2015.03.06

グレンデール市の慰安婦像裁判は、なぜ原告のボロ負けに終わったのか

小山エミ 社会哲学

国際

米国カリフォルニア州グレンデール市が市立図書館横の公園に設置した日本軍「慰安婦」被害者の像が、州憲法や州法に違反するとして在米日本人数名とその団体(GAHT)が訴えていた裁判で、ロスアンゼルス先週一審判決が下された。結果は、昨年一審判決があった連邦裁判所における訴訟と同じく、原告の訴えを棄却する内容。

昨年11月末にはじまった裁判がこれほど早く決着したのは、被告グレンデール市の請求にこたえ、裁判所が今回の訴訟をSLAPP(strategic lawsuit against public participation 直訳すると「市民参加を妨害するための戦略的訴訟」)と認定したからだ。

一般にSLAPPとは、政府や大企業など権力や資金力のあるものが、自分たちに批判的なジャーナリストや一般市民など比較的力を持たない者による批判的な言論をやめさせようとして起こす訴訟であり、恫喝的訴訟とも呼ばれている。ある訴訟がSLAPPと認定されると、即座に棄却が決定するだけでなく、被告は弁護費用を原告に求めることができるようになる。

しかし今回は、日本の人々から多額の寄付金を集めているとはいえ、あくまで一般市民である原告が、地方自治体であるグレンデール市を被告として訴えた裁判であり、SLAPPが認定されるのは異例だといっていい。

原告や被告がどういう立場であるかということより、「豊富な資金にあかせて恫喝的な裁判を起こし、言論の自由を妨害あるいは萎縮させようとしている」という本質的な構図を認めたかたちだ。

なぜSLAPPと認定されたのか

カリフォルニア州の反SLAPP法が適用されるには、二つの段階がある。まず第一に、SLAPP認定を求める被告の側が、「公の問題について政治参加や言論の自由を行使した結果」訴えられたのだ、と証明する必要がある。

それが証明された場合、第二段階として、原告の側に訴えが正当である証拠を提示する義務が課せられる。典型的に、SLAPPは相手やその他の人々を恫喝し、批判的言論を萎縮させることを目的としたもので、勝訴するだけの根拠に乏しいことが多いので、そうした証拠を提示することはできない。その場合、訴訟はSLAPPとして認定され、棄却される。

実際の裁判において、「この問題について政治参加や言論の自由を行使した結果」訴えられたと証明するには、訴えの対象となった行為――この場合はグレンデール市による「慰安婦」像の設置――が次の四つの要素の最低一つに当てはまることを示す必要がある。

1)立法・行政・司法もしくはその他の法に基づく公式な会合における、口頭もしくは文書による意見表明。

2)立法・行政・司法もしくはその他の法に基づく公式な会合で議論されている件についての、口頭もしくは文書による意見表明。

3)公共の問題について、公共の空間で行われた、口頭もしくは文書による意見表明。

4)その他、公共の問題について政治参加もしくは言論の自由の権利の基づいて行った行動。

被告グレンデール市は、像の設置は議会の内外で議論され、市議会という公式な立法の場で議決されたことであるから1から3の要件を満たし、また、像の設置そのものは口頭や文書ではないものの市による言論の自由に基づく行為であるから4の要件にも該当する、と主張した。

それに対し原告GAHTは、自分たちは市議会の議決や言論の内容を否定しているのではなく、「慰安婦」像の設置が連邦政府の外交権限を侵害していたり、像に併置されたプレートの文面が議会の審議を経ていないことが違法だと訴えているのだから、言論の封殺であるというのは筋違いだと反論した。

これは例えるなら、デモ隊がある家の庭の花壇を踏み荒らしたと訴えられたとして、訴えた側は花壇を踏み荒らされたことに怒っているのであって、デモ隊の言論の自由を封殺しようとしているわけではない、みたいな理屈だ。

しかし裁判所は、たしかに原告は「連邦権限の侵害」や「議事ルールの違反」を名目に裁判を起こしているもの、それらの「違法行為」とされるものは被告の言論行為と密接に結びついている、として、原告の主張を退けた。

また原告は、像やプレートは言論とはみなされるべきではない、とも主張したが、言論の自由が文章や口頭での発言だけでなく像やプレートにも適用されることは当たり前の話であり、適用されるべきでないとする主張の根拠も示されていない。結局、訴えの対象となった被告の行為(像とプレートの設置)は1〜4すべての要素において反SLAPP法が保護の対象とする言論である、と裁判所は結論した。

なぜ適用を免れることはできなかったのか

続いて、裁判所は原告GAHTの訴えに正当性があるかどうか判断した。反SLAPP法の適用を免れるには、原告は自分たちの主張が全て正しいと証明する必要はない。必要なのは、訴因のうちどれか一つでも、もし原告が訴える事実関係や法的正当性が証明されれば、勝つ可能性がある、と認めさせることだけだ。

実際に証明する必要も、被告側の根拠を反証する必要もない。それだけ反SLAPP法の適用はハードルが高いのだが、ここでも原告の主張は全面的に退けられる。

原告の主張は4つに分かれる。第一に、「慰安婦」像の設置は連邦政府の外交権限を侵害しており、連邦憲法に違反している、というもの。第二に、プレートの文面を市議会で審議しなかったことが、議事ルールに違反している、というもの。第三と第四は、それぞれ州法と州憲法の違反を訴えるもので、像の設置によって日本人や日系人の平等権が侵害されたというものだ。

この時点では原告はこれらの主張を証明する必要はなく、ただそれらの主張に、原告の証拠が全面的に採用された場合、原告が勝訴する可能性がある、と判断されればそれでいい。

第一の論点。これは昨年判決が出た連邦裁判でも退けられた主張だが、州裁判所も連邦裁判所の意見に同調した。連邦憲法によって、外交権限は一元的に連邦政府のみに属することが規定されているが、自治体が国際的な問題について意見表明をすることは禁じられておらず、それどころか各地の自治体で意見を表明する決議――たとえば反戦だったり、テロや戦争犯罪の加害者を非難し犠牲者を追悼する決議など――が毎年たくさん生まれている。議会がそれらの決議を可決することと、像を設置することに法律上の違いはない。

また、原告は「慰安婦」像の設置が連邦政府の外交政策と齟齬を生んでいる、と主張するが、そのような齟齬があるようには見えない、と裁判所は結論した。プレートには「このような人権侵害が今後起こらないよう願う」と書かれており、またその他の文面も米国連邦下院における「慰安婦」決議を元としているが、それがどのように連邦政府の外交政策と衝突しているのか、原告はきちんと示していない。

もし原告の訴えが認められれば、各地の自治体によるさまざまな決議が違憲となるばかりか、ホロコースト記念碑などほかの歴史的悲劇に関連した施設も違法となりかねず、それは「連邦主義と民主主義と根本的な原理に反するものだ」と裁判所は断じた。

第二に、グレンデール市議会が像の設置を決めた際、それに付属してプレートを設置することやその文面を決議しなかったことが議事ルールに違反しているという論点。しかし議事ルールは審議を迅速に行うために設けられているものであり、絶対ではない。市議の誰も不満を感じていない限り、議事ルール違反は法廷に持ち込むようなものではないし、ルール違反が仮にあったとしても決定が無効になることはない。

そして、昨年はじめの訴訟が提起された際、市議会は裁判においてこの論点に反論することを決議しており、それによってプレートの設置やその文面も追認したと判断できる、と裁判所は判断した。仮にプレートを設置した時点でプロセス上の問題があったとしても、いまでもそれが問題であるという根拠を原告は示せなかった。

第三と第四は根拠とする法が憲法と州法に分かれているものの、同じ議論であるのでまとめる。これらの訴因において原告は、像が設置されたことにより日本人である原告たち自身が像のある公園に行きづらくなったとし、平等に公園やそこに隣接する図書館やレクリエーションセンターを使用する権利が侵害された、と主張した。

米国の反差別法においては、ある集団に属する人々による公共施設の利用を拒んだり不利な扱いをすることが違法であるだけでなく、直接差別的な扱いをしなくても結果的に特定の集団に不利益になるようなルールや仕組みを設けることも差別とみなされる。原告らは公園の利用を禁じられたわけではないが、像の設置により実質的に平等な権利を侵害された、と主張したのだ。

しかし裁判所は、原告のこうした主張は認められないとして、いくつかの理由を挙げた。まず最初に、そもそもこの像やプレートは旧日本軍の行為について書かれているのであって、日本人や日系人に否定的なことが書かれているわけではない。原告らは元日本軍軍人というわけでもない。また、プレートには日本人の女性も被害にあったことが明記されており、他国の被害者と平等に扱われている。

さらに、原告は像やプレートの存在が日本人や日系人に不利益な結果をもたらしていることを示していない。三人の原告が公園に行きたくなくなった、というだけであり、ほかの日本人や日系人たちが同じように感じているとも、公園に行きたくなくなったことでどのような具体的な被害が生じているのかも示していない――立証できていないというのでなく、そもそも主張していない――のだ。日本の一部保守系メディアでは、慰安婦像が設置されたことによって日本人の子どもに対する苛烈ないじめが横行しているなどというデマが報道されたが、原告はそうした事実があるとも一切主張していない。

つまり、日本人や日系人として不当な扱いを受けたというより、ただ単に像のメッセージが気に食わないから行きたくなくなっただけでは、というのが裁判所の判断だ。

原告は、グレンデール市議が「慰安婦」像に抗議する日本人らに向かって「あなたたちは自分の国の歴史を知るべきだ」と発言したことをもって、差別的な意図があったと主張したが、そうした意図の存在を示す証拠は一切提出されていない。裁判所が市議会における「慰安婦」像についての公聴会の録画を見たところ、人種差別的な言動は一切みあたらなかった。

まとめると、被告側は訴えられた行為が、反SLAPP法が保護するものであると示す四項目全てに十分な根拠を提示したのに対し、原告側は四つの訴因すべてにおいて反SLAPP法の適用を逃れるだけの十分な根拠を示すことができなかった。もともとわたしはGAHTの訴訟は却下されるだろうと思っていたが、思っていたより圧倒的なボロ負けだった。

見え透いた訴訟戦略

この判決が日本では「慰安婦像設置は市の言論の自由とする判決」といった見出しで報道されると、ツイッターの日本人ユーザなどから「嘘を捏造して他者を貶めることが言論の自由なんておかしい」「プレートの内容が事実かどうか調べもせずに決めるな」という反発が見られるようになった。しかしこの裁判では、そもそも原告のGAHTらは「慰安婦問題は嘘である」とか「プレートの内容には虚偽が含まれる」といった主張は一切していない。

むしろ逆に原告は、反SLAPP法の四要件から逃れようとしてか、「われわれは慰安婦像やプレート設置のメッセージの内容には一切反論していない」と繰り返している。プレートの内容の真実性については原告・被告のあいだでまったく争われていないので、裁判所が独自にそれが事実かどうか調べるはずもない。

とはいえ、判決要旨で判事は、原告の建て前を厳しい口調で批判している。「被告の言論の内容についてはいっさい異論がないという原告の主張はウソ臭い、かれらが実際には像およびプレートの設置によって表明された市のメッセージに不満を抱いているのは明らかだ。」裁判所がプレートの内容の真偽に踏み込まなかった点に不満がある人は、原告の見え透いた訴訟戦略をこそ批判するべきだ。

米国における歴史修正主義に対する風当たりを気にしてか、GAHTに関係する目良浩一氏(原告、元南カリフォルニア大学教授)、山本優美子氏(なでしこアクション、元在特会)、藤岡信勝氏(新しい歴史教科書をつくる会)らが日本国内で宣伝している「慰安婦はただの売春婦だ」というあえて持論を封印し、プレートの内容を不問としたまま、法律論だけで勝訴を狙った原告。

それでもまったくかれらの主張が受け入れられることはなく、あっさり本音を見ぬかれたうえで、SLAPPと認定されてしまった。あれだけ大騒ぎして多額の寄付を集めておきながら、持論すら述べないまま「民主主義の根本的な原理に反する」とまで断定され棄却されてしまったという「世界の現実」に、GAHTを支援した日本の人たちは何を思うのだろうか。

プロフィール

小山エミ社会哲学

米国シアトル在住。ドメスティックバイオレンス(DV)シェルター勤務、女性学講師などを経て、非営利団体インターセックス・イニシアティヴ代表。「脱植民地化を目指す日米フェミニストネットワーク(FeND)」共同呼びかけ人。

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