというところだと思います。それは大学院の重点化など、制度的な背景も大きいです。アメリカでドクターを取った政治学者も増え、彼らがどんどん論文を書きはじめました。業界的にも、査読の通った論文のほうが評価は高いし、そうしたものを出す雑誌が増えることを望んだ。学術誌がどんどん分厚く、あるいは回数を出すようになり、論文をたくさん載せる方向に変わっています。研究者側の論文執筆競争が、メディアの側に投影し、それがさらに研究者側の競争を若手中心に激化させているわけです。これは研究が活発化しているということを意味しているので、基本的には良い傾向だと思います。

これと並行して、パソコンの普及とも相俟って、統計分析の手法やソフトウェアが普及しています。おかげでデータを用いて研究をする人が飛躍的に増えました。政治学に関係する大学院生を見ていると、大体半分以上は計量分析をしているのではないかという印象を持ちます。何らかのデータを指導教員から引き継いで研究している人も多いですね。あるいは無理やりプロジェクトに関与させられたりして(笑)そして、それをどこかに載せなきゃいけないという心理的な圧力もあって、論文が量産されているというのもあります。この点については賛否両論というか、否定的な意見も業界内では多いと思いますが。

荻上 九〇年代で、ある種思想で政治を語る時代は終わった、というよりは……。

菅原 「思想よりもこっちだ」と、いう選択をした人は少ないと思います。それよりは、計量分析をやることが流行というか有利というか、そういう市場的なメカニズムは当然あると思いますね。

荻上 学閥はやはりあると思いますが、ぶっちゃけ思想系と計量系は仲が悪かったりするんですか?(笑) SYNODOSで書いて下さっている方だと、政治思想系では吉田徹さんがいらっしゃいますが、菅原さんみたいな計量系の方とコラボレーションするような場面ってあまり見ないわけですね。

菅原 吉田さんとは同じゼミにいたことがありましたが、個人的にはあまり思想系という印象はなかったですね。事実もベースに語る方だと思います。政治学の研究者をわかりやすく簡単に分ければ思想系、歴史系、実証系になると思います。実証系の中に計量分析の人たちがいます。どの研究分野でもそうであるようにこれらの境界は曖昧ですが、基本的に思想と実証は遠く、特に計量はそうです。向こうからすれば、なんかよくわからないことをやっている集団だし、こっちから見ても、難しい言葉を使っている人たちだ、みたいな感じで話をする接点は多くはない。

近年、「ポピュリズム」というのは思想でも計量でもテーマになっていますが、たとえば「橋下現象」の計量分析(松谷満「誰が橋下を支持しているのか」『世界』2012年7月号、善教将大・坂本治也「橋下現象はポピュリズムか? -大阪維新の会支持態度の分析」『Synodos Journal』2012年7月24日 https://synodos.jp/politics/1357?など)に、思想系の人が共同研究者として絡むことができるかというと、どうでしょうか。思想家の言葉をデータ化して分析するような研究はあると思いますが。

荻上 思想系の人は数学コンプレックスがあり、計量系の人は哲学コンプレックスがあると、そうしたものがなきにしもあらずかなと勝手に想像していたのですが。

菅原 専門家というのは、自分の専門領域は詳しくて議論したがるけれども、専門外だと、逆にその相手がどれだけ強いかよくわからないので、触れたくないという感じでお互いに避けたりするところもあるのかもしれません。個人的感覚では、共同研究による利益(研究成果)が想像できないというところが大きいように思います。

政治体制を変えるために必要なこと

荻上 政治体制を変えなければいけないということは、いろんなところで語られています。若手の論客も年上の論客も「今こそ変えなくては」といい続けています。

例えば、人によっては「制度を改革しよう」と唱えます。選挙制度を改革することで、プレイヤーや党とのパワーバランスのかたちを変えていこうと。小選挙区制にして二大政党が生まれやすくすることによって、改革のドライブを進めようと主張する政治学者もいました。

他方、「プレイヤーを変える必要がある」と主張する人は、個人のリーダーシップ性に着目して、政経塾などで教育に力を入れています。

しかし、制度やプレイヤーを僕らが具体的にいじることは難しい。政治学者や政治家を育てるには、やはり20、30年はかかるわけです。

菅原 そうですね。

荻上 もう少し早く変化を体感しようとすると、当たるも八卦、当たらぬも八卦というよりは、やはり言論の質を変えていくことが必要ではないかなと。メディアの質を変えるとか、市民がチェックすべき項目をいじっていくとか、そういうことをしたいなと僕は考えます。

すると、政治の語り方を変えるためには方法論を変えなければならない。今までのように、小沢と誰々がどこで会ったとか、マニフェストのこれが反するとか、プロファイリング的な語りだけではだめ。自分たちのニーズを見えるようにすると同時に、政治家たちがやっていることの「ズレ」みたいなものも可視化する必要があります。

菅原 日本では九〇年代以降、行政改革にしろ構造改革にしろ、改革、改革とずっと言われ続けてきました。政治改革から小泉構造改革まで、熱気は実感として伝わってきました。政治改革に関わった先生方も展望の明るい感じで携わっていたように記憶しています。しかし実際には、経済状況が悪くなっていくのとパラレルで政治も悪化しているように見えます。民主党に変わればと思ったら、それほど変わっていないようにも見える。

制度自体も変えにくいものですが、制度を変えたとしても、そこで動く人間や、人々が持っている慣習や記憶のようなものは意図したようにはなかなか変わらない。政治を変えるということは非常に難しいものだというのが、この二十年間ぐらいで体感していることです。

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議員のインセンティブは変わらない 制度改革の限界

荻上 制度を変えるやり方では、限界があるのでしょうか。

例えば、中選挙区制から小選挙区制に変わるとき、中選挙区制では派閥が強化されやすい傾向にあるのが問題だと議論されてきました。一つの選挙区の中で、同じ党内から二、三人擁立することになりますからね。派閥に政治が振り回されるのは不健全です。

ただ、蓋を開けてみると今でも派閥は生き残っています。もちろん二十年前に比べれば弱体化しています。派閥や族議員の解体の動きは進んでいるとは思いますが、依然として残っています。

菅原 制度を変えようと思ったときに、政治家はどうしても自分たちに有利なようにいじりがちだということをまず想起すべきでしょう。

派閥の力は弱くなっていっていますし、いわゆる昔の自民党派閥的な争いの中で政治が決まらなくなっていることは確かです。しかし、それで政治家の行動原理が大きく変わっているかと言えばそうではありません。

たとえば、仮に今、派閥がなくなったとしても、それで政治がどれだけ良くなるかといえば、議員一人ひとりの行動、つまり彼らが重視するものというのは、おそらく変わらない。派閥の親分の言うことを聞かなきゃいけなくなるという部分がなくなるので、議員は今以上に自由に行動するようになるでしょう。その背景でインセンティブを設定しているのは何かと言えば、「候補者を選ぶ」選挙制度です。派閥が担っていた政党の結束を補強する機能がなくなり、結果、議員の個利個益が際立つ状況になっています。

自民党と民主党を比べればわかりやすいですが、自民党の場合はまだ派閥が残っていて、お偉いさんがいて、その下に子分がいてというかたちが仕組みとして一応残っているので、問題が起きたときにまとまりやすいところがあります。民主党はこれに比べてバラバラです。

荻上 代表選とか、露骨に表に出てきますからね。

菅原 ええ。一方で、民主党を見ていると何かあればみんなが騒ぎ出す。小沢さんが何か言ったら、それはその通りだとか間違っているとかいって、右往左往する。

とはいえ、派閥の枠組みがより薄いほうとより強いほうで比較したとしても、起きていることは、派閥があるとちょっと統制が効く、派閥がなければ自由気ままにやる人が増える、その程度の違いでしかない。

派閥は弱体化しても、議員のインセンティブは変わらない。自分たちが選挙に勝ちたい、昇進したい、政策をやりたいという意識は全く変わらないのです。野田さんのことを支えて一致団結してやろうぜみたいな人が、どれだけいるかというとほとんどいない。何かあったら「あいつを降ろせ」となります。これはもちろん、09年に民主党は大勝し、自民党は大敗したので、個々の議員の次の選挙が見えない、見えるの違いもあります。

政党の団結力を高めるような仕組みは、中選挙区から小選挙区にしただけでは作れていなかった。イギリスのように二大政党になって、政権交代を二十年に一回して、立派な政治ができますねと一部の人は言っていたけれども、現状全然そうはなっていない。

荻上 自民党と民主党、それぞれの時代の憂鬱を経験した後には、「第三の政党」が乱立しています。もともとそうでしたが、今はますます、多党制に近づいています。そうすると、制度改革論そのものの見直しが研究分野でも進んでいくでしょう。

一方で、もう制度改革ではだめだという考えも出てきます。橋下現象が象徴するように、「リーダー待望論」がまことしやかに議論されている。しかし、国民が本当にリーダーシップを発揮できる代表を求めているかというと、そうでもないという調査結果もある。

次に必要な議論のアウトプット自体も、ものすごく雰囲気に左右されていて、データに基づいていない印象を受けます。

データで読み解く政治とは 世論調査の「疑惑」

荻上 これから議論を組み立てていくうえで、国民の意思とのギャップを埋め合わせるために、データを蓄積し可視化していく作業は不可欠です。データを可視化することで、具体的に政治にどのようにアプローチできるのでしょうか。

菅原 『日本の難題をかたづけよう』の拙稿で書いたように、「国会の委員会の出席率」を分析すると、国会議員を研究することができます。あるいは「選挙ポスター」を分析すると、政党と政治家の関係が見えてきたりする。例えば、民主党議員で当選が難しそうな人は、運動を党に頼っており、あるいは比例区で当選するために政党名を大きく書きますが、逆に、余裕で当選するような現職議員などは政党名を比較的に小さく書いたりします。

こうした細かい事例であっても、現代の政党制、あるいは政党と政治家の関係を分析することで、政治を変えていくためにはどうしたらいいのかというアイデアが、ここから生まれる可能性があります。

荻上 選挙ポスターの分析については、『「族議員」の研究』(猪口孝・岩井奉信著、1987、日本経済新聞社)にも書かれていましたが、やっぱりその時代ごとに、政治家が何を訴えたいのかというリアリティがポスターに滲み出てきます。時系列や政党別にそれらを比較することで、政治家の欲望みたいなものを僕らが把握することも可能なんですね。

一方で、馴染みがあるのは何といっても「世論調査」。内閣の支持率、消費税増税に賛成か反対か、橋下を支持するのかしないのか等々ありますが、最近、この世論調査がどこまで信用できるのかという議論があちこちで聞かれます。

例えば、方法論が微妙である、そもそも一般電話の調査に携帯文化の若者は応じていない、新聞各社によって結果がバラバラなのは誘導しているから……というような。ただ、その疑問のなかには、統計に対する無理解も含まれている。

この世論調査に対する疑惑について、世論調査分析のプロフェッショナルである菅原さんは、どういうふうに見ていますか。

菅原 世論調査叩きの構造は、大手メディアと呼ばれている新聞社やテレビ局が、巨額の資金が必要な調査とその結果を独占しているのに対して、よくわかっていないフリージャーナリストや政治家があら探しをしてワーワー言っているという感じで成り立っています。そういう不幸な状況の中で世論調査が批判されているという面が一つあります。これは、『Journalism』2011年1月号の拙稿「スケープゴート化する世論調査―専門家不在が生む不幸な迷走」で書いたとおりです。

一方で、メディア側も世論調査をニュース素材としておもしろおかしく扱っている側面が非常に強い。例えば橋下さんのような人が出てくると、次の首相は誰がいいかという項目に橋下徹を入れてみて、「ああ、ほら、二十何パーセントだ」と騒いでみたり、あるいは維新の会が国政に出ることに「期待するが六〇%」と出たら、それを谷垣さんや野田首相にぶつけてみたりするわけです。

そういった感じで「今、橋下徹がアツい」という現象を、メディアが無理やり作りだしているようなところがある。有権者の答えを無理やり解釈し、大きく見せるというのは、世論調査の使われ方としては非常に不幸だと思います。

荻上 ただ、新聞だったら買ってもらわなきゃいけないし、テレビだったら視聴率を取らなくてはいけない。多くの人の注目を集めるために、よりインパクトがあって、速報性の高いものが報道されやすいというメディアの原理があることは仕方のないこと。

でも、本当に世の中を変えるために必要なデータを流すという発想で世論調査をしているというよりは、それで一記事書けるからという面が、実際のところでしょうね。

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橋下現象、数字の罠

荻上 菅原さんは雑誌『Journalism』(2012年7月号、朝日新聞出版)に「世論調査政治と「橋下現象」??報道が見誤る維新の会と国勢の距離」を寄稿されています。未読の方も多いと思うので、改めて内容を少しお話いただけますか。

菅原 では、簡単に述べます。メディアは今、橋下徹を小泉政権が郵政解散をやったときと同じくらいの勢いで報じています。世論調査をすると、維新の会に期待する人が六十何パーセントみたいな数値も出てきました。

ところが、世論調査はたくさんあって、実は「そんなに維新の会、きてないぜ」という結果も出ているんです。

例えば、「次の国政選挙であなたはどの党に投票しますか」と聞いたところ、維新の会という回答が全く出てこない調査がある一方、一部の調査では、二十何パーセントと極端に大きな数値が出てきたりします。

なぜこうした違いが見られるのかを分析してみると、後者では、質問の前に「次の選挙で維新の会が出馬すると言われていますが」とか、あるいは「維新の会が出馬するとしたら、どうですか」ということを訊いていたりする。先に印象付けをして回答を誘導しているんですね。そして一面トップに「◯○%」と派手に掲載されます。

一方、別の調査で五%という結果が出ていたのですが、この場合は見出しにもならず、文章の中に「五%しかなかったが」みたいなことをちょっと書いているだけです。

つまり、大きな数字が出てきて、しかも自分たちの印象に合った数字であれば一面トップに載せて、次の日の社説で、政権批判の理由付けに使うなどして派手に取り上げられる。

ところが全然注目されない、自分たちのストーリーに合っていない数字が出てくると途端に切り捨てられる。そういう極端な例が見られていますね、ということをこの論文では書きました。

そういう使い方をしていると、世論調査の信用性が失われてくるでしょうし、それ以上に、報道自体がかなりいかがわしいものとして見られていくと思います。そのためには、まずメディア間での参照や批判が必要だと思います。最近、朝日、毎日、読売と、立て続けに昨今の世論調査における新党の政党支持率や投票予定割合のメディア間の相違を解説する記事が出てきました。これは良い傾向だと思います。

統計、世論調査が使えない

荻上 統計の他にも、例えば前回の『犯罪白書』が出たときに、各新聞社の見出しを見比べてみると、「犯罪減少」と書いているところは少なかった。「再犯者率過去最多」とか、危険を煽るような報道をしがちでした。安心材料ではなかなか報じないがゆえに、世の中の治安は今でも悪いと思っている人たちがたくさんいたりします。

治安に対する体感治安の調査で「不安に思っている人が何十パーセント」というデータを見ると、質問項目で「最近こういうニュースがよく報じられていますが、犯罪は増えていると思いますか」というような誘導的な聞き方をしている。聞き方は中立的でも、報じるときに部分的にセンセーショナルに取り上げられてしまうこともある。

こうした状況を変えるためには、統計的手法をもって政治をチェックすると同時に、メディアパトロールすることが重要になってきます。そして、メディアが間違っているときには「だからマスコミは……」と煽るのではなくて、よりベターな方法を可視化し、提示していかなくてはいけない。

菅原 ネットが普及したことで、ある程度それができるようになってきています。ネットニュースをチェックして、「ここはおかしい」と物申す人たちが、特に震災以降、増えてきている印象がありますね。

荻上 そうですね。

菅原 勉強する記者も増え、わりといい方向に進んできているとは思うんですが。

荻上 ジャーナリストにも、専門性が求められてきています。

菅原 評価するジャーナリストや専門家がいて、メディアもそれに応答するという、クロスチェックのいい循環ができつつあります。ただ、これが今後どう進んでいくのかはわかりませんが……。

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一般ユーザーに分析を任せる

荻上 7月からSYNODOSで「復興アリーナ」というサイトを立ち上げています。震災復興に関する情報を取材し載せていくもので、新聞記者に震災記事を書くときの反省点を伺ったり、被災地で自治会長や子供をもつ女性たちの座談会を開き、仮設住宅の課題を語っていただいたりしています。

毎日新聞の小川一編集局長にお話を伺ったときに、「ソーシャルメディアの役割が非常に重要だ」ということを仰られていました。小川さん自身、震災後にツイッターをどんどんやるようになったといいます。新聞が情報を出すことを独占していた時代は終わるんだから、新聞で書き切れないことは、いろんなソーシャルメディアと連携しながら、報道のスタイルを変えなくてはいけないと。

その話を聞いたときに、ウェブメディアをやっている立場として、ぜひ新聞社にやってほしいことがあると思いついたんです。それは、記者会見で録音した音声や配布された資料を、すべてウェブにあげること。小川さんも、こうした路線の必要性には共感してくれた。

加工された情報を届けるだけでなく、生の情報を公開して、国民に情報の道筋を作るのがこれからの新聞社の役割ではないかと。そこから先はソーシャルメディアに検証してもらいながら、より上質な記事を提供していければいい。記事を売るのではなく、国民が情報にアクセスしやすくすることが仕事なんだと話していて、そうした意識が現場から出てくること自体、けっこう驚きでした。データを可視化するための動きを新聞社がしめしてくれれば、言説も変わってくるんじゃないかと思います。

菅原 たとえば大手新聞社は、各国会議員の政治資金収支報告書の原本を持っていたりします。たとえば大臣が変わったときに、事務所費がおかしい、領収書が変だと突然言い出すことがありますが、データ自体を持っているので、調査することは簡単なのです。でも、こんな「狙い撃ち」で政局を混乱させることがメディアの役割かというと非常に疑問です。データを持っているのだから、それを積極的に公開して日常的にチェックしていてもよいでしょう。

政治資金収支報告書は年に一回公開していますが、その時に、メディアがすべてのデータをウェブにあげれば社会のためにもなるでしょう。そうすれば、大臣になったタイミングで騒動するのではなく、最初からそういう人が大臣にならないですむかもしれない。公開されるから、その前に修正しようと政治家の側ももっと気をつけるようになるでしょう。そのほうが社会にとっては好ましいはずです。そういう展開もあっていいはずなんですが、そうはならない。

結局、社会の公器とかいいながら、自分たちの利益しか見ていないわけです。データを公開しないで保持することで、何か意義があると思っているメディアが非常に多い。そこがうまく回転していない原因の一つです。

荻上 小さな事ですが、僕は「白書」をウェブでよくダウンロードするんですけど、ファイル名が同じだったりして、どれがどれだかわからなくなってすごく不便です(笑)。

報告書等も一部PDFで上げられているけど読みづらい。ちゃんとエクセルでまとめてくれればいいのにと思う。つまらないことのように思いますが、「しっかりユーザー=国民のことを考えて情報環境を整えています」という感じがしない。

政治系の議論でいつも疑問に思うのは、例えば不正な献金問題が浮上したときに、メディアの政治記者やキャスターが、「こういう人を予め身体検査しておく党の意識が足りなくて、たるんでいる」みたいなことを言うんですね。

ちょっと待てと。身体検査って、普段からメディアもできることでしょう。それが仕事でしょう。もともと大臣になる前から検証してくれていれば、「身体検査」はできていたはず。何でこう「いや、たるんでる」って話になるのかなと。

ただこのあたりは、報道機関のジレンマというのを感じていて、新聞社というのは新聞記事を書いて新聞紙を売るのが仕事だし、テレビも番組を放送してスポンサーを獲得するのが仕事になっているけれど、「情報を届けるためになんでもやる」というわけではない。必要に応じて、プロジェクト単位のサイトをメディア企業が作ってもいいのにと思うのですが、収支報告書のまとめサイトを作ろうみたいなプロジェクトは、報道機関からはなかなか起きないわけですね。だからこそニーズがあるわけですが、外の人間が積極的に働きかけないとだめですね。

菅原 イギリスの例ですが、公開された議員の経費に関する文書45万件以上を『ガーディアン』がウェブにアップして、一般ユーザーに内容をチェックしてもらったということがあったそうです(小林啓倫「ネットの力を取り込んで 英米で始まる新たな調査報道」『Journalism』2012年3月号。ガーディアン紙の特集のウェブサイトはこちら http://www.guardian.co.uk/politics/mps-expenses)。

たとえば、日本には、全国に何万人という地方議員がいますが、ほとんどの議員の政治資金はまともにチェックされていないでしょう。そういうのを一般人がうまくチェックするような仕組みを一度作ってしまえばいいと思いますね。

記者が地方議員をすべて調べるのは手間でしょうから、それをユーザー側に任せて、その中から出てきたものを吸い上げてスクープを出すことができれば、メディアとしても喜ばしいでしょう。もっともこの場合、自治体などの協力も必要ですが。

荻上 例えば「ワンボイスキャンペーン」は、ネットで選挙運動解禁しようという試みで、選挙期間中にブログやツイッターを更新したり、ネットで議員へ質問したりできるようにしようと動いています。国民が政治にいちばん関心を持っている時期に、街頭や勉強会でしか議員に会えないというのは、ある意味、情報の格差が埋められていないといえます。

ただ、ネット選挙運動を解禁できたときがゴールではない。そこから先、ではこんなデータも可視化して選挙に影響させようという、次の球をどんどん投げ続けていかないと、制度改革の議論と同じで、結局改革はしたけれど何も変わらなかったよねと、意気消沈して終わるだけになると思うんですね。

衆議院データってなぜない?

荻上 皆さん意外と知らないと思うんですけど、参議院は、参議院のHPを見れば誰が何に採決したか法案別に○×形式で載っているのですが、衆議院にそれがないんですよね。

菅原 衆議院の採決方法には「議長が「御異議ありませんか。」とはかる方法、賛成者の起立を求める方法、記名投票による方法」があります(http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/kokkai/kokkai_gian.htm)。誰がどのような投票行動を行ったかは記名投票でしか記録・公開されませんが、衆議院の採決ではほとんどこれを行いません。一方、参議院の場合は「押しボタン方式」の採決が通常で、特別な場合に記名投票をしており、どちらでも議員の投票行動が記録・公開されます(たとえば第181回国会の投票結果はこちらhttp://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/vote/181/vote_ind.htm)。

なぜ衆議院はこういうルーズな採決をしているのかというと、おそらく議員が国会に拘束されるのをいやがっているためだと思います。会派の人数で採決結果が事前に決まっていれば、本会議に出席しないでもよくなります。ニュースでよく「小沢さんがまたいない」といった報道がされたことがありましたが、いないのは実は小沢さんだけではなかったりする。衆議院は出席も記録・公開していないので、投票行動もわからなければサボっても普通はバレない。踏み込んでいえば、衆議院の採決方法はサボりたい人のために配慮しているわけです。

ただし、昔に比べると出席率はかなり良くなっているとも聞きます。データが採られている参議院では出席率が上昇しています(山内由梨佳・菅原琢「本会議」第5期蒲島郁夫ゼミ編『参議院の研究』第2巻、木鐸社)。かつては、どうせ自民党多数だからというような感じで、野党からしても与党からしても、わざわざ本会議に出席する意思は低かったのでしょう。

荻上 衆議院で誰が何に投票したかを個別に確認できない状況が、ずっとこの国の政治では続いていたという事実。けっこうびっくりなことです。何人かの議員や政治家秘書に訊ねてみても、やはりデータはないし、気にしたこともないと。

菅原 ないですね。首相の指名選挙など記名投票を特別にやる場合はわかりますが、それ以外は出席しているかどうかもまったくわからない。

海外を見てみると、例えばアメリカでは誰がどこに投票したかは公開されています(たとえば、ワシントンポストのサイトはこちらhttp://projects.washingtonpost.com/congress/)。それを基に、労働組合や右翼団体が「あの議員だったらお金出してやろう」というように動く、そういう材料になっています。これは党議拘束の有無とも関係しますが。

私が国会議員白書を公開しているのも、日本ではそういう議員ごとのデータの集約が不足しているという問題意識からです。投票やロビーイング、記事を書くときの参考にしてほしいですね。

荻上 ロビーイング先にしたり、今だとアノニマスな人が、「こことここに突撃しよう」ということをやったりするわけですよね(笑)。

菅原 そういうのもありそうですね。

荻上 一つの市民運動として、それはOKだと思うんですよ。だけど、日本ではそもそも選択肢がなく、メディアもそのことに何の疑問も抱いていない。

6月の消費増税をはじめとする税と社会保障の一体改革関連法案の採決の際には、小沢造反にフォーカスして、会議の様子がテレビでも詳細に報じられていました。翌日の新聞では、誰が何に投票したかという採決リストがバッと出ていましたね。

毎回やっているのかなと思って政治記者に訊いたら、「いや、普段はそんなの意識していないけど、今回はたまたま取れたから、載せたら面白いかなと思って」みたいな感じでした。

でもこうしたことを蓄積して追い続けていかないと、やっぱり一個のイシューだけで、政治家に対する判断は我々はできない。十個関心があるうちの七個は賛成できるから、この人が自分には一番近いのでプッシュしようと、そうしたボードマッチングがあればいいんですが、なかなかできない状況が続いている。

だから僕は、衆議院も押しボタン式にして、誰が何に投票したかを見やすい仕方で公開すべきだと思っています。なおかつ、出席率データなどをとるために、タイムカードを打つようにすればいいと思いますけど(笑)。

菅原 ぜひそうして欲しいですね。ただ、現状でもできることはたくさんあります。例えば、今どういう法案が国会に出ていて、それに対してどの党がどういう立場でいるのか、ということを知っている人はほとんどいません。

衆議院の結果はわからなくても、参議院のボタン式投票結果を見ればどの会派がどの法案に賛成したかはわかる。個々の議員は造反する時以外は大体会派の言うことを聞くのが基本なので、民主党はこの法案に賛成、共産党はこれに反対みたいなのをプールしていくのもいいですね。

荻上 もちろん、できるところから見える化していくことが大切です。単にデータを取って見えやすくしたとしても、多くの国民とシェアできなければ意味がない。それは時間がかかることですし、できることから始めて続けていくことが重要です。これはSYNODOSでも、今後の課題の一つです。

菅原 戦後の55年体制初期の新聞などを見ると、どの法案が成立したかといった記事が一面に載っていたりします。当時の新聞は四~八ページしかなかったのに。今や三十面もあるのに、どの法案のどこが問題でどう議論されているか、というような記事は争点となっているもの以外あまり見かけませんよね。その辺りを、紙幅の壁に囚われないでできるメディアが必要だと思いますね。

メディアは個人のライフスタイルをかえる

荻上 僕が学生の頃、ブロガーとして政策のまとめサイトを作ったりしていました。例えば、教育基本法が改正されたときに、対応表を作ったりですね。当時はまだ、新旧対応法がウェブ上になかなかあげられてなかったんです。それだけでも、結構なアクセス数になりました。

でもそんなものは、官僚がレクチャーするときに記者に配っているものがあるし、政治家だって試案を持っているわけですよね。試案段階でリークされて報道されるケースもあるけれど、そもそも何ですべてを電子化してくれないんだろうと思っていたわけです。

そうしたことを常態化するメディアが存在し続けてくれれば、新旧見比べるという方法で、チェックを行うということが身体化される人も増えるんじゃないか。特定のフレーズだけを叩くというかたちではなく、メディアの報道も検証しやすくなるんじゃないか。そう思っています。

メディアというのは、人のライフスタイルを変える力をもつものだと思っています。新しい政治が必要なら、新しい政治議論をできるメディアを作らなくちゃいけない。「隗より始めよ」で、政治チェックの方法論を作る。リークサイトが問いかけたのもそのひとつで、そこから始まることはあると思うんですよね。

菅原 そうですね。『平成史』(小熊英二編著、河出ブックス)の章を書くために一九八〇年代ぐらいからの新聞を読んでいましたが、政治の語り口も出てくる政治評論家も実はあまり変わっていないんですよね。だからそういった旧人材はばっさり切ってしまって、新時代の政治評論家をどんどん出してほしいですよね。ま、私はやりませんけど(笑)。

荻上 えー(笑)。

メディアが変わることの難しさ

荻上 メディアの報じ方は昔と比べて全体的に改善していると思いますか。

菅原 良い方向に向かっているところはあると思います。「政局より政策を」ということは今に限らずけっこう前から言われていて、実際に政策報道がされるようになってきています。

ただ、これはメディア側の変化であると同時に、政局も政策で動く面が増えてきたということでもあるんです。

特に小泉政権以降、自民党内では派閥の争いではなく、こういう政策を打ち出している人がいる、リフレをやれと言っている人たちがいる、というような動きが見えてきました。民主党の小沢造反劇にしても、一応、消費税に反対か賛成かということで、政治家も政策を軸に語ろうとしています。政策が問題だということは、政治家もメディアも認識しているということだと思います。

昔は、増大する国家の収入を再分配していけばとりあえず政治になっていて、細かい政策の良し悪しや効率性などを争う必要性が低かった。しかし今は、社会保障費の増大であちらが立てばこちらが立たずとなっている。

これは五五年体制の負の遺産でもあるわけですが、お金は集まらないし、借金ばっかりして、ただ配分するだけでは通らない。だから、こちらの政策のほうが効果がある、いやその政策だとこの層が困るというように、政策を表に立てて争うことが増える。メディア側もそれにともなって政策を取り上げざるをえないという側面も出てくる。

荻上 ライターの速水健朗さんが「デフレカルチャー」という言葉を使って、最近のカルチャーを評論していましたが、僕はこの数十年間の政治は、「デフレポリティクス」という言葉で説明できるような状況にあると思います。

構造改革しかり、事業仕分けしかり、埋蔵金しかり、そして社会保障と税の一体改革もしかり。かつての「配り合い競争」ではなく、「削り合い競争」のフェイズが続いています。ただ、今は財政が逼迫している状況だからこそ、多くの人たちが注視するところだとも思うので、そこに響くような報道の在り方は可能かもしれないという希望はあります。一応はこの間も、政策報道はワイドショーレベルでも続いてはいたわけですし。

菅原 そうですね。メディアはどうしても、時間や紙幅などある一定の制約の中で何かを埋め尽くすということをやってきたので、なかなか「冷静な」判断ができない。橋下さんのような人が出てくればそればかり報道している。

本来、政策というのはプラスもあればマイナスもありで、判断は複雑になるものです。それなのに、報道では賛成か反対かの二項対立のようにされてしまったりする。二項選択式の報道や世論調査がまかり通っている。こうしたメディアの政策報道のおかしなところを批判して正すような、新しいメディアが必要かもしれません。メディアを見るメディアですね。

荻上 デフレ不況のせいで、論壇誌や雑誌がバタバタ潰れていって、メディア内で論の厚みを確保できなくなっています。ウェブへの移行もスムースにいっていない。言論の多様性が縮小していく中で、カウンターを提示するチャレンジが、これからもっと出てくるといいですね。

統計だけでは難しいし、ジャーナリズムだけでも難しい。次の課題は、専門領域が蓄えてきたより確かな知、あるいはよりましな知というものを繋ぎ合わせていきながら、全体の環境を良くしていくことかなと思います。

(2012年7月26日 リブロ池袋本店『日本の難題をかたづけよう』刊行イベント収録)

プロフィール

荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

この執筆者の記事

菅原琢政治学

1976年東京都生まれ。東京大学先端科学技術研究センター准教授(日本政治分析分野)。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程、同博士課程修了。博士(法学)。著書に『世論の曲解―なぜ自民党は大敗したのか』(光文社新書)、共著に『平成史』(河出ブックス)、『「政治主導」の教訓―政権交代は何をもたらしたのか』(勁草書房)など。

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