3.11以後の世界とSF第一世代の可能性

想像を超える自然災害、急激に変貌する経済の動向、日常生活が直面する先の見えない不安。東日本大震災以後、私たちの想像力と論理的思考の成果と限界とが問われて続けている。

 

SFというものは、人間の思索(Speculation)の限界に挑戦し、その限界を拡張する試みだといわれている。例えば、多くの日本人は日本を代表したSF作家小松左京の『日本沈没』のエピソードのいくつかを、今回の大震災においても想起したに違いない。それは小松の世界観の強度を改めて私たちに認識させると同時に、また私たちが(小松でさえも予想しなかったような)新しい環境に直面していることをもいやでも認識する出来事だったろう。

 

今回の座談に集まった私たち三者は、小松左京を中心に、日本のSF「第一世代」といわれる作家たちの業績を振り返り、その3.11以後における想像的可能性について語り合った。作家、社会学者、経済学者と専門とする領域は異なるが、それぞれがSFの想像力について期待する点では一致していた。日本のこれからの文化と社会を考えるうえで、SFがどのような役割を果たすのか、その極限について明らかにしたい。(構成/田中秀臣)

 

 

SFの「実践的」な可能性

 

田中 僕の周りでも新城さんのファンの方が多いですし、僕も長い間ご著作を拝読してます。去年出た『3.11の未来』で、僕はたぶん追加メンバーで、依頼があって締切まで一ヶ月なかったんですよ。しかも初めて書くSFの原稿で、一体どれだけ難易度の高いことを依頼するのかと(笑)

 

新城 『3.11の未来』はほとんど突貫工事だったと伺っています。地震の後でやったわけですからね。

 

田中 当時、震災関連の本がたくさん出て、SFでも小松左京関連が出るのではないかと思っていました。小松さん自身は書くことができなくなっていて、よく存じ上げないんですが、何年間も書けない状態が続いていたんでしょうね。

 

新城 調子のいい時と悪い時があったという話は伺いました。調子がよくても昔みたいに根を詰めて作業はできなかっただろうなと思います。

 

田中 それまで小松さんの作品はいちファンとして読んでいたんですけど、この本の原稿を書くために読めるだけ読んでみたんです。90年代の阪神淡路大震災の『小松左京の大震災’95』以降、小松さんの創作意欲がほぼ無くなってしまっていて、肉体的にも精神的にも震災が彼の創作意欲に与えた影響は大きかったと思います。昨年の終わりに僕と山形さんと稲葉さんでやったSFトークイベントでも話題になったんですが、小松左京の阪神淡路大震災のルポが率直に言って全然面白くないんですね。

 

当時、政府の初動の遅れが指摘されていましたよね。村山内閣があまり大したことないと当初は認識して、危機管理対策なとの対応が遅かったです。まあ、いまの方が遅いんですが。そうしたことに対する批判を小松左京はするのかなと思ったら、全くしないんです。小松左京の震災論でクローズアップされているのは地震の違いです。彼が扱った『日本沈没』では、プレートの動きによって日本全体が動くという話でした。ところが、阪神淡路は局地的で限られた地域に激震をもたらしたんです。

 

阪神淡路ルポは、そうした地震のタイプの違いに着目して、学術的に追うという話なんです。これを一年近く続けて、ある種の学会ウォッチング・政府の地震見解のウォッチングになってしまっています。今回の震災でもそうですけど、震災を扱う話としては、いかにコミュニティや社会インフラを復興させるかという話が出てくるんですが、小松さんの場合は、地震のウォッチになってしまっている。そういう意味では、実践的ではなくただ地震のレベルに驚いていると言えると思います。

 

新城 これは新聞連載ですか?

 

田中 そうです。初期の頃は週一で連載されてました。

 

新城 体調の問題もその頃からあったんでしょうか。『日本沈没第二部』は一応共著で出してますけど、『虚無回廊』は連載をまとめたんですよね。

 

稲葉 確か、こないだ出た定本を見たら、『虚無回廊』の第三巻が2000年で、それ自体『SFアドベンチャー』(*1992年3月号で終了)に載ったものなので90年代初頭のものですね。

 

田中 小松左京は失われた20年には、ほとんどコミットしないまま亡くなってしまった。新城さんのエッセイでケインズの話が出てますよね。この20年でどういう風に経済学者が変わったかというと、やたら実践を意識しはじめたわけです。誰がどう見ても長期で停滞が続いているのはおかしい。「優秀」な官僚や経済学者がこんなにいるのにこれはおかしいと誰でも思うわけです。そこで調べてみると、政策的な問題があるということに僕と違う立場の人も気づくわけです。結果、実践的な関心が芽生えてきた。

 

こういった実践的なアカデミズムの変容が、マージナルな場所で起こっていた。その中で、社会とか経済が長期に停滞すると、総体で物事を見ないと実践的なことがなかなか言えなくなってしまう。今日の話で言えば、みんながミニ小松左京にならないと、実践的なことが言えなくなるという状況になっていると思います。

 

東浩紀さんがいますよね。僕の印象ではもっとも実践的な問題に縁遠いと思ってましたが、彼も『思想地図β』をみると実践的なことを言ってます。みんなこの20年で「実践する」こと、というのを嫌でも意識するようになってしまった感じです。

 

新城 実践というのは、政策に反映されるという意味で?

 

田中 そうです。政治と文学というのが東浩紀さんや宇野常寛さんたちのテーマだと理解しています。その文脈の中で猪瀬直樹東京都副知事や村上隆さんたちとのコラボレーションも増えているのでしょう。21世紀のはじめに柄谷行人さんが今の文学には政治へのルートはないと言い切っていましたが、今の東浩紀さんのやっていることは文学の政治へのルートの確保に見えるんです。

 

同様に、僕がSFに見出しているのは、実践的な関心を拾うちょっとバイアスがかかった見方ですね。さきほど言及した年末トークイベントでもそうだったのですが、どうしても社会政策的な生存の問題に注目してしまう。人類滅亡だとか環境の根本的な破壊とか破滅テーマが多いですけど、僕はそれに惹かれるんです。そうした環境の中でどのように人類の生存が計られているのか。これには2つのパターンがあって、1つはクラーク的に、人類がガラリと変化してどこかへ飛んでいくというパターン。もう1つは、絶滅的環境の中でみんな不平不満を言いながら結局、絶滅してしまうかもしれないけど生きながらえていくという、漫画版『風の谷のナウシカ』みたいなパターンです。僕はどちらかと言うと、前者より後者にSFの可能性を見出しているんです。

 

新城 可能性を見出すというのは、今後そういうのが多くなっていくだろうという意味でしょうか。

 

田中 そうですね。バラードの『スーパーカンヌ』とか『殺す』とか作品的には面白くないですけど。それを面白く書くこともできるんではないかと。昔の『1984』とか『素晴らしき世界』のようなはっきりとしたユートピア否定論ではなく、マクドナルトのように長居できない設計をしたり、絶えず路上をカメラが監視することでマズイ人間を排除していくというような、そんなSFが増えていくと面白いと思う。

 

 

 

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