女子差別撤廃の課題と架空表現への規制・その意味と副作用

今年の2月、スイス・ジュネーブの国連本部で開かれた国連女子差別撤廃委員会で、日本への「見解」がまとめられ、3月7日にその「案」が公表された。その「見解案」の中には、女性に対する性的暴力を描写したゲームや漫画の法規制に関する提言が含まれていた。国際社会から見た日本への指摘を、どのように受けとめていくべきか。多文化と憲法という視点から考える。

 

 

架空表現規制の意味と、クリエイターの声

 

Q 国連女子差別撤廃委員会は「性的暴力を描写したゲームや漫画の規制」を提言していますね。その意味はどこにあるのでしょう。

 

今回の「見解案」には大変多くの克服課題が盛り込まれました(以下、国連女子差別撤廃委員会のことは「委員会」、その最終見解案のことを「見解案」と言います)。その中には、「ジェンダーに関する差別的なステレオタイプを悪化させ、女性及び女子に対する性的暴力を強めるポルノグラフィー的成果物、ゲーム及びアニメの生産と頒布を規制(regulate)するため、既存の法的手段とモニター・プログラムを効果的に実現すること。」という提言が含まれています。(注)

 

(注)訳は、大屋雄裕「国連機関による報告書二件に関する所見」(「特定非営利活動法人うぐいすリボン」HP、2016年3月掲載http://www.jfsribbon.org/)に依った。

国連女子差別撤廃委員会の「最終見解案」原文は、Committee on the Elimination of Discrimination against Women, “Concluding observations on the combined seventh and eighth periodic reports of Japan”, (Adopted by the Committee at its sixty-third session (15 February-4 March 2016)).

 

漫画やアニメーションやゲームの制作に関わっている人々からは、規制に反対する意見が多いと思います。「自分たちの良識をもっと信頼してほしい」という憤慨の気持ちもあるでしょうし、現実の虐待や差別を写した実写ポルノは現実の被害者がいるのだから違法とするべきだけれども、架空表現は現実の被害者がいないのだから関係ないではないか、という反論も有力です。

 

これに対して、委員会が問題にしているのは、それらの表現物が持つ社会的影響力だと思います。以下、漫画、アニメ、ゲームなどを総称して「架空表現」と呼ばせていただきますが、たとえば、幼児のように見える少女が縄で縛られ、性的興奮とも困惑とも、苦痛による危険な血圧上昇状態とも受け取れる独特の表情をしている、というふうに見える架空表現があったとします。ネットや一部の雑誌にはこうした表現が見られることは確かです。

 

その種の表現が日常の中に放置されていると、漫画によるファンタジーであれ実写表現であれ、そこに描かれているタイプの行為への許容度tolerance(やってもいいかな、このくらいは許されるかな、という感覚)を上げてしまうということが危惧されているわけですね。イギリスで、制服を着た少女を性的に描いた架空表現が、この理由で有罪判決を受けています。

 

 

Q この規制の提言に対しては、反対の声がクリエイターから挙がっていますね。とくに女性クリエイターが出した反対声明がありますが。

 

架空表現もたしかに社会的影響力を持ちますが、法律というものも同様の社会的影響力を持ちます。法規制の社会的効果という点を考えたとき、注目すべきだと思うのが、女性クリエイターの団体から出てきた反対意見だと思います。「女子現代メディア文化研究所」という団体が意見書を公表したのですが、これは、漫画やキャラクターグッズの制作などを仕事としている女性クリエイターが中心となって作っている団体です。

 

漫画の世界では、女性による性表現は、かなり以前から普通に行われてきました。女性の社会進出が今よりも遅れていた時代には、女性向け漫画の世界というのは、女性がアシスタントとしてでなく「作家」として活躍できる、数少ない貴重なジャンルだったわけですね。そこで出てくる性表現というのは、編集者に強制されて出てきたというものではなく、作家たちのチャレンジ精神から出てきているわけです。

 

女子差別撤廃のための方策として漫画やアニメの性表現を規制することは、こういうジャンルを開拓してきた女性たちの活躍の場を結果的・現実的に狭めてしまう。とくに日本のポピュラー文化を象徴するような女性作家の作品が、社会に出しにくいものと目されてしまうことは、女性の創作主体性を社会にもっと認知してもらおうと望んでいる人々からすれば、「出る杭は打たれるのか」という意気阻喪を味わわされることになる。

 

これは本末転倒だ、ということで、彼女たちが反対の声を上げたわけですね。私もお話を聴かせていただいて、少なくとも今の時点では規制の提言には「待った」の声をかけたい、と感じたので、この団体の出した声明に賛同しました。

 

 

Q そうしたタイプのクリエイターが危惧している問題として、規制がかかったらどういう表現ができなくなっていくと考えられるのでしょうか。

 

たとえば、ファンタジーの一つの型として、《背徳もの》があります。登場人物が社会のタブーを破り、女王として君臨したり苦難の人生を背負ったりする中で、社会規範そのものを問いに付すような作品ですね。江戸時代の《心中物》とも共通します。

 

同時代の社会においてはそれは「犯罪」だったり「反倫理的行為」だったりするけれども、時代や地域が違えばわからない。世界の名作の中に、そうしたものはたくさんあります。そういうチャレンジングな創作意欲をもっている作家にとっては、たとえば2010年の東京都青少年健全育成条例の中の架空表現規制のように「社会規範に反する性行為…」といった規定の仕方をされると、まさに手足を縛られたような気持ちになるわけですね。

 

また、日本では、遊郭を舞台にした作品がたくさんあります。それらも、よく考えると、若い女性を《売る》という行為が前提にあり、年季が明けるまでは外に出られない、移動の自由を剥奪されている。いかに美化して語ろうと、舞台設定そのものが性暴力、性奴隷です。で、その中で花開く禁断の恋愛や非業の死などを描く。女性が描く漫画の中には、そういう設定で性描写や折檻・虐待シーンを含む作品がたくさんあります。

 

これも《背徳もの》と同じで、遊郭に拘束されている状態というのは、メインの物語を成立させるための不可欠の背景であって、その状況そのものを煽っているわけではないですね。戦争ものの映画が、死と隣り合わせの極限状況を背景に描くことで《生》の意味を浮かびあがらせようとするのと同じなわけです。が、そうした背景と主題とは、必ずしもわかりやすく分別できるわけではなく、高度な作品になるほど、背景事情と主題的ストーリーが混ざり合ったり逆転する危うさを、敢えて孕んでいたりするのです。

 

 

Q 今、漫画や動画は、ファンが自ら作り手にもなる、誰もが表現発進主体になりうるという状況ですね。そうした領域への影響は?

 

日本独特の、同人誌や自作動画などのアマチュア文化が影響を受けるか、ということですね。委員会の「見解案」は、幼児や弱者を性的に虐待している構図が産業的利益になってしまっていることを懸念しています。経済的利益を求めない表現については、関心外なのかもしれませんし、商業としての漫画やアニメやゲームが流通しなくなればその模倣表現も減っていくだろうと期待しているのかもしれません。

 

あるいは、表現規制のうちでも、表現の提示方法(時、場所、手段)への規制を中心に考えているのかもしれません。これは、たとえば、映画館の入り口やゲームソフトのパッケージにレーティング表示を義務付けるとか、「一般のテレビでの放映は規制するが、本人の意思で契約をするオンデマンド方式のコンテンツ配信には規制を及ぼさない」といったものです。

 

これは、ある内容について正面から規制する場合と異なり、憲法上、やや緩やかに規制の正当性を認めよう、という議論になると思います。今回の委員会の見解案の文面では、架空表現への規制を提言している部分では「禁止」prohibit, ban ではなく、「規制」regulationという言葉が使われているので、このようなタイプの規制でいい、と考えているのかもしれません。

 

ただ、上のように趣旨を汲むとしても、「生産」と言っている部分については、「業として」の生産に限定する意図があるのかわかりません。そういう絞りができず、すべての表現物の「生産」について言っているとすると、アマチュア文化も直接、規制の対象となってくるでしょう。そうなると、これは表現内容規制そのものだと思います。その場合は、憲法の厳格な基準に照らして、「他者の権利を実際に侵害しているのか」「その規制はどうしても必要な規制なのか」という問い方をしなければならず、その問い方で規制できるのは実写の児童ポルノや実写の性犯罪場面動画までで、架空表現への法規制までは無理だと思います。

 

 

表現規制の副作用

 

Q 憲法上の「表現の自由」との関係では、どう考えていますか。

 

今、《表現内容に着眼した規制》と《表現物の提示方法に関する規制》、というふうに分けましたが、これは憲法上の「表現の自由」の基本の考え方です。《表現内容に着眼した規制》は「検閲の禁止」ルールを定めた日本国憲法の下では、もっとも厳格な憲法適合性ハードルが課されます。これは絶対に規制はできないという意味ではなく、犯罪の教唆への処罰など、そのハードルをクリアするほどの強い必要性があって、規制のあり方もやむを得ない必要最小限度の規制である場合にだけ合憲となる、という考え方です。

 

私は、漫画・アニメなどの架空表現への《表現内容規制》に少なくとも現時点では反対の立場をとっていますが、その理由は大きく三つあります。一つは、本来規制の対象とすべきでない表現が規制対象になってしまうという「過剰包摂」の問題です。二つめは、いわゆる「萎縮効果」の問題です。三番めは、こうした問題に関心を拡散させることはかえって現実の問題への取り組みを遅らせてしまう、という問題です。以下、それぞれについて説明します。

 

■「過剰包摂」 「架空表現の中には、規制の対象とすべきものは一切ない」と言いきれてしまえば、そこで話は終わりで、「規制は憲法が保障する『表現の自由』に違反する」と言えばよいことになります。しかし、きわめて行為誘発性の高い表現というものが「ない」と言い切れないかもしれない…。私はそれは社会の文脈によるもので、「その可能性はゼロ」と言い切ることはできないのでは、と思います。しかしここでそうしたものへの規制を法文化したとき、本来規制の対象とすべきでない表現や、価値のある芸術表現・学術表現までが規制対象になってしまう、という「過剰包摂」の問題が起きやすくなります。

 

これは、定義を慎重にしたり「ただし書き」で除外項目を設けたりすることで、取り除くことはできるかもしれません。しかしアメリカのアドラーという憲法学者のように、「架空表現を規制対象にしてしまうと、どう言葉を工夫しても芸術表現が包摂されてくることを避けられなくなる」と、今の議論状況について早い時期から論じていた学者もいます。(注)

 

(注)Amy Adler, What’s Left?: Hate Speech, Pornography, and the Problem for Artistic Expression, 84 CALIFORNIA LAW REVIEW, 1499 (1996).

 

 

■「委縮効果」 今、定義や「ただし書き」を工夫すれば本来規制対象とすべきでない表現に規制が及ぶことを避けられると言いましたが、それは法文上のことです。法文が「ただし…を除く。」といったただし書きやカッコ書きで複雑になってくると、クリエイターやメディア関係者や一般市民が萎縮効果を被る、という問題が、次に出てきます。クリエイターの人々が「この表現も引っかかってしまうかもしれない」という恐れを感じて、表現の自由度が狭められていくという問題です。

 

あるいはそのような心配をしたメディアがクリエイターの表現に制約をかけたり、映画館や展示会会場が場所を貸さなくなる可能性もあります。この規制がとくに刑事罰のかたちをとると、こうした萎縮効果は、本来規制対象ではない表現のほうに強く作用してしまいます。(注)

 

(注)表現活動への刑事規制が発揮する萎縮効果の問題については、志田陽子「著作権法刑事罰と市民的自由――憲法の基礎理論から」『武蔵野美術大学研究紀要』No.46(武蔵野美術大学、2016年3月)、同「著作権保護強化は明日のアーティストを生み出すか:「表現の自由」と「消費」のあいだ」https://synodos.jp/society/11688 (2014年12月5日)

 

過剰包摂と萎縮効果については、2010年に東京都が青少年健全育成条例を改正して、漫画やアニメ上の性表現を規制したことが思い出されます。このときもクリエイターたちから規制反対の声があがっていました。これは条例の8条1項2号で「漫画やアニメーションなどの『画像により』、『著しく社会規範に反する性交・性交類似行為』を『著しく不当に賛美し、又は著しく不当に誇張するように描写又は表現しているもの』」が流通規制の対象となるというものでした。

 

ただ、いろいろな批判もあったことから、この条項の適用については、「芸術性、社会性、学術性…等の趣旨を酌み取り、慎重に運用すること」という附帯決議が行われました。これによって過剰包摂を回避しようとしたわけです。が、附帯決議までを読み込むことは大変で、やはりその部分への委縮効果は生じるだろうと考えられます。この問題は、その後、なんとなく議論されなくなってしまったのですが、ふたたびこの議論が必要になってきた、ということなのだと思います。

 

■「課題」すり替えにつながる懸念 3点目は、合憲・違憲を判断する法理論ではなく、憲法政治からみたときの賢明さ、といった視点です。日本の女子差別と児童虐待をめぐる課題は、どこから手をつけたらいいか頭を抱えてしまうくらいたくさんあります。ここで限りある人的資源や財源をどう使うか、というときに、為政者にとって目につきやすい「表現」の問題に光を当てることで、肝心の課題への取り組みが遅れてしまう懸念があります。

 

表現物というのは、それ自体が「証拠」ですから、摘発や刑事訴追がやりやすいわけです。それに対して、実際に虐待を受けている児童や、事実上の人身売買に近いかたちで性的な仕事に就いている女性がいた場合、証拠を特定して摘発するのは、難しい仕事に違いないと思います。なので、公権力がやさしい課題のほうに流れていってしまうのではないか。

 

さらにシングルマザーへの支援策や、育児放棄・児童虐待への対応策について、本格的な制度設計と財源確保に踏み出そうとすれば、現在の政策に相当の修正を迫ることになるでしょう。それに比べたら、けしからん表現を警察的に取り締まることのほうが、国家や自治体にとっては楽な仕事でしょう。下手をすると、国際社会への体面として、政府が表現規制にばかり熱心になるかもしれません。

 

そういう表層的な「取り組み」によって「よくやっている」というアリバイができてしまうと、日本国内で本当に困っている当事者が言論ルートで声を上げても、「考慮済み」「取り組みは十分行っている」との紋切型回答であしらわれてしまう可能性が高まります。まして、日本の言論状況が今どれだけ窮屈になっているかは、世界が憂慮しているところです。

 

そういう本末転倒に陥る可能性を避けて、肝心の現実的問題のほうに関心と資源を集中するためには、今、女子差別撤廃の課題パッケージの中に言論規制を入れるのは避けたほうが賢明だと思います。日本はそう言わねばならないほど「表現の自由」についても女性差別撤廃と児童福祉についても後進国なのだ、と、委員会に理解をお願いしたいところです。

 

 

Q ある種のビジュアル表現はヘイトスピーチと同じ効果をもつ、という指摘もありますが、これについてはどうですか。

 

委員会のほうは、表現が社会に与える影響に着眼して、ある種の架空表現をヘイトスピーチに準じるものとして規制対象とする考え方を取っているようです。この問題については、私は、《表現そのもの》と、《その表現を使って他者を害する行為》とを、理論上は分けるべきだと思っています。

 

たとえば、ある音楽を拷問の手段として使用した国家がありますが、この場合、法的・倫理的責任を問われるのはその音楽を作ったアーティストやそれを流通させた業者ではなく、それをそのような目的で使用した者ですね。この例では、自分の楽曲をそのように使用されたアーティスト(メタリカなど)が、国家(アメリカ国防総省)に対して激怒しているわけです。また、ある表現が、扇動や犯罪教唆、あるいは催眠効果を与えて何かの加害行為に人を誘導したとしたら、それはその表現をそのような目的で《使う》行為が規制や処罰の対象となるべきです。

 

一方、それ自体は残酷な場面や性的な場面を含むけれども、受け取り方は見る者に任されている《表現そのもの》のほうは、規制の必要性と必要最小限度性を厳格に問う憲法的ハードルを通過することはほとんどないだろうと思います。

 

この問題は、ファイル交換ソフトをネット上に置いたら別の人がそれを使って著作権侵害を起こした、という場合に、ファイル交換ソフトを作成してネット上に置いた人は、法的責任を負うのか? という問題と、構造的に似ていると思います。日本ではこのケースは一審では有罪となったものの、控訴審と最高裁では無罪となりました(最高裁、平成23年12月19日決定)。

 

この考え方でいった場合、たとえば架空児童ポルノ表現を、現実の児童虐待を誘発するために使った(複数者で視聴し、実際にやってみようとそそのかした)場合、その上映・勧誘は現実の児童虐待行為の教唆となりますから、これを規制や処罰の対象とすることは必要かつ正当で、憲法に反しないと思います。

 

ではその表現を生産・流通させることが、即、この種の教唆と同じ社会的意味を持つと言えるかどうかというと、これは別問題だと思います。私は日本社会について、少なくとも現時点で「流通が即、誘導・教唆の効果を持つとは言えない」と言いたいのですが…。

 

ところで、「犯罪の教唆に当たるものは規制すべきだ」という話は、おそらく委員会がヘイトスピーチ型の視点を出していることに答えたことになっていないでしょう。委員会の見解案は、「教唆」と言えるレベルではない、もう少し特定性の薄い表現でも規制すべきだという考え方に立って、ヘイトスピーチ型の理解を出してきていると思います。

 

私自身は、ヘイトスピーチ規制に踏み切る場合にも相当に絞りこむことが必要だと考えているので、その考え方を架空表現にも当てはめたいと考えています。つまり、その表現が特定のアイデンティティを持つ対象者に害悪を加える旨を告知するか(脅迫)、視聴者を加害行為に誘導するメッセージ性(教唆・誘導)が明確で、その表現の流通によって危険にさらされる集団(ヘイトのターゲットとなるアイデンティティや居住地など)も具体的で明確である場合に限られると思います。ただ、この論法で架空表現を規制するのは、その前に今国内で議論されているヘイトスピーチ規制がどのように規制対象を絞り込むのか、憲法ハードルをクリアできるかどうかをよく見極めてからだと思います。【次ページにつづく】

 

 

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