2010.08.27

サンデル教授の「コミュニタリアニズム的」共和主義を斬る 

橋本努 社会哲学

社会 #サンデル#正義論#ハーバード白熱教室#リベラリズムと正義の限界#コミュニタリアニズム的共和主義

去る4月からNHKの教育テレビで連続放送された「ハーバード白熱教室」が、異例の話題を呼んでいる。

規範哲学の復権

マイケル・サンデル教授が担当するその講義は、ハーバード大学史上最多の履修者を誇る名講義で、受講した学部生は延べ一万四千人以上にのぼるという。大講堂で繰り広げられるその熱血授業に、テレビを通じて魅了された人も多いであろう。8月25日には東大での公開講義もあって、話題は再沸騰した。

ここにきて規範哲学は、昨年までの「ノウハウ本」ブームに代わる新たなニーズを呼び起こしたようである。

サンデル人気にあやかって、雑誌『東洋経済』は、ビジネスマンのための「実践的「哲学」入門」を特集した(8/14-21合併号)。サンデルの講義本『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房)は、アマゾンのベストセラー第一位に輝き、またサンデルの主著とされる『民主政の不満』の上巻(勁草書房)が去る七月に発売されると、同書はただちに版を重ねている。

これだけ影響力が大きいとなると、サンデル自身の思想的立場がいったいどんなものか、あらためて検討に値するだろう。

サンデルの思想的立場

もともとサンデルは、1982年の著書『リベラリズムと正義の限界』によって、リベラリズム思想の中心人物、ロールズの『正義論』が前提とした「負荷なき自我」像(価値の文脈に埋め込まれていないがゆえに自由で自律的に選択できるというカント的人間像)を批判して注目を浴びた。

そして近著『民主政の不満』では、「負荷のある自我」を基礎に自らの理想社会を描くべく、アメリカの憲法論争史を素材にして、「コミュニタリアニズム的共和主義」という価値理念を明確に打ち出している。

このたび翻訳された上巻は、アメリカの憲法解釈が、しだいに手続き的なリベラリズムによって支配されてきた過程を丹念に追っている。憲法解釈の一般的傾向に抗して、衰退しつつある別の解釈伝統に光を当てようというのが、サンデルの企てだ。

五つの解釈伝統

サンデルが擁護する解釈伝統は、大きくわけて五つあるだろう。

第一に、「良心の自由」にかかわる各人の信仰は、自由な意思に基づくものではなく、自由に選ぶことができない確信の問題であり、その確信は「市民的美徳」を滋養することができるという主張。

第二に、ポルノグラフィーは、女性に対する集団的な名誉毀損や、共同体の道徳的水準の低下をまねくという理由で、禁止しうるという主張。

第三に、妊娠中絶に反対する立法は、たとえ憲法で認められないとしても、各州の法律に任せて実現可能にすべき、という主張。

第四に、同性愛者の結びつきは、婚姻と同様に神聖で相互貞節を特徴とする場合には、人間の重要な善を実現するものとして認めるべき、という主張。

そして最後に、離婚した場合の扶養料は、離婚後に女性が経済的に自立しなくても、一人で子供を育てられる水準に引き上げるべき、との発想である。

哲学的貢献はあるのか?

こうした一連の主張は、サンデルによって哲学的に基礎づけられたわけではない。

サンデルは、自身の支持する思想理念が、アメリカ憲法の解釈史のなかで劣勢に立たされてきたことを認めるのみで、自身は、その理念を哲学によってもっと魅力的に擁護するという作業をしていない。

だからこの上巻で、いったいサンデルがどんな哲学的貢献をしたのか、私には分からないというのが正直なところだ。

哲学的にはもっと突っ込んだ議論が必要である。

たとえば、「良心の自由」については、自由意思で特定の信仰をもつに至った人もいるので、そういう人にも不利にならないように解釈すべきではないか。

ポルノグラフィーの禁止については、多数派による少数者の圧制に至る場合もあるので、むしろ少数者たちに、権利(この場合は「言論の自由」)の「切り札機能」を認めるべきではないか。(第三の主張に対しては、たしかにサンデルの主張は正しいかもしれない。)

第四と第五の主張に対しては、いったい、主婦のような伝統的・慣習的な生き方と、同性愛者のようにそれから逸脱する生き方とのあいだに、コミュニタリアニズム的共和主義は、いかなる価値の調停を図ることができるのか。

コミュニタリアニズム的共和主義の根本問題

共和主義の伝統は、「特定の紐帯と愛着とを通して、公民性を滋養する」ことが必要だと考える。そしてその場合の「特定の紐帯と愛着」を、コミュニタリアンは「家庭、近隣、労働組合、改革運動、そして地方政府」のような共同体に期待している(『民主政の不満』上巻、149頁)。

サンデルが掲げる「コミュニタリアニズム的共和主義」とは、かかる共和主義とコミュニタリアンを融合した思想である。

けれどもたとえば、2人だけの同性愛は、いかなるコミュニティなのか。同性愛者のサークルであればまだしも、サンデルが擁護しようとしている同性愛の美徳は、コミュニティに基礎づけられていないように思われるのだが。

おそらくコミュニタリアニズム的共和主義にとって、根本的な問題は、次のようなものだろう。

いったい人間は、コミュニティのなかに埋め込まれた程度が厚いほど、市民的美徳を発揮できるのか。

これはひとつの仮説であって、社会的実証と歴史的検証の両方に開かれているのではないか。コミュニティと市民的美徳のあいだの関係が強固なものでなければ、あるいはコミュニティの種類によって市民的美徳との結びつきが異なるなら、憲法は負荷のある個人のすべてを擁護する必要はないだろう。

むろん、実証の問題とはべつに、サンデルにとって思想的問題は残る。

いかにして負荷のある自己と美徳ある市民的な実践をつないでいくのかという政策的な課題だ。たとえば、主婦で離婚した人や、美徳ある同性愛者は、いかにして「市民的美徳」を発揮できるようになるのか。

真に争うべきは、市民的美徳のために、負荷の厚みをもった個人が、どんな自己解釈を遂げていくことができるのか、またいくべきなのか、ではないだろうか。翻訳中の下巻に期待したい。

推薦図書

本書は、とても読みやすい翻訳である。巻末には、本書の「要約」と「解説」もあって理解の助けになる。コミュニタリアニズムを代表するもう一人の思想家、チャールズ・テイラーを含めたシンポジウムの質疑応答も掲載されている。本書を読めば、現代の政治思想が直面している問題状況を、豊かに実感できるだろう。

プロフィール

橋本努社会哲学

1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。

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