2014.01.27
フランスの共和主義とイスラームの軋轢から「市民性教育」について考える
最近、市民性教育(education for citizenship, citizenship education) について注目が集まっており、日本でも学校で、法教育や民主主義を学ぶための市民性教育が取り入れられつつある[*1]。
ヨーロッパでは欧州統合の進展と移民の増大に対応しつつ、平和で民主的な社会を維持・発展させるために、欧州評議会(Council of Europe)の民主的市民性教育(Education for Democratic Citizenship, EDC)というプログラムが行われている。2013年7月に加盟したクロアチアを含むEU28か国すべてが欧州評議会に加盟しており、EDCと同じ理念の市民性教育がそれぞれの国で行われているが、その内容は国によって異なる。それは国ごとに国籍法が異なるように、市民(citizen)や市民性(citizenship)の考え方が異なるからである。
フランスでも、EDCと同じ方向性の教育、すなわち人権や民主的市民性を重視し、知識だけでなく行動を通してそれらを育む教育活動や、学校というひとつの共同体の生活の中で責任感のある市民を育てるための活動が行われている[*2]。これに加えてフランスでは、共和国憲法にも理念として掲げられている非宗教性(laïcité、ライシテ、脱宗教性)を学校でも保障している点が特殊で、公共の場で非宗教性を守る市民の育成が目指されている。
ところが、現在のフランスでは非宗教性が守られない事態がおきて問題となっている。それは、国内に多くのムスリム人口を抱え、公私の区別なく信仰を示す彼らが、公共の場でもそれを通そうとしたときに非宗教的な価値と衝突してしまうことが主たる原因である。
なぜフランスにムスリムが多いかというと、移民社会だからである。第二次世界大戦後、北アフリカの旧植民地諸国から労働者を大量に呼びこんだ結果、非ヨーロッパ的文化や価値観、イスラームを信仰する移民が定着している。
国籍法によれば、フランス生まれであれば外国人でもフランス国籍を取得することができ、外国人の帰化も容易である。ところが現実には、たとえフランス生まれであっても、そしてフランス国籍を取得しても、一般市民から「移民」として認識されてしまう。そのため、フランスに何年も定住している者でも「移民」と呼ばれるのだ。
さらに、「移民」を識別しやすい社会環境がそれを加速させている。大量の外国人労働者を受け入れたものの住宅供給が間に合わず、国が大都市郊外に団地を急いで造成し、家族世帯を低家賃で住まわせた。しかし移民人口が増加するにつれ、白人フランス人が団地のある地域から退去していった。そのため「移民」だらけの団地(cité、シテ)――「都市」(cité、シテ)とは名ばかりの閉じ込められた空間――となってしまい、ゲットー化が進んだ。現在では、治安の悪化や犯罪の温床という負のイメージや、ムスリムや北アフリカの旧植民地出身者が集住していることから、この団地はフランスの中の「異国」の様相を呈している[*3]。
このようにフランスでは、すでに長期間フランスに滞在し、子どもも生まれ、教育を受けて成人し、フランス国籍ももっているのに、「移民」と呼ばれ、外見、名前、住所によって就職差別や人種差別にあっている人々と、フランス社会との間で軋轢が生じている。
そうした中で、移民の社会統合の難しさを表したのが「スカーフ問題」である。1989年にパリ郊外の公立学校に通うムスリムの女子生徒がイスラームのスカーフ(ヒジャブ)を被って授業をうけることが、非宗教性に反するとして問題となった。以来、教育現場で10年以上くすぶり続けてきたのだが、ついに国会で学校における宗教的標章の着用を禁止する法律が2004年に可決され、学校からスカーフが排除されることになった。
これは、学校という公共の場に顕在化したイスラームを、非宗教的な共和国がその理念に反するということで強制的に排除した事件であった。この間いかに市民を育成するかが課題となり、市民性教育もライシテを明言する内容になっていった。
スカーフ問題やライシテに関しては社会学者や教育学者による先行研究が多数あるが[*4]、ライシテを市民性教育でどう教えているのかを示したものは管見の限りではない。筆者は「フランス共和制と市民の教育」について近藤孝弘編『統合ヨーロッパの市民性教育』(名古屋大学出版会、2013年)で論じた。本稿では共和主義とイスラームの軋轢についてさらに踏み込み、非宗教性であるがゆえに社会統合の場となってきた学校で、人権や民主的市民を育てる市民性教育に力をいれているのに、イスラームを排除しようとしているという矛盾を指摘しながら、市民性教育がめざす「市民」とは何かについて考えてみたいと思う。
[*1]お茶の水女子大学付属小学校など個別の学校における実践や、日本弁護士連合会の活動があげられる。
[*2]François Audigier, Project “Education for Democratic Citizenship”, Basic Concepts and core competencies for education for democratic citizenship, Council of Europe, Strasbourg, 26 June 2000; François Audigier, L’éducation à la citoyenneté, 1999, INRP.
[*3]フランスの旧植民地出身の移民については「共和国の原住民」という運動がある。この用語に、「共和国」と、国内に住む植民地出身でフランス人とは区別されている「原住民」という微妙な関係を見出せることから、「原住民」の集住している地域はフランス人にとってはおそらく「異国」なのだと考える。
[*4]例えば、ジャン・ボベロ『フランスにおける脱宗教性の歴史』三浦信孝・伊達聖伸訳、白水社クセジュ文庫、2009年、ジョーン・W・スコット『スカーフの政治学』みすず書房、2012年、藤井穂高「現代フランスにおける公教育と宗教」『フランス教育学会紀要』、第18号、pp.59-68、2006年など。
社会統合の場としての非宗教的「共和国の学校」
なぜスカーフをとらないだけで、ムスリム少女を学校から追い出そうとするのか。それを考えるには、フランス社会が長年、公的な領域から宗教的影響を追放することに闘ってきたことを想起しなければならない。
「カトリックの長女」といわれてきたフランスでは、国王と教会の結びつきが強く、民衆に対する宗教的影響も強かった。しかし1789年革命の後、カトリック教会勢力を国家権力から排除しようとする共和主義勢力とカトリック教会、そして王政復活をのぞむ王党派勢力の間で100年にわたって対立が続いてきた。
そうした中、1881年以降、共和主義者のフェリー教育大臣は、国家による小学校の設立とその無償化を進め、6~13歳までのすべての子どもに通学を義務付けた。そして学校でのカトリック教理問答を廃止し、教室から十字架を取り外すなど、宗教的に中立な場と教育内容を定めた。さらに教員養成を国家が行い、世俗教師を学校に派遣して、司祭を教室から追放していった。こうして、それまで民衆教育を担ってきたカトリックから子どもたちを徐々に引き離し、国家によって民衆の脱宗教化が行われていったのである。
さらに1905年には「国家と教会を分離する法律」が成立し、共和国は人々の信仰の自由を保障し、いかなる宗教も承認しないことが定められた。この「政教分離法」は、共和主義者と対抗関係にあったカトリック教会を国家権力から切り離す狙いがあったが、他方で、プロテスタントやユダヤ教徒といった宗教的マイノリティの信仰の自由を保障したことも重要である。というのも、この法の制定直前に起こったドレフュス事件をきっかけに、フランス社会に激しい反ユダヤ主義の嵐が起きたことで、1789年の人権宣言でフランス市民として認められたユダヤ人に対する人種差別がまだ残っていることを露呈させたからだ。
宗教的な違いによる社会的分断が露見したときに政教分離法が制定されたように、ライシテは社会的に影響力をもつカトリックを公的権力から切り離すと同時に、国家が宗教的中立性を保ち、マイノリティの社会統合を保障する考え方でもあったのである。
しかも「共和国の学校」は全面的にカトリックを駆逐したわけではなく、寛容さも残っていた。たとえば、週1日は公立学校を休みとして、家庭で教理問答を実践する日を保障している。今でも水曜日は授業がないのはその名残である(実際にはほとんどの生徒たちはスポーツなど他のことをしている)。また、修道会から子どもたちをすべて公立学校に受け入れることは物理的に不可能で、カトリックの私立学校への通学も認められていた。
共和主義者の間でも、教育からカトリックが退場することを望む者もいれば、さまざまな主張や相反する意見を前にしても知性を働かせられるような自由な教育を望む者もいた。結果的に、後者の立場が教育現場でいかされ、ケースバイケースの対応が行われてきた[*5]。
今でも、保育学校(école maternelle)から高校(lycée)までの子どもたちの約20%が私立学校に通っており、その割合は20年前から変わらない[*6]。私立学校では宗教教育の時間が保障されていることもあり、95%がカトリック学校である。とはいえ、教育内容も教育省が定めた学習指導要領に則っており、教員の質の基準も、試験の編成も、公立学校と同じである。また生徒たちも、私立と公立の間を移ることはよくあり、私立学校を選択する家庭の理由も、宗教以外にも、生徒が受け入れられやすいとか、子どもに応じた教育指導があるなど、さまざまな理由が挙げられる[*7]。
要するに、共和主義と宗教勢力のせめぎ合いが公立学校を舞台に行われてきたとはいえ、ライシテが適用されたのは「教育内容」、「学校という場」、「教師」に関する3点であり、生徒や家庭に対して非宗教性が強制されることはなく、宗教的実践を保障するような逃げ場も用意していた。こうしたバランスがライシテを浸透させてきたといえる。ムスリムについても、スカーフを身につけたままで授業を受けられていた公立学校もあった。ところがムスリム少女がスカーフを取ることを拒否し、校長の説得に従わなかったため退学させられたことをメディアが騒ぎ立ててから、急にスカーフ少女が学校から排除されるようになっていった[*8]。
筆者が個人的にフランスで会った教員たちは、これまでとくにライシテが問題になるようなことはなかったが、近年、公立学校が多様な生徒を受け入れるようになり、ライシテを知らない生徒も増えてきたので、「共和国の学校」で再びライシテを教えなければならないという認識であった。
[*5]ボベロ、2009年、pp.107-8。
[*6]“Public-Privé: quelles différences?”, Education&formations, no.66, juillet-décembre 2003, p.167.
[*7]Ibid.
[*8]「スカーフ論争―隠された人種差別」ジェローム・オスト監督、2004年、パスレル。
イスラーム嫌悪の中でのライシテ再考
こうした教師の考えとは別に、政治家やメディアは、イスラーム嫌悪の風潮に乗って、ライシテを共和主義者にとって都合よく解釈していった。それはスカーフ禁止法に至る経緯に見出せる。
スカーフに関する最初の「事件」が起こった1989年は、共和国誕生200年目にあたる年であったことも、スカーフによって共和国の学校が不安定になっていると問題視させた。この時の対応としては、社会党政権の教育大臣はスカーフをとることを強制するのではなく、対話によって生徒を思いとどまらせようとし、国務院も対応を学校長の判断に委ねた。ところが現場では、学校とムスリム少女と保護者の間を仲介する者が出てきて、学校側にスカーフを理由に女子生徒を退学処分にするのは難しいが、スカーフを取らないために出席数が不足するので退学させることができると助言する者などがでてきた[*9]。
このように教育現場が混乱する中、中道・右派政権の教育大臣は1994年9月20日に、宗教的帰属を誇示的(これみよがし)に標章するものを着用することを禁止するという政令を出して収拾しようとした。この結果、スカーフ着用を理由とした退学処分が増加したが、同時にこうした対応をめぐって教師たちの間に亀裂を生んだ。
2001年に起こった9.11テロ以降には、イスラームへの脅威がフランスでも高まり、スカーフをかぶって授業を受けようとする少女たちはメディアによってイスラームの象徴と目され、共和国を脅かす存在とされていった。
さらに、1905年政教分離法制定100周年を控えていたことも、ライシテ再考を後押しした。右派のシラク大統領がライシテを検討する諮問委員会を設置するよう命じ、2003年7月~12月、「共和国とライシテ」について各地で公聴会などを設けて検討し、公共の場での個別な宗教的実践を法によって規制すべきとの答申を出した。同委員会では、ライシテや共和国秩序を保つ以外に、夫や兄弟からスカーフ着用を強制されているムスリム女性を学校では解放すべきだという人権擁護の視点や、イスラーム原理主義者の影響から子どもたちを守らなければならないという理由から、法による規制という判断が出された。
これに対して、法規制に反対する立場からは、「スカーフ少女たちは教育を受ける権利がある」、「彼女たちこそ教育によって近代化されなければならない」、「行き場を失うから、放校すべきではない」といった意見や、「国が法によって規制すべきことではない」といった意見が出された。
この委員会では、公立学校に「これみよがし」な宗教的な標章の持ち込みを禁止するという提案に対して、一人が反対する以外[*10]すべての委員が賛成を表明した。この答申を受けて、国会では議員の賛成多数で2004年3月にいわゆる「スカーフ禁止法」が制定された。そして同年9月の新学期から公立の小学校(école)、中学校(collège)、高校に適用された。
同委員会が行った提案の中には、学校で異なる宗教の考え方を教えることや、イスラームやユダヤ教の宗教的行事や祝祭日の意味について理解を深めること、学校や企業や病院などの食堂で、ムスリムが食べない豚肉に代わる食品や、カトリック教徒が金曜日に魚を食べる習慣など、食に関する要求に理解を示すこと、葬儀に関する宗教的要求を考慮するなど、信仰の多様性を尊重する「開かれたライシテ」についても提言された。
しかし国会で採択されたのは宗教的標章に関することだけであった[*11]。しかも、この法律は表向き、「公立学校は共和国の市民を育成する、世俗的な学校であるため、宗教的なものを持ち込むことを認めない」として、あまりにも目立ちすぎる、他者への宗教的勧誘を目的とするような宗教的標章の公立学校への持ち込みを禁止した。その例として、イスラームのスカーフ、ユダヤ教徒の男性が頭につけるキッパ、シーク教徒のターバン、あまりに大きな十字架などの着用を禁じた。
ところが「これみよがし」であり「宗教的勧誘を目的とした」宗教的標章の根拠を何に求めるのかが明確ではなかった。そのため、女子生徒が妥協してバンダナを巻いてきた場合にこれをスカーフとみなすかどうかは結局、校長の自主判断とされた。こうして、学校現場では厳格に法を適用しようとする校長・教師と、スカーフをかぶる女子生徒と彼女らを守ろうとする教師との間に修復しがたい亀裂を生んだ[*12]。
さらに、スカーフ以外はとくに問題となっていなかった。この2004年法の施行に関する報告によると、639件(2004-05年)の宗教的標章が問題となったが、内訳は2件の大きな十字架、11件のターバン、これ以外はすべてイスラームのスカーフである[*13]。このことから、この法律がイスラームをターゲットとしているのは明白だった。また、このほかの問題についても、委員会では検討が行われたのにもかかわらず、このように政治の場でスカーフが焦点化されていった。
スカーフ少女は「共和国フランスの敵対者」なのか
メディアによる報道の仕方にも問題があった。スカーフ少女についてメディアが過剰に報じたため、スカーフを着用した少女の数は少なかったにもかかわらず、実際よりも多くの人が着用しているという印象を与え、多くのフランス国民の間に恐怖を煽った。
先の報告書によると、学校の懲罰委員会によって宗教教育が認められている私立学校への転学、通信教育という代替措置に生徒が応じたケースもあったが、退学は47件(44件がイスラームのスカーフ、3件はシーク教のターバン)裁判に訴えたのが28件あった(のち3件は取り下げた)。それでも1994年政令が出された時は、宗教的標章の問題が3000件(1994-95年)、140件近くの退学者を出したことと比べると、数としては大幅に減っていた。しかしこのような彼女たちの存在を大きく誇張したメディアの報道の仕方によって、彼女らにはそんな意図はなかったのに、「共和国フランスの敵対者」というレッテルが貼られた。そして、退学という学校からの排除や、社会的接点のない通信教育という社会からの排除にあい、行き場を失ってしまった。
本来、学校という場所は市民を育成する場所である。法規制派たちの根拠でもあった「(ムスリムの)男性から守るべき対象とされた女性」である少女たちは、より一層守られなければならない立場である。それなのに、市民や「共和国」の政治家らによって、スカーフはライシテに反するイスラームの象徴とされ、学校から追放されてしまった。
そもそも公立学校で非宗教性を保障されたのは「教育内容」「教育の場」、「教師」であって、生徒たちの脱宗教化を求めているわけではない点を考えると、この事態が異常であることがよくわかる。すなわち、少女たちにスカーフを取れと要求することは、本来のライシテの原則には含まれていないのだ。「スカーフを取らない」から「ライシテに反する」という主張は、ライシテの正しい解釈ではなく、スカーフ論争の中で作られていったものと言わざるを得ない。
また、スカーフ論争の際にイスラーム主義者の勧誘を危険視する者がいたが、これに対してアメリカのフェミニスト研究者は次のように反論している。
「スカーフ禁止法によって主張されたのは、ヒジャブをかぶることで個人的/宗教的アイデンティティを獲得する人々の差異を許容できないということであった」が、実際には「スカーフをかぶった少女たちが同級生に自分たちの信仰を強要しようとはせず、たんに自分たちのアイデンティティの感覚を失わせる服装は、自分たちからはできないと主張しただけであった」[*14]。
このように、10代の少女たちのスカーフ着用について、自己の確立や思春期特有の迷いによるものと考える方がより説得力があるといえるだろう。そう考えると、スカーフを取らせようと躍起になる大人たちの反応は異様に映る。さらに、スカーフ禁止法以後、この傾向はサルコジ大統領の下でエスカレートしていった。2010年にはイスラーム女性の全身を覆う「ブルカ」や「ニカブ」の着用についても公共の場で禁止する法が可決され、翌年4月にヨーロッパで初めて施行された[*15]。こうした一連のスカーフをめぐる法規制に、イスラームを排除したいという共和主義者による政治的な意図を感じざるを得ない。
[*9]Ibid.
[*10]ジャン・ボベロのこと。
[*11]Rapport au Président de la République : Laïcité et République, Commission présidée par Bernard Stasi, Paris : La Documentation française, 2004.
[*12]BBCのフランス・スカーフ禁止法に関するドキュメンタリー番組(The Headmaster and the Headscarves, BBC World, 29 March 2005)より。
[*13]Application de la loi du 15 mars 2004 sur le port des signes religieux ostensibles dans les établissements d’enseignement publics(Ministère de l’éducation nationale de l’enseignement et de la recherche), juillet 2005
[*14]スコット、2012年、p.107。
[*15]この後、ベルギー(2011年7月法施行)、オランダ、イタリアにも波及している。
市民性教育の概要
スカーフ事件が問題化する中、教育省は将来の市民を育てるため、公民教育の中でライシテを強調していった。まず簡単に、フランスの市民性教育と、公民教育の位置づけとその内容について述べよう。
1996年以降、市民性教育(éducation à la citoyenneté)という名称で、次の3つの柱で構成されている。
(1)知識の伝達を重視した教科「公民教育」(éducation civique)
(2)「学習生活の時間」(heures de vie de classe)という日本の学級会のような学校生活での問題解決型の活動や生活体験を重視した形の活動
(3)「生徒代表の養成」によって生徒代表を学校の会議へ参加することで生徒自治を重視する活動。
(1)の公民教育は、保育学校から高校までの各教育段階で教科として教えられている[*16]。その内容をみると、保育学校では子どもを児童にするための教育が行われている。小学校では、礼儀や態度(人の話を聞く、他人を尊重する)を学ぶ道徳的側面、生徒たちの間で話し合いを通じて問題を解決する社会性のための教育、フランス共和国やEU(欧州連合)の価値や基本文書(とくに人権宣言)の重要性といった政治教育が行われている。最近ではフランスの国歌への理解も、アイデンティティ強化の観点から加えられた[*17]。
中学校では、「歴史・地理」科の教員が「公民」科を教えており、4年間で権利と義務や、多様性と平等、個人および集団の権利、自由、民主的市民権について、身近な生活から国までさまざまなレベルの問題に関連させて学習する内容となっている[*18]。
高校では「公民・法・社会」科という枠組みの中で、生徒同士が討論する形式で、市民権の概念を3年間学ぶ。1年生では地方自治体からEUまでの異なる行政レベルの代表者の選出に関する権利の行使や、移民の社会統合、異質性の排除の過程、文化的多様性[*19]、2年生では普遍主義と特殊主義、ライシテ[*20]について学ぶ。
高校でライシテを公民教育はどのように教えているのか
高校1年の学習指導要領の中の「市民権と統合」では、ライシテについて先の諮問委員会の報告やスカーフ禁止法に則り、次のような説明を行っている。
「市民権は個別のアイデンティティを表明することを選んだり、個人が宗教や個別の歴史を表明したいと思うことに反したりせず、自由にそれを表明することができ、多様性に対処している。しかし多様性にも限度があり、政治秩序と宗教的秩序を分けなければならず、さらに各人の尊厳の平等は特殊文化の実践によって妨げられてはならない」
つまり、個々のアイデンティティや宗教といった多様性をフランス社会は受けいれてきたが、もはや限界に達しており、政教分離に反するような特殊主義は許容できない、という意味である。そうした現状を教えるために、3段階の指導例が示されている。
「国家は宗教に対して中立であるという原則を強調する(第1段階)。多様性の限度について許容されているものと許容されなければならないものを生徒に考えさせる。人権と相いれない実践、たとえば(1)少女の性器切除や男女の権利の不平等について受け入れられるか(第2段階)。市民権の手段化の問題、つまり私的領域において特殊な言語を使う自由が、(2)自動的に公的領域、病院、行政、政治制度の中で認められるか。具体的には、各人の文化的自由や集団生活の要求をどのように調整するか。市民権や共通文化の場である公的領域のなかで多様性をどこまで受容できるか(第3段階)」(以上、太字および番号は筆者によるもの)
強調した部分の説明はムスリムの最近の特殊的要求を想像させるが、それをフランスでは許容できないものとして提示している。(1)については、イスラームの非人権的な風習文化としてフランスでは誤解されることが多い[*21]。
(2)では直接言及してはいないものの、ムスリム女性が肌を露出させたくないために全身を覆った水着を公営プールで着用しようとした問題[*22]や、ムスリム男性が自分以外の男性に妻の身体を触れられたくないという理由で男性医師の診察を拒否するといった事態を想い起こさせ、ムスリムの特殊性を考えさせる内容となっている。このように教材の内容がムスリムに焦点を当てつつ、文化的要求や態度に対する許容の限界はどこかについて、高校生に考えさせるものになっているのである。
2年生ではムスリムへの焦点化がさらにはっきりする。「ライシテの争点」では、「歴史の過程が異なるムスリムの伝統をもつ人々をどのように統合するか」といった問題を扱い、「学校における権利の点からみたライシテ」といったテーマで「スカーフ事件」を取り上げている。「宗教的実践」、「特有の宗教的標章」、「(食事など)特殊な実践」が学校で起こっていることや、「原理主義の高まりが現実となっている」ことについて、討論を通じて生徒たちに考えさせる内容となっている。
このように、高校では今日的な社会テーマであるとはいえ、ムスリムに焦点を当て、彼らの宗教的実践や要求に対してどこまで許容するのかを考えさせる内容になっている。
[*16]ただし、義務教育は6歳~16歳までで、保育学校は含まれない。
[*17]直接的なきっかけは、2001年10月にフランスとアルジェリアのサッカー親善試合が行われた際に、フランス国歌斉唱をしている最中、アルジェリアのサポーターからブーイングが起こり、そのサポーターのほとんどがフランス在住の移民の若者であった。これがフランスの政治家の怒りを買い、フランスのアイデンティティを強化する方針がだされた。
[*18]現行の学習指導要領(2008年)より。
[*19]現行の学習指導要領(2002年)より。
[*20]現行の学習指導要領(2000年)より。
[*21]実際、フランスのリヨンにあるモスク(Grande Mosquée de Lyon)のサイトには「イスラムの少女の割礼:適法か、違法か?」という題で、少女の割礼をコーランも預言者も義務にしていないし認めていないという説明が掲載されている(http://www.mosquee-lyon.org/forum3/index.php?topic=16489.0)。 同様に、人権団体(No Peace Without Justice)のサイトにも「イスラームの観点からみた少女の性器切除」という題でイスラーム法学者(ウラマー)の説明を紹介しながら(http://www.npwj.org/FGM/L%E2%80%99Excision-des-filles-au-regard-de-lIslam.html)、イスラーム法の解釈が紹介されている。裏を返せば、これだけ人々がこの問題とイスラームを結びつけていることの表れだといえ、こうした「誤解」がイスラームの特殊文化への批判を招いているといえよう。
[*22]「イスラム教徒用水着「ダメ」仏の公営プール拒否で論議」朝日新聞、2009年8月13日
高校生たちの反応
現代史に時間を割かない日本から見ると、社会に亀裂を生んでいる争点を授業で扱うことは問題にならないのか、またムスリムの生徒もいる中で、「多様性の限界」や「許容できるかどうか」について討論させながら判断させることによって、生徒たちを分断することにはならないのかと、心配になるほどである。
ライシテが強調された市民性教育を学んだ高校生たちの反応はどうなのか。教育省が描くような、人権意識をもち、責任をもって自ら行動できる民主的市民性をもった、非宗教的な市民が育成されているのだろうか。
スカーフ禁止法制定時に高校生だった人に話を聞くと、「こうしたテーマは授業で取り上げられなかった。学校や教師によって違う」ということだった。また、公民科の授業に関する仏教育省の調査によると、教師が「教えた」という内容と、生徒が「学習した」と答える内容がだいぶ違っていた[*23]。このように、学習指導要領で示されていても、学校や教師によって取り扱い方は異なり、さらに教師が授業で取り扱ったとしても生徒たちが正しく受け止めるとは限らない。
だが「スカーフ論争」に登場する高校生たちの反応をみると、ライシテは現実問題として彼らに突きつけられた。ところが当事者たる生徒たちの意見を無視して論争を繰り広げる大人たちを見て、「報道される話と現実のスカーフ少女たちは全然違っていて、唖然としちゃう」と呆れている。スカーフを理由に放校された少女たちは「発言権を与えられない」、「先生たちは攻撃的で、目の敵にされて辛かった」、放校されて「復学しても学校をたらい回しにされて、まともに授業を受けられなかった」と述べている。それでも彼女たちは「フランスで生まれ育ち、他の国を知らない」ため、この国で生きていくしかない。
このように、世の大人たちから直接スカーフ論争を教室に持ち込まれた高校では、生徒たちはスカーフをかぶる者もそうでない者も困惑しながら、机上の議論ではない、「生の」ライシテの問題に向き合っていた。
ある高校生は「同級生が放校される事態になって、大変な問題なのだと立ち上がり、彼女たちを守るためのデモに参加した」と語る。彼の反応はまさに、市民性教育が目指す「人権意識をもち、責任をもって自ら行動できる民主的市民性」の実践といえる。しかも、教師や大人たちによってスカーフ少女たちを排除しようと学校に押し寄せられる宗教的差別から、同級生を守ろうとした。彼のような態度こそがライシテを守ることに他ならない。
終わりに――「市民」としての行動は何か
本当の「市民」としての行動は何か。市民性教育はあっても、必ずしもすべての教師によって実践されているわけではなく、また実践されたとしても生徒たちが学んでいないということが事実ならば、先の高校生たちが示した市民性はどこで育まれているのか。
スカーフ事件を「生で」体験した生徒の声を聞く限り、市民性教育の理想とする行動をとったのは高校生たちであった。小学校から公民科で「他人の意見を聞く」とか、「異なる人と共に生きる」という教育を受けてきた生徒にとって、スカーフをかぶった同級生が発言権を与えられず、排除されようとしている事態に、権利が守られていないと疑問に思うのは当然であった。放校される同級生の権利を守ろうと立ち上がったのは、まさに市民性教育の実践である。権利や人権に関する知識を現実社会に照らして判断し、責任を持って行動する民主的な市民としての態度がフランスの高校生たちに育まれている。それはやはり義務教育期間に市民性が自然と育まれた結果であるといえるだろう。
それに対して「市民」であるはずの大人たちは、メディアの喧騒に振り回され、政治家による「共和国のライシテを守れ」、「イスラームを排除せよ」という掛け声に踊らされた結果、市民として育てるべき生徒を、「スカーフをとらない」という理由で退学させてしまった。
そもそもライシテは、教育を施す側に非宗教性を保障させてきたのに、教育を受ける側にも押し付け、それがいつの間にか「ライシテの原則」として正当化されていった。かつて、民衆教育を担っていたカトリックを排除するために適用したライシテであったが、今度は国民教育を担っている共和主義者がイスラームを排除する事態となって、ライシテの適用が教育を受ける側(=生徒)に向かうことになった。
そのためにはライシテの再定義が必要となり、一度、再定義されるやいなや、学校を超えた公共の場にも適用範囲が拡大されていった。このライシテの再定義や一連の法規制は、共和主義者がイスラームを排除するために行ったことなのである。
しかし、いまやムスリム移民の子たちもフランス人であることから、共和主義によるイスラーム排除が国民を分断するのは必至である。排除する側もされる側も不満を抱え、イスラームを敵視したサルコジに社会分断の責任を負わせ、大統領の座から引きずりおろした。ところが政権交代しても状況が好転しないので、不満を声高に代弁してナショナリズムを煽るだけの極右政党を支持するという状況が起こっている。
いまヘイトスピーチが話題となっている日本でも、一部のマジョリティの間で外国人嫌悪が強まる一方で、政権与党が愛国心を育むための道徳を教科に格上げしようとし、「昔の日本は良かった」という懐古主義的風潮を煽っている。しかし問題の核心は、貧困や格差拡大、震災復興や原発問題に対する国民の不満にあり、それに目をそむけて、過去を美化しながら「日本人」アイデンティティを掻き立てて排外主義を煽れば、社会を分断し既存政党もやがて国民の支持を得られなくなることはフランスの今を見れば明らかである。そうならないためにも、市民性教育を通じて、平和や人権や民主的な価値を共有し、正しく判断できる市民を育成することが必要なのである。
[*23]鈴木規子「フランス共和制と市民の教育」、近藤孝弘編『統合ヨーロッパの市民性教育』名古屋大学出版会、2013年、pp.115-117.
【お詫びと訂正】1月27日の本稿掲載時において、ハラールミートについての記述に事実誤認がございました。訂正をしてお詫び申し上げます。(シノドス編集部)
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プロフィール
鈴木規子
慶應義塾大学文学部社会学専攻卒業、同大学院法学研究科修士課程および博士課程修了、博士(法学)。フランス・パリ政治学院、ストラスブール政治学院へ留学。日本学術振興会特別研究員を経て、現在、東洋大学社会学部専任講師。政治社会学。専門は、フランスとEUのシティズンシップ(市民権、市民意識、市民性教育)。主著に、『EU市民権と市民意識の動態』慶應義塾大学出版会、2007年。『EUとフランスー統合欧州のなかで揺れる三色旗』(共著、安江則子編)法律文化社、2012年。『統合ヨーロッパの市民性教育』(共著、近藤孝弘編)名古屋大学出版会、2013年。