2015.07.31

最終回を読む前に――これまでのまとめ

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

経済 #リスク・責任・決定、そして自由!

連載前半部分のまとめ

2013年10月から続けてきました連載もとうとう最終回になります。長らくご愛読下さったみなさまには本当に感謝もうしあげます。最終回に入る前に、ここまでのお話をまとめておきましょう。

連載の前半、第8回までの内容は、昨年11月にPHP研究所さんから、新書『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』として出版していただきました。そこでは、1970年代までの国家主導体制がその後行き詰まって、新しいシステムに転換しなければならなかった原因は何かを探りました。

この転換を私は「転換X」と呼びましたが、これまで、この転換は、民営化、規制緩和などの新自由主義的な「小さな政府」への転換であると理解されてきました。それに対して私は、「転換X」の本質は、「リスク・決定・責任」がなるべく一致するシステムへの転換なのだと論じました。

つまり、(1)リスクをともなう決定は、それにかかわる情報が最もあり、決定が間違った時の被害を最も受けるがゆえに、最も決定の責任をとることができるところに委ねること。(2)それに対して中央の当局者は現場の情報を把握しきれず、決定の責任を自腹で負うこともないので、国家はリスクをともなう裁量的な決定から手を引いて、専ら、民間人のリスクを軽減するために、人々の予想を確定する政策に徹すること。これであります。

(1)によれば、たいていの場合、出資者に経営主権のある営利企業に事業を任せることが適当だということになりますが、場合によっては、従業者や利用者に経営主権のある協同組合やNPOなどが望ましいという結果がここから導かれることもあり得ます。

また(2)は、公的な財政規模が小さいことや、経済活動への公的規制が緩いことを意味しません。「人々の予想を確定する政策」には、労働保護基準や環境保護基準、ベーシック・インカム、インフレ目標による完全雇用政策などがありますが、いずれも働く庶民や弱者大衆のために、公財政から潤沢に予算をかけた高い基準の政策でもあり得るわけです。

第9回〜第11回のまとめ

拙著ではこのようなことを論じましたが、それではなぜ70年代にきてやっと古いシステムが行き詰まり、「転換X」を必要とするようになったのでしょうか。それが、拙著出版後の本連載でまず確認したことでした。

それは、「リスク・決定・責任の一致」と言うときの責任概念と、70年代までのシステムで主流だった責任概念とは違ったからだということでした。

人間関係の仕組みは、悪意のリスクをどう処理するかにしたがって、二種類のやり方に分かれます。一つは、制裁の効く特定メンバーに関係を固定して、なるべくその中で物事をすませ、リスクをその外部に排除するやり方です。もう一つは、とりあえずは分け隔てなく協力相手を求め、そのリスクを排除するのではなくて管理して、危ないと思ったら取り替えるやり方です。

前者では、身内はひいきして最後まで裏切らず、仲間に忠誠を尽くすのが道徳的とされますが、外部に対しては冷酷にしても悪いこととはみなされません。それに対して後者では、同じ集団の人に対しても他人に対しても、分け隔てなく誠実であることが道徳的とされます。日本では前者が「武士道」、後者が「商人道」だと言えます。

そうすると、前者の「固定的人間関係」では、自己決定するしないにかかわらず、もともとから集団の中で与えられた役割を果たすことが「責任」とされます。自分の判断でそこからズレることをすることは、集団にリスクを持ち込みますので、もともと多かれ少なかれ「悪いこと」と評価されることになります。そして、その結果集団に被害を与えたときの「責任を取る」という意味は、「詰め腹を切る」こと。つまり刑罰と地続きで理解されるものになります。

それに対して後者の「流動的人間関係」では、各自がすすんでリスクを背負った判断をすることが求められます。基本的にそれは「いいこと」なのです。そしてその結果自分が損をしたならば、それを自分で引き受け、誰かに被害を与えたならば、それを民事的に賠償することが「責任を取る」という意味になります。ここには元来懲罰的意味合いはないはずなのですが、日本はもともと固定的人間関係が強かったところに、流動的人間関係の方にフィットした「自己決定にともなう責任」概念を無理に取入れたために、近年の日本型「自己責任」論は、世間の期待する道をはずれた行動をした人を罰するための概念になってしまっていると論じました。

「転換X」で「リスク・決定・責任の一致」が求められるようになった背景には、経済・社会のシステム全体が、それまでの固定的人間関係がメジャーであったものが崩れ、流動的人間関係がメジャーなものに転換している流れがあったのだと思います。すなわち、情報通信手段の発展やグローバル化によって、固定的人間関係の外にもチャンスが広がり、耐えざる技術革新もあって、現場で常に、ある程度リスクのある判断をすることが迫られるようになったのだと思います。

第12回〜第16回のまとめ

1970年代までは世界中で、少なくとも建前上は流動的人間関係の取引をしながら、肝心な所で、例えば日本型企業制度や国民国家の枠組みなど、固定的人間関係の原理を守るという、折衷的なシステムを取ってきたと言えるでしょう。この折衷性にフィットしていたのが、国家などの集団を、社会契約論的に個人の「契約」から正当化する理屈でした。ロールズが「無知のベール」論という、いわば我々の誕生前の、どこに生まれるかわからない天上の天使による契約から、リベラルな福祉国家の正当性を基礎づけたのはその典型でした。

ところが、「転換X」で固定的人間関係のシステムがメジャーなシステムとしては崩れていったので、それに合わせて、リベラル派のロールズ流の社会契約論的アプローチも妥当性を失っていったのだと思います。

それに替わって、「転換X」に適合しようとして現われた政策体系が、まずは新自由主義、ついで「第三の道」だったわけですが、前者はナショナリズム、後者はコミュニタリアニズムという、ともに固定的人間関係にフィットした思想をベースにしていたために、流動的人間関係のメジャー化を推進する「転換X」の本質と矛盾し、行き詰まることになりました。

では、「転換X」に真に則る社会思想はどのようなものでしょうか。これまで見られた主要な社会思想の中で、流動的人間関係にフィットした思想と言えば、やはりリバタリアン思想になるでしょう。自由至上主義などと訳される、徹底した自由主義のことですね。「リスク・決定・責任の一致」に必要な、リスクを引き受けた決定を自ら行い、その結果に自ら責任を取る個人は、リバタリアンの想定する人間像そのものです。

しかし、リバタリアンと言えば、福祉にも景気対策にも公金を使わないことを主張する人というイメージが強いです。私はこの連載で、政策担当者の胸三寸のない基準政府をこそ提唱しましたが、決して「小さな政府」を提唱したわけではなく、一定の基準のもとで福祉や景気対策に潤沢な公金を使うべきだという立場に立つことを称しました。はたしてこのようなことが、リバタリアン思想に基づいて正当化できるのでしょうか。

実は、リバタリアンには「左翼リバタリアン」と名乗る一派がいて、福祉などに使うために税金を取ることを正当化しています。特に、人間が作ったわけではない土地などを占有することから得られる利益に課税することは、私有財産権を認める条件の「ロックの但し書き」が満たされないケースであることから、少なからぬリバタリアンによって、ごく自然に正当化されています。

私は、機械や工場から得られる利潤や、専門技能などから得られる比較的高い賃金も、これらの資源の増減に時間がかかるので、短期的には土地と同じような性質を持つ結果として発生したものと考えます。それだけの長い期間をかけて生産設備や専門技能を用意できたということは、社会が「秩序インフラ」を保つために投資したおかげであると考え、その投資からの一定のルールに基づく「残余請求」として、利潤や賃金への課税は正当化されるのだと論じました。

こうして極普通に見られる課税制度が正当化できたとして、こんどは、普通のリバタリアンが、暮らしが窮屈な人を救うために福祉や景気対策を国家がすること自体に反対する理由を、検討しました。その中には、「誰かが自分の望まない状況を強いられたとしても、それが意図的な人為によるのでなければ、自由の侵害とは言えない」というものがあります。しかし、因習とか相互束縛とかの中には、意図的な人為ではないでしょうけど、明らかに個人の自由が侵害されるケースはいくらでもあります。

また、「福祉や景気対策をとって貧者の望みを満たすのは、理性を主人公・人間を対象とする『積極的自由』であって、ソ連みたいな全体主義のモトだから駄目だ」という議論もあります。しかし、普通のリバタリアンが好きな、大資本家がおカネと大組織の力で弱者貧民をコントロールする自由だって、理性を主人公とする「積極的自由」という意味では、ソ連のエリートと五十歩百歩ではないでしょうか。

したがって、リバタリアンの立場を徹底するならば、理性も因習も、意図的であろうがなかろうが、人間の「考え方」による個人への抑圧・統率はすべて、自由の侵害だと言わないわけにいきません。この場合、自由であるべき主人公は、まず第一義的には、本能や欲求や肉体や情動等々の「生身の自分」ということになります。

かくして、例えば「デフレ不況が続く」予想という「考え方」をみんなが共有するせいで、みんなが支出をしぶって本当にデフレ不況になって、働きたいのに職がない人があふれて飢えに苦しむ事態も、財政均衡主義や「シバキ主義」のような「考え方」のせいで、福祉から漏れた多くの人々の生存欲求が脅かされる事態も、みんな個人の自由への抑圧だととらえられます。これらの場合には、人々を支配する「考え方」を別のものに取り替えることで、「生身の個々人」の自由が実現できることになります。個人の自由を求めるリバタリアンの立場に立って、景気対策や福祉を求めることが根拠づけられるわけです。

第17回・第18回のまとめ

しかしそうすると今度は、本能や欲求や肉体や情動等々の「生身の自分」どうしが対立したとき、それでも誰もが自由を満たせる解決となる「考え方」を見つけ出すことがはたしてできるかどうかが問題になります。たしかに、各自が自覚する欲求が、本当に生物学的普遍性を持つ部分に限られるならば、話は比較的簡単です。「他者の自由を侵す自由はない」という単純なルールで調整はつくでしょう。

しかし、長年の因習や文化や宗教などを内面化して、本能や肉体等々の「生身の自分」と必ずしも相容れない「自分」を持ってしまったときにはどうなるでしょう。互いに因習や文化や宗教が異なれば、そうした「自分」にとっての自由どうしは、互いに相容れることができず調整不可能になるかもしれません。この問題を「考え方」による外からの抑圧によらず、個々人の主体的な自由を尊重しながらどのように解決できるでしょうか。

実は、かのカール・マルクスこそ、本能や欲求や肉体や情動等々の「生身の自分」を主人公とする立場から、人間の「考え方」によるその抑圧を批判した人です。そしてこの図式から一貫して社会を分析した論者だったと言えます。それはフォイエルバッハから引き継いだ「疎外論」の図式でした。ただしマルクスがフォイエルバッハと違ったのは、資本主義経済の発展の結果を、歴史の進歩として引き受けたことでした。すなわち、機械化による単純労働化と大量生産によって、人々が「ガーッ」とミキサーにかけられて、生物学的普遍性を持ったプロレタリアート大衆が世界中で生み出されたことです。

このことは、さしあたりは目先のいがみ合いや互いの足の引っ張りあいをもたらすかもしれませんが、本来は全員の自由を満たすための調整を容易化することのはずです。やがて彼らは生きていくためには共通の利益のために団結して労働運動を闘うほかないことに気づくだろう。そして敗北し、また団結し、また敗北し、またまた団結しということを繰り返すうちに、ますます幅広い人々を団結に巻き込み、ますます幅広い人々の利益を調整する力量をつけていくに違いない。かくしてその果てには、資本家の支配を打ち倒して、支配者の命令にも市場の力にもよらず、すべての個々人の納得づくで生産をまわす自由な世の中が実現できるのだ──これがマルクスの展望でした。

しかし、マルクスやエンゲルスの死後の資本主義の動きは、複雑労働化で労働者の互いの異質性を増していく方向に進んだのでした。そうすると、労働者が、文化的、民族的アイデンティティを身につけてしまい、互いに直接に調整することが難しくなってしまいます。だから、経営エリートが「考え方」を作って、労働者が他律的にそれを受け入れて働くという、資本主義の階級システムがまたも必然的なものになってしまったのだと思います。

かくしてこの時代、企業や国家などの集団に人々が閉じ込められ、固定的人間関係がメジャーなシステムになったことで、個人の自由をあくまで求めることは、人類にとって達成可能な課題とは意識されなくなったのだと思います。せいぜい、先述のとおり、社会契約論的に理屈づけることで、個人と全体との折り合いをつけるほかなかったのだと思います。

しかしまた時がめぐって「転換X」の結果、再び流動的人間関係がメジャーなシステムになって、この「折り合い」にとどまっているわけにはいかない時代がきました。企業や国家などの集団が崩れて、固定的人間関係における「同胞助け合い」原理に訴えた弱者救済が時代に合わなくなったとき、福祉は、流動的人間関係にふさわしい「個人の自由」原理によって基礎付けざるを得ません。それは、「まっとうに生きさせろ」ということ、すなわち、上で述べた通り、本能や欲求や肉体や情動等々の「生身の自分」にとっての自由の実現という理屈によるほかないと思います。

前回のまとめ

ところが現代は、マルクスの時代と異なり、人々はさしあたり互いに異なる何らかのアイデンティティを抱いてしまっています。これを超えてみんなにとって自由になる解決がどうしたら可能なのでしょうか。

これについて、アマルティア・センさんが「アイデンティティの複数性」と称する議論をしています。私なりに敷衍すれば、一人の人が、職場のコミュニティに属し、労働組合に属し、地域のつながりに属し、スポーツクラブに属し、趣味のサークルに属し、文化や環境のNPOに属し、消費や医療や介護の協同組合に属し、世界的なNGOにも属し等々と、様々なコミュニティに同時に属して、多様なアイデンティティを同時に獲得していくことで、どの特定の集団のアイデンティティにも埋没してしまうことのない自立した個人が育っていくという展望です。私も以前から同様のことを提唱しており、マルクスの見た単純労働化の「喪失による普遍化」の展望に対して、これを「獲得による普遍化」と呼びました。

このような多様なネットワークを通じて、様々な人が納得する「考え方」が発見されていって、福祉にしろ何にしろ、それに基づいて人々の生活が作られて「生身の自分」の自由が実現していくということだろうと思います。

センさんは、完全な正義の制度を構築しようとするロールズ流の社会契約論のアプローチを批判しました。それに替えてセンさんが提唱したアプローチは、現場の事情に則して少しでも正義にかなった方向を目指すというものです。

ロールズ流の社会契約論が、同胞原理に基づく福祉国家の一律の福祉供給を正当化したのに対して、私見では、このセンさんのアプローチは(旧福祉国家型に替えて)、NPOや協同組合が、現場の事情を汲み取りながら、事業として福祉供給するやり方を正当化するものだと思います。

その点から言うと、リバタリアンの代表格であるノージックが、ロールズ同様に社会契約論的に、全体的な「あるべきシステム」を構想しているアプローチは、全く設計主義的で、本来リバタリアンにあるまじき態度だと言えます。それに対して、センさんは自分のアプローチを、スミスやJ・S・ミルといった古典的な自由主義の流れの中に位置づけていますが、それは全くそのとおりで、こっちこそがハイエクも含むリバタリアンの王道の態度なのだと思います。それが、NPOや協同組合の自由な創意や、利用者の側の自由な選択やイニシアチブなどを根拠づけるのにふさわしい考え方だと言えるわけです。

他方で、NPOや協同組合の事業は、恣意なき明確な基準に基づく公的資金によって支えられるべきだというのが私見でした。同様にその他、労働基準や環境保護基準等々の「基準政策」が必要ということでしたね。もちろんこの中には人権原理なども入ります。これらは、実効的であるためには、世界的な共通化に向けた擦り合わせを必要としていくのでした。

センさんは、ロールズ流の普遍的「正義」の設定を拒否しますが、しかし現場のできあいの価値観にズブズブにはまっていていいと言っているわけではありません。現場での「正義にかなった方向を目指す理性的精査」を提唱します。しかしこれは、人々がみんな、何かしら「普遍的にあてはまること」を目指す方向性を持っているからこそ成り立つものだと思います。

これは、十年やそこらで実現することを目指す設計主義ではありません。カントは、設計主義的に実現することを意図する青写真的理念を「構成的理念」と呼ぶ一方、自分たちの目の黒いうちの実現などさらさら意図しない理想的抽象理念を「統整的理念」と呼び、前者ではなく後者の方を提唱しました。実現などできなくてもいい。ただ、日々の選択を反省し、ちょっとでもマシな方向を目指すための基準にするためです。

ロールズ流の普遍的「正義」は「構成的理念」ですので、これをセンさんが拒否したのは正しいと思いますが、しかし他方、センさんは、全世界にあてはまる普遍的な「統整的理念」の方は、しっかりと抱いているのだと認めるべきだと思います。

全世界での共通化に向けて擦り合せを目指していく基準政策の方は、全世界にあてはまる普遍的な「統整的理念」に対応するものだと思います。かつての固定的人間関係時代の「構成的理念」(ロールズ流社会契約)が、流動的人間関係がメジャーになる「転換X」に合わせて、これからは正反対の二方向に分解していくのだと思います。一方ではあくまで具体的現場の事情に則するアプローチへ。他方では全世界にあてはまる普遍的「統整的理念」へ。この二つの方向が互いに活かしあうことが、「獲得による普遍化」の解決なのだと思います。

以上が、この連載で述べてきたことのまとめです。それでは最終回に進みたいと思います。

最終回「新観念創造者としての自由と責任――突然変異と交配、そして淘汰

プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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