2015.06.30

「尊厳死」議論の手前で問われるべきこと

安藤泰至 生命倫理

福祉 #尊厳死#安楽死

2012年3月、超党派の国会議員約140人から成る「尊厳死法制化を考える議員連盟」が「終末期の医療における患者の意志の尊重に関する法律案」を公にした。

国会への提出が検討されたものの、見送りになったまま現在に至っているが、これを機に、日本では「尊厳死法制化」をめぐる議論が活発に行われるようになった。

尊厳死法制化をめぐっては関連諸学会の内部だけでなく、学会の公開シンポジウムや市民団体等の主催シンポジウムなどでも広く議論されているものの、法制化を推進しようとする側とそれに反対する側とのあいだで議論がかみ合っているとはほとんど言えない状況が続いている。

その原因として「尊厳死」や「終末期」といった言葉の曖昧さが挙げられることも少なくない。しかし、単に個々の概念や用語が曖昧であるからそれらをしっかり定義してから議論すればよいという問題ではなく、安楽死や尊厳死をめぐる言葉の歴史的・社会的文脈やそうした言葉自体の性質によるところが大きい。

むしろそうした歴史的・社会的文脈や言葉の性質がほとんど意識、自覚されないままに、各論者が自分たちの主張に都合のいいような用語を使うことで、議論がかみ合わなくなってしまうことが多いように思われる。

小論では、安楽死や尊厳死をめぐる言葉を解きほぐすことによって、議論を混乱させるいくつかの要因を明らかにするとともに、終末期医療をめぐる現在の医療文化のなかで、私たちが真に議論すべき問題は「尊厳死」法制化をめぐる議論のもっと手前にあることを示してみたい。

日本における「尊厳死」の用法

「安楽死」や「尊厳死」という語に、世界共通の定義などはない。しかし現在の日本で「尊厳死」という語が用いられる場合には、患者本人の意思に基づく延命治療(措置)の手控えや中止を指すことが多い。

では、「延命治療」とはなにを指すのであろうか。一般的には、医学的治療によってはもはや回復が見込めず、患者のQOLを維持することもできなくなった状態(多くの場合、死が近づいた終末期の状態)において、生命だけを延長するための医学的措置(たとえば人工的な栄養・水分補給や人工呼吸器の装着・使用)について「延命治療」という言葉が使われている。

そして、こうした「延命治療」によってQOLがたいへん低いまま「生かされている」(「人工的に」「機械的に」といった形容がつくことも多い)状態は、その人の「人間としての尊厳」が奪われた状態であるとし、そうした医学的措置の手控えや中止によって「尊厳のある死」へと導く、というのが「尊厳死」という言葉で意味されていることの大枠である。

さて、日本の場合、「尊厳死と安楽死はまったく異なる」という主張がなされることが多い。尊厳死と安楽死を別のものとするこの理解は、尊厳死法制化推進勢力の中心である日本尊厳死協会の歴史から来ている。

1976年に設立した「日本安楽死協会」は、医師が薬物を注射して末期患者を死なせる安楽死の合法化を目指す団体であった。しかし、1983年に「日本尊厳死協会」と名称変更するともに、その方針をトーンダウンした。世論の反対などもふまえ、少なくとも当面は延命治療の手控えや中止の合法化に目標を定め直し、それを「尊厳死」と呼んだのである。

その後、同協会は「安楽死=積極的安楽死」/「尊厳死=延命治療の手控えや中止」として「安楽死と尊厳死はまったく異なるもの」という主張を重ねてきた。

つまり、「尊厳死」と「安楽死」についての上記の区別は、もともとは日本尊厳死協会という一市民団体の用語法にすぎないものの、現在日本ではかなり広く普及している。

安楽死や尊厳死をめぐる議論の歴史を知らない一般の人々は、「尊厳死と安楽死は異なる」というこうした理解が日本の尊厳死賛成派にほとんど特有の一つの「主張」であるということすらわからなくなってしまう。

後で述べるように、世界的に見れば「安楽死」と「尊厳死」のあいだには重なりが大きく、まったく同じとは言えないものの、両者は少なくとも位相を異にする概念であり、「安楽死」と「尊厳死」を対比するという発想はほとんど見られない。

しかし、「尊厳死」と「安楽死」の区別・対比が上記のような歴史を背景にもっていることが忘れられ、世界的にも通用する事実に関する説明や用語説明であると受け取られてしまうと、私たちはとんでもなく混乱する事態に陥ることになる。

もう一つの「尊厳死」

欧米では現在、医師が(必ずしも終末期とは限らない)患者に致死薬を処方し、患者がそれを飲んで自殺すること、すなわち医師幇助自殺(physician assisted suicide、PAS)の合法化がどんどん進みつつある。

世界ではじめて医師幇助自殺を合法化したのは米国オレゴン州(1997年)であったが、そこで成立した法律は「オレゴン州尊厳死法」という名称であった。

ここで明らかなのは、「尊厳死」という語が「医師幇助自殺」とイコールではないにしても、少なくともそれを含む形で用いられており、日本で言うような「延命治療の手控えや中止」とはまったく異なった行為を含む形で用いられているということだ。

もともと、世界的に「尊厳死(Death with Dignity)」という言葉が用いられるようになったきっかけとしては、1975~76年にかけてのカレン・アン・クインラン裁判(植物状態になったカレンの人工呼吸器取り外しを求める裁判で、患者本人の明確な意思表示がなかったことを除けば日本でいう「尊厳死」に近い)や、1981年の世界医師会総会で採択されたリスボン宣言における「尊厳を保ち、安楽に死を迎える権利」という文言にあると言われている。

しかし、少なくとも「尊厳死」という言葉が、日本尊厳死協会が言うような何らかの特定の行為を限定的に指して用いられているのではない、ということにはくれぐれも注意が必要だ。

たとえば、現在欧米において「尊厳死」という語はこの医師幇助自殺を指して言われることが多いのはたしかである。かと言って、「欧米の『尊厳死』は『医師幇助自殺』を指す」、「日本の『尊厳死』は『延命治療の手控えや中止』を指す」というような単純な対比はできないのも事実なのである。

実際、20年近く前にオレゴン州尊厳死法が成立した際も、最初から「尊厳死」をめぐる議論があったわけではなかった。合法化の是非をめぐって議論されていた「医師幇助自殺」について、その推進派の人たちが安楽死協会の意識調査などをもとに「尊厳死」という名称を選んだにすぎない。

同法の住民投票の前に行われた安楽死協会の意識調査では、他に「安楽死」「医師幇助による死」「致死薬処方による死」「医療処置による死」などの名称も候補に挙がったが、圧倒的多数で「尊厳死」が選ばれた(1)。

また、昨年、悪性の脳腫瘍を患った29歳の米国人女性(ブリタニー・メイナードさん)がこの医師幇助自殺を行うことをマスメディアを介して公に宣言し、その通り命を絶ったことは、日本でもかなり報道された(メイナードさんの住んでいたカリフォルニア州では医師幇助自殺は合法化されておらず、そのため彼女はオレゴン州に転居して処方を受けたが、メイナードさんのメディアでの訴えは、その他の州でのPAS合法化への議論を急速に進めた)。

その際、日本のほとんどのメディアは、これを「尊厳死宣言」「尊厳死」と報じた。なかには「安楽死」という表現をしたメディアも存在したが、日本で合法化の是非が議論になっている「尊厳死」との違いをきちんと指摘したのは少数で、安楽死・尊厳死をめぐる世界の状況のなかにそれを位置づけて解説したものは、筆者の知るかぎり皆無であった。

このように、たとえ日本国内で「尊厳死は延命治療の手控えや中止を指す」という限定や定義を行ったとしても、それをはみ出す「尊厳死」のニュースは世界中からどんどん入り続け、混乱が治まることはないだろう。

先にオレゴン州尊厳死法の成立について見たように、「尊厳死」という語は特定の行為を指すというよりはむしろある「イメージ」を伝える語であり、単に概念が曖昧だからきちんと定義すればよいという話ではなく、そうしたイメージがどのような行為にまで及んでいくかについて、言葉の政治学(ポリティクス)をふまえた別種の考察が必要なのである。

生命倫理学における(広義の)安楽死の分類

「安楽死」や「尊厳死」には世界共通の定義などはない。ただ、生命倫理学においてこうした問題が論じられる場合には、次のような区別、分類を行い、少なくともどういう行為についてその倫理的是非を問題にするのかをある程度定めた上で、議論が行われることが多い。

そこでは広い意味の安楽死(何らかの形で患者の死をもたらすか、それに直接つながる行為)は、以下の三つに分けられる(2)。

第一は「積極的安楽死」であり、医師が致死薬(通常は筋肉弛緩剤)を患者に注射して死に至らせる行為を指す。現在これが合法化されているのはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのいわゆるベネルクス三国であり[※1]、こうした行為が合法化されていない場合は、もちろん発覚すれば殺人罪に問われることになる。

[※1]南米の国・コロンビアでは独自の法律によってではないものの、憲法裁判所の判断によって事実上、積極的安楽死も医師幇助自殺も合法となっている。

第二は「医師幇助自殺(PAS)」であり、医師は致死薬(強力な睡眠薬)を処方し、患者はそれを飲んで自殺する。薬をいつ飲むか、あるいは飲まないのか(病状が悪化して飲めなくなることもある)は患者の自由である。患者が薬を飲むときに、医師が立ち会う場合もあればそうでない場合もある。

先に挙げた米国オレゴン州で最初に合法化され、その後、米国の他の州(ワシントン州、モンタナ州、バーモント州、ニューメキシコ州)やカナダのケベック州で合法化されている。

また、スイスでは、(医師に限らず)自殺幇助は以前から合法であり、自殺幇助サービスを旨とする団体が自由に活動している。積極的安楽死の場合と同じく、合法化されていない国や州でこのような行為を行ったことが発覚した場合には、自殺幇助罪に問われる。

第三は「消極的安楽死」であり、延命治療の手控えや中止を指す。積極的安楽死が「何かをすることによって死なせる」行為であるとすると、消極的安楽死は「何かをしないことによって死なせる」行為であるとも言える。

すでに述べたように日本ではこれを「尊厳死」と呼ぶことが多いが、欧米では「自然死」と呼ばれることも多い。たとえば、1976年、先に触れたカレン・アン・クインランの裁判をきっかけとしてリビングウィル(生前の意思表示)をもとにこうした延命治療を中止することを認める法律がカリフォルニア州で制定されたが、この法律は「自然死法」と呼ばれている。

現在、名称などは異なるものの、欧米の多くの国や州で消極的安楽死は合法化されている。ただ、積極的安楽死や医師幇助自殺の場合とは異なって、たとえ合法化されていない場合でも、医療現場では日常的に行われているものであり、安楽死の一つというよりは終末期における「治療の選択」の範囲内であるととらえられていることも多い。

また、「積極的安楽死」「医師幇助自殺」「消極的安楽死」のいずれの行為の合法化についても、基本的にはそれが患者本人の意思に基づくこと(死の自己決定権)、注射や処方、措置の担い手は医師であることが前提となっていることを付け加えておきたい。

さて、日本では第三の「消極的安楽死」を指して用いられる「尊厳死」という語が、現在欧米では第二の「医師幇助自殺」を指して用いられることが多いことを述べたが、「尊厳死」という語が第一の「積極的安楽死」をも含んで用いられる場合もある。

日本尊厳死協会による独特な用法(安楽死=積極的安楽死、尊厳死=消極的安楽死)とは異なって、「安楽死」と「尊厳死」というのは本来、その行為による形容ではなく、「行為の目的」による形容である。

すなわち、「安楽死」の目的は「(耐えがたい)苦痛からの解放」であり、「尊厳死」の目的は「人間としての尊厳を保つこと」である。耐えがたい苦痛に苛まれることで、人間としての尊厳が保たれない(と感じられる)状態になることは大いにあり得るので、「安楽死」と「尊厳死」が内容的にはかなり重なり合うことがわかるだろう。

ただ、植物状態などのように本人がまったく苦痛を訴えていなくても、人間としての尊厳が保たれない(と感じられる)こともあることを考えれば、「尊厳死」の方が「安楽死」よりも広い内容を指すとも言い得る。

このように、「安楽死」と「尊厳死」の主たる違いは、いわばその目的における強調点の違いである。指している内容がまったく同じであるとは言えないものの、別の内容を指すものとして両者を対比し、区別するというのは、言葉自体の意味からしても無理があるように思われる。

特定のイメージを伝える言葉としての「○○死」

以上述べたことで、「積極的安楽死」「医師幇助自殺」「消極的安楽死」といった「どういう行為によって死をもたらすのか」に基づいた区別がきちんとなされないまま、「安楽死」や「尊厳死」という言葉が使われると、いかに議論が混乱するかはおわかりいただけたであろう。

「尊厳死」という言葉が「安楽死」という言葉に比べて曖昧であるという指摘は以前から繰り返されてきた。たしかに、そこで何が行われるかではなくその目的だけに限って言えば、「安楽死」という言葉は「苦痛からの解放」における「苦痛」の存在がはっきりしているぶん、「尊厳とはいったい何か?」ということが曖昧な「尊厳死」よりは曖昧さが少ないと言えるかもしれない。

しかしながら、肉体的な苦痛だけではなく、精神的な苦痛もそこに含めて考えると、「安楽死」が曖昧でないとは言えない。そもそも、「安楽死(euthanasia)」という言葉の語源がギリシア語の「よい死」にあるということも記憶しておくべきだろう。

先に、「尊厳死」という言葉が何らかの内容を特定するというよりはむしろあるイメージを伝える言葉であると述べた。同じことが「安楽死」についても、「平穏死(3)」についても言える。また「自然死」という言葉も、「不審死」と対置されるような意味ではなく、欧米で日本の「尊厳死」に当たるような消極的安楽死を指して用いられる場合は、同じである。ここでは、「言葉のもつ性質」という観点からこのことについて分析してみたい。

「安楽死」「尊厳死」「平穏死」「自然死」といった言葉のもつ独特な性質とは何であろうか。このことを理解するためには、「○死」や「○○死」といった「死」の前にそれを形容、限定する語がついた他の言葉群と対比してみるのが手っ取り早い。

そのなかにはたとえば、「病死」、「事故死」、「自死」のように死をもたらした大まかな原因を示すもの、「がん死」のように死に至った病名や「水死(溺死)」「焼死」「窒息死」「圧死」「ショック死」などのように死をもたらした外的原因を特定するもの、「戦死」「震災死」「腹上死」のように死をもたらすことになった状況を示すものなどがある。

いま仮に、「安楽死」「尊厳死」「平穏死」「自然死」といった言葉をAグループ、「病死」、「事故死」などのそれ以外の言葉をBグループとしてみると、AグループとBグループの言葉の性質の違いはどこにあるだろうか。

第一に挙げられるのは、先にも述べたように、Aグループの言葉ではそれが指す内容が曖昧だという点だ。もちろん、Bグループの言葉についても、たとえば死亡原因の統計で用いられるような場合には分類や定義が違えば若干のずれはあるだろうが、その言葉で何を指しているかについてはほぼ一義的に決定できるだろう。

次に注目すべきことは、Aグループの言葉は死についてそれがどういう死であるかを形容し限定するだけでなく、そこでイメージされるような死を具体的に実現するための特定の行為を指して用いられるという点である。

「安楽死」は単に「安らかな死」を表しているのではなく、「安らかには死ねないような状況のもとで、安らかな死をもたらす」特定の行為を含んでいる。

「尊厳死」も単に「尊厳ある死」を表しているのではなく、「尊厳を保っては死ねないような状況のもとで、尊厳ある死をもたらす」特定の行為を含んでいる。「平穏死」や「自然死」についても同様である。こうした性質はBグループの言葉にはまったく見られない。

このことは、Aグループの言葉には見られてBグループの言葉には見られない第三の特質と深くつながっている。先に述べたことを別の言い方で置き換えてみれば、Aグループの言葉には、その前提としてまず、避けるべき「悪い死」のイメージがあり(苦痛に満ちた死、尊厳が失われた死、等々)、それを避けるために要請される特定の行為がありうべき「よい死」のイメージとセットになっているということでもある(4)。

また、死についての事実的形容だけではなくて、何らかの行為を含むことは、Aグループの「○○死」が倫理的な善悪や賛成・反対といった価値判断の対象になるのに対し、Bグループの言葉はそうではないという事実のなかにも現れている。

「孤独死」と対比させてみれば

事態をよりはっきりさせるために、ここでもう一つ別の言葉を取り上げて対比してみよう。近年よく使われるようになった「孤独死」という言葉である。「孤独死」はAグループの言葉なのだろうか、Bグループの言葉なのだろうか。

先の第一の性質について言えば、「孤独死」はAグループに近いように見える。単に死亡時に一人であるといった事実を示すためにこの言葉を使うのでない限りは、どういう死が「孤独」であるのか、誰が「孤独」だと感じるのか、といった内容はかなり曖昧であると言わざるを得ない。

他方、第二の性質については、「孤独死」はBグループに近いように見える。「孤独死」はどのように死を迎えたかについての単なる形容であり、それを実現するための(?)特定の行為を含んでいるわけではないからだ。

このように、「孤独死」がAグループにもBグループにも分類できないからくりは、先に述べた第三の性質について見ると、明らかになる。すなわち、「孤独死」という言葉は死についての事実的な形容というよりは、まさに避けるべき「悪い死」のイメージを伝えているからだ。

もちろん、人生においては一人でいる時間が一番長いのであるから「孤独死」を忌避するなどというのは馬鹿げているといった主張もあるが(5)、多くの人が「孤独死」という言葉に「悪い死」を重ねてイメージすることだろう。

このことは裏を返せば、「安楽死」「尊厳死」「平穏死」といった「○○死」については、その具体的な行為に対する賛否以前の段階でそれが「よい死」であるというイメージがはじめから植え込まれているということでもある。

当たり前のことのように思われるかもしれないが、このことは「安楽死」や「尊厳死」の是非についての議論が行われる際に、何が隠されてしまいがちなのか、本来問われるべきどのような問いが問われないままになってしまいがちなのか、というきわめて重要な問題に関わっている。

問われないままになってしまいがちな本来の問い

「孤独死」との対比をもう少し続けてみよう。もし「孤独死」が避けるべき「悪い死」であるとするならば、そうした死に方をしてしまう原因はどこにあるのだろうか。そして、そうした死を避けるために、私たちは個人として、社会としてどのような方策が必要なのだろうか。

もちろんこのことについての答えは一様ではないだろうが、少なくとも言えるのは次のことである。「孤独死」の原因を、実際に死を引き起こした病気(それも立派な原因の一つなのだが)に求める人はまずいないということ、その原因は基本的には人を「孤独死」させてしまうような社会のあり方、すなわち社会の歪みやその不備のなかに求められるということだ。

ところが、「安楽死」や「尊厳死」についての議論がなされるとき、そこで避けるべきものとしてイメージされているような「悪い死」をもらしている原因は何だろうか。

もちろん病気そのものやその病態は大きな要因の一つではあるが、患者の苦痛を共感的に理解し、それを緩和するための十分な医療ケアが欠けている場合も少なくないだろう。また、インフォームド・コンセントやそのために必要な医師や医療者と患者や家族とのあいだのコミュニケーションが十分でないことも大いにあり得る。

また「死」がそう遠くないことがかなり前から予測されているにもかかわららず、治療方針の転換が遅れたために「尊厳が奪われている」と感じるような延命治療を余儀なくされているというケースも少なくないだろう。

ケアの体制が十分でないために、時間をかければまだ自力で経口摂取可能な患者が人工栄養補給を始めざるを得ないこともあるのが実情だ。このように、医療やケアの側の不備や、そうした医療の「悪しき文化」を改善できないでいる社会の不備は、私たちが「悪い死」というイメージで思い描くような死に方の大きな要因をなしているのである(6)。

それにもかかわらず、「安楽死」や「尊厳死」が求められるような「悪い死」の原因として、多くの人々は(とりわけそれらを肯定する論者たちは)変えることのできない個人の病気や病態ばかりを挙げ、こうした変えていこうと思えば変えていける広い意味での社会的、環境的要因がきちんと問われないままになっていることが多い。

このことは、先に挙げた「孤独死」の場合には、もっぱら人を「孤独死」させないような社会を構築することが目指されるのに対し、そこでイメージされた「悪い死」に対する対処として、そうした「悪い死」の大きな要因となる医療や医療文化の改善ではなく、「安楽死」や「尊厳死」、「平穏死」といった個人による「死の自己決定」や「(延命)治療の拒否」が説かれるというある種の本末転倒のなかにもっともよく現れている[※2]。

[※2]日本で尊厳死法制化を進めようとする側の人々の間には、「(こうした法律や延命治療を拒否する患者の明確な意思表示がないかぎり)医師は限りなく延命を目指す」という根拠のない前提があるように思われることが多い。医師や医療提供者の側の態度に影響する関心や意向のなかには、救命・治療の義務や医療施設の収入のように「延命」の方向に働くものもあれば、治らない患者に対する無関心、医療費削減のように「延命」を抑止する方向に働くものもある(8)。

紙面も残り少なくなってきた。このことに関係して、最後に一つだけ、日本の「尊厳死」法制化賛成派の「死の自己決定(権)」言説における問題点に触れておきたい。本来、患者の自己決定権とは患者が生きる上での自己決定、すなわち十分な情報提供の上に立って、(自分の価値観や人生観に沿って)どのように生きたいかという患者の意思による治療法の選択に関わるものである。

死は人生の一部であり、「どのように死を迎えたいか」という意味での「死の自己決定権」(必ずしも「死ぬ権利」や「死を選ぶ権利」だけではない)はその延長線上にあると考えることができる。

しかしながら、現在の日本には欧米の「患者の権利法」に当たる法律はなく、医療における意思決定の主体としての患者を支える法的基盤がない。このように「どう生きるか」をめぐって患者の自己決定を支える医療文化が未成熟のままで、「どう死ぬか」をめぐる自己決定権だけがうんぬんされることはまさに本末転倒と言わざるを得ない(7)。

また、「インフォームド・コンセント」という言葉が、医師や医療者側からの十分な説明に基づいて「よく知った上での同意」という、本来の患者主体の意味ではなく、「医師が患者にインフォームド・コンセントをする」というように主客逆転した意味で用いられていることが少なくない日本において、なおさら強調されねばならないのは、そのような患者が主人公になり、患者が生きることを支える医療の文化を育成していくことにあるはずだ。

ちなみに筆者は「積極的安楽死」や「医師幇助自殺」に対してははっきり反対であるものの、「消極的安楽死」ないし「延命治療の手控えや中止」については、医師と患者、家族のあいだで十分なコミュニケーションが行われ、慎重かつ多面的に検討された結果、そのような決定がなされることに対しては反対ではない。

繰り返しになるが、それは現に医療の現場では少なからず行われていることであって、なにも「法制化」しなければできないことではない。「尊厳死」やその法制化について議論する前に、私たちにはやるべきことが山のようにあるはずだ。

【参考文献】

(1)久山亜耶子・岩田太「尊厳死と自己決定権-オレゴン州尊厳死法を題材に」、樋口範雄・土屋裕子編『生命倫理と法』弘文堂、2005年.所収

(2)安藤泰至「安楽死・尊厳死」、大澤真幸・吉見俊哉・鷲田清一編『現代社会学事典』弘文堂、2012年.所収

(3)石飛幸三『「平穏死」のすすめ』講談社、2013年. 長尾和宏『「平穏死 10の条件』ブックマン社、2012年.

(4)安藤泰至「死生学と生命倫理-「よい死」をめぐる言説を中心に-」、島薗進・竹内整一編『死生学〔1〕死生学とは何か』東京大学出版会、2008年.所収

(5)上野千鶴子『おひとりさまの老後』法研、2007年.

(6)安藤泰至・高橋都編『シリーズ生命倫理学4 終末期医療』丸善出版、2012年.特に第1章(安藤泰至)、第12章(安藤泰至・打出喜義)、第13章(高橋都)の論考を参照。

(7)児玉真美『死の自己決定権のゆくえ-尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』大月書店、2013年.

(8)立岩真也『良い死』筑摩書房、2008年.

プロフィール

安藤泰至生命倫理

鳥取大学医学部准教授。京都大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科博士後期課程2年修了。2000年より現職。日本学術会議連携会員・日本生命倫理学会理事・日本宗教学会理事。専門は宗教学・生命倫理・死生学。著書に『「いのちの思想」を掘り起こす-生命倫理の再生に向けて』(編著・岩波書店)、『シリーズ生命倫理学4 終末期医療』(高橋都との共編・丸善出版)、訳書にアリシア・ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(児玉真美との共訳・生活書院)など。

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