2013.12.04

動き出した減反廃止――減反の歴史と「戦後レジーム」からの脱却

川島博之 開発経済学、環境経済学

社会 #減反#戦後レジーム#農家#農業#農水省

ついに減反廃止が動き出した。正直言って、筆者はこれほど早く減反廃止が実現するとは思っていなかった。それは農学部にいて農業関係者に会う機会が多いから、農協や農林族の力を過信していたためだろう。減反廃止を言い出せば、必ずや農協や農林族が騒ぎ出して収集が付かなくなると思っていた。

しかし、今回政府が減反廃止を言い出しても、農協や自民党農政族は不気味なほど静かである。あっけないほど簡単に、政府が提案した減反廃止の方針を自民党が了承してしまった。

なぜ、そうなったのであろうか。本稿では、減反の歴史やその政治的背景を見ることから、40年余りも延々と続いて来た制度が、こうもあっけなく廃止されることになった理由を考えてみたい。

戦前から機能し続けた食糧管理制度

減反とは政府の命令に基づいて、水田の一部分でコメを栽培しないことを言う。減反は1970年に始まっているが、減反が行われるようになった理由を理解するには、戦前にまで遡って、食糧管理制度について理解する必要がある。

食糧管理制度とは政府が農民から一括してコメを買い付けて、それを一定の価格で国民に平等に販売するものである。この制度は太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年に、東条内閣によって作られた。このことからも分かるように、食糧管理制度は戦時体制の一環である。

不足しがちになったコメを金持ちが買い占めて、貧乏人が飢えることになれば、社会不安につながりかねない。それは戦争を遂行する上で、まことに都合が悪い。そのために、国家総動員体制の一環として、食糧管理制度を作ったのだ。戦争後期になると、恐れていたようにコメ不足が深刻化したが、食糧管理制度があったおかげで、なんとかコメを公平に分け与えることができた。

戦争が終わった昭和20年の秋から翌年の夏にかけて、日本は戦争末期よりも深刻なコメ不足に陥った。それは戦争末期に軍部が本土決戦を計画して、農民を大量に動員したためである。それまでにも農家の若者は軍隊に取られていたが、中年の多くは農村に残って農作業を行っていた。しかし、昭和20年になると中年にも召集令状が来たのだ。その結果、昭和20年の作柄は前年に比べて約3割の減収になった。昭和19年の生産量も戦争が始まる前に比べれば低下していたが、それよりも3割の減収になったのである。多くの餓死者が出るとの予測も出た。

しかし、戦後も食糧管理制度が機能したために、餓死者はほとんど出なかった。全国民が等しく飢えたものの、イモなどで食いつないで、なんとか生き延びることができたのだ。このように、戦時体制の一環として作られた食糧管理制度は、コメが不足しがちであった昭和20年代に大いに役に立った。

日本農業の活力を奪った減反

戦争から惨禍から立ち立ち直ると、コメ不足は徐々に解消に向かった。そして、昭和30年代になると豊作が続いて、誰もが十分にコメを食べられるようになった。そうなれば、戦時体制の一環であった食糧制度など必要ない。ここで、食糧管理法を廃止していれば、戦後の日本農業はまったく違った道を歩むことになったと思う。

しかし、戦前には予測できなかった新たな事態が発生した。経済が発展するにつれて都市で働く人々の賃金は大きく上昇し始めたが、農民の収入は都市住民ほどには増えないのだ。当然、農民は不満を持った。

当時、集団就職などによって、農村から都市への人口移動が始まっていたが、それでも人口の半数近くが農村に住んでいた。沢山いるから、政府は農民の意向を無視することができない。

政府は食糧管理制度を利用して、都市で働く人々の所得を農民に移転することを考えた。本来、食糧管理制度はコメ価格高騰を抑えるためのものであったが、その理念を180度転換して、政府がコメを市場価格より高く買うことによって、農家の所得を増やそうとしたのだ。

政府は都市で働く人々の所得が上昇すると、それに見合う形でコメの買い取り価格も上げた。コメの買い取り価格は米価審議会において決められたが、その会場をむしろ旗を掲げた農民が取り囲んで圧力をかける姿は、秋の風物詩にもなっていた。

しかし、昭和40年代に入ると都市の所得はいっそう上昇し、それに伴い人々は肉や乳製品などを多く摂取するようになった。パンの消費量も増え、食の多様化が進んだ。その結果、コメ消費量は大きく減少した。

その一方で、水路の整備が進み、また化学肥料や農薬が普及したことによってコメの生産量は増加し続けた。当然のこととして、コメが大量にあまるようになった。あまったコメは政府が備蓄に回したが、毎年、その処理のために膨大な国費が使われることになった。

このような事態を受けて、減反が行われるようになった。そして、これは全国一律で行われたのだ。もし、全国一律で減反を行わなかったら、美味しいコメを栽培している新潟県魚沼などは、いくら生産しても追い付かない状況になる。その一方で、美味しくないコメを作っている地方はコメを作らなくなってしまう。市場原理によって淘汰が進むことになる。

しかし、長い間コメを作って来た日本では、コメ生産に市場原理を導入することには抵抗感があった。そのために全国一律の減反を行うことになったのだが、減反はカルテルであり、極めて社会主義的な手法と言える。そのような手法が日本農業の活力を奪うことになったことは当然のことであろう。

農水省の末端機関としての農協

 

減反政策を末端で推し進めたのが農協である。昭和の時代から今日まで、農協は減反の割合から補助金の分配まで、農水省の末端機関としての役割を果たしてきた。それは農村において地域独占的に農業関連ビジネスを行って来た農協のシンボルになっている。農村の秩序を守り農協を維持するためには減反を行わなければならない。農協はそう考えて来た。

しかし、減反を始めてから40年余年が経過すると、それを支える基盤が変化してしまった。もっとも重要な点は農民人口が減少して、政治力が著しく弱くなったことである。政治力の源泉は選挙で票を出すことに他ならない。票が出せなければ、いくら永田町や霞が関でデモを行っても意味がない。

平成25年7月に行われた参議院選挙は、農協の力が弱くなっていることを天下に知らしめた。農協が弱くなったことは参議院比例代表区においてとくに著しい。自民党はついこの前まで、比例代表区に二人の農業関連議候補を立てていた。その二人ともが農水省のOBであり、一人は事務官出身、もう一人は農業土木系技官だった。

事務官はもちろん東大法科卒を中心としたエリート官僚、もう一人の技官もエリートなのだが事務官より一段下に見られていた。農業土木系技官の多くは旧構造改善局に所属していたが、局長のポストは事務官が占めていた。専門家であるはずの農業土木系技官はいくら出世しても局次長にしかなれなかった。

農水省には、このような明治の官僚制を思わせる悪しき慣習が残っている。それに対する反発が、農業土木系技官の間に強いきずなを作り出させた。彼らは農水省の土木工事関係の予算を一手に握り、事務官に指一本触らせないような雰囲気を作り出すことに成功した。

それは、農業土木関係に多くの国費が投じられていた時代に、強い政治力を産み出すことに繋がった。その政治力を背景に、事務官とは別の農業土木系技官の代表を参議院比例区に送り出してきた。

政治的魅力が弱まった農協

だが、そのような状況は年号が平成に変わった頃から大きく変化し始めた。農業土木関連の予算が大幅に削減され始めたのだ。それは、日本農業を取り巻く情勢を考えれば当然のことであろう。コメ余りが問題になり減反まで実施されているのである。いまさら、大きな予算を使って水路やため池を整備する必要はない。しかし、農業土木関連事業に大きな予算を付け続けて来たために、農業土木系技官だけでなく関連する土木業界も大きな力を持つようになってしまい、政府自民党はしがらみに阻まれ、これまで予算を削減することができなかった。

そのような雰囲気を敏感に感じ取ったのが小泉純一郎氏であった。彼は自民党をぶっ壊すと叫んで自民党総裁の座に着き、世論の後押しを受けて、土木関連の予算を削減したが、その一環として農業土木関連の予算も大きく削減した。農業土木を地盤とした議員は、いわゆる族議員として、激しい世論の逆風を受けることになった。その結果、2007年の参議院選挙において農業土木系候補は落選した。そして、2010年の選挙には候補者を立てることもできなかった。

農業土木系予算の削減は、「コンクリートから人へ」をスローガンに掲げた民主党政権でも続き、2013年の選挙では農業土木系の候補者の出馬の有無が話題なることもなかった。もはや、忘れ去られた存在になってしまったのだ。

農協など農業に関連する人々は農水省事務官OBを当選させることもできなくなっていた。平成になってから事務官OBの落選が続いた。

事務官OBはしょせんエリートである。農協職員や農民とは距離がある。自分たちの利益代表に官僚OBを頂くという雰囲気は、昭和の時代で終わりだったのだろう。平成になると、トップダウンで官僚OBを候補に選んでも、農民が本気で応援することはなくなってしまった。時代が大きく動いたのだ。

それに危機感を抱いた農業関係者は、2007年の参議院選挙において全国農協中央会(全国の農協を束ねる政治団体)専務理事である山田俊男氏を擁立した。自前の候補を担いだわけだが、それが功を奏し山田氏は45万票を得票して自民党の党内順位2位で当選することができた。

しかしこの時の選挙において、これといった組織を持たない舛添要一氏が47万票を獲得して第一位になったことからも分かるように、農協が組織の総力を挙げても、圧倒的な力を見せつけることはできなくなっていた。そして6年後の2013年7月に行われた参議院選挙において、山田氏は当選したものの34万票しか獲得できなかった。

この選挙では民主党政権時から騒がれていたTPPが大きな争点になった。2012年12月に行われた衆議院選挙の際に、自民党はTPPへの参加について明確な態度を示さなかった。しかし、安倍政権が成立すると、対米協調路線の中でTPPについても積極的に参加する路線を打ち出した。口では「守るべきものは守る」と言っているものの、それをどこまで信じてよいのか分からない。安倍政権の対応は農協にとっては裏切りにも見えるものであった。

そのような雰囲気の中で迎えた参議院選挙であった。農協にとっては力を見せつけるチャンスだったのだ。実際に、山形県農協が自民党候補の推薦を見送り、TPP反対を明確に打ち出している「みどりの党」の候補を推薦した。これはこれまでの農協の行動を考えれば、極めて異例の事態と言えよう。

自民党は危機感を覚えて、公示以降に安倍首相が2度も山形入りするなど強い姿勢で臨んだ。その結果、接戦になったものの山形でも自民党候補が当選した。農業が強い県でも、農協は自分達が推す議員を当選させることができなかった。

農協の力だけでは当選できない。参議院地方区の多くは一人区であるが、一人区で当選するには、いろいろな人の支持を得なければならない。現在は、地方といえども農協の支持だけでは当選できないのだ。

現在の農協の姿は、広く国民の支持を集めているとは言い難い。かたくなTPPに反対する態度は、多くの国民には利権に固執しているとしか思えないのだ。そのために、農協や農業にだけあまい顔を見せていると、一般市民の票を失いかねない。このことは、これまでにも知られていたことであるが、山形で農協が支援する候補が敗れたことは、その事実をいっそう強く自民党議員に印象づけることになった。

もはや農民団体に強く肩入れすることは得策ではない。多くの自民党の国会議員がそう考え始めたのだ。それは小選挙区が定着した衆議院でも同じことである。中選挙区の時代には、農業団体の意見を代弁していれば、農村部において当選することができた。しかし小選挙区になると、農協ばかりに目配せすることはできない。地方に選挙区を持つ国会議員たちは、農協と敵対関係にはなりたくないが、農協べったりとは思われたくないのだ。

変わる日本農業:新自由主義的農民と社会主義的農協

 

現在、TPPに強く反対する政党は「社民党」、「共産党」、「みどりの党」など左翼系の政党ばかりになってしまった。農協の体質は保守的なのだが、その主張の多くはいつのまにか左翼政党と同じようなものになってしまった。

それには理由がある。昭和の時代には、儲からないとは言っても、農協の構成員である農民は1ha程度の農地を保有し、地方で確固たる地位を占めていた。そのために、「農業を守れ」との主張は、保守の立場から見ても説得力があった。しかし、それから30年ほどの時間が経過して、農業を取り巻く状況は大きく変化した。

現在、日本農業は大きく二つに分かれている。一つは農協を中心とした従来の姿勢を変えないグループであり、もう一つは企業家精神を持って農業を展開するグループである。人数では農協を中心としたグループの方が圧倒的に多いのだが、企業家精神に富む人々は野菜や畜産を中心に事業を展開しており、生産額において日本農業の中核を占めるようになっている。

彼らは農協と協力関係にない。地方に住むために、村人の多くが所属する農協とは、ことを構えることなく平和に付き合いたいと考えているが、対立することもある。彼らは補助金に頼るのではなく、儲かる農業を展開したいと考えている。そうであれば、新自由主義者と同様に規制緩和がキーワードになる。

一方、農協は規制に守ってもらうことを希望している。補助金をあてにしている。それは社会主義国に住む労働者の姿勢と変わりがない。農協と共にTPPに反対している政党が「社民党」や「共産党」であることは、少しも不思議ではないのだ。

右傾化を強める安倍政権と農業

2013年夏の参議院選挙に勝利した安倍政権は自信を深め、独自色を強く打ち出すようになった。その政策の中核には、中国に毅然とした姿勢を示し、尖閣列島を守り抜くことがある。

安倍氏の政策目標が前回政権を担当したときと同じように「戦後レジームからの脱却」にあることは変わりないようだが、前回はあまりにもことを急ぎ過ぎたために東京裁判をも否定するような言動を繰り返して、それが米国の疑念を深めてしまい政権を失う原因になったことを反省しているようだ。

そして、前回よりも中国との関係が悪化しているために、中国に毅然とした態度をとることに力点を置くことになった。そうであれば、米国の後ろ盾は絶対に必要なのだが、東京裁判の見直しを発言した経緯から、米国が心底から安倍氏を信頼していないことを感じ取っているようだ。

そんなわけで、安倍氏はなおさらのこと、米国の歓心を買わなければならない。そのためには米国が主導するTPPを受け入れる必要がある。そう考えているフシがある。

そして、TPPを受けいれるためには、日本農業を強くする必要がある。減反などと言って、社会主義的な政策を続けるわけには行かない。自民党の雰囲気も様変わりである。幹事長は石破茂氏、政調会長は高市早苗氏、そして農水大臣は林芳正氏である。彼らは戦後の食糧難を経験した世代ではない。そして都会で育っており、その感覚は都会的である。また、選挙区が地方にあっても都市化した地域を地盤にしており、必ずしも農業団体の意向に従う必要はない。

安倍氏が「戦後レジームからの脱却」という中には、農村的だった自民党からの脱却も含まれているようだ。平成になって自民党の中で力を持つようになった人々は都会的である。安倍首相だけでなく、将来の首相候補とされる小泉進次郎氏も都会的である。そして、都会的な保守主義者の考え方を推し進めれば、新自由主義にたどり着く。

だから、平成の自民党は保護貿易や補助金にすがる農業関係者を心の底では嫌っている。その姿は、結果平等を目指した昭和の自民党の代表であった田中角栄氏が、農村の臭いを濃厚に持っていたことと対照的である。

安倍政権が高い支持率を得ていることからも分かるように、現在の日本人は、新自由主義がもたらす格差を嫌いながらも、それに代わるものを見つけることができない。北欧の福祉国家をまねた民主党のバラマキ政策は、勤勉を美徳とする日本人の感性に合わなかったようだ。だから嫌われたのだ。そして、バラマキが好きでないと言うことになると、格差が開くと分かっていながら、新自由主義に行きつかざるを得ない。

そうであれば、社会主義にも見まがう農協の主張に多くの人々が疑問を感じるのは当然であろう。政治家はそのような動きに敏感である。現在の自民党は古い友人である農協にシンパシーを感じていない。それが、今回の急速な減反廃止につながった。

やっと先進国の仲間入りを果たす日本農業

もはや、農業は経済の中での役割を終えている。日本の農業生産額がGDPに占める割合は約1%でしかない。日本のGDPは500兆円であるが、農業が作り出す付加価値は5兆円に過ぎない。

それに対して、農水省の予算は2.1兆円、また、都道府県は別に農業予算を組んでいる。例えば、北海道が1,006億円、新潟県の331億円などである。また、高い関税率を維持することによって、高い農産物を国民に買わせているのだが、これは国民の所得を農民に移転していることに他ならない。このような現実から、日本農業は稼ぎ出す額とほぼ同額の補助金を貰っているなどと揶揄されている。

ただ、農業が有力な産業ではなくなってしまったのは日本だけではない。米国やイギリス、ドイツなどでも農業生産額がGDPに占める割合は1%程度になっている。農業大国と言われるフランスでも、それは2%程度に過ぎない。ほぼすべての先進国で農業は有力な産業ではなくなっている。

だから、どの国でも農業に対する支援は大きな問題になっているのだが、西欧に比べて先進国になってからの日が浅い日本には、昭和になっても、多くの農民が存在した。そのために、日本の農業は先進国の中でも、とくに政治との関わりが強い問題になってしまった。そして、その象徴が減反であった。

このような目で見れば、減反が廃止されると言うことは、日本においても農業人口が減少したために、農業問題を西欧先進国並みに冷静に議論できる土壌が出来上がったことを示している。減反廃止は農業における「戦後レジーム」の崩壊の第一歩である。

農業に関する多くの組織やシステムも、この変化に合わせなければならない。減反が廃止されれば、農協の力はいっそう弱まる。それは巨大官庁である農水省のいっそうの縮小にもつながろう。農業に関連する国公立の研究機関や大学の農学部もそのあり方も、これまで以上に問われることになる。

変化する環境の中で、強い政治力によって昭和20年代の姿を維持してきた日本農業の象徴が減反であった。その廃止は、やっと日本農業を米国や西欧先進国など他の先進国の農業と同等に語ることができるようになったことを示している。まさに、日本農業が変わりつつあることの象徴的な出来事である。

サムネイル「Evening in rural Japan」Matteo.Mazzoni

http://www.flickr.com/photos/matteo-mazzoni/1501921824/

プロフィール

川島博之開発経済学、環境経済学

東京大学大学院農学生命科学研究科准教授。東京大学大学院博士課程修了(工学博士)。東京大学生産技術研究所助手。農林水産省農業環境技術研究所主任研究官。東京大学大学院農学生命科学研究科助教授。主な著書に『食料生産とバイオマスエネルギー -2050年の展望』(東大出版会)『食料自給率の罠』(朝日新聞出版)『世界史の中の資本主義、エネルギー、食料、国家はどうなるのか』(東洋経済新報社、水野和夫と共編著)など。

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