━━━━━━━━━ “α-Synodos”  vol.281(2020/11/15) ━━━━━━━━━ 〇はじめに いつもαシノドスをお読みいただきありがとうございます。編集長の芹沢一也です。αシノドス vol.281をお届けします。 最初の記事は、穂鷹知美さんの「カナダの移民政策とスイスの国民投票――社会はどのように移民を受け入れるのか?」です。カナダとスイス、どちらの国も移民の受け入れに成功しているイメージがあります。かたや、プラグマティックに自国の都合にマッチする移民を受け入れ、問題や不満が出にくいカナダと、かたや、国民投票という制度を使って、移民への不満のガス抜きをしているスイス。答えは一様でないことがよくわかります。 次の記事は、松村博行さんの「「米中デカップリング」はどのように進んでいるのか」です。トランプ政権下で、ハイテク・情報分野において、米国は大掛かりな脱中国化を進めてきました。たとえばファーウェイをめぐる報道は耳に新しいと思います。ではなぜ、米国はこうしたデカップリングを進めているのでしょうか? バイデン政権の動向を見据える上でも、必読の解説です。 コロナウィルスが流行する中、国民の生命を守るために国家が前面にせり出し、他国民の入国を制限し、さらにはロックダウンを行うのを目撃したとき、多くの人がホッブズと彼の主著『リヴァイアサン』を想起したと思います。近代という時代の劈頭にあって、国家の役割は「人民の安全を確保することである」と明言したホッブズとはどのような思想家だったのでしょうか? 梅田百合香さんの「不測の未来と政治の時間性――ホッブズとトゥキュディデスの視点」です。 「イクメン」という人口に膾炙し、また男性育休をうながす制度も整いつつあるのに、じっさいに育休を取得する男性はまだ少数派です。ではなぜ、男性育休は普及しないのでしょうか? この問いに、「職場の雰囲気」と「時間意識」から挑んだのが、齋藤早苗さんの「男性育休の困難」です。斎藤さんが明らかにした問題の所在と、その解決法は、子どものいる男性や女性にかぎらず、すべての国民にとっての関心事だと思います。 コロナウィルスの流行の終息がまったく見通せない中、人びとの生活には大きな変化がいろいろと現れています。今回の平井和也さんのレポートは日常生活やビジネスに生じている変化をレポートします。意外だったのは、首都圏で、とくに女性の間でウクレレが売れているとのことでした。巣ごもりに習い事はぴったりですし、練習によって上達が目に見えて分かる楽器演奏は楽しいですよね。 最後は、石川義正さんの「東日本大震災以降の「崇高」(下)──現代日本「動物」文学案内(6)」です。前回に続き、今回も山尾悠子の幻想小説『飛ぶ孔雀』を取り上げます。ウィリアム・ベックフォードの『ヴェテック』にみられる「裂け目」と絡めながら、今回は2010年代の日本社会の姿を照射します。ここ10年間の日本社会が抱え込んだ「裂け目」とはいかなるものだったのか? 次号は12月15日配信です。お楽しみに! ━━━━━━━━━ Chapter-01 カナダの移民政策とスイスの国民投票――社会はどのように移民を受け入れるのか? 穂鷹知美 ━━━━━━━━━ カナダには毎年約30万人以上の移民や難民が入国していますが、ダリル・ブリッカー Darrell Brickerとジョン・イビットソン John Ibbitsonの共著 《Empty planet. The Shock of Global Population Decline, London 2019》(邦題『2050年 世界人口大減少』文藝春秋、2020年)によると、移民と社会の摩擦が少なく、インテグレーション(社会への統合)が平和裡に進行しているといいます。 これは注目に値します。世界を見渡せば、移民の流入を厳しく制限しようとするか、あるいは移民が入ったことで排外主義的な動きが過敏になり、たびたび不穏な動きがでてくる傾向が圧倒的に目立つためです。カナダはほかの国が真似できない特別な国なのでしょうか。それとも、ほかの国々の未来の姿を先取りしているのでしょうか。 こんな素朴な疑問を出発点にして、本稿では、移民を受け入れる社会の側に改めて目を向け、若干考察してみたいと思います。具体的には、最初に前掲書をもとにカナダの移民政策を概観し、その後ヨーロッパに視線を移し、小国スイスをクローズアップし考察をつづけてみます。 スイスはカナダ同様に移民の割合が高い国ですが、国民投票という政治制度が、移民を社会が受容するプロセスで効果的な役割を果たしているという見解が、近年、広く定着しています。移民にどう向き合うかという古くて新しい問題領域への切り込み方として、移民問題と無関係にみえる政治制度に着目するという、このような視点は、世界的にもユニークかつ斬新であるため、具体的にどのようにそれが社会で機能しているかを、政治学者の意見や主要メディアの説明を紹介しながら、明らかにしていきます。 最後に、背景も移民受け入れのアプローチも大きく異なるカナダとスイスという国における共通点について考えてみます。小稿で、二国の移民をめぐる多様な側面の一断面に注視するだけで、一般化したりモデルを抽出することはもちろん不可能ですが、共通点をさぐることで、移民のインテグレーションにおいて定評がある二つの国の、リアリズムにもとづくメッセージを読みとっていただければと思います。 ◇カナダの移民政策 上掲本で、カナダが移民政策で優れている理由・背景とされているものは、主に二つあります。 ・自国優先の移民政策 まず一つ目は、自国の利益を優先した移民政策のあり方です。カナダの永住権を取得する人々のうち、難民として入国する人はわずか1割程度にすぎず、9割、つまり大部分の移民は、教育水準や仕事のスキル、語学力などをポイント制で評価され、カナダという国に貢献する資質をもつと認定された人たちです。つまり、カナダへの移住者の圧倒的多数は、カナダの「全く自分中心の理由」(Bricker /Ibbitson, 2019, p.210)で入国を許された人たちだといいます。 このように移民を経済政策の一手段と位置づけ、カナダ流の合理的・プラグマティックな観点から移民を自ら選抜することで、自国の都合にマッチングしやすくすることで、受け入れ側のカナダに問題や不満がでにくくなる、と著者はいいます。 ・カナダの国民気質 カナダの移民政策がうまくいっているもう一つの重要な理由・根拠とされているのが、カナダの国民気質です。 カナダは国を横断する絆がなく、もともとの出身地のコミュニティや絆を保たれてる「マルチカルチュラルなごちゃまぜ」(Ibid., p.218)の様相であることが特徴で、「国家としてカナダを凝り固めることができないという、まさにそのことが、ポストナショナルな国家としての成功の秘訣となった」(Ibid. p.219.)とされます。つまり、ほかの国に比べ共同体としての求心力はない代わりに、強い国民としての独自の気質をもたないことが、「世界で多様でかつ平和で調和のとれた国」(Ibid. p.219)になることを可能にしたという解釈です。 ここ数十年間、カナダは主要先進国の間で最も外国人を受け入れてきて、すでに総人口の20%は外国生まれですが、犯罪は増えていません。例えば、トロントは260万人の人口の半分が外国生まれですが、2015年の1年間で起きた殺人事件件数は60件以下で、「世界で8番目に治安のよい都市」とされます(Ibid. p.208-209))。 移民が暮らしやすい多文化共生社会ができていることが、さらに移住希望者を惹きつけ、優秀な移民、必要な技能をもつ移民の受け入れを容易にしており、総じてカナダでは、現在、カナダ人より学歴が高く、平均して7歳若い移民たちが、社会や経済の重要な一翼を担っています。 ◇ヨーロッパがカナダを真似できない理由 一方、著者は、ほかの国がカナダを真似するのは簡単ではない、と釘をさします。というのも、カナダをみると、「国がナショナリスティックでないほど、移民の受け入れは容易である。文化が弱いほど、マルチカルチュラリズムを奨励するのは簡単になる。自分(たち)の感覚が弱いほど、他者が別だという感覚も弱い」(Ibid., p.224.)とみえるものの、世界にはむしろ、そうでないようにみえる国のほうが多いためです。それぞれが自分の出生地の文化を尊重することを認めるマルチカルチュラリズム(多文化主義)がなければ、移民受け入れで問題が引き起こるのが不可避と著者は言います。 さてここからは本書を離れ、ヨーロッパに視線を移します。たしかに著者が言うように、カナダのような移民政策をヨーロッパで導入して成功すると思っている人はいないようにみえます。カナダとは対照的に、ヨーロッパでは、移民を受け入れることに対する不信感・嫌悪感・抵抗感が社会に広くあり、それがネック(移民受け入れの障害)となっているように思われます。 移民が入ってくることで自分の仕事が奪われるのでは、あるいは安い賃金での雇用を強いられるのではといった就労環境悪化への危惧。移民が増えて社会保障費用が増加したり、文化や宗教的な圧迫感や摩擦や衝突、犯罪が増えるのではという不安。それでも政府が強硬に移民枠を押し広げて、受け入れれば、外国出身者への排斥主義が強く刺激されることになり、急進派や過激派が暴走したり、移民賛成と反対とに社会が分断されるのでは、という悲観的展望も、移民の受け入れにブレーキをかけているように思います。 ◇スイスの移民をめぐる状況 ただし、ヨーロッパのなかでも、小国スイスをズームアップしてみると、悲観一色に染まらない少し違った印象をうけます。 スイスは移民の割合が非常に高い国です。在住者で、外国で生まれた人の割合は29.0%と、ほかの主要なヨーロッパの国(ドイツ16.0%、フランス12.5%、イギリス13.8%、スウェーデン18.8%)と比べると突出しており、移民大国を自認するオーストラリア(27.7%)や、ニュージーランド(23.3%)、アメリカ(13.6%)、カナダ(20.8%)よりも高くなっています(OECD, 2019, p.39-42.)。 https://synodos.jp/wp/wp-content/uploads/2020/11/hotaka01.png 出典: OECD (2019), International Migration Outlook 2019, Paris, p.41. https://www.oecd-ilibrary.org/docserver/c3e35eec-en.pdf?expires=1597049111&id=id&accname=guest&checksum=A9C159B39F039849F4418EDBEB75CEF1 移民的背景をもつ人(現在の国籍に関係なく、当人の親のどちらかあるいは両方が外国に生まれた人)の割合でみると、15歳以上のスイス在住者の37.5%にまでなります。 一方、スイスには移民だけが集住する地域はなく、移民関連の事件や暴動(難民や移民への暴力や、排斥主義をかかげる勢力の不穏な動き、あるいは移民的背景の住民による反社会的暴動やテロ行為など)も、隣国のフランスやドイツに比べ圧倒的に少なくなっています。例えば、移民排斥の言動の中心的な存在である右翼過激派が関わった暴力事件は、スイス全体で、2016年2件、2017年1件、2018年は0件にとどまっています(Federal Intelligence Service, 2019, p.55.)。 移民や難民が孤立し、対立が深まっているという見解は、社会でも一般的に共有されていません。「なぜほかのヨーロッパの隣国よりもスイスのほうが、インテグレーションがうまくいっているのか」(Beglinger, 2016)と主要メディアの紙面で議論されているのも、移民との共存がかなりうまくいっているという理解が、前提として共有されているためでしょう。 スイスの住民と移民が平和裡に共存しているという理解は、とりわけ若い世代に強くなっています。義務教育課程に就学する生徒に限定すると、すでに過半数以上が移民的背景をもっており、若者の考えやライフスタイルを探る国際比較調査『若者バロメーター2018』によると、2010年以後、全体に外国人を、問題が少ない、問題が全くない、あるいは外国人がいるのがむしろメリットだ、と回答した若者の割合は、難民危機となった2015年をのぞき、ゆるやかに増えており、2018年には65%に達しています(穂鷹「若者」)。 総じて、スイスは、移民が多いにも関わらず、おおむね平和裡に社会で移民とスイス人が共存している国という評価が内外で一般的です。 ◇スイスの国民投票制度という、移民問題を考えるユニークな切り口 スイスで移民のインテグレーションが成功する背景として、よく指摘されるのが体系的な職業教育制度です(穂鷹「職業教育」、「スイスの職業教育」)。中卒から本格的に始まる職業教育のおかげで、移民的背景をもつ生徒も高い就労能力を身につけ、安定した職業につきやすくなると定評があります。スイス、アメリカ、イタリア、スウェーデンの4カ国を比較した最新の調査でも、スイスは子供の将来の収入が親の収入にもっとも関係性が低く、低所得者層の子供たちでも収入が多い仕事につけるチャンスが大きい国と位置付けられています(Chuard et al., 2020)。 他方、国民投票という政治制度もまた、移民の受け入れをスムースにするのに間接的に貢献しているという見解が、現在広く支持されています。 スイスの国民投票制度について簡単におさえておくと、国民投票は「イニシアティブ(国民発議)」と「レファレンダム」という二つの種類があります。イニシアティブとは、連邦憲法改正案を提案し、その是非を可決するもので、有権者の10万人の署名を18カ月以内に集めることができれば、誰でもイニシアティブを提案し、国民投票に持ち込むことができます。 原則としてイニシアティブとして成立したものは、明らかに違法なものでないかぎり、すべて国民投票にかけられます。これに対し、「レファレンダム」はすでに存在する法律や憲法に関するもので、連邦議会で通過した法律について、100日以内に5万人分の署名を集めれば、国民投票にかけることができます(「(随意の)レファレンダム」)。ほかにも、憲法を改正する際は国民の承認が不可欠なため、自動的に実施されることになっています(「強制的レファレンダム」)。スイスでは、年に平均四回、国民投票が実施され、毎回平均3から4件の案件が採決されています(国民投票の詳細については、穂鷹「牛の角」を参照)。 ◇国民投票で吐露される移民への排外的な感情や不安 ところで、これまでスイスの国民投票における移民に関連するテーマをめぐっては、ヨーロッパのほかの国から、スイスの排外主義的な傾向を如実に示している、とたびたび批判され、逆に極右勢力からは、賞賛されてきました。例えば、イスラム教寺院のミナレット(塔)の建設禁止を可決した際や(2009年)、移民数の制限案(2014年)が可決された際、隣国からの痛烈な批判を受けました。 これまで、移民規制の国民投票を先導してきた国民党のポスターやビデオでは、移民や外国を敵対視するあからさまで挑発的な表現が繰り返されてきたため、スイスの排外主義的な思想のあらわれだと受け止められやすかったのだと思われます。 https://synodos.jp/wp/wp-content/uploads/2020/11/hotaka02.jpg 移民の入国や滞在についての規制強化を訴える国民党ポスターの例 (外国人排斥的な意識をどう測り、どう判断するかは議論の余地が大いにあるところでしょうが)確かに、全般にスイス社会に移民に対する不信感が根強くあり、それが国民投票の議案ににじみでている、とする見方は理解できますし、実際にあながちまちがってはいないでしょう。 1970年から2010年までの国民投票で、移民の管理や規制強化、国籍取得など、移民をどこまで、どのように自国に受け入れるかということテーマにした議案が、27回もだされており(Brunner et al., 2018)、毎回投票のたびに、移民が国家上の重要な「問題」で、なんらかの規制の対象とすべきという主張が声高に叫ばれてきたこと(それに反対する意見もまた同じように反対陣営に主張されていましたが)。 そして、このような移民問題を政治的関心の中心におき、移民を規制する議案を国民投票に繰り返し提出してきた国民党が、2003 年以降今日までスイスで最大の政党であること。また、現在もそのような排外主義的国民投票は過去形ではなく、今年9月27日にも再び、EUからの外国人移民の受け入れや自由な移動を規制可能にするよう求める国民投票「節度ある移民受け入れのために」(通称「制限イニシアティブ」)が実施されたこと。 これらをふまえれば、スイスの反移民の感情は今も社会に根強くあり、国民投票がそのような国民の感情の一端を如実に映し出しているようにみえます。 ◇スイスでの国民投票への理解 その一方で、同じ国民投票が排外主義的な動きを抑制する安全弁の役割を果たし、移民政策を安定的に推移させる重要なプロセスとなっているという見方もまた、現在、広く定着しています。 例えば、政治学者でベルン大学教授のビュールマンMarc Bühlmannは、国民の間に移民が制御不能になるのではという「不安は実際に存在する」ことを認め、「問題を明るみに出し、それを整理するのが」任務である政党が、国民投票などの機会を通じて、「人々の不安をすくいとり、「あなたのために問題に取り組み、あなたの声を代弁する」と訴えかければ、市民は自分たちの不安が真剣に受け止められていると感じる」とします。そして、このように、人々の不安をなかったかのように否定するのではなく、むしろ表面化・組織化させる装置として働き、そのプロセスを追うことで、国民も問題を客観的にとらえることができるようになるとします(Renat, 2020)。 逆に、このような国民投票がなければ、政党が不安をすくいあげ、正当に評価することが難しくなるため、「極右政党がここぞとばかりに名乗りを上げ、人々の不安を激しい怒りに変える可能性」につながりやすくなることを意味し、つまり、ドイツやフランスで『ドイツのための選択肢(AfD)』や『国民連合』といった極右や排斥主義の動きが社会で目立ち、頻繁に暴力沙汰や衝突も起こしていることは、まさに、スイスと反対の展開になっていると考えます(Renat, 2020)。 スイスドイツ語圏で最もポピュラーな日曜新聞『ゾンターグスツァイトゥンク』には、9月の移民制限を議案にした国民投票を前に、以下のような意見が示されていました。 移民問題をテーマにする国民投票は、「そうでもしないと人があまり話したがらない国内の問題を、議論する機会を提供している」。そのような議論が「起こることは、少なくとも、投票結果自体と同じくらい重要だ。そしてこれこそ、われわれの直接民主主義システムの強みなのだ」。 「移民問題に関わり、これについて言い争うことは確かにやっかいだ。いたるところ落とし穴だらけで危険がひそむ。ひとことでもまちがった言葉を使えば、それだけで面目を失いかねない。このため、このことにできれば話したくないと思う人が多いのは理解できる。しかし、それは破滅的な結果をもたらしかねない。フラストレーションがどんどんたまたっていき、まったく予期せぬ方向に向かうかもしれない。」それゆえ、9月の国民投票は、「不都合でやっかいであっても、討議するための招待状のようなものであり、この機会を我々は利用すべきだろう」(Bandle, Wer, 2020) 高級紙として名高い日刊紙『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥンク』でも、「よく考えれば、政党があきもせず、少し違う内容でいつも同じ戦いをすることは驚くべきことだ。しかしそれは、スイスが何度も自分でそれを確かめるため、このような対決(論争)をスイスが必要としていたということなのであろう」(Bernet, 2020)と記し、人々が国の政策を自分なりに消化・理解するのに不可欠のプロセスを国民投票が提供している、という見解を示しています。 ◇ハイリスク、ハイリターンの国民投票 このような国民投票をめぐる解釈は逆説的です。一見、国民投票は、大々的なポスターやキャンペーンで排外主義的な意見を世論に訴え、不安をあおる装置となっているようにみえます。しかし、そのような排外主義的な感情をあえて取り上げ、国内中でやんややんやと議論し、それとの反対意見と対比させていくことで、人々の不満や不安を払拭したり、見方を相対化していく。 そして、最後に国民投票でひとつの決着をつけることで、白熱する議論に一旦終止符を打つ。このようなプロセスを何度も繰り返すことで、排外主義的な思想を多くの国民心理に深く定着・普及させるのでなく、むしろ社会の二極化や対立化の予防に寄与するというのです。 もちろん、国民投票は、一方で重要な政策決定システムであり、政府が社会のガス抜き効果だけを期待して、気楽に重宝できるような無害な代物や儀礼的な(形だけの)承認制度ではありません。社会がそれまで築き上げてきたものをゼロに置き換えたり、混乱に陥れる危険すらあるという意味では、常に政治上の「爆弾」を抱えているようなものですらあります。 例えば、今年9月に実施された移民の流入の制限を問う国民投票でも、もし制限されるほうに可決されれば、人の移動の自由を互いに保証するEU との関係が大転換するかもしれず、その社会的な影響がはかりしれない、と危惧する声が少なくありませんでした(圧倒的多数で制限する提案が否決されたため、もし可決されていた場合に実際どうなっていたのかはわかりませんが)。 しかし逆に言えば、それほどスイスの政治システムで重要な権限をもつ国民投票であるからこそ、国をあげて真剣な議論が必要となり、普段、目をそらしていた問題やそれを訴える人たちにも脚光があたり、人々に不満や無気力さをためこませるかわりに、自身が決断し投票する権利があるという意識を強めさせ、最終的に自分も参加した投票結果に対しては、たとえ自分が不服とするものでも、それを不当とせず受け入れやすくなる、ということなのだと思われます。 ◇国民投票の非合法勢力や行為を抑制する効果 国民投票は長期的に、社会に不満をためないための安全弁になっているだけでなく、人々が不正行為や非合法な運動に走ることを、未然に排除・抑制するという副次的な効果ももっていると考えられます。 政治学者グッケンベルガーは、国民投票は、誰も、またなにも排除されず政治に参加できるが、逆に言えば、参加したい人は誰でも「ほかの人に聴いてもらいたければ、自分の主張を、他人にもわかるように表明しなければならなくなる」(Guggenberger, 2007, 124.)ため、極右などの政治的な過激派の勢力を押さえる効果をもつとします。 人々に不安や不穏を感じさせる発言や暴力行動を起こせば、国民の多数派の信任をとりつけることはできないため、国民投票に参加するどの勢力も、正規の合法的な枠組みのなかでの戦略に終始します。上のポスターのような過激な表現もみられますが、スイスの合法の範囲内です。 そのような常軌を逸しない「お行儀のいい」態度は投票後にもつづきます。投票結果で負けに帰しても、投票結果を尊重することは絶対であり、もしそれを不当と否認したり、自分の主張をそれでも正しいと通そうとすれば、スイス国民全体を敵にまわすか、未来永劫、人々からの信頼を決定的に失う、あるいはその両方になるためです。それほど国民投票は、スイス人にとって国の政治決定の最高権威で不可侵の「神聖」なものです。 結果として国民投票に不服でも、暴力のような非合法手段には向かわず、むしろ次回の国民投票という合法的な政治手段で今度こそ勝利を手にしようという、合法的なステップへと駆りたてられます。換言すれば、移民制限に関わる国民投票が何度も繰り返し行われてきたのは、スイスの排外主義が非合法なルートをとおるのではなく、合法なルートを通ってその正当性を社会に訴えようとした軌跡だといえるでしょう。 ◇おわりに 〜カナダとスイスの共通点 カナダでは自国の利害を移民政策に反映させていることを隠すどころか、むしろ、移民政策において重要なことと認めていました。これについて、著者は以下のように記しています。 「おおむね、効果的な公共政策は、集団的な自己の興味を反映させる。つまり、すべての人にとっていいものである(べきだ)。これは、とりわけ難民や移民について当てはまる。」(Bricker et al., 2019, p.211) 「もちろんわたしたちは共感もするし、もちろん利他主義的な理由で行動もする。ただし、「なぜ自分はこんな犠牲を払わなくちゃいけないのだ。わたしやわたしの家族にとってこのなかにはなんの意味があるのか」と、自問自答をしはじめる前に、それが正しいことである時にしかできない」 (Ibid., p.210) スイスでは、移民関連の議案が国民投票にかけられる際、是非をめぐり、きれいごとや、表面的な議論ですまさず、自分たちの利害やエゴに裏打ちされた長所短所を並べたて、激しく議論します。投票結果によっては政策の大きな転換を余儀なくされ、社会の混乱をまねきかねませんが、それでも人々のエゴや不安を素通りせず真剣に扱い、最後は採決の結果を尊重するという政治プロセスがありました。 つまり、どちらの国でも、国民の関心や利益を重視する姿勢を躊躇せず明確に示し、国民がもちうる不安や都合を看過しないことを、移民受け入れの不可欠条件・前提とし、実際にそれを行使・担保するしくみがあるということが共通していました。 移民の社会へのインテグレーションは、移民側だけの努力で成せるものでは無論なく、移民の受け入れ側である社会にも、感情的な議論に押し流されず、偏見や根拠のない嫌悪感を相対化し、移民を受け入れる準備や合意を形成していくことが不可欠です。 それはいかになし得るのでしょうか。この答えは、移民を受け入れる国や地域がそれぞれの社会的文脈のなかで、模索し、常に修正されていくものであるしょうが、カナダとスイスはそれぞれ全く違うアプローチをとりながらも、手応えのあるヒントをわたしたちに示してくれているように思えます。 参考文献 ・穂鷹知美「牛の角をめぐる国民投票 〜スイスの直接民主制とスイスの政治文化をわかりやすく学ぶ」、日本ネット輸出入協会、2018年1月19日 https://jneia.org/181119-2/」 ・穂鷹知美「職業教育とインテグレーション――スイスとスウェーデンにおける移民の就労環境の比較」『シノドス 』2017年11月1日 https://synodos.jp/international/20639 ・穂鷹知美「スイスの職業教育――中卒ではじまる職業訓練と高等教育の役割」『α-Synodos』vol.273(2020年3月15日) ・穂鷹知美「ヨーロッパにおける難民のインテグレーション 〜ドイツ語圏を例に」、日本ネット輸出入協会、2016年4月14日 https://jneia.org/160414-2/ ・穂鷹知美「若者たちの世界観、若者たちからみえてくる現代という時代 〜国際比較調査『若者バロメーター2018』を手がかりに」、日本ネット輸出入協会、2018年10月29日 https://jneia.org/181029-2/ ・Bundesamt für Statistik (BfS), Schweizerische Eigdenossenschaft, Bevölkerung nach Migrationsstatus(2020年10月13日閲覧) https://www.bfs.admin.ch/bfs/de/home/statistiken/bevoelkerung/migration-integration/nach-migrationsstatuts.html ・Bandle, Rico, «Es sollte Integrationskurse für Schweizer geben» Migrationsforscher Ganda Jey Aratnam über die Begrenzungsinitiative - und weshalb sich die Einwanderung in die Schweiz nicht mehr stoppen lässt. In: Sonntagszeitung, 9.8.2020, S.11-13. ・Bandle, Rico, Wer die Einwanderung tabuisiert, schadet dem Land. Bei der Migration sind viele Probleme unglöst. Die Begrenzungsinitiative bietet die Chance, darüber zu diskutieren. In: Sonntagszeitung, 9.8.2020, S.17. ・Begliner, Martin, Lob der Mehrheitsgesellschaft. Warum die Integration in der Schweiz besser funktioniert als in vielen europäischen Nachbarländern. Bis jetzt. Kommentar. In: NZZ, 26.1.2016. https://www.nzz.ch/meinung/kommentare/lob-der-mehrheitsgesellschaft-ld.4515 ・Brunner, Beatrice/Kuhn, Andreas, Immigration, Cultural Distance and Natives' Attitudes Towards Immigrants: Evidence from Swiss Voting Results. In: KYKLOS ,Vol. 71 – February 2018 – No. 1, pp. 28–58. ・Brühlmann, Kevin, Die Eisenjugend ist weiter aktiv. In: Tages-Anzeiger, 12.8.2020, S.17. ・Bernet, Luzi, Der 17. Mai wird zur Stunde null in der Europapolitik. In: NZZ am Sonntag, 16.2.2020, S.15. ・Bricker, Darrell/ Ibbitson, John, Empty planet. 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Von der Eröffnung des Gotthardtunnels bis zur Personalfreizüzigkeit: In kaum ein Land migrieren anteilsmässig so viele Menschen wie in die Schweiz und Fakten zu einem politischen Dauerbrenner, zusammengestellt von Rico Bandle. In: Sonntagszeitung, 9.8.2020, S.14-15. =============== 穂鷹知美(ほたか・ともみ) ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてドイツ、ライプツィヒ大学留学。学習院大学人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(環境文化史)を経て、2006年から、スイス、ヴィンタートゥア市 Winterthur 在住。日本ネット輸出入協会海外コラムニスト、スイスの遊具レンタル館スタッフ。地域ボランティアとメディア分析をしながら、ヨーロッパ(特にドイツ語圏)をスイスで定点観測中。主な活動フィールドは、 異世代および異文化間コミュニケーション、ソーシャル・ゲーミフィケーション。主著『都市と緑:近代ドイツの緑化文化』(2004年、山川出版社) =============== ━━━━━━━━━ Chapter-02 「米中デカップリング」はどのように進んでいるのか 松村博行 ━━━━━━━━━ ◇はじめに 米中経済摩擦が激化するなかで、デカップリング(分断・切り離し)という言葉に接することが増えた。世界最大手の政治リスク専門コンサルティング会社であるユーラシアグループは、毎年、世界の「10大リスク」を発表しているが、2020年の「10大リスク」の第2位に「超大国のデカップリング」を挙げている。そこでは、「テクノロジー領域における米中のデカップリングは、ソビエト連邦の崩壊以来、グローバリゼーションにとって最も影響の大きい地政学的変化である」と、国際社会におけるそのインパクトの大きさを強調している(注1)。 実際に、米国は2018年以降、米中間のモノ・カネ・ヒト・技術・情報の流れを大幅に制限する政策を次々と打ち出すことでデカップリングを進めているように見える。これに対し、中国の李克強首相は「2大経済体を人為的に切り離そうとしても現実的ではないし、不可能だ」と述べ、米国の強硬的な姿勢をけん制した(注2)。 たしかに、米中両国が貿易や投資をゼロにしたり、人の往来を遮断したりするという想定は極めて非現実的であろう。そのような意味でのデカップリングはありそうにない。しかし、ハイテクおよび情報の分野において米国はかなり大掛かりな脱中国化を進めつつある。 なぜ、米国は技術、情報分野のデカップリングを進めるのだろうか。また、それは米国経済や世界経済にいかなる影響を与えるのだろうか。 ◇米中経済関係の深化 最初に、両国の「カップリング(結合)」がどのように進んだのかを簡単に振り返っておこう。 第2次世界大戦後の米国と中国との技術を巡る結びつきは1979年の米中国交正常化以降に始まるが、関係が深まり始めたのは冷戦終結後である。クリントン政権は、中国の経済発展や国際経済秩序への統合を支援することを通じて、民主化や自由化といった同国の国内体制の中長期的な変化を期待する「関与政策」を推し進めた。また、クリントン政権は成長が期待される中国市場への輸出の機会を拡大することで商業的利益を確保することを優先し、中国への輸出規制を大幅に緩和した(注3)。 その後、両国の貿易額は年々増加し、米企業の対中直接投資も拡大するなど、経済関係は次第に深化する。2000年代には、中国との貿易拡大による国内人件費の押し下げ、そして知的財産や雇用の流出が問題視されるようになったが、他方で中国市場へのアクセスで利益を得ていた大企業や、中国人熟練労働者を活用することで競争力を維持していたハイテク企業などは中国との経済関係の深化を求めた(注4)。 ◇デカップリングへの助走 しかし、オバマ政権2期目に米国の対中観は大きく変化し始める。とりわけ、2012年に習近平氏が国家最高指導者に就任して以降、経済に対する共産党の影響力強化など、国家・党と経済の関係が懸念されるようになった。またこの頃から、技術取得を巡る中国の振る舞いに対する不満が広く共有されるようになった。 まず、2013年頃から米国の軍事技術の窃取を目的とした中国によるものとみられるサイバー攻撃が多発、報道を通じて米国で広く認知されるようになった。その後、サイバー攻撃のターゲットが米企業の技術や機密情報にまで広がるにつれて政府や議会における対中警戒感が高まった。これを受けてオバマ大統領は2015年に行われた米中首脳会談でサイバー攻撃や産業スパイを議題に上げて習氏の対応を強く求めた。また、この会談に先立ち、サイバー攻撃に関与した海外の個人・団体を制裁できるようにする大統領令に署名するなど(注5)、新しい対抗措置を設定することで中国に対する圧力を強めた。 ただし、オバマ政権はグローバルレベルの諸問題解決のために中国との協力の余地を探る努力も続けており、総じていえば中国に対する警戒水準を高めつつも、技術領域での競争が全面的にゼロサムではないということを前提に是々非々の対応を取っていた(注6)。 ◇技術分野のデカップリング これに対し、トランプ政権は2017年に発表した「国家安全保障戦略(NSS 2017)」で、毎年数千億ドルの価値がある米国の知的財産を窃取していると中国を名指しで批判して以降、中国とのデカップリングを一貫して進めてきた。 2018年8月に成立した「2019年国防権限法(NDAA 2019)」はその取り組みが包括的に盛り込まれたものであり、ここでは(1)輸出管理を強化する「輸出管理改革法(ECRA)」、(2)外国企業の対米投資を審査する対米外国投資委員会(CFIUS)の権限を拡大・強化する「外国投資リスク審査現代化法(FIRRMA)」、(3)ファーウェイ(華為技術)、ZTE(中興通訊)などの中国企業が製造する通信機器等の政府調達からの排除、などが含まれていた。ちなみに、同法が全会一致で成立していることは、中国への規制強化が政府のみならず議会でも幅広く支持されていることを物語っている。 以下、それぞれの詳細について説明する。 (1)ECRAは新たな輸出管理の対象として、発展途上の新技術である「新興技術(emerging technologies)」と、成熟した技術ではあるが安全保障上重要とみなされる「基盤的技術(foundational technologies)」とを追加した。ECRAは新興技術の具体的な特定を商務省などに義務付けたため、商務省産業安全保障局(BIS)はその範囲特定のためにパブリックコメントを募集する際、①バイオテクノロジー、②人工知能(AI)および機械学習技術、③測位技術、④マイクロプロセッサ技術、⑤先端コンピューティング技術、⑥データ分析技術、⑦量子情報・量子センシング技術、⑧ロジスティック技術、⑨付加製造技術(3Dプリンターなど)、⑩ロボット工学、⑪脳コンピュータ・インターフェイス、⑫極超音速、⑬先端材料、⑭先端監視技術の14領域を代表的なカテゴリとして列挙した(注7)。 (2)従来、CFIUSが審査対象としていたのは、安全保障上の観点から懸念がある、外国企業等による米国企業への支配をおよぼす投資であった。審査の結果、CFIUSが安全保障上の懸念があると判断した場合には大統領に勧告し、大統領が中止命令を下すかどうか判断する。FIRRMAはこの仕組みの強化を狙っており、「投資」の範囲を支配権の獲得を目指さない投資にまで拡大、さらに重要インフラや米国人の機微な個人情報を有する企業への投資等も新たに審査対象として指定された。ECRAもFIRRMAも特定の国家を対象としたものではないが、それまでの経緯から中国を念頭に置いた措置であることは明らかであった。 (3)ファーウェイ、ZTEだけでなく、NDAA2019は監視カメラ大手の杭州海康威視数字技術(ハイクビジョン)と浙江大華技術(ダーファ・テクノロジー)、そして海能達通信(ハイテラ)が製造する通信機器やビデオ監視装置の政府調達からの排除を規定している。さらに同法は、これら企業が製造する機器を使用している企業と政府機関が取引を行うことも禁じた。 よって、政府機関と取引したい企業は、サプライチェーンの中に上記5社の製品などが含まれていないかチェックすることが求められるようになった。これら5社の製品やサービスに中国政府が悪意のある仕組みを組み込ませた場合、それがサイバー攻撃の起点となったり、あるいはそこから米国の機微な情報が筒抜けになったりしてしまうおそれがあるというのが排除の理由とされた。 ◇情報分野のデカップリング 2020年8月、トランプ大統領は中国企業の北京字節跳動科技(バイトダンス)が運営する動画投稿サービス「TikTok」の米国事業を45日以内に売却するよう求める大統領令を発出した(注8)。また同日、同じく中国のネット大手の騰訊控股(テンセント)が所有するメッセージング、ソーシャルメディア、電子決済アプリ「WeChat」の45日以内の使用禁止を命じる大統領令を発出した(注9)。 こうした強制措置は、緊急時における民間経済活動の大統領権限による制限を認めた「国際緊急経済権限法(IEEPA)」に基づいて発出されている。これらアプリの利用を通じて蓄積された米国民の個人データや交友関係、ネットワークアクティビティ情報などが、バイトダンス・テンセントから中国共産党に提供されうることが米国の安全保障上の脅威になるというのだ。 こうした規制は、米国内の個人や企業の情報を守るため、通信キャリア、アプリストア、スマートフォンのアプリ、クラウドサービス、海底ケーブルの5分野から中国企業を排除しようとする「クリーンネットワーク計画」の一部を成すもの見られる。 さて、中国への情報流出に対する警戒という意味では、ファーウェイに対する制裁が最も徹底していると言ってよいだろう。米国はファーウェイと中国政府の間に密接な関係があることを懸念しており、下院の情報特別委員会(HPSCI)は、ファーウェイが「悪質な埋め込み」を通じて、中国政府がサイバースパイやサイバー攻撃を行う際に利用できるバックドアを作っている懸念が払しょくできないため、同社の機器やサービスを米国の通信インフラから排除することを勧告する報告書を2012年の段階ですでに議会に提出していた(注10)。 とりわけ、膨大なデータを超高速で送信できる次世代通信規格「5Gネットワーク」に関わる技術においてファーウェイが世界トップクラスに躍り出たことが米国の警戒感をさらに高めた。中国政府の影響下にある企業が世界の5Gネットワークの根幹を担うことになれば、中国政府は世界のあらゆる情報にアクセスすることが可能となる―こうした懸念から、米国はNDAA2019によってファーウェイを政府調達から排除したのを皮切りに、2019年5月には米国企業に対し、安全保障上の脅威がある企業(名指しこそしなかったがファーウェイを想定)から通信機器を調達するのを禁じる大統領令を発出したり(注11)、同じ月にファーウェイとその子会社68社を輸出管理法に基づき商務省エンティティ・リストに掲載し、同社に対する米国製のハイテク部品や技術の禁輸措置を実施したりするなど(表向きの理由は米国のイラン制裁違反)、同社に対する締め付けを強めて行った。 エンティティ・リストとは安全保障や外交政策上の懸念がある企業のリストのことで、このリストに基づく規制は米国外の企業にも適用され、米国原産の部品やソフトウェアが一定割合以上含まれていればその製品も規制対象となる。もし、違反した場合は米国企業との取引禁止や罰金などが科されるため、第三国の企業も慎重な対応が求められる。 2020年5月と8月にもファーウェイ向けの制裁が強化され、米国の技術を用いて製造した半導体をファーウェイに供給することが禁じられた。こうした規制は米国企業だけでなく、台湾積体電路製造(TSMC)、台湾の聯発科技(メディアテック)、韓国のサムスン電子、韓国のSKハイニックスなどの海外企業にも適用されることとなったため、ファーウェイは海外から半導体を調達することが極めて困難となった。 ◇なぜ米国はデカップリングを進めるのか? 2020年5月、ホワイトハウスは中国に対する一連の強制的な措置の理由を説明する『米国の中国に対する戦略的アプローチ』と題した報告書を公表した(注12)。その冒頭で、40年来の関与政策の帰結を以下のように説明している。 「1979年に米国と中華人民共和国が国交を樹立して以来、米国の対中政策は、関与を深めていけば、中国の経済的・政治的な根本的な解放を促し、やがて開かれた社会を持つ建設的で責任あるグローバルなステークホルダーとして台頭することへの期待が基本的な前提となっていた。しかし、それから40年以上たち、このアプローチは中国の経済的・政治的改革の範囲を制限しようとする中国共産党の意思を過小評価していた。過去20年の間に、改革は減速したり、停滞したり、逆行したりしてきた。中国の急速な経済発展と世界との関わりの増大は、米国が期待していたような市民中心の自由で開放的な秩序への収束には至らなかった。」 ここに表れているのは、変化しないどころか、変化に逆行する中国に対する米国のいら立ちである。ワシントンでは、習近平氏が中国の市場改革の流れを断ち切り、代わりに経済における党・国家の役割の拡大を押し進めたという評価が広く共有されているという(注13)。中国共産党が民間部門への影響力を強めている以上、中国企業は国から離れた独立した存在ではありえないという疑念ここから生じるのである。 また習氏は、『中国製造2025』で打ち出したように、世界最先端の産業を確立すべく国有企業の役割を高め、技術力を強化する産業政策を積極的に展開している。『中国製造2025』とは、中国が「製造大国」から「製造強国」へと脱皮するための野心的な戦略であり、新世代情報技術(半導体・5G等)、ハイエンド数値制御工作機械、新材料(超電導素材、ナノ素材)、バイオ医薬品と高性能医療機器など、世界的にも最先端の10の重点分野において、10年後の2025年までに一定の世界シェアを獲得することを目標とする戦略である。 さらに、習氏は軍と民間企業が一体となる「軍民融合(Civil Military Fusion)」を強力に推進している。これは、習氏が2015年頃から力を入れてきた政策であり、軍事技術の民間転用と武器開発への民間技術の活用を進め、富国と強兵を同時に追求しようとするものである。 習氏の下でこうした野心的な産業・技術戦略が推進される一方で、サイバー攻撃による米国の技術の窃取や中国に進出する米企業への技術移転の強要などを続ける中国に対して、米国の不信感は決定的となった。 また、中国の技術力が米国をキャッチアップしつつあるという実態もデカップリングの重要な動機と考えらえれる。AIや量子コンピュータなど、ECRAにおいて新興技術の範疇として例示された技術は、いずれも近い将来の商業的・軍事的イノベーションの最先端にあると考えられているデュアルユース技術である。米国が引き続き中国に対して軍事的・経済的リードを保とうとするのであれば、こうした領域での技術優位の獲得は必須であるため、その管理はいよいよ重要になる。 こうした事態の積み重ねの末に、米国は関与からデカップリングへと大きく舵を切ったものと見られる。 ◇デカップリングの米国経済への影響 それでは、こうした技術・情報領域での米中デカップリングが米国経済に与える影響を最後に確認しておこう。 まず考えられる影響は、中国製品排除に伴うコスト上昇である。企業はサプライチェーンから特定の中国製品の排除が求められるため、その代替品の調達先を探さねばならない。その際、価格の点で中国製品に匹敵する代替品が見つけられなければ、当然生産コストは上昇する。 同様に、通信インフラから中国製品を排除することで、社会全体が支払うべきコストも上昇するおそれがある。国際通信業界団体(GSMA)は欧州連合(EU)が5G網から中国主要製品を外すと、域内の携帯通信会社が負担するコストは最大550億ユーロ(約6兆9000億円)膨らむと試算する(注14)。こうしたコスト増は、米国企業の競争力の足を引っ張ることになる。 次に、中国の報復である。米国の中国製品排除に対抗し、中国も党と政府機関のあらゆる情報システムから外国製品を排除し、2022年までに国産品に切り替える内部通達を出したことが報じられている(注15)。また、米国の中国企業への規制・制裁に対抗し、2020年9月に中国政府は「信頼できないエンティティ・リスト」を新たに実施した。このリストに掲載されるのはビジネス上の理由以外で中国企業との取引を中断したり差別的な対応をとったりした外国企業であり、掲載されると中国との取引禁止といった罰則が科せられる。米国のエンティティ・リストに従って中国企業との取引を制限した企業に適用されることが見込まれている。こうした中国の対抗措置によって、米企業が中国市場から撤退を余儀なくされるケースは今後、増加するだろう。 また、本稿では触れられなかったが、米国は中国人研究者や大学院生のビザ発給制限にも乗り出している。米国の理工系-いわゆるSTEM分野において外国出身者が大きな役割を果たしていることはよく知られているが、中でも中国出身者がその最大の集団である。人材のデカップリングがあまりに行き過ぎると、今度は米国の研究力やイノベーションの能力を毀損するリスクが生じる。 実際に、デカップリングによって発生するこうしたコストやリスクが政策決定においてどの程度慎重に見積もられたのかは現段階では分からない。もっとも、国家安全保障上のリスクが前景化する際に、経済上のコストやリスクの計算は二義的なものとされがちである。 しかし、イノベーションという観点で考えた場合、これまで米国のハイテク企業や大学での研究開発を支えていた中国由来のモノ・ヒト・カネ・情報を排除した際の代替策を準備することは不可欠である。米中デカップリングが技術覇権を争うための手段であるならば、それはなおさら重要になるはずである。 ◇おわりに 米中デカップリングは米国が主導して始まったが、今や中国もそれに対抗し、両国の技術領域の分断が粛々と進みつつある。冒頭で紹介したユーラシアグループの「10大リスク」では、こうしたデカップリングが「市場規模が5兆ドルに達する世界のテクノロジー産業全体のみならず、メディアやエンターテイメントから学術研究に至るまで、他の多くの産業や機関にも影響を与えていく」と予測しているが(注16)、中国に対する強硬姿勢は、米政府だけでなく議会でも共有されているため、デカップリングは継続しそうである。 そうなると、世界経済は米国と中国の2大ブロックに分断される可能性もある。多くの多国籍企業は米中両国と取引を行っていると想定されるが、今後、サプライチェーンの分離が米中両国から求められるようになると、業務効率の最適化を優先した投資戦略の見直しが迫られよう。 1990年代以降のグローバリゼーションが米中経済の相互依存の深化をもたらしたとすれば、米中デカップリングは、すでに逆回転が始まっているグローバリゼーションにさらなる変化をもたらすことは確実である。 その結果、どのような秩序が生まれるのか、それをここで考察する余力はないが、少なくとも言えることは、当面の間、私たちは経済と安全保障とのつながりを否応なく意識せねばならない時代を生きるということである。 (注1)eurasia group “TOP RISK 2020” (日本語版) (注2)「米中『切り離しできない』中国首相」『日本経済新聞』2019年3月15日。 (注3)Meijer, H. (2016) Trading with the Enemy: The Making of US Export Control Policy Toward the People’s Republic of China (New York: Oxford University Press) (注4)Kennedy, A.B. (2018) The Conflicted Superpower: America’s Collaboration with China and India in Global Innovation, (New York: Columbia University Press) (注5)Executive Order "Blocking the Property of Certain Persons Engaging in Significant Malicious Cyber-Enabled Activities”, April 1,2015 (注6)Foot, F. and Amy King (2018) “Assessing the deterioration in China–U.S. relations: U.S. governmental perspectives on the economic‑security Nexus”, China International Strategy Review 1 (注7)Department of Commerce, Bureau of Industrial Security (2018) “Review of Controls for Certain Emerging Technologies” (注8)Executive Order “Addressing the Threat Posed by TikTok”, August 6, 2020 (注9)Executive Order “Addressing the Threat Posed by WeChat”, August 6, 2020 (注10)U.S. House of Representatives Permanent Select Committee on Intelligence (2013) “Investigative Report on the U.S. National Security Issues Posed by Chinese Telecommunications Companies Huawei and ZTE” (注11)Executive Order “Securing the Information and Communications Technology and Services Supply Chain”, May 15, 2019 (注12)The White House (2020) “United States Strategic Approach to the People’s Republic of China” (注13)Foot, F. and King, op. cit. (注14)「共存の終わり(2)紅いデジタルのカーテン―勝者なきハイテク分断(強権の中国)」『日本経済新聞』2020年10月14日 (注15)「米中の対立、デカップリングから純化路線へ」『日経速報ニュースアーカイブ』2020年1月5日 (注16)eurasia group, op. cit. =============== 松村博行(まつむら・ひろゆき) 国際政治経済学。 1975年大阪生まれ。立命館大学大学院国際関係研究科博士課程後期課程満期退学。博士(国際関係学)。 国際日本文化研究センター機関研究員、岡山理科大学総合情報学部講師などをへて2017年より岡山理科大学経営学部准教授。 著書に『安全保障の位相角』(共著・法律文化社)、『日本外交の論点』(共著・法律文化社)、『はじめての政治学』(共著・法律文化社)など。 =============== ━━━━━━━━━ Chapter-03 不測の未来と政治の時間性――ホッブズとトゥキュディデスの視点 梅田百合香 ━━━━━━━━━ ◇はじめに 2020年、新型コロナウィルス感染拡大に伴い、各国政府が入国制限やロックダウン(都市封鎖)に踏み切った。世界保健機構(WHO)は「パンデミック」を宣言し、各国で移動の自由という国民の基本的な権利が制限された。 グローバリゼーションが深化しつつあるなかであっても、非常事態となると、やはりリヴァイアサン(国家)が前面に出てきて強制力を発動する。入国制限という措置は、人々に国境という地理的境界を可視化し、国家の権限の及ぶ範囲を現実のものとして人々に実感させ、自覚化を促した。 『リヴァイアサン』(1651年)の著者であるトマス・ホッブズ(1588-1679)も、国家の役割は人民の安全を確保することであると明言している。国家の存在理由が人民の福祉(salus populi)である以上、今後どうなるかわからないという不測の事態において、国民を守るために各国政府が強く厳しい措置を取るのは当然であるともいえる。 ホッブズはかつて古代ギリシアの歴史家トゥキュディデスのことを、「過去の行為を知ることを通じて、現在においては慎慮を持って、未来に向かっては先見の明を持って振る舞うように、人々を導き、そのように可能ならしめる…かつて存在するなかで最も政治的な歴史家」と賞賛した(Thucydides 1989, xxi-xxii)。 政治とは本質的に未来に効果を及ぼそうとする時間的な行為である。この小論では、トゥキュディデスを愛好し、自身の政治学によって「未来に向かって先見の明を持って(providently)振る舞うように」人々を導くことを志向したホッブズの、その時間的な政治のイメージを簡単に紹介したい。 ◇トゥキュディデスの人間本性論 ヨーロッパでは14世紀のペストの大流行がよく知られているが、ホッブズの時代にもペストが大流行した。疫病流行は不穏な政治・社会情勢を引き起こす。ホッブズの出版デビュー作はトゥキュディデスの『戦史』の英訳(1629年)であるが、そのなかでもアテナイにおける疫病流行とその悲惨な顛末が描かれている。 ペロポネソス戦争が始まって一年目が過ぎた頃、アテナイで疫病が流行った。金持ちも貧乏人も善人も悪人も平等に襲われ、悲惨な死を遂げた。疫病による災禍があまりに圧倒的なため、人々はいつ死ぬかわからないと絶望と自暴自棄に追い込まれ、刹那的な快楽に走り、神々への信仰も法を守ろうという遵法意識も失うに至った。こうして社会にかつてない無法状態が生み出されていった(Thucydides 1989, II. 47-53)。 トゥキュディデスによれば、戦争や内乱、疫病蔓延による無法状態という極限状況は、生命の維持や満足した生活に必要なものを奪うため、その暴力的な事態が弱肉強食を説く教師のごとく、人間の情念をただ目の前の安全か危険かの一点に釘付けにする。この安危存亡という究極の状況においては、人間の情念の同一の性質が露わになり、人間本性の同一性が明らかとなる。 例えば、内乱においては正々堂々たる対決より虚を衝いた先制攻撃のほうがより安全であり、欺いて勝利するほうが知恵の戦いでも勝利したこととなってより満足感を得る。無力な善人であるより、狡猾な悪人であるほうが自慢となる。これらの原因は、貪欲と名誉欲から来る支配欲と党派心による熱狂であるが、それはまさに極限状況において露出する人間の本性であって、こうした状況下で法則的に現れる人間の同一な性分なのである(Thucydides 1989, III. 82)。 ホッブズはトゥキュディデスの人間本性に関するこの観点を受容しつつ、のちに自身の哲学的探究のなかで人間の情念の法則性をつかみ、自然状態論を含む人間論として理論化した。そして、戦争・内乱による惨禍を回避し抑止するための政治学を哲学(科学)の一部門として構築していくことになる。 ◇政治的な教育 ホッブズはトゥキュディデスの『戦史』を翻訳した理由を、献辞と序文で次のように述べている。「その著作は高貴な方々にとって役に立つ指針となることを含み、かつ重大な行動において采配を振ることを可能にするものだからです」(Thucydides 1989, xx)。「この歴史は充分な分別と教養を持ったすべての人々によって、たいそうな利益を伴って読まれるだろうと私は思い(そうした人々のために、そのことはトゥキュディデスによって当初から意図されていました)、それが受け入れられる望みがないわけではありませんので、ついに私の労作を公刊することにしました」(Thucydides 1989, xxiv)。 ホッブズから見るに、『戦史』は、当時のイングランドで政治的および国家的行為に現在または将来において携わる人々を教育する指南書としてふさわしい作品であった。ホッブズはやはりのちに、自著『リヴァイアサン』が公的に教えられ、それを主権者が保護することを期待する旨をその書のなかで謳っている(Leviathan, Ch. 31, 574)。ホッブズにとって、『戦史』や『リヴァイアサン』の読者対象は主として政治に直接間接に関わる教養のある人々であって、その目的は政治的教育であった。 さて、「高貴な方々」や「充分な分別と教養を持ったすべての人々」のうち、「重大な行動において采配を振ること」を職務とする人々の筆頭は、主権者である。ホッブズの時代、主権者になり得るのは国王か議会であった。 英訳『戦史』の約20年後の作品である『リヴァイアサン』では、読者は主権者の権利と臣民の義務を学ぶ。主権者が国王であれば、議会議員たちは自らの領分を充分に認識し、臣民としての義務を厳密に学ぶ必要がある。主権者が議会であれば、国民を一人格として統合する主権合議体としての権利をいかに行使すべきか、個々の議会議員は学ばねばならない。結果、内乱の勝利者は議会軍であった。 ホッブズは、一方で亡命宮廷のチャールズ2世に子牛皮紙装丁の手書きの『リヴァイアサン』を献呈するが、他方で共和政イングランドに帰国し、平穏に研究生活を続けた。権力を担う特定の人々についてではなく、権力の座について抽象的に論じていると自負するホッブズにとって、この行為は矛盾したものではなかったのであろう(Leviathan, The Epistle Dedicatory, 4)。 ホッブズは、主権者となる人もしくは人々に、「国民全体を統治すべき人は、自分自身のなかに、あれこれの個々の人間のことではなく、人類を読み取らなければならない」が、『リヴァイアサン』を読めばそれもさほど難しいことではないと説く(Leviathan, Intro. , 20)。ホッブズからすれば、主権者が国王であれ議会であれ、主権者となったからには、「人民の福祉」を全うしてもらわねばならないのであり、その方法を政治学の指南書である本書が教えるというのである。 ◇人民の安全の確保のための将来への配慮 ではここで、冒頭の「人民の福祉」の議論に立ち返ろう。『リヴァイアサン』では、主権者の第一義的な職務は、人民の福祉、言い換えれば「人民の安全の確保」であり、それは自然法によって神に対し義務づけられているとされる。 この「人民の安全の確保」とは、単なる生命維持だけを意味するわけではなく、国家の構成員である各人が国家になんら危害を加えることなく合法的な勤労により獲得した、満足した生活に必要なあらゆるものを保障することを意味する(Leviathan, Ch. 30, 520)。この勤労により蓄積された臣民たる個々の構成員の富と財産が国家の力となるのだから(Leviathan, Intro. , 16)、国民の安全の確保すなわち正当な勤労の結果としての満足した生活を保護することは、主権者の最優先の課題となる。 政治的判断の誤りから惨禍はもたらされうる。安全か危険かという不穏な状態において不平を鳴らす人々に対応するためには、主権者はまずは彼らを侵害から守ることに配慮する必要があるが、むしろそれ以上に、公衆の教育と個々人がそれぞれ自分の事情に適用できる優れた法の制定と執行によって、全般的な将来への配慮(providence)を施すことが職務であるとホッブズは説く(Leviathan, Ch. 30, 520)。 ホッブズはここで「将来への配慮」または「先見の明」という意味を持つprovidenceという語を使っている。つまり、長期的な視点に立ち、未来における結果と効果を冷静に計算し、公衆の教育と法により、人民一人一人の安全の確保に当たるよう論じているのである。なお、先に引用した『戦史』の「読者への序文」でも「先見の明を持って(providently)」という同様の語が用いられている。 ◇不測の未来と政治の時間性 トゥキュディデスは、人間本性の同一性から、ペロポネソス戦争と同じような戦争や内乱が将来また起こりうると予見した。それゆえ、ペロポネソス戦争の原因や各戦局における政治的駆け引きと決断の可否を吟味し、未熟な判断を未来に繰り返さないよう、歴史を政治的に分析する書を著し、後生のために残した。この政治的歴史書の意義を理解できる分別と教養を持った将来の読者にこれを活用することを託したのである(Thucydides 1989, I. 22)。ホッブズから見れば、トゥキュディデス自身が「将来への配慮」を施した政治的歴史家であり、政治とは、公衆教育と法の制定・執行による「将来への配慮」にほかならなかった。 政治は不測の未来に備えて、過去・現在・未来という時間軸で検討し、予測し、決断する行為である。政治とは時間的な営みであり、すぐに結果が出るものとその効果に時間がかかるものがある。現時点での政策決定が未来に効果を及ぼし、それが今度は未来における政策決定の足場を構成することになる。ホッブズの自然状態論も抽象的、観念的、静態的な理論のように捉えられがちであるが、そうではない。ホッブズの政治学は運動論を基礎にした時間の概念が要となっている。 ホッブズは自然状態論において、「人々が共通権力なしに生きているとき(during the time men live without a common Power)」、その状態は戦争と呼ばれる状態であり、「戦争の本性においては、天候の本性におけるのと同じく、時間(Time)の概念が考慮されるべきである」と述べている(Leviathan, Ch. 13, 192)。 また、共通権力を樹立する基礎となる信約の定義では、次のように論じられている。「契約者の一方が自分側では契約されたものを引き渡し、契約相手に一定期間後に(at some determinate time after)彼の側で履行するよう任せ、その間は(in the mean time)信託されるという場合もある。この場合、この契約は、一方の側にとって協定あるいは信約と呼ばれる」(Leviathan, Ch. 14, 204)。このように、信約そのものが一定の時間の経過を含む概念と考えられている。 自然状態=戦争状態論も国家を形成する契約論も時間的な行為として理論化されており、人間の予見能力に基づいて結果を予測したときの情念(欲求と嫌悪、希望と恐怖)および熟慮における最後の欲求である意志に基礎を置いている。これを前提に、「過去と未来の真実について探究」するとき、論理的推論の最も適切な方法である幾何学的論証方法の助けを借りれば、人は正しく判断を下すことができるのである(Leviathan, Ch. 7, 98)。 なお、本稿では触れないが、過去・現在・未来という時間軸で世界を時間的に捉えるホッブズの観点は、現在において神の王国は存在しないという彼の宗教論にも関わっている(梅田2005)。 ◇歴史と科学 『リヴァイアサン』でホッブズは、知識を事実についての知識と科学としての知識(語の定義と三段論法による論理的推論から導出される知識)の二種類に分ける。前者は実際の見聞に基づく絶対的知識あり、後者は幾何学の論証のような条件的知識である。そして、事実についての記録が歴史と呼ばれ、科学の記録が哲学書と呼ばれる(Leviathan, Ch. 9, 124)。すなわち、トゥキュディデスの『戦史』は前者に属し、幾何学的論証方法に基づくホッブズの政治学は後者ということになる。 この分類に先立って、ホッブズは、過去の事例の考察や経験に基づく思考である慎慮(Prudence)と、研究と勤勉により獲得される能力である推論(Reason)とを峻別する。経験は動物でも持つが、推論は後天的に努力して勉強することで初めて得られる人間に固有の能力である。推論には言葉と幾何学的な論証方法が必須であり、人々は教育と訓練によってこれを身につけていく(Leviathan, Ch. 3, 42, 44、Ch. 5, 72, 76)。 ホッブズは慎慮を無用だと言っているのではなく、確実性において、慎慮は科学による学知に劣り、学知は明白に証明できる事柄では絶対確実であることを強調しているのである。慎慮も学知もともに有用であるが、生得的な能力である慎慮が経験値を高めればそれに比例して自然に深められるのと異なり、学知は教育と訓練の場と制度および学習者自身の勤勉な努力を必要とするため、主権者は学知修得のための公衆教育の制度化を意識的に配慮しなければならない。ホッブズからすれば、戦争や内乱の抑止のためには、公衆教育として、今こそ科学的な政治学である『リヴァイアサン』が大学で教えられるべきであるというわけである。 歴史と科学(哲学)は以上のような観点から区別されている。『リヴァイアサン』執筆時点でのホッブズは、明らかに科学(哲学)のほうに肩入れしているように見える。しかし、1666年以降、ホッブズ自身、イングランド内戦の原因を探究した歴史『ビヒモス』を執筆したり(1682年に死後出版)(山田2014, 372)、トゥキュディデスの『戦史』の翻訳修正版第二版を最晩年の1676年に出版したりしているように(山田2007, 211-212)、過去の自分の翻訳作品を否定したわけでもなく、歴史の執筆を拒否したわけでもなかった。 ホッブズは、イングランド内戦の原因や王党派と議会派の政治的駆け引きと決断の可否を吟味し、トゥキュディデスと同様、未熟な判断を未来に繰り返さないよう、歴史を政治的に分析する書を著したのである。トゥキュディデスは晩年までホッブズのなかに住み続けていた。 ◇トゥキュディデスとホッブズの「政治」像 先述した『リヴァイアサン』における歴史と科学(哲学)とを区別する叙述のなかで、ホッブズは、歴史をさらに、鉱物・植物・動物・地理等の歴史を扱う自然史(Natural History)と「諸国家における人間の自発的な行為に関する歴史」を扱う政治史(Civil History)とに分類している(Leviathan, Ch. 9, 124)。トゥキュディデスの『戦史』と後の『ビヒモス』が後者に分類されることは明らかである。 Civil HistoryのCivilは多義的で非常に日本語に訳しにくい用語であるが、『リヴァイアサン』の副題は「教会的かつ政治的国家(A Commonwealth Ecclesiastical and Civil)の質量、形相および力」となっており、ここでもCivilが使われている。一般的には「市民の」と訳されるが、筆者はここではいずれも「政治(的)」と訳した。トゥキュディデスもホッブズも、方法論の違いはあれ、政治の担い手は国民の全般的な将来への配慮を職務とし、未来に惨禍をもたらすような誤った政治的判断をしないよう自身の歴史ないし政治学から学ぶことを期待した。 彼らは、政治が本質的に未来に効果を及ぼす時間的な行為であることを共有しており、トゥキュディデスとホッブズの間には、不測の未来に取り組み、生命の維持や満足した生活に必要なものを保護することに配慮するべき「政治」像が通底しているのである。  引用文献 ※邦訳は参照したが、訳文に関しては一部改めた箇所がある。 ・Thucydides, The Peloponnesian War, the complete Hobbes translation, with notes and a new introduction by David Grene, University of Chicago Press, 1989. トゥーキュディデース『戦史』(上・中・下、久保正彰訳)、岩波文庫、1966-1967年。トゥキュディデス『歴史1』(藤縄謙三訳)、京都大学学術出版会、2000年。トゥキュディデス『歴史2』(城江良和訳)、京都大学学術出版会、2003年。山田園子解説・翻訳「トマス・ホッブズ『トゥーキュディデースの生涯と歴史』(上)」『広島法学』第31巻第2号、2007年、211-228頁、同「トマス・ホッブズ『トゥーキュディデースの生涯と歴史』(下)」『広島法学』第31巻第3号、2008年、33-49頁。 ・Thomas Hobbes, Leviathan [1651, 1668], ed. Noel Malcolm, 3 vols., The Clarendon Edition of the Works of Thomas Hobbes, Clarendon Press, 2012. ホッブズ『リヴァイアサン』(一―四、水田洋訳)、岩波文庫、1954-1992年。 ・梅田百合香『ホッブズ 政治と宗教―『リヴァイアサン』再考』名古屋大学出版会、2005年。 ・ホッブズ『ビヒモス』(山田園子訳)、岩波文庫、2014年。 =============== 梅田百合香(うめだ・ゆりか) 政治思想史、社会思想史。 桃山学院大学経済学部教授。名古屋大学大学院法学研究科博士課程修了、博士(法学)。専門は政治思想史、社会思想史。著書に、『ホッブズ 政治と宗教―『リヴァイアサン』再考』(名古屋大学出版会、2005年)、『甦るリヴァイアサン』(講談社、2010年)など。 =============== ━━━━━━━━━ Chapter-04 男性育休の困難 齋藤早苗 ━━━━━━━━━ ――『男性育休の困難』(青弓社)の概要をご紹介ください。 本書では、男性育休という事象に焦点をあてて、正社員はどんな規範を共有し、その規範に従ってどのように行動しているのか、職場で無自覚のうちに前提されている意識がどのようなものか、それがどのように男性育休を困難にしているのかを明らかにすることを試みています。 こうした無自覚的前提は、組織文化の根っこにあって、働く人にとってはとくに意識にのぼることもないくらい「あたりまえ」なことです。そうした職場での「あたりまえ」と「育児」がどのような関係にあって、なにが育児と仕事の両立を難しくしているのかを分析しています。 ――なぜ「男性の育児休業」に着目されたのでしょう? 本書のもっとも大きな狙いのひとつは、「職場の雰囲気」を明らかにすることです。 でも、「職場の雰囲気」は空気のように社員の間に存在するもので、あたりまえだと思っているからこそ、あえてことばにはできないものですよね。 ところが、そのあたりまえに異質なものが入ってくると、そこで衝突が生じて、なにが衝突を引き起こしたのか、なにを前提としているから衝突になるのかが見えてきます。この衝突の事例として、「男性の育児休業」に着目しました。 男性が長く休むことは、現在の職場では逸脱とみなされる行為ですよね。しかも、「男が育児のためってありえないでしょ!!」と、職場のあたりまえに抵触することの多い事象です。 そこで本書では、男性育休によって生じる衝突=コンフリクトの状況を拾い集めることで、自覚もされず目にも見えない「あたりまえ」を可視化することを試みています。 そのために、本書では、育休を取った男性だけでなく、長時間労働をこなす男性/女性社員、子育てのために仕事を辞めた男性/女性社員、長時間労働の経験がない男性社員など、さまざまな働き方、両立のパターンを経験した方々にインタビューしています。語りをふんだんに用いているので、職場や家庭でのリアルなやりとりの様子を垣間見ることができると思います。 ――「男性の育休」を対象として研究する場合、ジェンダーの視点で捉えられることが多いと思いますが、本書では、なぜジェンダーの視点を用いなかったのでしょうか。 社会学で「ジェンダーの視点」という場合、多くは男性/女性というカテゴリーにおける、男性優位による支配構造を明らかにすることを前提とします。男性が育児するという事象や男性の育児と仕事の両立というと、性別役割分業の実態やその意識に焦点を当てられることが多いと思います。「これまで育児を担わなかった男性(優位な存在)が育児(女性の役割)を担う」ことに注目するために、性による区別を前提とするジェンダーの視点が用いられてきたのだと思います。 しかし、ジェンダーの視点を用いてしまうと、どうしても男性/女性というカテゴリーに分けて分析することを前提としてしまうようになります。ところがインタビューしてみると、男女正社員の語りには、共通する部分が多いことに気づきました。 例えば、次のような語りがあります。 ---------------------------------- 田中さん(仮名)(50代、男性) 独身の頃は、家に帰ったって暇だし、結局8時9時まで残業して、みんなで晩飯がてら飲みに行くみたいな。8時くらいまで残業して、「腹減ったな」って、「じゃあ晩飯でも食って帰るか」っていうのはしょっちゅうありました。 美樹さん(仮名)(30代、女性) SEとか、毎日飲みに行ってますよ。ほんとみんな[午前]3時くらいからとか、「今日1時に終わって早いね」っていって焼肉に行く。 ---------------------------------- このように残業を楽しむ語りは、年代、性別を問わず複数の方が語っていました。また、育児中の語りには、以下のようなものがありました。 ---------------------------------- 鈴木さん(仮名)(40代、女性) 保育園がすごい手厚くて。夜十時まで預かってくれるの。ふだんは夜8時までってことにして。この業界自体が残業つきものの仕事だからね。(略)10時ぐらいまでだと、だいたい寝かしつけてくれてて、それを起こして連れて帰ってそのまま寝かせるとかね。 ――もっと子どもと関わりたいなとかは?世話をしたいとかは? 時間がないからね、正直。でも4~5歳だから、乳呑児じゃないから、ミルクとかっていうのはないから。 太田さん(仮名)(50代、男性) ――お子さんが小さいときは早く帰っていっしょに(夕食を)食べたいな、とかは? 無理だから。まったくないです。ないっちゅうか、無理だったんで。 ――無理が先にたっちゃいます? 無理ですね、はい。役割です。もう、[妻に]「頼むから」って。 ---------------------------------- これらの語りからは、保育園や妻に育児を委託して、残業することを選んでいる様子が伺えます。このように、長時間労働であってもそれを楽しいと思う男性もいれば女性もいます。また、多くの父親と同じように、保育園などの助けを借りながら長時間働く母親もいます。 レイウィン・コンネルは、「多くのジェンダー過程は、実際には女性と男性の共通した能力である、性別分化していない身体の過程と能力を含んでいる(注1) 」と述べています。つまり、ジェンダーをより精緻に捉えるためには、この「性別分化していない身体の過程と能力」を切り出して、腑分けする必要があるのではないかと思ったのです。 (注1)レイウィン・コンネル『ジェンダー学の最前線』多賀太監訳、世界思想社、二〇〇八年、87ページ。 本書では、2010年に育休をとった男性に、2016年に長時間労働の経験がある/ない男女正社員(一部、育休男性含む)にインタビューした語りを用いています。 2010年調査で育休をとった男性のお話の中で、重要な示唆を受けた語りがありました。育休中に、育休取得する前に自分が無意識のうちにもっていた〈仕事優先〉の時間意識に気づく、という語りです。この気づきを語ってくれたのが、本文でも登場する高木さん(仮名)(40代、男性)です。 高木さんは、ぐずる子どもの世話と家事との間で板挟みになって、妻の帰りを心待ちにするのですが、妻が気軽に仕事を優先することに怒りを感じるんですね。そのとき、「育休をとる前には、自分も同じ働き方をしていた」と気づいたのです。 他にも、多くの育休男性が取得前の働き方を捉えなおしている語りにいくつも出会い、仕事と育児の両立を左右するのは、性別役割分業意識ではなく、時間の使い方なのではないか、と思うようになりました。この気づきによって、時間をどう使うか、あるいはどう使うべきと思っているか、という時間の使い方に対する規範や実践として、時間の使い方とその意識に注目するようになったのです。 時間の使い方を軸に見てみると、実は、性による区別ではうまく整理できないんですね。 先ほどの、長時間労働を楽しむ田中さんと美樹さんのように、実は女性/男性に共通した経験、感じ方、行動が浮かび上がってきました。 たしかに、こうした人たちは、量的には少数派かもしれません。しかし、性という分析軸をもってくると少数派として見えなくなる存在でも、時間という分析軸をもってくると逆に多数派に入ることもあります。なんらかの助けを借りながら長時間労働をする母親は、女性のなかでは少数派でも、時間意識の観点からみると、正社員のなかの多数派に入ります。同様に、育児のために定時退社する父親は、男性のなかでは少数派でも、同じように育児している女性も含めてみるとある程度のボリュームのある存在となります。 こうした性による区別では消えてしまう存在を可視化するためには、ジェンダー視点からのアプローチをとらないことが有効だと考えました。 ――「時間意識」に着目することで、どんなことが明らかになったのでしょうか。 ジェンダー視点ではなく、時間意識に着目することで、職場で共有されている時間の使い方には規範があって、多くの社員がそれに制約されていることがわかりました。詳しくは本書を見ていただきたいのですが、正社員は〈仕事優先〉の時間意識を内面化していることを明らかにしています。 この時間意識に従っていると、仕事がある平日は、時間を自由に配分することはできないのです。つまり、仕事の時間は、私生活の時間を強く制約する方向に働いています。独身のときは、料理や洗濯、あるいはデート、趣味などは、平日にできなくても休日にまとめてしようと思えばできることです。 では、育児はどうでしょうか? 「平日は時間がないから、子どもの世話は休日にまとめてしよう」ということは可能でしょうか? 育児をだれかに委託できない場合、平日であろうと子どものお世話はしなければなりません。お迎えに行く、食べる、入浴する、コミュニケーションをとる、寝るといった日々の営みは、子育てする中で1日たりとも欠かすことのできないものです。つまり育児は、他の私生活の時間と違って、仕事の時間を強く制約するという特徴をもっているのです。 インタビューをした男性正社員のうち、育児にまったくかかわっていない人はいませんでした。育休男性とそうでない男性の違いは、平日の夕方から夜の時間を育児にあてているかどうか、なのです。 多くの親は、祖父母の助けを得られるわけではありません。保育園に預けていても夕方にはお迎えに行かなければなりません。すなわち、育児の時間は、平日にぜったいに確保しなければならない時間なのです。それが、育児と仕事のあいだに強い葛藤を生み、その葛藤を回避するために、誰かに育児を委託して長時間労働をしたり、あるいは仕事を辞めたりすることになるのです。 時間意識に着目したことで、こうした育児の特殊性を明らかにすることができたと思います。 ――終章では、すべての労働者が「私生活の時間」を保障されるよう、休暇法の提案をなさっていますね。 私は、仕事と育児の両立の困難を、育児する親だけの問題とは考えていません。 というのも、「職場の雰囲気」は、育児する必要がない人や、育児を誰かに委託できる人、あるいは育児期が終わった人たちこそが、つくりだしているものだからです。 今年7月に閣議決定された「骨太の方針2020」には、男性の産休制度の検討と「男性の育児休業取得を一層強力に促進する」ことが記されました。 もちろん、こうした国による促進の意思表示は重要だと思います。けれども、職場での「私生活の時間がなくて当たり前」という意識こそが、仕事と育児の両立を妨げているとするならば、男性育休を強力に推進すればするほど、男性育休が一部の人たちだけが利用できる特権のようになっていくのではないか、と危惧しています。 というのも、育休は、すべての労働者のなかでも「子どもをもつことができた人」に限られるからです。出生数が下がり続ける現在、対象となる労働者はどんどん減り続けるのです。 重要なのは、すべての労働者が、私生活の時間を大事にすることができる状況をつくりだすことです。例えば、夏休みで3週間休む、ボランティアで1か月休む、見聞を広げるための旅行で2か月休む、学び直しのために1年休む・・・など、まとまった期間休む人が常に職場にいれば、育休もまた、これらの選択のメニューの一つに過ぎなくなります。育休が、多くの人が利用する選択メニューの一つになれば、より多くの人が選びやすくなるでしょう。 今は、私生活を充実させるためにまとまった期間休む、という選択メニューはほとんどありません。そうした状況の中で育休を取ろうとするから、一世一代の大勝負のような選択になってしまうのです。 男性育休を特別視させないためには、すべての労働者の休みやすさ、私生活の時間の保障こそが必要だと思います。 ――読者の反応などはいかがですか? 年齢層によって、感想はさまざまですね。 子育て中の方からは、「インタビューの部分で、他の家庭の様子を見ることができておもしろい」といわれます。また管理職の方は、内容は説得的だと思うといいつつも「育児中の人は重要度の高いプロジェクトからはずしてしまう」と、現場での業務状況と照らし合わせると違和感を抱くと話していました。 お孫さんがいる年代では、「若いころ、夫が超長時間労働をしていて、『死ぬんじゃないか、大丈夫だろうか』とものすごく心配していたことを思い出して、読みながら泣いてしまいました」という方や「こんなにも夫婦の関係は変わっているのね!」と夫に対して対等に意思表示する妻の姿に、時代の変化を感じる方もいました。 大学生にとっては、結婚生活や職場での様子が疑似体験になり、就職後の生活を想像するきっかけにもなっています。 ――最後に、αシノドス読者にメッセージをお願いします。 本書は「男性育休」に焦点をあててはいますが、職場で共有される時間意識がどのようなものか、どのように社員がそれを当たり前だと認識していくのかをことばにしています。ただし、調査対象者はひじょうに限定的ですので、あくまでも仮説を提示したものだと思っています。この本を読んでくださったみなさんからの共感や違和感などの反響によって、今後さらにこの内容を精査していきたいと思っています。 また、男性育休に関心がなくても、社員として働いている/働いたことがある多くのみなさんが読んでくださり、職場の時間意識や私生活と仕事の時間について考え、議論するきっかけになればうれしく思います。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 =============== 齋藤早苗(さいとう・さなえ) 東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。会社員、団体職員として約20年働き、2度の育児休業を経験。その後、大学院に進学。調査報告に「親はどのような保育を求めているのか――株式会社立保育所に着目して」(「相関社会科学」第24号)、「育児休業取得をめぐる父親の意識とその変化」(「大原社会問題研究所雑誌」2012年9・10月号)など。 =============== ━━━━━━━━━ Chapter-05 コロナ禍の中での日常生活やビジネスの変化 平井和也 ━━━━━━━━━ 新型コロナウイルスの感染拡大が依然として続いており、各国の厳しい状況を伝えるニュースが日々流れてくる。 アイルランド政府は、感染の急拡大を受けて警戒度を最高レベルに引き上げ、店舗の休業や住民の外出制限を求める6週間のロックダウン措置を再び施行すると発表した。スペインでも、コロナ感染再拡大の深刻化を受け、国内ほぼ全ての自治州での夜間外出禁止を含む二回目の非常事態を全土に宣言した。 また、イタリアでも10月27日に、一日の新規感染としては過去最多となる2万1994人の増加を記録し、累計56万人を超えたと発表した。さらに、ドイツはコロナの感染拡大を抑えるため、11月2日から飲食店や娯楽施設などの営業を禁止すると発表し、フランスも全土の外出制限を少なくとも12月1日まで実施すると発表した。加えて、イギリスもイングランド全土で11月5日から12月2日まで4週間の二回目となるロックダウンを実施すると発表した。 このようにコロナの脅威は依然として世界を覆っているが、本稿では、コロナ禍の中で世界中の人々がどのように暮らし、日常生活やビジネスでどんな変化が起こっているのかについて、日本、カナダ、イスラエルの例に注目して紹介したい。 まず最初に、英字新聞ジャパンタイムズが日本で起こっている状況を伝えているので、10月25日と26日の記事の概要を以下にまとめてみたい。 ◇10代の読書率が上昇 17歳から19歳の1,000人を対象とした日本財団の調査(実施期間9月29日から10月5日)によると、24.9%がパンデミック前よりも読書量が増えたと答えており、逆に読書量が減ったと答えたのは6%だった。パンデミック期間中に読書習慣に変化はないという回答率は69.1%だった。また、期間中に読書を楽しんでいると答えたのは59.7%で、別のことをして過ごしてるという回答は12.8%だった。月に何冊本を読むかという質問については、一冊から二冊が44.8%、一冊も読まないが32.7%、毎月八冊以上が6.8%という結果だった。 ◇楽器が飛ぶように売れている 新型コロナウイルスのパンデミックにより自宅で過ごす人が増えている中で、ここ数ヶ月間で日本では楽器が飛ぶように売れている。ウクレレやギターなどの比較的簡単に覚えることができる楽器が最もよく売れており、どちらも昨年の同じ時期と比べて売上が二倍になった。 生の楽器の音色にはパンデミックによるストレスを軽減してくれる効果があると言う初心者もいるが、もっと本格的に音楽をやりたい人たちは、大金を出して消音室を設置している。 首都圏に40店舗を構える山野楽器によると、特に若い女性の間でウクレレが人気で、売上が伸びているという。10,000円台の初心者向けモデルで、ウクレレの売上が昨年の同時期と比べて、6月から8月で2.10倍上昇した。アコースティックギターの売上の伸び率は2.08倍だった。 東京都台東区に本社を置く大手ウクレレ専門店「KIWAYA」では、5月からオンラインでの注文が急激に増えており、売上が昨年の約二倍となり、生産が追いつかない状況だ。林理弘社長は、ウクレレの魅力は心地良いリュートのような音色にあると語っている。同社が運営するウクレレスクールのレッスンを受けている44歳の女性は、「弦の振動と生の音が嫌な気分を忘れさせてくれます」と語った。 他にも電子ピアノとキーボードも需要が伸びている。幅広い年代の人たちから電子ピアノについて問い合わせがきているという。ヘッドフォンを使えば、騒音を防ぐことができる。電子ピアノの売上は、昨年の1.4倍に増え、キーボードも1.2倍増だ。 消音装置も需要が伸びており、改装を伴う場合には、ユニットタイプの消音室で建設費用が百万円を超えることもある。山野楽器によると、昨年同期比で、消音装置の売上が二倍近くに達しているという。 以上がジャパンタイムズの記事のまとめだ。 ◇都市から牧草地域への移動が加速するカナダの飲食業界 次に、コロナパンデミックの中でレストランのシェフたちが都市を出て緑の多い牧草地域に移る動きが加速していることを伝えるカナダ紙グローブ・アンド・メイルの記事(10月25日)について、以下にまとめてみたい。 ブリティッシュコロンビア州コートネイにいて、元バンクーバーの住人であるアンドレイ・ドゥアバッハ氏がオーナーを務めるイタリア料理の名店「イル・ファルコーネ」で食事を計画しているとしたら、残念ながら11月12日の営業再開まで待たなければならない。 多くのシェフやレストラン経営者、接客業の店員が郊外への移転を選ぶメリットの一つが、秋に丸一ヶ月間店の営業を停止する資金面での自由があることだ。 「三年前にここにやってきた大きな理由はライフスタイルでした」とドゥアバッハ氏は語っている。同氏は普段は毎年閉店時期にはイタリアに行っているが、今年はオカナガン地方を旅して回る予定だ。 その主な動機は商売上の独立だった。ドゥアバッハ氏はバンクーバーに多くの店を構えていたが、土地は所有していなかった。「バンクーバーでは果たせない目標でした。買う土地がなく、借地もほとんどありませんでした。伝説の大男ビッグフットを探しているようなものでした」と同氏は言う。 都市在住者が優先順位を再評価し、都会よりも緑の多い牧草地を探す中で、新型コロナウイルスが都市からの大移動を加速していると言われている。ただ、この郊外への移動が実際、全体的な動きと言えるのかどうかはまだ議論の余地がある。しかし、会社員や国際的な観光客に依存するバンクーバーやビクトリア(ブリティッシュコロンビア州の州都)の中心街のレストランが、地元民が住んでいる郊外や小さな町、地方の店よりもダメージを受けていることは明らかだ。 ブリティッシュコロンビア州飲食店・フードサービス協会のイアン・トステンソン会長によると、中心街のレストランの売上の下落率は20%から30%であるのに対して、郊外や一部の観光地域のレストランは、昨年ほど良くないにしても、パンデミック期間中繁盛しているという。 個人的な話をすると、私(記事の記者)はバンクーバー郊外での事業取引を積極的に進めている5人のシェフとレストラン経営者と直接の知り合いだ。話し合いが進行中のこれらの取引について書くのは時期尚早だが、このようなトレンドは今に始まったことではない。過去数年間にバンクーバーでレストランを経営する費用の手頃感が下がったため、バンクーバーから出る動きは勢いを増している。パンデミックは、すでに始まっていた移転の決断を速め、都市から移動するという夢の魅力をますます高めているだけのようだ。 ドゥアバッハ氏と妻のシアンが買ったのは、「イル・ファルコーネ」(イチジク、マルメロ、サクランボの木に囲まれた感じの良い黄色い古い建物)だけではない。バンクーバー中心街の小さな一つの寝室があるアパートの価格で、105,000平方センチメートルの川沿いの家も購入した。 同氏が語るコモックスバレー地域地区のレストラン経営者の暮らしぶりは牧歌的だ。鹿や兎がいるトウモロコシ畑を通って八分で通勤することができ、すばらしい地元の農園が広がり、新鮮な貝を食べることができ、ほんの少し道を下ればブッラータ(イタリア原産のフレッシュチーズ)作りの名人がいて、スーパーマーケットで買い物客同士が親切に触れ合う小さなコミュニティがあり、豊富な可処分所得を持ち、食を愛する洗練された客がいる。 私が8月に訪れた時に、「本当に気持ちの良い経験ができる土地です」とドゥアバッハ氏は言っており、ここ数年でも特別元気そうだった。 それから数週間後、ドゥアバッハ氏はコロナ感染の疑いがあったため、一時的に店を閉めなければならなかったが、それで落ち込むこともなかった。「人々の密着度が高い狭い地域で暮らすメリットの一つは、無条件で助けてもらえることです。店の営業を再開した夜は満席でした」と同氏は後日電話で語った。 オカナガン渓谷の向こうでは、昨年2月にパートナーのマリア・ワイズナーとポール・ホランドと共に歴史あるナラマータ・インを買収したシェフのネッド・ベル氏と妻のケイト・コリーが注目の的だ。 「ここにはチャンスが溢れています。野心を持つ起業家にとって、リスクと報酬の比率は非常に大きいです。どこにいても飲食業はやり甲斐があるからといって、楽勝だとは言いたくありませんが、競争が少ないので、チャンスはあります」とベル氏は語る。 ベル氏は数人のすばらしい接客係を採用することに成功しているが、年間通して従業員を確保することは、季節労働者が殺到する地域でも難しい課題だとして、「私たちの店はペンティクトンから20分の小さな村にあります。もっと人が必要ですし、従業員の施設も必要です。本当にすばらしいパン屋やコーヒーショップ、食料品店、二つ目のレストラン、仕出し業があれば、たぶんもっと多くの人を引き寄せることができると思います」と語っている。 私は今週、ブリティッシュコロンビア州のガリアーノ島のシェフ、メラニー・ウィットさんと電話で話をすることができた。彼女はレストラン「ピルグリム」に併設されている屋外席だけのピザ屋「チャーマー」の薪の積み上げ作業を終えた後で電話に対応してくれたが、やはり従業員の確保が課題だ。 「ガリアーノ島に移住するには、特別な人材が必要です。とても静かなライフスタイルで、自然以外、ここには何もありません」とウィットさんは言う。 バンクーバーの「サヴィオ・ヴォルペ」で料理長を務めていたウィットさんは、まさにパンデミックが発生した3月にガリアーノ島に移住してきた。 ウィットさんは語った。「不思議なタイミングでした。『ピルグリム』のオーナーシェフ、ジェシー・マックリーリーとは数年間デートする仲でしたが、決断するのは簡単ではありませんでした。でも、決して帝国を築きたいというわけではありませんでした。ここの環境、農園、すばらしい商品が私にとって重要なんです。今はバンクーバーにいた頃よりも自分の核心的な価値観を大事にすることができていると感じていますし、それは多くの人についても当てはまると思います。状況の移り変わりが速いです」 以上がグローブ・アンド・メイルの記事のまとめだ。 ◇イスラエルでは車や家などの高価なものをネットで購入する動きが急増 最後にイスラエル紙エルサレム・ポストの記事(10月26日)を以下にまとめて、本稿を締めたいと思う。 あらゆる調査の結果、新型コロナウイルスの発生によってオンラインショッピングの件数が急増していることがあきらかになっているが、専門家によると、最近では車や台所、家といった高額商品をネットで購入する動きが急増しているという。 「アパートの購入が平均的な人の最も高価な買い物ですが、誰でも一度買えば、家をネットで購入することを恐れることはなくなります」とマノス・グループのセールスマネージャー、アリエル・ブリスク氏は言う。 ブリスク氏の説明によると、2007年の集団農場「ヘフツィバ」の破綻後、イスラエルでは法律が改正されて、住宅購入者に最大限の保護措置が取られることになったという。不動産売買に関する1973年の法律が改正されて、新規購入住宅の水道管と電気に最大で7年の保証期間が設けられるようになった。つまり、7年経過後も、建築業者は住宅が販売された時点で見つかっていなかった損傷箇所を修理することが義務づけられているということだ。 顧客の多くが不動産市場の風向きの様子見をしている若い夫婦で、近い将来市場が大きく変わることはないと判断した段階で、コロナ禍の中でも家を購入しようというもともとあった計画を実行に移した。 ブリスク氏は、「二回目のロックダウンを機に、購入の問い合わせが始まりました」と言う。同氏によると、大部分のイスラエル人は自分がどこに住みたいのか決めており、税務局の公的情報サービスを利用して価格を調べ、ネットで計画を立てているという。そして、コロナ禍の今、人々は両親の近くや特定の宗教地区に住みたいと考え、ネットで住宅を購入している。 ブリスク氏は、海外からやってきたユダヤ人はコロナ禍の中で賭けに出て、イスラエルで住宅を購入しようと決めたようだとし、「彼らはイスラエルが模範的なコロナ対応をしていると考えている」と語り、また海外では、ユダヤ人がウイルスを「作って」拡散させているという陰謀説が流れていることにも言及している。 アヴィヴィ・キッチンズの主任デザイナー、シュロミ・コーエン氏は、住宅設計のあらゆる分野が活況を呈しており、その理由として、ロックダウン期間中に多くの人たちが家でおとなしくしているか、またはワクチンが届いた時だけ表に出ようと待っているからだろうとしている。 イスラエルの大手自動車輸入会社コルモビルの調査によると、コロナのパンデミック前には世界のオンラインでの自動車購入はわずか1%にすぎなかったが、コロナ禍の今では、ネット販売が昨年比で180%増加しているという。 以上がエルサレム・ポストの記事のまとめだ。 読者の皆さんには、コロナ禍の中で世界各地の人々がどのように暮らし、日常生活やビジネスでどんな変化が起こっているのかについての参考情報としていただければ幸いだ。 【参照記事】 ・Japanese young adults reading more than before pandemic https://www.japantimes.co.jp/news/2020/10/26/national/japanese-young-adults-reading-coronavirus/ ・Japan sees musical instruments flying off shelves amid pandemic https://www.japantimes.co.jp/culture/2020/10/25/general/musical-instruments-sales-coronavirus/ ・Urban exodus: Pandemic drives chefs out of cities in search of greener Pastures https://www.theglobeandmail.com/life/food-and-wine/restaurant-reviews/article-urban-exodus-pandemic-drives-chefs-out-of-cities-in-search-of-greener/ ・COVID leads to spike in online purchases of cars, kitchens - even homes https://www.jpost.com/israel-news/covid-19-leads-to-spike-in-online-purchases-of-larger-luxury-items-646952 =============== 平井和也(ひらい・かずや) 1973年生まれ。人文科学・社会科学分野の学術論文や大学やシンクタンクの専門家の論考、新聞・雑誌記事(ニュース)、政府機関の文書などを専門とする翻訳者(日⇔英)、海外ニュースライター。青山学院大学文学部英米文学科卒。2002年から2006年までサイマル・アカデミー翻訳者養成産業翻訳日英コースで行政を専攻。主な翻訳実績は、2006年W杯ドイツ大会翻訳プロジェクト、法務省の翻訳プロジェクト(英国政府機関のスーダンの人権状況に関する報告書)、防衛省の翻訳プロジェクト(米国の核実験に関する報告書など)。訳書にロバート・マクマン著『冷戦史』(勁草書房)。主な関心領域:国際政治、歴史、異文化間コミュニケーション、マーケティング、動物。 =============== ━━━━━━━━━ Chapter-06 東日本大震災以降の「崇高」(下)──現代日本「動物」文学案内(6) 石川義正 ━━━━━━━━━ 前回は山尾悠子の幻想小説『飛ぶ孔雀』(文春文庫)、そして18世紀イギリスのゴシックロマンスの傑作であるウィリアム・ベックフォードの『ヴェテック』にみられる作品の構造的な「裂け目」を崇高という視点から分析しました。しかし「裂け目」と崇高というテーマは、現在の日本社会を考察するうえでもっと広い射程を含んでいます。 ◇東京オリンピックの「ホラー」 ここでもう一度、『ヴァテック』によって「文学に現れた最初の真に恐ろしい地獄」(ボルヘス)という言葉の意味を検討してみましょう。ヴァテックが堕ちた地獄は、キリスト教の神の秩序にもとで天国や煉獄とともに位階づけられた場所ではありません。永劫に呪われた罪と罰によってもはや神にすら見放された空間であり、それゆえに神の栄光の外に無限にひろがる可能性を秘めた空間でもあります。科学技術と資本主義に代表される「近代」の知はそこにみずからの足場を見出したのでした。 今日、私たち人類はみずからが営々と築き上げてきた知の高楼──『ヴァテック』ではアラビアのカリフが建立した高い塔がそれを象徴しています──の頂点で栄華を極めながら、しかしそれが同時に破滅──ヴァテックの足元には地獄に通じる「天地の裂け目」が開いています──とうらはらの儚い栄華であることも理解しています。むしろその恐怖が「近代」と呼ばれる時空を切り開いたのかもしれません。なぜなら19世紀以降のヨーロッパで輝かしい成果を示したロマン主義芸術の原点には、1755年に大都市リスボンを襲った大地震という自然の災厄があったからです。 恐怖によって支えられている文化──この図式を現代の日本社会に当てはめてみるどうでしょうか? それは2011年の東日本大震災にはじまり、2020年の東京オリンピックの失敗──1年の延期ののちに開催されるのか、あるいはこのまま断念されるのかは現時点ではまだ明らかではありません──で終わるこの10年間について考えてみることにほかなりません。 社会学者の阿部潔は『東京オリンピックの社会学』という著作で「来るオリンピックは、本来の意味でホラーそのものなのではないだろうか」(強調引用者)と記しています(注1)。それによると、ホラー(horror)には「恐怖と嫌悪で震えること」という語義のほかに、古い用法として「物事についての対立や不一致」という意味があるそうです。日本社会の2010年代とは、ここでいわれるホラー、つまり「対立や不一致」を「カモフラージュ=偽装」することに費やされてきたのであり、それは大きく三つの観点から分析できる、と阿部は述べています。 偽装の第一は「経済・社会的な格差や排除を否認し、それを巧妙に隠蔽すること」(社会的カモフラージュ)、第二に東日本大震災からの「復興オリンピック」のスローガンを唱えることで被災地復興の重要課題を棚上げすること(公共政策の偽装)、第三に「スポーツを通じた〈約束された感動〉の称揚」が実際には「特定の集団・人びと」の利益と都合を包み隠していること(政治的カモフラージュ)の三点です(注2)。 各論点の詳細な分析は同書に譲りますが、ここでは特に東日本大震災に伴う原発事故からの「復興オリンピック」というカモフラージュについてすこし考えてみたいと思います。すなわち、東京オリンピックが体現するはずだった、「ホラー」をカモフラージュする崇高についてです。 ◇崇高と黒人奴隷制 18世紀イギリスの政治思想家エドマンド・バークの美学理論の著作である『崇高と美の起源』は、当時のロマン主義芸術に大きな影響を与えました(前回参照)。バークはそこで「恐怖が直接的な身体の破壊につながらない場合、それらは悦びを生み出す」(注3)と述べています。つまり美を喚起する「快」という感情ではなく、崇高の原因となる感情(悦び)が「恐怖」から引き起こされること、かつそうした「悦び」を感じる身体が恐怖の対象によって破壊されないこと──それをバークは崇高のメカニズムとみなしているのです。『ヴァテック』の地獄のイメージは、当時ヨーロッパで高い評価を得ていたピラネージの版画集『幻想の牢獄』からインスピレーションを受けたことが知られていますが、フランスの作家マルグリット・ユルスナールが叙述するピラネージの版画の印象は驚くほど『ヴァテック』の地獄に酷似しています。 「神の存在が消されているという事実そのものが、人間の法外な野心、普段の挫折のイメージをなおさら、そしてひたすら、悲劇的なものにする。時間も生物の姿かたちもとり除かれているこの禁錮の場、すぐさま拷問室となるこれらの閉ざされた広間、そのくせ住人の大多数が、危ういことに安閑とくつろいでいるかのような場所、底なしでありながら出口のない深淵、これはありきたりの牢獄ではない。それはわれわれの「地獄」なのだ」(注4)。 「すぐさま拷問室となる」かもしれない場所で「安閑とくつろいでいる」人びとの揺らめく影──そこは「われわれの「地獄」」にほかなりません。わたしたちは「底なしでありながら出口のない深淵」にいながら、なぜか自分の身体は破壊されないと確信しています。もちろんその確信はただの錯覚なのかもしれません。しかし少なくともそこが戦火によって「地獄」と化すまでは──第二次世界大戦時の広島や長崎の住民たちも、30年前の旧ユーゴスラビアの住民たちや現在のシリアの住民たちも──そう信じていたにちがいないのです。もちろん誰よりも、現にそうした「地獄」の映像をテレビやインターネットで日々見聞きし、享受しているわたしたち自身もまた「地獄」の住人にほかなりません。 しかもバークが「悦び」につながる自己保存の方法にあげているのは、崇高な対象とそれを享受する主体との時間的・空間的・心理的な距離の保持だけではありません。「労働」と「運動」もまた、崇高を生み出すメカニズムのひとつなのです。これはバークの崇高の論理においてきわめて興味深い論点です。バークによれば、憂鬱、落胆、絶望、自殺、物事に対する陰鬱な見方といった「これらのすべての不幸に対する治療法は運動もしくは労働である。労働とは困難の克服であり、筋肉の収縮力の行使であり、そうしたものとして、緊張と収縮に存する苦痛に、程度以外のあらゆる点で似ているのである」(注5)。 これは要するに、精神や肉体の苦痛が生理的な機序によって崇高の感情に変換されるということです。今日、フットボールや野球、そしてオリンピックのようなスポーツで競技者が勝ち得る──同時にわたしたち観客が彼らに求める──「感動」とは、アスリートの日々の厳しい練習(苦痛)がやがて勝利の栄光(崇高)に達する瞬間に感受されるものではないでしょうか。『崇高と美の起源』の訳者の大河内昌は、それを「崇高は、美の過剰がもたらす怠惰と無気力を治療する、精神の労働」である、と要約しています。そのうえで「趣味を身体構造というあらゆる人間に共通な属性の上に基礎づけてしまえば、市民社会の市民権の条件となる趣味や感受性の領域に、労働者階級や下層階級が参画する可能性に道を開くことになりかねない」とも述べています(注6)。事実、フットボールがイギリスで定着したのは、産業革命以降の工場労働者たちの余暇の楽しみとしてでした。 このことは後年の保守思想家バークの立場とあきらかに矛盾する姿勢──「大土地所有に基づく貴族階級のヘゲモニーに対抗するブルジョア階級の文化的戦略」である、と大河内昌は指摘しています。つまり「美」が保守的な貴族的大土地所有の理念をあらわすのに対して、「崇高」が進歩的なブルジョア階級の理念をあらわしており、ここでのバークは後者を擁護している、という意味です。しかしバークの崇高の美学は、むしろその矛盾を糊塗する装置として機能しているのではないでしょうか。美と崇高における貴族的大土地所有とブルジョアジーの労働概念の対立は、実際には見せかけにすぎません。貴族とブルジョアジーが──たんなる経済的な利害にもとづく保護貿易と自由主義の対立などではなく──美的理念において対立しているかのように映るのは、当時のイギリスの植民地経営の実態を視野の外に置いているからです。 ベックフォードは富裕な旧家の家系に生まれ、詩人バイロンに「イングランドでもっとも裕福な御曹司」というあだ名を奉られましたが、それはまったく誇張ではありませんでした。黒人奴隷貿易研究の泰斗エリック・ウィリアムズは『資本主義と奴隷制』でベックフォード一族について詳細に記しています。この一族はジャマイカ島の不在地主の草分けで、17世紀のピーターは島の副総督および総司令官になり、ピーターの孫にあたるウィリアムは「イギリスにおいて最大の勢力をもつ西インド諸島プランター」となりました。つまりベックフォード一族はイギリスを本拠とする貿易商人であると同時に植民地の大地主だったのです。ウィリアムの息子である『ヴァテック』の著者は、同書で次のように描かれています。 「ベックフォード二世は、先代に勝るとも劣らなかった。同家お抱えの歴史家の記すところによれば、並たいていのことではいやされない奔放な空想力と莫大な財産に恵まれていたため、ベックフォード二世は、新規なもの、雄大荘厳なるもの、巧緻華麗なるものをのぞみ、崇高なるものをさえ求めた。その結果がフォントヒル・アベーである。この建築にあたっては、技術の粋を集め、莫大な数にのぼる労働者を使用した。一部の従業員の宿舎にあてるため、一つの村が新たにつくられるほどだった」(強調引用者)(注8)。 『ヴェテック』で描かれている空想上の財宝はもちろん、余りある富をつぎ込んで建設した豪奢な邸宅「フォントヒル・アベー」もまた、実際にはジャマイカ島のプランテーションで使役される黒人奴隷によって購われたものでした。しかも黒人奴隷たちの労働の実態は、崇高化された文学作品や建築物から不可視のまま──「真に恐ろしい地獄」として──その存在を排除されています。アメリカの批評家フレドリック・ジェイムスンは、そうした不可視性は国家の経済体制において必要不可欠な一部が国家を超えた場所にあるという「植民地主義」の構造的な必然であるとして、次のように批判しています。 「植民地全体の生活経験や生活世界は──帝国のそれとは非常に違ったものであるが──帝国の主体にとって、彼らがどんな社会階級に属していようとも、依然として未知のものであり、想像し難いものである。このような空間の分裂は、その直接の結果として、その体制が全体として機能する仕方を把握することができないという状態を招く」(注9)。 ジェイムスンによれば、植民地主義は植民地とヨーロッパ本国との「空間の分裂」をかならず内包しています。ところが崇高のメカニズムは、植民地における黒人奴隷制の「労働」──エリック・ウィリアムズはバークを黒人奴隷制の「従犯」と名指しています──をヨーロッパ本国における崇高を通じて美的な商品に転換するのです。労働の苦痛が崇高へと結晶化したその時点で、すでに奴隷労働は表現から疎外されています。 カントはバークの大きな影響の下で『判断力批判』で崇高を理論づけました。しかしカントの崇高の源泉は、一言でいえば理性の主体それ自体です(カントにおいて理性は感性を超出し、その両者を調停するのが想像力のはたらきとされます)。一方、バークの崇高がカントと決定的に異なるのは、労働を通じて崇高を産出する主体と崇高を享受する主体との一致を含意していない点です。バークの崇高の美学は、植民地の奴隷労働と、それを搾取することで崇高を享受する主体という、大西洋を超えてひろがる資本主義社会の構造の理念的な背景となっています。ただし崇高の美学には、そこから排除された労働が不在として、つまり表象不可能な「分裂」の痕跡としてかならず残されているのです。 ◇崇高な「スーパーマリオ」 では、『飛ぶ孔雀』における「分裂」はなにを表現している──正確には表現していない──のでしょうか。わたしにはそれが東日本大震災における「津波」と「原発事故」という、まったく異なるタイプの災害の経験に由来するように思われます。「シブレ山」の電気をめぐる事故と中洲の増水を結びつける因果は不可視のまま、両者は分離しつつ共存する出来事として描かれています。山尾悠子の作品歴においてむしろ例外的ともいえる、統一した鮮明な像をけっして結ばない数々のイメージの錯乱と分裂は、ロマン主義的な崇高がもはや不可能な現実によってもたらされたものではないでしょうか。それは原発事故の直接の原因が津波でありながら、被災の状況とその後の復興の進展が、津波の被害と原発事故とで大きく乖離し、統一した像をもたない現状と重なります。 事故が起きた際の危険性ゆえに大都市から地理的に隔たった場所に立地する原子力発電所と、そこで生産される電力の主要な消費地である大都市との「離散的な関係」は、植民地と本国との「空間の分裂」にアナロジーが可能です(注10)。わたしたちの日常生活と原子力発電所のあいだには、秩序の外に放逐された不可視の亀裂が横たわっているのです。福島第一原子力発電所が地震と津波の結果、どのような不可避な自然の威力と錯誤と犯罪によって爆発するにいたったのか、その検証は政府と電力会社によってしばしば隠蔽されてきました。爆心地は今なおブラックボックスとして放置されたままです。 その一方で、わたしたちはこの解消不能な「裂け目」から目をそらし、事故をなかったことにすることにのみ腐心してきました。東日本大震災以降の崇高とは、「裂け目」を隠蔽するヴェール以外のなにものでもありません。その象徴が今年開催を予定されていた東京オリンピックです。その招致演説で福島原発事故の現状を「アンダーコントロール」と言い放った安倍前首相が、2016年のリオデジャネイロ・オリンピックの閉会式で「スーパーマリオ」の扮装をして登場したのは、バークの崇高の論理からすれば必然でした。マリオというキャラクターは「配管工」であり、これはオリンピックのアスリートたちが「運動」を通じて栄光を獲得する全世界の労働者のシンボルである、という意味なのです。 もちろん安倍前首相を含むわたしたち視聴者は、アスリート=労働者が産出する崇高を享受する消費者であるにすぎません。わたしたちがスポーツから受ける「感動」の内実は、アスリート自身の崇高の感情を──マスメディアを通じて──収奪しているのです。そして消費者にすぎないことがわたしたちに「悦び」をもたらし、「自己保存」を保証してくれます。7年8カ月という長期に及んだ第2次安倍政権が国民にもたらした最大の魅惑とは、きわめて現代的にバージョンアップされたこの崇高という感情でした。 ただしこのバークによる崇高が破綻を覆い隠しきれないこともまた、論理的な必然なのです。オリンピックにむけて建設された新国立競技場に聖火台とサブトラックを設置する場所が存在しないのは、たんなる設計ミスというにとどまらず、むしろ精神分析的な否認とすら思えます。わたしたちは──新型コロナウイルス禍という事態にいたるずっと以前から──崇高の論理に導かれて東京オリンピックの破綻をひそかに予感し、それを容認しようとしていたのかもしれないのです。 (注1)阿部潔『東京オリンピックの社会学』コモンズ、2020年、9頁。 (注2)同書、224頁。 (注3)エドマンド・バーク『崇高と美の起源』大河内昌訳、『オトラント城/崇高と美の起源』研究社、2012年、280頁。 (注4)マルグリット・ユルスナール『ピラネージの黒い脳髄』多田智満子訳、白水社、1985年、57頁。 (注5)バーク、前掲書、279頁。 (注6)同書、340頁。 (注7)エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』中山毅訳、ちくま学芸文庫、2020年、147頁。 (注8)同書、149頁。 (注9)フレドリック・ジェイムスン「モダニズムと帝国主義」、『民族主義・植民地主義と文学』増渕正史・安藤勝夫・大友義勝訳、法政大学出版局、1996年、59頁。 (注10)石川義正『錯乱の日本文学──建築/小説をめざして』航思社、2016年、288頁の大阪万博と原子力発電所の地理/政治的な関係の分析を参照。 =============== 石川義正(いしかわ・よしまさ) 1966年生まれ。文芸評論家。慶應義塾大学卒業。著書に『政治的動物』(河出書房新社)、『錯乱の日本文学─建築/小説をめざして』(航思社)がある。 =============== ◆━━━━━━━━━◆ ―――――――――― α-Synodos 発行・配信:株式会社シノドス 編集長:芹沢一也 ウェブサイト:http://synodos.jp/ お問い合わせ:info@synodos.jp 退会のお手続き:お名前を明記の上、info@synodos.jpまで ――――――――─ ◆━━━━━━━━━◆