2016.09.14

「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって

前田拓也 社会学

情報 #感動ポルノ#24時間テレビ#バリバラ

『24時間テレビ』(日本テレビ)の裏側で放送された、『バリバラ』(Eテレ)が注目を集めている。「検証!『障害者×感動』の方程式」をテーマにした同番組では、24時間テレビを意識したフェイクドキュメンタリーを放送。「感動ポルノ」という言葉とともに、なぜ世の中には、感動・頑張る障害者像があふれるのか? と一面的な障害者の取り上げ方に疑問を投げかけた。

今回は、自身の授業で『24時間テレビ』について取り上げるという社会学者の前田拓也さんに、「感動ポルノ」はなぜ批判されているのか、また「感動ポルノ」批判の痛快さがもつ危うさについてお話を伺った。(聞き手/山本菜々子)

『24時間テレビ』と「感動」

――ご自身の授業で『24時間テレビ』について取り上げるとうかがいました。それはなぜですか?

大学では、ケアする人とされる人との関係性や、障害者を取り巻く社会的な困難について考える授業をいくつか担当しています。わたしの専門は社会学なので、「福祉業界」で働くことを目指している学生でもなければ、これまで障害者とさほど接点もなかったような学生たちを相手に話すことがほとんどです。

かれらにとっての障害者って、『24時間テレビ』でちょっと観たことがあったり、『五体不満足』の感想文書かされたよーとか、その程度のつながりだったりします。他でもないわたし自身もそういう大学生でしたからわかるのですが、かれらが障害者をイメージしようとすると、どうしても、メディアを通した「障害者像」に頼らざるを得ないですよね。こうした前提が、まずはあります (*1)。

だから、授業の導入というか、はなしのとっかかりとして、だれでも知っててわかりやすい24時間テレビについて、「あれ、うさんくさいよねー」「感動の押しつけでウザいよねー」みたいなはなしをします。それを受けて講義の感想を書いてもらうと、妙に印象に残っちゃうのか、「いままでなんとなく違和感あったけどやっぱりそうなんだ!と思いました」とか「自分もずっとそう思ってましたけど言っちゃいけないことだと思ってました!」とか書いてくれます。

24時間テレビといえば、”もう番組中何度目かわからないZARDの「負けないで」を歌いながら号泣する徳光和夫” という地獄のような絵ヅラをまっさきに思い浮かべてしまうわたしですが、どうやら24時間テレビというものが、よくもわるくも「障害者福祉」のステレオタイプとしていまだ機能してしまっている。

わたしの知人の障害者が、24時間テレビが放送された翌日に街を歩いていたら、番組に出演していたわけでもないのに、知らない人から突然「がんばってください!」と声をかけられたり、なぜかお金を無理矢理握らされたりしたことがあるというエピソードを聞いたことがありますね。「せっかくやからもらっといたけど……」と言ってましたが(笑)。でもやっぱりどこか気持ち悪いですよね。

――もらっといたんですね(笑)。今年も『24時間テレビ』は「盲学校&ろう学校の生徒がよさこい大パフォーマンス」「不慮の事故で義足になったサッカー少年 憧れの本田圭佑と交わした約束」「筋ジストロフィーの車いす少女“おひるねアート”でひと夏の大冒険」と、障害と感動をかけあわせようとする意図がタイトルから伝わってきます。障害者は「感動」と結びつきやすい状況なのでしょうか?

そうですね。わたしの大好きな映画に、フランスのろう者の暮らしをとらえた『音のない世界で』というドキュメンタリー作品があります。これは、ろう学級の子どもたちのようすを中心にしながら、ろうの当事者たちへのインタビューなどが挟まれていくという構成でつくられていて、いわゆる「泣ける要素」などいっさいない、非常に「静か」で、淡々とした作品なんですね。

でも、わたしの家の近所のツタヤでは、このDVDが「感動」という謎のジャンル棚に並べられていて、すごく驚いたことがあります。内容はどうあれ、障害者を扱った映画は、レンタルビデオ店では、自動的に「感動」という謎ジャンルに放り込まれがちなんですよね。障害者といえば感動的なやつ、泣けるやつ、ということになります。「余命宣告系難病モノ」と同じ枠なんですね。

「感動ポルノ」の衝撃

――今回、『24時間テレビ』の裏で放送された『バリバラ』では、その様子を「感動ポルノ」として批判していました。これは誰の言葉なのでしょうか?

「感動ポルノ inspiration porn」は、ジャーナリストでありコメディアンのステラ・ヤングさんの造語であり、TEDでのプレゼンテーションを通して知られるようになったものです。車椅子ユーザーの障害当事者としての経験を踏まえた彼女自身の語り口もあいまって、一躍キラー・フレーズになりました。

わたし自身も、彼女のスピーチをはじめて聴いたときには、「ほんまそれ!」「よく言ってくれた!」と溜飲の下がる思いでしたし、なにより、随所に仕込まれたギャグとともに、あくまでも笑えるスピーチのなかでそれを成し遂げたというのがたいへんスマートなやりかたであるように思えて、いたく「感動」しました。

京都に、芸術創作を通じた個性的な活動を展開しているNPO法人スウィングという団体があるんですが、理事長の木ノ戸昌幸さんも著書『Swingy days』の中で「これほどまでに痛烈でユーモアに満ちていて、尚かつ的を得た言葉に、僕はこれまで出会ったことがありません」(木ノ戸 2015: 8)と述べられています。いわゆる「障害者福祉業界」各方面に一定の衝撃を与えているようですね。ちなみにこの本の帯には「24時間TVの真逆らへん」という印象的なフレーズが書かれています。

「感動ポルノ」という日本語訳自体も秀逸なものだと感じます。原語は “インスピレーション inspiration” ですから、ひらめき、あらたな発想、刺激を与えてくれるもの、といったニュアンスなわけで、もちろん「感動させてくれるもの」もその一部に含まれるでしょうが、ある種の意訳が入っています。

けれど、日本語圏の者には、「感動」という訳が用いられるだけで、「ああ、あのへんの、あの感じね」と「ピンとくる」ものがある。そうした「あの感じ」の最たるものが、「『24時間テレビ』的なるもの」だと言ってよいのではないでしょうか。あるいは、「感動をありがとう」という言い回しに居心地の悪さを日々感じている人にとっても、「ピンとくる」ものであるかもしれません。

社会学者の北田暁大さんは、90年代以降テレビを席巻してきた「感動」志向について、(とりわけそれを嫌っていたとされるナンシー関のテキストに寄せながら)こんなふうに書いています。「ほぼ間違いなく視聴者を満足させることのできる番組演出の1フォーマット」である「感動物語」は、感動そのものが問題なのではなく、感動を媒体として築き上げられる送り手=受け手の共犯構造、テレビ的フレームによって世界全体を包摂し尽くそうという不遜な欲望こそが、問題なのだと(北田 2005: 181)。

「感動 “ポルノ”」と言うからには、やはり、観る側の自己満足/自慰行為というニュアンスや、送り手=受け手のメディアを介した共犯関係といったことも批判の対象として含意されているのでしょうし、そういう意味では、かならずしも障害者のメディア上の描かれかたをめぐる問題だけではなくて、今後、より汎用性の高い概念として用いられていく可能性もあるかもしれませんね。

「感動ポルノ」が強固にする「障害者役割」

――「感動ポルノ」の問題点はどこにあるのでしょうか。

批判されるべき点は二点あると思います。第一に、「感動ポルノ」は、メディアを通して「あるべき障害者像」を流布し、強固にしている点です。第二に、障害者が、社会のつくりだした不利を「克服」すべく「努力させられている」という側面を「感動」が隠蔽してしまう点です。

――「あるべき障害者像」とはどのような意味ですか?

社会関係のなかでつくりあげられてきた、ステレオタイプな障害者像を問題化するにあたって、社会学や障害学では、「障害者役割」という言葉が使われてきました。「障害者役割」とは、ある社会関係のなかで、障害者が暗黙のうちに周囲からそのように振る舞うことを期待されている役割を指す概念です。言い換えれば、社会のなかで暗黙につくりだされていく「障害者らしさ」「あるべき障害者像」のことだと言ってよいでしょう。

社会学者の石川准さんは、「愛やヒューマニズムを喚起し触発するように振舞うこと」「愛らしくあること lovable」「”障害を補う” 努力を怠らないこと」だとしました(石川 1992: 118)。

――まさに『24時間テレビ』が取り上げる、障害者像ですね。

当然、実際の障害者は、みんながみんな「純粋」で「愛すべきいいやつ」でもなければ、常になにかを「がんばってる」わけでもありません。「ヤなやつ」「ウザいやつ」「内気なやつ」「金にだらしないやつ」「スケベなやつ」、要するに「ダメなやつ」は障害者にもたくさんいます。

もちろん、なにも「障害者はダメなやつばっかりだ」と言いたいのではなくて、健常者がそうであるのとおなじようにそうだ、ということでしかありません。にもかかわらず、わたしたちはしばしば、「障害を乗り越えるべく努力し挑戦し続ける障害者」(”チャレンジド challenged” !)であることを、かれらに「期待」してしまいます。障害者は、こうした「障害者役割」にふさわしいふるまいをしているあいだは、社会に受け入れられるというわけです。

また、社会学者の星加良司さんは、24時間テレビのような、わかりやすい「苦難と成功の物語」を通して描かれる障害者表象(イメージ)のもつ問題性を指摘しています。

「こうした『歪んだ』障害者イメージは、数多くの障害者の自己理解を傷つけてきた。『苦難』に満ちた生も『成功』をおさめる生も、虚像ではないにしても一面的で偏ったイメージなのであり、そのようであることを期待されることは、それ以外のありようを抑圧されることであるのだ。」(星加 2011: 246)

つまり、障害者に対して、メディアで語られるようなわかりやすい「障害者役割」が期待され、不問に付されることで、障害者の「ほかでもありえた」姿はなかったことにされてしまうというわけですね。

――ご指摘の通り、「純粋」で「愛すべきいいやつ」というイメージを、勝手にもっていました。

もちろん、障害者に主体性がないわけではありません。そうしたイメージで見られているということがわかっているので、日常的に、ちょっとした「障害者らしくなさ」を “あえて” 示すべく振る舞う人だっています。「風俗とか行っちゃうちょっとスケベなおれ」「ギャンブルにはまっちゃうわたし」「恋愛のことで常にあたまがいっぱいなわたし」などは、ときに「障害者らしさ」に逆張りするかたちであえて呈示された「わたし」だったりすることもあるでしょう。というか、そもそも健常者の「期待」に沿いようのない身体の持ち主だっているはずです。

しかし、そうした健常者の「期待」に沿わない障害者たちの姿は、健常者を不安にさせたり落ち着かなくさせたり気まずくさせたりするので、しばしばその「らしくなさ」を非難されたり、無視されたりしてしまいます。社会学者のアーヴィング・ゴッフマンはこんな風に言います。

「人びとは、障害者は障害者らしく、無能で弱々しいもの、彼らに劣るものと期待している。肢体不自由の者がこのような期待に背こうものなら、彼らは怪しみ、不安になるのだ」(ゴッフマン 1963=2001: 180)。

こうした健常者からのネガティブなリアクションを恐れ、障害者はしばしばこれを先取りするかたちで、無難に「障害者らしく」、みずから振る舞おうとしてしまいます。つまり、「障害者役割」は、一方的に押し付けられるものだという以上に、障害者自身がみずから健常者の「期待」に沿ってふるまい、「あるべき障害者像」を体現してしまうことによって、かえってゆるぎないものになってしまうことがあるのです。

――「障害者役割」が障害者の振る舞いを制限しているのですね。

もちろん、なかには戦略的に、あえて「苦難に挑むわたし」を生きようとする人もいるでしょう。そのように振る舞う自由が、当然かれら障害者にはあります。しかし、かれらが「苦難に挑むわたし」として振る舞うのは、そのように振る舞わなければ主流社会に受け入れてもらえないからなのかもしれないという視点を持たねばならないでしょう。

ならばなおのこと、健常者は、そんなかれらの姿に「感動」してしまう自分へのつっこみとともに、うっかりかれらに無理をさせてしまってはいないか、常に気にかける必要があります。健常者と障害者のあいだに「感動する/させる」という回路しか用意されていないのだとすれば、そのこと自体が排除や差別の結果にほかならないのではないでしょうか。

感動してるヒマがあったら、まずはその障壁を取り除け

――「感動ポルノ」の「感動」が隠蔽しているものとはなんでしょうか?

ステラ・ヤングさんの同スピーチでは、彼女のキャッチーな表現それ自体もさることながら、以下の部分がより重要なものだと思います。

「私たち障害者が乗り越えるのは、皆さんが思っているようなことではありません。身体に関わるものではないのです。私はあえて『障害者』という言葉を使います。なぜなら私は障害の社会モデルを支持しているからです。私たちが住む社会からもたらされる障害は身体や病状よりもひどいという考え方です(…)闘う相手は自分たちの身体や病名ではなく、私たちを特別視し、物として扱う世界です」

この一節の含意をうまくすくい取るためには、「障害の社会モデル」と、それが批判する「障害の個人モデル」というもののみかたを理解しておく必要がありますね。

「社会モデル」については、日本では、2016年4月に施行された障害者差別解消法に反映されていることによってようやく理解が広まりつつあります。

既存の障害観である「個人モデル」は、障害者が困難に直面するのは「その人(の個人の身体能力)に障害(欠損)があるから」であり、それは個人の責任において対処し、克服すべきものだとする考えかたです。

一方の「社会モデル」は、個人の身体に問題を見出そうとするのではなくて、社会こそが「障害(障壁)」をつくっており、それを取り除くのは社会の責務である、という考えかたをします。つまり、障害者は「できない」のではなく「できなくさせられている」。これです。

社会には多様な身体をもつ人びとがいます。にもかかわらず、社会は特定の身体の存在を無視しています。学校、職場、建物や街のつくり、情報へのアクセス、そして、慣習、制度、文化など、どれをとっても健常者を基準にできあがっている。そんな社会のありかたこそが障害者を不利な状況に追いやっているのです。

にもかかわらず、求められてきたのはいつも、障害者「個人」の努力なんです。障害者は、自分の身体を、あらゆる犠牲を払ってでも既存の社会のありかたに「合わせよう」としてきました。それができないと、排除されます。社会モデルは、そのことに対する、率直な異議申し立てでもあるわけです。

なのに「感動」は、障害者が、社会のつくりだした不利を「克服」すべく「努力させられている」という側面を隠蔽してしまいます。障害者自身が自分の身体と個人的に「折り合い」をつけ、克服すべきものとして障害を捉える「個人モデル」──別名「個人的悲劇モデル」とも呼ばれます──を、結果的に温存してしまうのです。

ステラ・ヤングさんの議論のポイントは、「社会からもたらされる障害は身体や病状よりもひどい」という部分にありました。つまりこれは、「健常者が押し付けている困難を乗り越えようと障害者が努力するさまを観て感動する健常者」というマッチポンプ的なおこないがもつ欺瞞への、徹底した批判です。健常者は、障壁を乗り越えようとする障害者の姿に感動してるヒマがあったら、まずはその障壁を取り除けよ、というはなしではないでしょうか。障害者には、「がんばらなくていい権利」があるはずです。

このように、「感動ポルノ」は、「社会モデル」の文脈とセットで、きっちりと批判されるべきです。ここまで述べた意味で、わたし自身も、『24時間テレビ』的な「感動ポルノ」への批判的な立場を、基本的には共有しています。

――では、障害者のがんばる姿に感動してしまうのはダメなのでしょうか。感動しないぞ! とかたくなになるのも、違和感を感じます。

もちろん、「感動」してしまうこと自体をすっかり否定してしまうことはできない、とわたしは考えます。たとえば、パラリンピックで競技する短距離走者たちの義肢(ブレード)のフォルムのかっこよさ、美しさにしびれ、うっとりと眺め、感動してしまうわたしがいます。努力によって目標を達成し、結果、ついに自身の身体のありかたを肯定するその姿に、不覚にも涙してしまうわたしがいます。

また、入所施設や、親元を離れ、周囲の支えを得ながらやっと地域での自立生活を実現した重度障害者の誇らしげな顔を見て、うっかり泣いてしまいそうになるわたしがいます。そうした自分を、わたしは否定しきることができません。

けれど、そうした「感動する健常者」である自分を振り返って、反省する視点を決して捨て去らないことも大切です。自分自身が「障害者に障壁を押し付けている健常者」なのにもかかわらず、という欺瞞が、その「感動」には常に含まれてしまっていることを、わかったうえで引き受けることができるかどうかだと思います。

「感動ポルノ批判」と「本音主義」の親和性

――前田さんは『バリバラ』の「感動ポルノ」批判をどのように観ましたか?

ここまで述べてきましたように、たしかに「感動ポルノ」は批判されてしかるべきものです。しかし、ここでわたしが危惧するのは、「感動ポルノ」批判が含んでしまっている、露悪的な、ある種の「本音主義」のようなものとの親和性です。

そうした態度は、ネット上で「建前を排して本音を語る」、あるいは、「タブーに挑戦する」というかたちを取りながらヘイトをばら撒いたり、公の場で「本音」という名の暴言をブチまける人が喝采を浴びるようになってしまうような心情と、ときに親和的であるように思えるんです。

小田嶋隆さんは、『超・反知性主義入門』(2015)のなかで、「本音」の痛快さが消費されていく現状に疑義をさしはさみます。

近年、「『学級委員長』的言説」が忌避され、「『本音』が、まさに『本音』であること自体によって免罪されるはずのものだということを、強烈に信じ込んでいる」(p107)人の声がとても大きくなってきているように感じます。

「善悪や正邪とは別に、『本音』と『建前』という座標軸が現れた時、無条件に『本音』を神聖視する考え方が力を持」ち、「『露悪的な人間ほど信用できる』という倒錯が生じ」ています(p109)。

「差別の問題でも、いつの頃からなのか、ネット論壇の流れは、差別を指摘する言説より、『他人の差別をあげつらう人間の傲慢さ』や『差別されている側に寄り添ったつもりでいる人間のドヤ顔』を揶揄する」物言いの方が、より高いポイントを稼げるようになっています(p139)。

たしかに、「文科省推薦!」的な正しさへの懐疑や、「学級委員長」的な言説へのシニシズムそれ自体は、ある程度健全なものなのかもしれません。しかし、バリバラの「感動ポルノ」批判が、「感動」の逆張りに終始するものとして解釈され、「良識」や「偽善」を嗤って「本音」の側につくという共犯意識をつくりだすことに成功しただけなのだとすれば、あるいは、「本音」の共有によって、障害者への負の感情が共通の足場を獲得していってしまうのだとすれば、やはりそれをそのまま素直に肯定することはできません。

ですから、「感動ポルノ」はあくまでも、「障害者役割」をいっそう強固にするものであるという意味において、また、「障害の社会モデル」という文脈において、批判されるべきだと考えます。

『バリバラ』は、マスメディアが障害者をどのように扱ってきたかを振り返り、自己批判、自己反省を番組内容に反映させようという努力を、今回の「感動ポルノ」特集回に限った話ではなく、それこそ毎週のように続けてきている番組です。

ですから、たしかに24時間テレビの真裏に確信犯的な内容をぶつけてくるということ自体はおもしろいなと思うものの、そこだけを取り上げてみても、彼らをうまく評価はできないだろうと思います。これをきっかけに、今後もっとたくさんの人に観られるようになれば、またはなしは違ってくるのではないでしょうか。

(注)「そういう大学生」の1人だった前田は、「じゃあ実際の福祉の現場はどうなってるんだろう」ということで、その後、社会調査/取材をはじめることになる。こうした経緯については、前田拓也・秋谷直矩・朴沙羅・木下衆編『最強の社会調査入門──これから質的調査をはじめる人のために』(ナカニシヤ出版)のなかで詳しく述べた。

【参考文献】

木ノ戸昌幸, 2016, 『Swingy days』NPO法人スウィング

北田暁大, 2005, 『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス

アッシュ,アドリアン, 2000「米国の障害学」 倉本智明・長瀬修編『障害学を語る』エンパワメント研究所、43-58.

ダナファー,ニック, 2000「英国の障害者運動」 倉本智明・長瀬修編『障害学を語る』エンパワメント研究所、75-89.

Hevey, David, 1992, The Creatures Time Forgot: Photography and Disability Imagery, Routledge.

倉本智明編, 2010, 『手招くフリーク──文化と表現の障害学』生活書院

Grue, Jan, 2016, ‘The problem with inspiration porn: a tentative definition and a provisional critique”, Disability & Society Vol. 31, Iss. 6.

石川准, 1992, 『アイデンティティ・ゲーム──存在証明の社会学』新評論

星加良司, 2011, 「障害者は『完全な市民』になりえるか?」, 松井彰彦・川島聡・長瀬修編『障害を問い直す』東洋経済新報社: 229-257.

ゴッフマン, アーヴィング, 1963=2001, 『スティグマの社会学──烙印を押されたアイデンティティ』せりか書房

小田嶋隆, 2015, 『超・反知性主義入門』日経BP社

ステラ・ヤング: 私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく Subtitles and Transcript

プロフィール

前田拓也社会学

神戸学院大学現代社会学部 教員。関西学院大学大学院社会学研究科。博士課程後期課程単位取得満期退学、博士(社会学)。専門は、福祉社会学、障害学。主著『介助現場の社会学──身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』(生活書院、2009年)編著『最強の社会調査入門』(ナカニシヤ出版、2016)

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