『ぼくたちは戦場で育った』――子どもたちが語るボスニア紛争

第二次世界大戦のヨーロッパにおいて最悪の戦争と呼ばれたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結から20年。かつての戦時下の子どもたちも、今や30代前後の年齢になっている。そんな戦場育ちのサラエボの人々から160字以内で体験談を募り、一冊にまとめた本「ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995」(集英社)が発売された。

 

そこで、著者のヤスミンコ・ハリロビッチ氏、日本語版の翻訳に携わった小説家の角田光代氏、そして通訳者で国際ジャーナリストの千田善氏にインタビューを行った。TBSラジオ「荻上チキSession22」2015年11月11日(水)「ボスニア紛争のサラエボ包囲戦から20年。戦場となった街で子供達は何を体験したのか?」より抄録。(構成/大谷佳名)

 

■ 荻上チキ・Session22とは

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戦争に翻弄されたサラエボの歴史

 

「戦争中に子どもでいるってことは、つまり、学校に好きな子がいて、その子が迫撃弾で殺されるってことだよ」

ヤセンコ(男性)1977年生まれ

 

「戦争の思い出――おもちゃの代わりに、銃弾を集めて遊んだこと!」

ザナ(女性)1987年生まれ

 

荻上 今回は「ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995」(集英社)の著者である、ヤスミンコ・ハリロビッチさんに日本にお越しいただきました。よろしくお願いします。

 

ヤスミンコ お招きいただきありがとうございます。よろしくお願いします。

 

荻上 また、日本語版の出版を熱烈に希望され、翻訳にも携わった小説家の角田光代さんです。よろしくお願いします。

 

角田 よろしくお願いします。

 

荻上 角田さんはなぜこの本を日本で出版しようと思われたのですか。

 

角田 3年前にボスニアを訪れ、ヤスミンコ君に会ってこの本を見せてもらいました。本の中には子どもたちが戦争で何を感じたか、非常に短い言葉で書いてあったので、何よりも私自身が「読みたい!」と思いました。

 

荻上 そして、サッカー日本代表オシム元監督の通訳も務め、今回、翻訳にあたって全面的に協力をされた、通訳者で国際ジャーナリストの千田善さんです。よろしくお願いします。

 

千田 よろしくお願いします。

 

荻上 千田さんは翻訳に関わるにあたって注意した点などはありますか。

 

千田 現地の人にしかわからない単語がたくさん出てきたので、それをどう訳せば日本の方が理解しやすいのか、情報を集める作業が大変でした。

 

荻上 リスナーの中にも、ボスニア・ヘルツェゴビナについて初めて知る方が多いと思います。

 

ヤスミンコ 日本の方には元サッカー日本代表監督イビツァ・オシムや、歌手のヤドランカ・ストヤコヴィッチの名前が知られているかもしれません。ボスニアはヨーロッパの中では大変小さな国の一つです。1992年にユーゴスラビア連邦共和国が分裂した際に独立しましたので、ボスニアとしての国の歴史は非常に短いです。

 

サラエボはボスニアの首都で、一番大きな街ですが人口は50万人ほどです。この地域には1000年以上の歴史があり、東西文明の様々な要素が通り過ぎていきました。サラエボにいらっしゃれば、あらゆる文化が混じり合っていることを感じていただけると思います。また、1984年のサラエボ冬季オリンピックが有名かもしれません。サラエボにとって一番美しい記憶の一つです。しかし、戦争に翻弄された別の歴史もあります。

 

1914年にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子であったフランツ・フェルディナントが暗殺されたのはサラエボでした。そして一番新しい戦争というのが、1990年代のサラエボ包囲戦に象徴されるボスニア紛争です。それが終わって今年で20年になります。

 

しかし私の表情はあまり冴えません。というのは、復興の進み方が非常に遅いからです。独立前は社会主義国家でしたが、今は市場経済への移行期にあります。汚職の問題が深刻で、経済的にはあまり上手くいっていません。しかし、ボスニアの人たちは様々な災害、戦争から立ち直った経験を持っていますので、未来は楽観的に考えるようにしています。

 

 

「民族主義」を看板にした領土争い

 

「電気が来ると言われていた日を指折り数えて待っていたのをおぼえている。結局来なくて、がっかりしたことも。」

ミルサド(男性)1982年生まれ

 

「覚えていること。『ママが死んだよ』とパパが言った夜。それから『君のパパが死んだよ』という言葉。戦争の馬鹿野郎」

ミレラ(女性)1981年生まれ

 

荻上 冷戦が終結し、社会主義の国が次々に解体していく中で、ユーゴスラビアでもその動きが進んでいきました。そして1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言することになります。その直後に始まったボスニア紛争ですが、これはどういったものだったのでしょうか。

 

千田 かつて、ユーゴスラビアはヨシップ・ブロズ・チトー大統領の手によって一つの国に統一されていました。彼は独裁者でしたがカリスマ性もあり、みんなから愛される存在だったのです。

 

ところが、彼が亡くなって体制は崩れ、少しずつ紛争が始まっていきました。深刻な経済危機に陥り、政治不信も高まり、政治家が選挙運動で「みなさんの生活を良くします」と言っても誰も信じない。そんなとき、一番分かりやすかったのが民族主義でした。――我が民族はみんな被害者で、悪いのはあいつらだ。あいつらのために我々は不幸な生活をしている――。日本や韓国でも同じことが言えると思います。

 

当時ユーゴスラビアには、マケドニア社会主義共和国、セルビア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国の6つの国がありました。

 

もし単純にその国境ごとに独立できたら、それほど傷は大きくなかったでしょう。しかし、それぞれの国には複数の民族が混在しており、国境の向こうにも自分たちの仲間がいる、という状況だった。このため、民族間対立はやがて武力行使を伴う領土争いに発展していったのです。

 

そのうち、紛争が一番激しかったのがボスニアでした。人口430万人のうち、4割がムスリム人、3割がセルビア人、2割がクロアチア人。それぞれが自分たちの領土を主張して競い合う。そのなかで政治家は「領土をどれくらい取ったか」ということでポイントを稼いでいく。この「領土分割戦争」の看板が民族主義でした。

 

 

「ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995」ヤスミンコ・ハリロビッチ(著)、千田善(監修)、角田光代(翻訳)

「ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995」ヤスミンコ・ハリロビッチ(著)、千田善(監修)、角田光代(翻訳)

 

 

無差別な攻撃、悲しい分割

 

「おとうさんがトレベビッチの前線に発つ前に、どうしてもう1回キスしておかなかったのかな……」

エディン(男性)1984年生まれ

 

「戦争中、まだ8才だったけど大人の女になった。水を運び、市場へいき、妹の面倒をみて、こわいなんて思っている暇はなかった。」

ドラガナ(女性)1985年生まれ

 

ヤスミンコ ボスニア紛争は、独立に賛成するクロアチア人・ムスリム人勢力と、反対するセルビア人勢力との争いです。首都サラエボは盆地の底にある街で、約50万人が暮らしています。多数派は独立賛成でした。そして周りを囲む丘の上には独立に反対するセルビア人の占領者たちが陣地を構え、盆地の底を目がけて攻撃してくるのです。

 

想像してみてください。毎日何百発、何千発もの大砲の弾、迫撃弾などが空から降ってくる。3年半の戦争で、合計すると200万発以上だったと数えられています。サラエボ包囲戦は1430日あまり続き、犠牲者の8割は一般市民でした。人道援助もありましたが、少なくて足りませんでした。

 

そして街には動くものなら何でも撃つ「狙撃手(スナイパー)」がいました。それを避けるためにみんな大通りを走って渡るのです。サラエボを出るためには飛行場の滑走路を横切って走らなければいけない。そこでも狙撃されて命を落とした人がたくさんいました。

 

そこで、街から脱出するためのアイデアを思いつきました。滑走路の下にトンネルを掘ったのです。長さ800メートル、そのトンネルが命綱でした。色々な食料や燃料や、負傷者を運び出したり、外の世界とサラエボをつなぐ唯一の手段だったのです。

 

攻撃は本当に無差別に行われました。街の中のどんな建物も被害を受けています。それは病院であろうと、学校であろうと変わりません。そのために使われた武器は旧ユーゴスラビア連邦軍が備えていた武器です。ユーゴスラビアは戦争が始まる前はヨーロッパで第四の軍事力を持っていたので、武器は豊富にありました。

 

それに対して街を守ろうとした側は軍服すらなく、スニーカーにシャツを着た人々がサラエボを守る兵隊でした。武器は第二次世界大戦の時に使われていたような古いものや有り合わせのもの。ですので、軍として格好がついたのも戦争が始まって2年目くらいでした。そこから、一旦奪われた領土を取り戻す力を蓄えていったのです。

 

そして1995年、ボスニア側がかなり力を備えてきたところで戦争が終わりました。それを決めたのが「デイトン合意」という、パリで調印された和平合意でした。つまり、勝者なき戦争だったのです。この和平合意は妥協の産物だったので、領土は勢力ごとに複雑な線引きをされ、一つの国とは言えないような状態になりました。この領土分割は今も続いていますし、精神的な意味では各民族の対立は以前より深刻だと私は感じています。

 

 

「ごく平常な生活を送ることが、戦争に対する抵抗なのだ」

 

「父が出ていって、急にこわくなった。その夜父は帰らなかった。その後もずっと。」

デニス(男性)1986年生まれ

 

「窓越しに外を見ていた膨大な時間……5分でいいから外に出してとしつこくせがんでも、ぜったいにだめだった……」

アルマ(女性)1982年生まれ

 

 

荻上 サラエボはなぜ包囲されてしまったのでしょうか。

 

千田 やはりボスニアの中ではサラエボが一番大きな街で、観光資源も含めて魅力がありました。周りを包囲して攻撃していたのはセルビア人勢力、つまり民族主義の勢力です。彼らもサラエボが欲しかった。だから老若男女問わず無差別に攻撃し、街から人々を追い出そうとしました。

 

一方でボスニア政府軍としては、みんなが逃げて空っぽになるとセルビアの街が取られてしまいます。そのために、一般市民を街の中に閉じ込めておくことにした。街の外とつながるトンネルも、ごく限られた人にしか使えないもので、一般市民にとってはむしろ狙撃の危険性が高い場所でした。そして自分たちのための政府であるはずなのに、ボスニア政府からは人質として扱われ、街から出ることはできない。

 

一般市民が生活している場で戦争が起こっていたのです。女の人はハイヒールにスカート姿で生活していた。本当に奇妙な戦争だったと思います。市民の人々は「ごく平常な生活を送ることが、戦争に対する抵抗なのだ」といって日々を過ごしていたのです。

 

荻上 市民の側からすると陣取り合戦のコマに使われているような状況だったんですね。

 

 

生々しく内側から叫んでいる

 

「ねえさんと、『ヒューッ』って砲弾の音のまねをして、よくかあさんをからかった。」

アガン(男性)1990年生まれ

 

「人道支援物資バッグから取り出した石鹸をガブリ。お菓子だと思ったの!」

ファティマ(女性)1989年生まれ

 

 

荻上 角田さんはもともとボスニア紛争に興味をお持ちだったのですか。

 

角田 サラエボを訪れるまでほとんど何も知りませんでした。現地の方からボスニア紛争について色々とお聞きしましたが、あまりにも複雑なので、知識としては理解できても感覚としては分からなかったです。

 

ただ、この本は子供の声なので大義名分や歴史的事実ではなくて、生々しく内側から「戦争はこんなに怖いものなんだ」と叫んでいる。そんな印象を受けました。歴史的事実を理解することも大事ですが、それと同時に生きていた人のリアルな声を伝えたことで、すごく重要な本だと思います。

 

荻上 ボスニアを訪問するにあたって、日本でも資料を探しておられたそうですね。国内で手に入る資料はどういう状況だとお感じになりましたか。

 

角田 頭で完全に理解するのは無理だな、と思いました。例えば「三つの民族の争い」といっても、日本にいると国籍の違いや人種の違いと捉えてしまいますが、実はそうではない。宗教の違いによって、同じ街に暮らしていても別の民族なのです。そこからまず、感覚として理解できませんでした。

 

荻上 知識や構図だったり、歴史的背景から説明する本が多いと思います。この本が特徴的なのは、当時子どもだった立場から振り返って、どんなことを考えていたか、非常に短い文章で伝えている点ですよね。角田さんは表現者の立場から、この表現の数々に触れて驚きもあったと思います。どのような感覚でしたか。

 

角田 やはり「生々しい」という感想が一番にありました。大人は多くの言葉を持っているので、政治的にものを言ったり、正義でものを言ったり、大人としての言葉の使い方があると思います。ただ、この本では20〜30代の人たちが当時のことを思い出して、子どもの言葉で書こうとしている。ですから非常にわかりやすいのです。真に迫ってくる、という感じがしました。

 

荻上 今回は、日本の読者に何を伝えたくて翻訳に関わられたのでしょうか。

 

角田 街に住んでいる人たちが標的にされる戦争は特殊なものです。ただ、私はその特殊さを伝えたいとは思いません。そうではなくて、いかにみんなにとってあり得ることなのか。もしかしたら、戦争が起こるなんて思ってもいないまま、いつの間にか戦争に突入してしまうことがあるかもしれない。

 

それがどういうことなのか、非常に近しい問題としてこの本には現れていると思います。私も読んでいて、そのことにびっくりしました。もしこの本を読んでくださる方がいたら、その遠さではなく身近さを感じていただけたら嬉しいです。【次ページへつづく】

 

 

 

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