2012.02.13

原発震災に対する支援への補足

猪飼周平

社会 #原発#東日本大震災#震災#ボランティア#社会福祉協議会

ここ数年ほど細々とブログをやっておりましたが、このたび思いがけず私の論考「原発震災に対する支援とは何か」(以後「本稿」)に大きな反響を頂き、一時的にとは思いますが「細々」でなくなってしまいました。他のブログや私の書いたものをご覧いただくとわかりますが、私は、広い意味での医療や福祉に関する研究をしている者です。通常は本稿のような「一人称」の論考を書くことがない者で、今後このような論壇に登場することもないと思っています。とはいえ、私のことをたまたま本稿でお知りになった方につきましては、これも何かの縁ですので、以後お見知りおきを。

さて、以下ではこれまで頂いた意見を踏まえて少し補足的な説明をさせて頂こうと思います。といっても、個々のご意見に応答するというよりは、私が本稿に込めた意図を明らかにすることで、誤解の幅を小さくすることを目標にしておきたいと思います。その上で、あらかじめ断っておきたいことがあります。それは、私が私の主張の正しさにこだわっていないということです。自身の主張の正しさに固執するには、私はあまりに部分的事実しか知らず、また事態はいつでも流動的だからです。ご意見の中に「考えさせられる論点が多い」という評価を多数頂いたことは私にとっては大変有り難いものでした。というのも、私としては多少なりとも支援について建設的に考える種を読者に引き継いで頂いたように感じられたからでした。読者の皆さんには、是非とも、私の提出した論点などさっさと乗り越えて頂いて、より本質的な支援を読者の皆さん自身の手で考案して頂きたいと思います。

NPO/NGOなどの支援団体への提案として

まず、私が何より目指していたのは、原発震災に関する論争を、被災者への支援に結びつく形で有効に機能させるということでした。その際念頭に置いていたのは次のことでした。

まず今次の東日本大震災一般について、被災地の地元が提供したボランティアの受け入れ窓口は、社協(社会福祉協議会)のボランティアセンターであることが多かったわけですが、多くの方が指摘するように、従来ボランティアを使い慣れていない土地柄ということもあってか、コーディネーション機能(ボランティアの能力と被災者のニーズを適切にマッチさせる)が脆弱であったと言われています。これを補完してきたのが、NPO/NGOなどの組織的な支援の経験をもつ支援団体でした。実際、津波災害支援においてはこれらの団体は自らコーディネーション機能をもった団体として活動し、現地の経験不足を補ったのです。

ところが、これらのNPO/NGO諸団体は、こと福島に留まっている人々に対してということでいえば、避難所支援などを除いて必ずしも有効な支援をしてこなかったように思います。もちろん、彼らは決して福島の人びとを見捨てていたというわけではなく、原発震災という非常に複雑な性格をもつ事態に対してどのように対応すればよいかで悩んでいたというのが正確なところだったかもしれません。彼らの支援の基本にあるのはなんといっても基本的人権の保護です。そして、この観点からみると、被曝=人権侵害=被災地住民総退避という立場をとることになります。もちろんこのような考え方はそれが現実的な選択肢である限りは正当性を持ち得ます。ただし、被災地の人々が一挙に県外に避難・移住することがもはや非現実的であるということがはっきりした後でもこの立場に固執するとどうなるでしょうか。結果として、被災者を支援したいという彼らの意図に反する行動を取ることになってしまいます。

彼らの多くは除染に反対という立場をとってきましたが、その理由は、除染を支援すると、彼らの主張である避難を抑制することになるかもしれないからです。しかし、「総員退避」が現実性をもたない状況で、そのような立場に固執するとどうなるでしょうか。避難者は期待するほど増えない一方で、現地に残った住民の被曝が増大し、人びとの精神的負担に押しつぶされてゆくさまをなすすべなく眺める結果となってしまいます(外野から被災地自治体を批判してもほとんど効果はありません)。これはまさにNPO/NGOがコーディネーション不足を補完できていないことで「不利益」を受けている福島の現状を説明する構図です。

もちろん、私の提案には、支援団体の方々の信条に反する部分があるだろうということは充分察しがつきます。その意味では、受け入れ難いことを提案することになるわけですが、それでも、私としては、NPO/NGO諸団体に属する皆さんに、現実的な判断、被災者にとっての利益とは何かということをもう一度考えていただきたいと思って、本稿を書いたというわけです。

健康リスクの不確実に対抗する考え方の提案として

私たちには、現状で、今回の原発震災がどのような健康リスクを孕んでいるのかを正しく評価することはできません。それは私のような非専門家にとってはもちろんのことですが、専門家の間でも健康リスクの評価はバラバラで一方の極から他方の極まであらゆる主張が争鳴する状況となっているという意味では、専門家にとっても状況は同じです。このような状況においては、放射線の健康リスクの評価→対応策という経路で対策を考えることは充分な有効性を持ちません。というのも何らかの立場からリスクを評価し対応策を考えることはほとんど賭をしているのと同じだからです。すなわち、健康リスクの評価を基礎にして支援策を考えようとすると、大雑把にいえば1)リスク大に賭ける、2)リスク小に賭ける、3)賭を拒否するという3択が強いられるわけです。ところが大変悩ましいことに、これらの選択肢にとりあえず有害な結果を及ぼす可能性のない選択肢はありません。この困難な状況が多くの方々を支援の入口で跳ね返してきたように思います。

この状況に対し、私が提案したのは(そのようには読めなかったかもしれませんが)、とりあえず原発震災の健康リスクは大きいかもしれないしそうでないかもしれないという幅を許容しても、それでもなしうることを探そうというものでした。たとえば、現地に留まっている人々にとって除染は、1)健康リスクの低減(安全)、2)精神的負担の軽減(安心)の2面の効果を持ちます。とすれば、除染は、人びとが福島に留まっている限り健康リスクが大きくても小さくても有効な手段ということになります。

ただし、これは現状に対する判断からの提案であり、今後ともそうでありつづけるということを言いたいのではないということはご理解頂ければと思います。物事を柔軟に考えなければならないという点でいえば、私が最近接したツイートで大変感動したものがあります。「敢えて呟く。正しい計測のもと、全村で内部外部合わせて個人の被ばく線量が3mSv以下を現状で保てる村があったとする。ここで1mSv/年を目指すために除染に大規模なお金を掛ける?…もし…もし住民全体の合意があれば、そのコストをすべて医療サービスに転換、なんてこともあり得るんだよ…」(@fukuwhitecat, 2012/2/2)。

福島や被災の現実をよく検討すれば、これまで私たちを支援の入口で跳ね返してきた困難を回避する方法はいろいろとあるように思います。上のように小難しくいわなくとも、「やれることからやる」ということでも構いません。このような不確実性に対抗する支援の方策を考えてゆきましょう、というのが、私として読者の皆さんに提案したかったことの2番目です。

建設的な議論のための土台として

本稿を公開してまもなく桜井政成(立命館大)さんから重要な批判を頂きました。これは、除染には、被曝したくない少数者に被曝環境下での作業が強制される可能性がある、というご主張でした。これは大変重要な観点を本稿に付加(負荷)したと思いました。私はこのような建設的な主張を引き出す触媒になることを本稿に期待しておりましたので、桜井さんの「反論」に接したことで、私は本稿を公開する判断をしたことが正しかったことが確認できたと思っています。

その上で、読者の方々にお願いしたいことは、批判の建設的な面に着目して頂きたいということです。ここでの問題についていえば、そもそも集団の意思決定に関しては、一般にすべての人が合意することは難しいものです。では一切集団での意思決定はすべきでないかといえば、しなければならない時もあります。その時に住民の意思を集約・擬制する過程が政治です。このため必然的に意思決定に抑圧されたり、見捨てられたりする人が生まれる危険があります。したがって、集団の意思決定が健全に機能するためには、桜井さんのように、擬制されたものを実体とみるのではなく、そこからこぼれ落ちた人々に対する配慮をいかに行えるかが決定的に重要です。その意味では、桜井さんの視点は集団の意志決定を行う上での重要な補完要素なのです。

これに対し、「少数者に除染を強いる可能性があるので除染はすべきでない」という極端な説得のされ方をした方もあったように思います。いうまでもなく、このような解釈は、少数者のためには多数者を犠牲にしてよいという考え方であり、一種の専制を是認することになってしまいます。つまり、専制を支持するのでないかぎり、桜井さんの「反論」は、本稿の補完であって対立する主張にならないのです。もちろん、私たちが考えるべきは、どうすれば少数者を抑圧しない(にくい)集団の意思決定が可能となるか、という問題です。読者の方々にお願いしたいのは、論者の議論の優れた面を組み立ててゆく思考を使って頂きたいということです。

除染ボランティアの可能性を追求するきっかけとして

福島県内の除染ボランティアということでは、福島市と伊達市が社協や生協を窓口として除染ボランティアを動員してきました。この除染ボランティアの活用スキームには、大まかにいって3つの問題があります。第1に、少なくとも現状では、ボランティアにとっての基本ニーズを充足していないことです。すなわち、中立なリスク情報の提供、住民との対話機会・ボランティア同士の対話機会の確保、ボランティアの安全への最大限の配慮といったことが、現状では担保されていません。第2に、大きなボランティア供給圧力に対応できていないことです。現在の自治体による除染は、行政・業者主導の枠組みのため、作業の中にボランティアを位置づけることが難しい状況となっています。11月中旬までに一旦ボランティア募集が打ち切られたのにはこのような背景があります。そして第3に、行政主導の線量順の除染計画では、本稿で述べた通り、住民のニーズに十分応えられないということです。第1の問題については、改善の可能性を追求するということもできると思いますが、第2、第3の問題については、なかなか本質的な改善は大変です。

私は行政主導の除染も行政によるボランティア動員も、一定の有効性がありつつも、他方で相当に限界のあるやり方なのではないかと思っています(現在のゼネコンへの除染の委託がどの程度奏功するかはまた別途検討する必要があると思っていますが)。そこで、このような除染スキームとは全く異なるタイプの除染活動が活性化することで選択肢が拡大することが必要ではないかと思います。その有力な可能性が、従来とは異なる除染ボランティアの活用です。住民と域外ボランティアを前面に出した除染です。昨年の経験で図らずも除染ボランティアの供給圧力は相当高いということが分かっています。この力を上手に借りて除染を進める方法が発達することを願っています。

なお、付言しておけば、本稿の注14に書いたために読み落とされやすいのですが、私は雇用労働ベースでの除染が効果が一般に有効でないということを主張しているのではありません。行政主導の除染も否定していません。また、たとえば、現在自治体がゼネコンに一括委託する方向に動いているように、ゼネコンの工程・作業管理力が一定の効果を挙げる可能性も認めてよいと思っています。可能性のある方法を多方面で模索すればよいのです。ただ、一方で、ボランティアには副次的な効果を含めボランティアの利点があり、これらを生かす道も同様に検討すべきだと考えています。いずれにせよ、様々なスキームでの除染が同時に展開され、可能な限り速やかに地域の被曝リスクが低減されることが理想だと思っています。

住民と行政の連帯を促進する道を探して

私が本稿を書くにあたって、もう一つ常に念頭に置いていたことがあります。それは三宅島の事例でした。同島では2000年の噴火によって全村避難となり、以後4年半にわたる避難生活が続きました。2005年に帰島が始まってからもう7年になろうとしていますが、島ではいまでもその後遺症に苦しんでいるといえます。つまり、住民と行政との間に深刻な相互不信があり、それが復興の妨げになっているということです。実際、村役場では避難当時を知る中堅がほとんどいません。辞めたからです。

震災は、住民に対して大きな苦しみを与え、その訴えは行政に向かいます。ところが要求が大きすぎるために行政が対応できることには限界があります。その結果、住民は「行政は何もやってくれない」と不満を言い、行政担当者は「これほどやっても文句をいわれるとは」とがっかりします。この関係が長く続くと、住民と行政の関係は簡単に修復できないほど壊れてしまいます。それが、私が三宅島でみたものでした。

福島で現在起きていることも構図は同じです。福島に力強く復興してもらうためには、住民と行政の関係を健全に保てるようにすることを含めて支援しなければなりません。住民を支援するという、市民運動的な立場に立つ人びとには、行政を敵だと思っている人があります。もちろん、行政には深刻な限界があり、そのことに苛立つ人があるのは当然です。とはいえ、行政は決して住民の敵ではありません。行政担当者は通常そのことを口にしませんが、彼らも被災者なのです。私は、福島の人びとを支援するということの中には、住民が行政と良好な連携を保てるようにするということも含まれているということについては良く認識される必要があると思います。

プロフィール

猪飼周平

1971年京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科准教授。専門は、医療政策、社会政策、比較医療史。
東京大学経済学部卒、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了(経済学博士)。佐賀大学経済学部専任講師、助教授を経て2007年より現職。主著『病院の世紀の理論』(有斐閣、2010年)。

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