2016.10.13

安全とは作法である――エビデンスを尋ねることから始まる新しい社会

岸本充生 リスク分析

社会 #リスク#安全神話

安全に関する2つの神話

東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故は、私たちの安全に対する考え方を大きく揺さぶった。そして、安全に対する考え方を大きく改めることになる……はずだった。しかし、実際のところは、以前からあまり変わることなく、相変わらず2つの神話が広く行き渡っている。

神話というよりも、考え方や態度と呼んだ方が正確かもしれない。1つは、安全とは科学であるという神話である。これは、「安全/安心二分法」という形で、専門家の中にさえ強く根付いている。すなわち、安全は科学・客観であるのに対して、安心は心理・主観であるという二分法で、必然的に、安全は専門家がどこかで決めて私たち素人に与えてくれるものであるという意識につながる。後で述べるように、安全の判断は専門家に委ねるものだという前提が、御用学者か非御用学者かという不毛な議論の背景にある。

もう1つは、安全とは結果であるという神話である。安全を過去の実績で判断するというのは、例えば30年間無事故であることをもって安全であるとみなす態度である。確かに長期間事故を起こしていないことは素晴らしいことだろう。しかし、これは必ずしも安全であることを保証するものではないし、当たり前のことだが明日大事故が起きる可能性は排除できない。このことは原子力発電所事故で痛いほど学んだはずだ。

さらには、これも後で述べるが、安全を実績によってしか判断できないならば、新しいもの――新規材料や新規技術――はけっして安全であると判断されないことになってしまう。これらの神話は、様々な安全の問題に関する混乱を引き起こすだけでなく、日本社会に対する深刻な副作用をも併せ持っている。

中心ルートと周辺ルート

この文章を電車の中で読んでいる人がいるかもしれない。あなたの乗っている電車は「安全」だろうか? 会社の中で読んでいる人もいるかもしれない。あなたの会社の建物は「安全」だろうか? 

こうした問いに対して、心理学では、中心ルートと周辺ルートという2種類の情報処理スタイルが存在するとしている。中心ルートを使う場合は、その根拠を一次文献にまで遡り、エビデンスとしての強弱を判断し、論理や推論の正しさを確認したうえで判断する。しかし、自分の乗る電車や会社が入っている建物の安全性を中心ルートで確認している人はまずいないだろう。

周辺ルートは、信頼できる誰かを、その人の職業、肩書、外見などを参照しながら見つけ、その人の判断に従うアプローチである。専門家の信頼性を判断する際には利益相反の有無も重要な要素となる。専門家でも通常は、自分の専門分野以外は周辺ルートを使ってものごとを判断している。東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の直後は、普段、周辺ルートを利用していた人の中でも、インターネットなどを利用して地震学や毒性学、疫学などの情報を収集し、中心ルートでの判断を試みた人が一時的に増えたと考えられる。

イギリスでもかつて似たような出来事があった。最初の牛海綿状脳症(BSE)感染牛が見つかったのは1986年。科学技術政策といった専門性の高い分野では、社会的地位の高い有識者にその決定はゆだねられていた。このときも有識者による委員会が設置され、「人間への感染の危険性はありそうにない」と結論づけた報告書が発表された。

しかしその7年後、BSE感染牛の摂取に起因したクロイツフェルト・ヤコブ病患者の発生が確認され、イギリス社会は大混乱に陥った。規制当局や規制プロセス、そして専門家への不信が高まった。かつて安全性に関する議論を独占していた科学者は、多様なステークホルダーの1つに過ぎなくなり、「オールタナティブな」科学者の影響力が増大した。

ここまでは3.11直後の日本とそっくりである。しかしこの先、2000年以降のイギリス社会は、安全性の議論を多様なステークホルダーに開放し、エビデンスに基づく政策形成や市民参加の仕組み作り、規制影響評価の制度化という方向に急速に舵を切っていった。つまり、中心ルートの利用を増す方向へと進んだのである。

ところが3.11後の日本はどうだろうか。専門家への不信から一瞬、中心ルートの利用が増えたものの、御用学者対非御用学者というフレーミングに見られるように、別の信頼できる専門家を探し出す方向へ進み、周辺ルートへの依存がそのまま温存されてしまっているように見える。

安全の本質は手続きである

政府や専門家に懐疑的な人もなぜか「基準値」を疑うことはあまりない。むしろ逆にこだわり過ぎる傾向さえある。その背景には、1つ目の神話(安全は科学である)がある。大震災と原子力発電所事故は、専門家が想定していた「安全」を疑わせるに十分であった。しかし、安全を再定義する方向ではなく、既存の専門家を「非御用学者」に入れ替えることで安全が確保できると考えてしまった。安全はもちろん科学的データや科学的な考え方に基づくべきであることは疑いない。しかし、伝統的な科学だけでは決めることができない。

例えば、次のような身近な安全に関する問いを考えてみよう。

呼気中に何%アルコールが含まれていれば、飲酒運転とすべきか?

腹囲が何センチを超えるとメタボとすべきか?

夜間1人のドライバーで貸し切りバスを運転できる走行距離は何キロメートルまでとすべきか?

これらに共通するのは、これを超えたら「安全」から「危険」に急に変化する点は存在しないことだ。基準値は、連続的なデータのどこかで線引きして決めるしかないのだ。それはいわゆる伝統的な科学にできることではない。何らかの形で、社会の合意に基づいて決めるしかない。

安全を「危険がないこと」、すなわち「100%リスクがないこと」とすると、上の3つの事例では基準値を定めることはできなくなってしまう。安全を「許容できないリスクがないこと」と定義して初めて、実際的な議論ができるようになる。これは、国際規格を作成する際に参照するために、国際標準化機構(ISO)と国際電気標準会議(IEC)が合同で定めた定義である。このように定義すると、「安全であること」を示すために必要な手順はおのずと明らかになる。

第1段階は、そのリスクがどれくらいか見積もる。これは『リスク評価』に該当する。

第2段階は、どれくらいなら「許容できない/できる」のかというレベルを定める。これは『安全目標』と呼ばれる。このレベルを決めるためには、ベネフィット、コスト、他のリスクとのトレードオフ、公平性、倫理面などのあらゆる影響を考慮する必要がある。

第3段階は、そのレベルを超えないように管理する。これは『リスク管理』である。また、リスクはゼロにならないため、何かあった場合の備えが必要である。これは、『クライシスマネジメント』であり、事故調査制度、保険、補償などの多様な要素からなる。

そして忘れてはならないのが、これら一連の流れを、エビデンスを付けて社会に向けて分かりやすく提示することである。これは『リスクコミュニケーション』に該当する。

安全であるか否かを、伝統的な科学だけでは決められないことは、手順の中に第2段階(安全目標の設定)が含まれることからも明白である。どれほど実績のある科学者でもこれを科学だけで決めることはできない。安全の本質は、手続きであり、作法であると言ってもよいだろう。

このことは、低線量放射線の防護基準にも、防潮堤の高さにも、原子力発電所の耐震基準にも当てはまる。安全の議論は特定の専門家だけに委ねるわけにいかず、様々なステークホルダーに開かれているべきであり、影響を受けるすべての人が当事者なのである。

安全とイノベーション

安全であることを示すにためには、手続きを踏むことが必要であることを述べたことで、2つ目の神話(安全は結果である)も神話であることは分かっていただけたかと思う。しかし、この神話の持つ破壊力は近年ますます大きなものとなっている。

それは、20世紀の末頃に、安全の挙証責任、すなわち誰が安全であることを証明しなければならいかが180度転換されたからである。20世紀初め、フォードT型の大量生産が始まり、社会に自動車が普及し始めたころは、「分からないものは安全とみなす」という前提が確かにあった。自動車が普及することによって事故データが集まってきて初めて、シートベルトやチャイルドシートなどが導入された。1950年代、そういう前提がまだ残るなかで原子力発電所も運用が開始された。

ところが、1980年代以降、遺伝子組換え作物の商業栽培のように、新技術が導入される前に反対運動によって実施が困難になる例が出てきた。安全に対する考え方が「分からないものは安全とみなす」から「分からないものは危険とみなす」へと180度転換したのである。つまり、分からない場合の前提が「安全」から「危険」に変わったのである。

新しいものを社会に持ち込みたい当事者は、安全が確保されていることをあらかじめ社会に対して示すことができなければ、それは「危険」とみなされ、社会に受容されない。2つ目の神話(安全は結果である)を変えなければ、いつまでたっても新しいものは日本社会から出てこないのである。科学技術イノベーションどころではない。

この神話の根強さは「何かあったらどうするんだ」というマジックフレーズに象徴されている。このフレーズは強力で、官公庁や企業など日本のいたるところで様々なイノベーションを阻止してきた。「何かあったら」、すなわち何か不都合なことが1つでも起これば台無しになるというのは、「安全は結果である」神話の裏返しである。

そして、この行き詰まりを脱するには、安全性を、過去の実績ではなく、作法、すなわち上に述べたような手順にきちんと従っているかどうかによって判断し、わずかに残るリスクを明示し、何か起きてしまった場合のための保険や補償メカニズムを事前に用意しておくことが必要である。

まずはエビデンスを尋ねる

それでは、安全を結果でなく作法で判断するような社会はどうすれば実現できるのだろうか。もちろん、行政や事業者が自主的に上に挙げた手順に従って安全性を示すようになれば良いが、現状そうなってない以上、放っておいてもそうなる保証は全くない。なぜこのような手順に従い、そのプロセスを公表していないかと言えば、それが社会から求められていないからだ。

そう考えると、現在ボールは社会の側にあるといえる。社会の側が、行政や事業者、そこに関係する専門家に、エビデンスを尋ねることが最初の一歩となる。安全に関して疑問に思ったり、不信感を持ったりした場合、御用学者とレッテルを貼って、「オールタナティブな」専門家を見つけてくるのではなく、まずはエビデンスを尋ねる。徹底的に尋ねる。

安全性が確保されていると主張されている場合、そのエビデンスを徹底的に尋ねていくと、必ずその中に含まれている仮定や推論や約束事があぶり出されてくるはずである。それらの妥当性を議論・検討することから、エビデンスに基づく社会が始まるのである。

参考文献

村上道夫、永井孝志、小野恭子、岸本充生共著『基準値のからくり-安全はこうして数字になった』講談社ブルーバックス、2014年.

プロフィール

岸本充生リスク分析

東京大学公共政策大学院&政策ビジョン研究センター特任教授。産業技術総合研究所安全科学研究部門研究グループ長を経て現職。専門は、様々な安全問題に関するリスク分析と経済評価。博士(経済学)。共著書に『基準値のからくり』(2014年、講談社)、共編著に『汚染とリスクを制御する(環境政策の新地平シリーズ第6巻)』(2015年、岩波書店)や『環境リスク評価論』(2009年、大阪大学出版会)など。日本リスク研究学会理事。

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