2011.07.06

ネクタイをはずさせる方法  

清水剛 経営学 / 法と経済学

社会 #ネクタイ#電気事業法27条

7月4日、政府は37年ぶりに電気事業法27条にもとづく電力の使用制限を発動した。これにより、大口需要家については昨夏の使用最大電力から15%削減した値までに電力使用が制限されることになる。実際、6月下旬はこの50年間で最高の暑さとなり、7月に入っても暑い日がつづいている。電力供給がなお不十分な状況でのこの暑さであるから、電力の使用制限は必要な措置だろう。

しかし、そのような状況であるにもかかわらず、なおネクタイを締め、スーツを着ている男性を駅などでしばしばみかける。必死に汗をぬぐっていることからも、ご本人たちにとっても決して快適ではないことが分かる。また、電力も余計にかかるという意味で社会的にも好ましいことではない。そのことはご本人たちにもよく分かっているはずにもかかわらず、なお彼らはスーツを着、ネクタイを締めているのである。これは一体なぜなのだろうか? 逆に言えば、どうやれば彼らのネクタイをはずすことができるだろうか。

ここだけ読むと冗談のようだが、実際にはかなり真剣な問題である。何せ、彼らがスーツとネクタイ姿で働くために、都心のビルでは膨大な電力を冷房に使うばかりか、その排熱でさらに気温をあげているのだから(いや、さすがにビルのなかではネクタイをはずしているかもしれないが)。そこで、この点を考えてみることにしよう。

なぜスーツを着てネクタイを締めるのか?

ひとつの考えられる理由は、「たとえば人と会うような場合にはスーツを着てネクタイを締めることが社会的な合意であるから」というものである。前にどこかの新聞で「ポロシャツで営業に行くのはみっともない」というような意見がでていたが、このような意見の背後には、上のような考え方があるだろう。このような場合に、たとえば自分が社会的な合意から外れることは「非常識な人間である」というレッテルを貼られることにつながるため好ましくないことになる。

ここで注意しなくてはいけないことは、「みんながスーツを着てネクタイを締める」というということも社会的合意になりうると同時に、「みんながスーツを着ず、ネクタイも締めない」ということも社会的合意になりうるという点である。よくいわれるように、ハワイではアロハシャツは正装とされているし、沖縄県庁や県議会では多くの人が夏にかりゆしウェアを着ている。そうであれば、「みんながスーツを着ず、ネクタイも締めない」ということを社会的合意とすることができれば、そのような社会的合意から外れてわざわざスーツを着てネクタイを締める人はいなくなるはずである。

この場合、問題はある意味わかりやすい。すなわち、問題はいかに「スーツを着ず、ネクタイを締めない」ことを社会的合意にするか、ということであるから、そのためにはたとえば環境相がかりゆしウェアを着るというようなことも意味はあるだろう。現在の日本政府は、基本的に問題をこのようなものとして認識した上で、いかに社会的合意を変えていくか、ということに力を注いでいるようにみえる。

社会的な合意から外れることがもたらす「誠意」

しかし、じつはもうひとつ考えられる理由がある。それは「わざわざ暑い服を着ることによって、相手に対して『誠意』を感じさせる」というものである。たとえば、わたしたちが高価なお土産を持っていく理由は、もちろん高価なほうが喜ばれるということがあるが、それとともに、お土産に対して高いお金を払うこと自体が「あなたにはそれだけのお金を使うぐらいあなたを大切にしています」というメッセージとなる、ということもある。

あるいは、忙しいときにわざわざ直接訪問する、というのも、直接訪問することによって「わたしは忙しいときにでも時間を割くぐらいにあなたを大切にしています」というメッセージとなるだろう。これと同様の論理として、「暑いのにわざわざスーツを着てネクタイを締めてきた」ということ自体が訪問先に対して「あなたを大切にしていますよ」というメッセージになるのである。

このような効果が働いてしまうと、仮にスーツを着ず、ネクタイを締めないことが社会的合意になっているとしても、スーツを着てネクタイを締める人が必ずでてくる。というより、そのような社会的合意ができている状態においてこそ、わざわざスーツを着、ネクタイを締めて訪問することのメッセージ性が高まるのである。そして、そのような人がでてきてしまえば、そもそもスーツを着ず、ネクタイを締めないという社会的な合意自体も壊れてしまう。

もし、人々がこのような理由でスーツを着、ネクタイを締めているのであれば、上のように政府が社会的合意をつくろうとしても上手く行かない。最初の理由とは異なり、この場合には「スーツを着ない」という社会的な合意から外れることにむしろプラスの意味をもってしまうのである。

メッセージの受け手が評価軸を変更すれば

困ったことに、このような状況を政府が変えるのは難しい。政府がスーツ・ネクタイを全面禁止するというのであれば別かもしれないが、たとえば政府が「カジュアルな格好が好ましい」といえばいうほど、そのような状況で『わざわざ』スーツを着てネクタイを締めることが相手に対するプラスのメッセージになってしまいかねない。ゆえに、このような状況を変えるには政府よりも、メッセージの受け手がメッセージの受け取り方を変えるしかない。

たとえば、企業の購買部門が「スーツを着、ネクタイを締めてきた営業の人からは一切物を買わない」という規程をつくり、取引先に周知するというのはどうだろうか。そこまでしなくても、「このご時勢にスーツを着て、ネクタイを締めるのは、電力不足を悪化させ、地球環境にも悪影響があり、見た目にも暑苦しいので好ましくない」という認識をもつようになればよい。要は、スーツを着てネクタイを締めることに(少なくともこの夏は)プラスの評価を与えなければよいのである。

ネクタイのルーツは必ずしも明確ではないが、一説にはローマの兵士たちが防寒のために首に巻いた布であるという。もし、そうであれば、夏にわざわざネクタイをすることもないだろう。「スーツを着てネクタイを締めるのは社会的に好ましくない」という認識が広まってくれば、自然にスーツを着、ネクタイを締める人の数も少なくなり、電力不足にも少しはよい影響があるのではないだろうか。ぜひ、企業の購買部門だけでなく広くお考えいただき、できれば実行していただければと思う。政治がどうこう、東京電力がどうこうと評論する前に、自分の身の回りでやれることもあると思う。

推薦図書

この話のいくつかのパーツをどこかで聞いたことがあるな、と思われた方がいらっしゃるかもしれない。じつは、ここでの話は、数式も利得表も入れていないがゲーム理論の考え方(だけ)をところどころで使っている。ということで、ゲーム理論の様々な考え方を面白くかつ分かりやすく説明しながら、ミクロ経済学に導いてくれるこの本を挙げておこう。お話を上手く使いながらきちんと説明してくれるので、とっつきやすいのではないかと思う。

プロフィール

清水剛経営学 / 法と経済学

1974年生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了、博士(経済学)。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。専門は経営学、法と経済学。主な著書として、「合併行動と企業の寿命」(有斐閣、2001)、「講座・日本経営史 第6巻 グローバル化と日本型企業システムの変容」(共著、ミネルヴァ書房、2010)等。

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