フィリピンで日本軍は何をしたのか?

大岡昇平の小説などでも知られる、フィリピンでの日米決戦。日本軍はフィリピンで何をしたのか。そして両国の友好の道筋と、今後の課題とは。アメリカ・フィリピン・日本の3カ国にわたる国家・社会関係史の専門家、一橋大学社会学部教授の中野聡氏が解説する。TBSラジオ荻上チキSession-22 2016年01月27日放送「天皇・皇后両陛下がフィリピン公式訪問。戦時中、日本軍は何をしたのか?」より抄録。(構成/住本麻子)

 

■ 荻上チキ・Session22とは

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フィリピンの被害を忘れない

 

荻上 天皇・皇后両陛下が、1月26日から5日間の日程でフィリピンを公式訪問しています。今回の目的は、友好親善と戦没者の慰霊ですね。

 

中野 日本とフィリピンは1956年に賠償協定を締結して、国交を正常化させます。このあと1962年に当時の皇太子ご夫妻がフィリピンを訪問されていて、それから54年ぶりということになります。

 

荻上 今回慰霊が掲げられていますけれど、フィリピンを選んだ背景はどのようなものでしょうか?

 

中野 第二次世界大戦において、フィリピンでは50万人以上の日本人戦没者が出ています。しかし同時に、日米決戦の地となった結果としてフィリピン政府の推計で100万人を超えると言われる被害が出ました。とくにマニラの市街戦では10万人が亡くなったとも言われています。

 

戦闘に巻き込まれて亡くなった方も多く、また米軍がフィリピンを攻略して解放していく中でも、沖縄戦と同様に激しい砲爆撃が行われたために、その被害も大きかったと言えます。日本軍による住民殺害などの戦争犯罪による犠牲も膨大な数にのぼりました。

 

ですから今回天皇陛下が訪問されたのは、日本人戦没者の犠牲も、そしてフィリピンに与えた被害も、どちらもあわせて忘れてはいけないというメッセージを伝えるためなのでは、と考えております。

 

荻上 メールで質問をいただいています。

 

「なぜフィリピンは太平洋戦争で日米の決戦場になったのですか?飛行場の確保などで重要な位置だったのでしょうか。」

 

中野 日本がまず戦争の最初にフィリピンを占領したのは、当時石油を産出していたオランダ領東インド(現在のインドネシア)と日本の間に位置していたからです。また日米戦争になったことで、アメリカの植民地であるフィリピンを攻めなければならなくなったわけです。

 

荻上 なるほど。次の質問です。

 

「フィリピンは、戦後の日本との友好関係という点では韓国などと大きく異なります。なぜ国によってこれほど違いがあるのでしょうか。」

 

中野 その差を考えるのも今日のテーマになるでしょう。フィリピンと日本は、旧敵国同士の恩讐を越えて現在の友好関係を築いた、典型的なパターンだと思います。

 

荻上 「マニラの市街戦」が天皇陛下の出発前の「おことば」の中に具体的に出てきました。なぜここが象徴的にとりあげられているんでしょうか。

 

中野 このことが「おことば」にあらわれたことに私は大変にびっくりしていますし、また感銘も受けています。一言でいうと、フィリピン人にとっての「マニラ市街戦」というのは、日本人の国民的記憶のなかにおけるヒロシマやナガサキのような、なにかひとつの大きな悲劇を戦争について思い出そうとすると「これだ」と皆が思うような経験だと思います。そのことを陛下はよく分かっていらっしゃるなと思いました。

 

 

マニラ占領のいきさつ

 

荻上 日本がフィリピンに侵攻してマニラを占領することとなった経緯を簡単に教えてください。

 

中野 もともとフィリピンはスペインの植民地でしたが、1898年にアメリカに奪われます。その後、アメリカはフィリピンを独立させる方針に転換して、1935年には自治政府が発足、その10年後には独立することが決まっているなかで太平洋戦争が起きたのです。その結果、日本はフィリピンを占領し、首都マニラを占領していきました。この戦争で、フィリピンは2度戦場になります。まず日本がフィリピンを最初に攻めて占領していくとき。それから戦争の末期、日米の決戦場になって、その最大の戦場がマニラになりました。

 

荻上 たまたまマニラが戦場になったのでしょうか、それとも戦場にするという明確な意志があったのでしょうか?

 

中野 マニラは植民地の首都だったので、日米が当然これを取り合わないわけにはいきません。ただ、戦争の結果があまりにも悲惨だったので、もうちょっと別のやり方もあったのではないか、という批判も研究者の中ではあるんです。たとえば「マニラ奪還にこだわったのはダグラス・マッカーサーの政治的野心があったのではないか」という議論もあります。マッカーサーは非常に政治的な軍人として知られていましたから、軍事的な決断に政治を介在させるところがあったのではないかという批判があるわけです。

 

荻上 その上で、フィリピンの位置づけを重視していたのですか?

 

中野 はい。日本に負けて一度はフィリピンを去るが「アイ・シャル・リターン」と言って再び奪還する、というのはマッカーサーにとってはずすことのできないことだったのです。なので、アメリカが対日侵攻作戦でまず攻略する場所についても、台湾ではなくフィリピンにすべきだと主張して、その通りになった背景として、彼の思惑が介在したことが指摘されています。同様に、戦前、長く暮らしていたマニラに彼は非常に思い入れがあり、マニラを取り返すことに非常にこだわったことも指摘されています。

 

荻上 「取り戻した」というストーリーが欲しかったのですね。さて、日本軍がレイテ沖の海戦で敗北して以降、フィリピンにおける戦況も変わっていくわけですよね。

 

中野 そうですね。1944年の10月に米軍がレイテ島に上陸、日本軍もレイテに大軍を派遣して戦いますが、まもなく勝敗は決まりました。そのあと米軍がルソン島に1945年1月になって上陸してきます。このとき日本軍には日米決戦をする軍の精鋭をすでにレイテ戦で失ってしまっていましたから、山下奉文将軍(当時の日本軍の司令官)は軍の主力をマニラから撤退させてルソン島北部の山間部に移動させる決断をします。その中で米軍がマニラに迫ってくるわけです。

 

 

中野氏

中野氏

 

 

荻上 マニラにおける1回目と2回目の戦闘状況はどういうものだったのですか?

 

中野 実際には1回目は戦闘には到っていません。このときは、マッカーサーがマニラを脱出してコレヒドール要塞に立てこもったんですが、このときマニラを「オープン・シティ(無防備都市)」と宣言します。「我々はマニラを守るために軍事的な力を行使しないので、どうぞ日本軍は無血占領してください」と言って都市の破壊や民間人の被害を防ぎました。これが1回目でした。しかし2回目はそうはいかず、市街戦になってしまいます。

 

荻上 1度目の場合はアメリカ側が「無防備都市」だと宣言をしたので、かなり平和だったのでしょうか。

 

中野 日本側の記録を見てみると米軍は石油タンクを破壊しておりますし、散発的な戦闘が市内であった(銃声が聞こえた)ことがわかります。ただ基本的には無血入城だったと言っていいと思います。

 

荻上 2回目というのが、いわゆるマニラ市街戦ですよね。どういった戦闘だったのでしょうか?

 

中野 米軍は日本軍が予想するよりもはるかに早くマニラに迫ってきます。そして1945年2月3日、まずマニラのサント・トマス大学にいた数千人のアメリカ人や連合国側の市民が日米両部隊の交渉の結果、戦闘を経ずに解放されます。ここでは非常に人命が尊重されます。その後、米軍はマニラを完全に包囲します。

 

そのときマニラに残っていたのは、すでに主力は撤退していたので、一部の陸軍部隊と、それからマニラは港町でしたから、港湾を死守したいと考えていた海軍の部隊でした。海軍と言っても、実際には乗る船を失った水兵や現地で応召した在留邦人などを集めた雑兵の部隊でマニラ海軍守備隊と言います。これらを含めてだいたい2万人位の日本軍が残っている状態で、包囲する米軍との間で戦いが始まりました。

 

市街戦が始まると日本軍は主に現在エルミタと呼ばれている地区に立てこもっていきます。米軍は徐々に包囲線を縮めていき、日本軍をイントラムロスというスペイン時代の古い城塞都市にまで追い詰め、最後の最後は政府官庁の建物に立てこもっていた日本兵を完全に掃討するまで戦闘が続いたのです。それがちょうど3月3日で、1ヶ月間の戦闘だったことになります。

 

市街戦に民間人が巻き込まれてしまったのは、戦闘が始まった時点で都心部に市民がたくさん残っていたからです。あとから考えればもっと早く脱出していれば良かったということになりますけれども、戦闘が予想よりも早く始まったからというのもあるでしょうし、1回目が無血占領だったこともあり、これほどの戦闘になるとは思っていなかったということもあります。しかも、都心部は頑丈な建物が多いため、むしろ病院や富裕層の邸などの建物の中に避難する方が安全だとして何百人何千人という単位で避難したケースが多いと言われています。

 

被害の状況はいくつかのパターンが考えられます。まず、日米は十字砲火を交えますから、その巻き添えで亡くなるということがあります。それから、当初、米軍は街をなるべく破壊したくなかったので空襲を避け、銃砲火を使っていました。

 

ここでどれくらいの口径の弾丸を使うかという問題があったのですが、日本軍の狙撃によって死者が増えてくると、日本軍が立てこもっていると思われる建物・地域に向けて大口径重砲による砲撃をはじめ、それがだんだん無差別な砲撃になっていきました。この砲撃による死者が全体の4割にのぼると推定する研究者もいます。

 

一方、日本軍による市民の殺害が横行しました。日本軍から見れば残された民間人はゲリラと同様の敵ですから、いくら処分しても軍法上問われなかったからです。

 

荻上 それは「処分しろ」という命令があったからなのでしょうか。それとも「処分しても問題ない」という許可があったから自由に殺害したということですか?

 

中野 それは非常に難しいところです。ゲリラ対策として住民も含めて「処分してよい」という指示が出されていたであろうことは日本軍の電報記録から分かります。しかし、作戦や軍事上の合理性を超えて不必要なほど殺害しているのは間違いないです。被害者の側から見ると、なぜ日本軍がこんなにも殺したのかわからない、動機が不明だ。そういう証言が多いです。

 

荻上 日本兵側から見ると、どうなんでしょうか?

 

中野 兵士の証言で一様に言われているのは「ゲリラと民間人の区別がつかない」、「殺さなければ自分が殺される極限の状況の中で、少しやりすぎたかもしれない」という内容です。それだけで説明がつくかといえば疑問が残ります。まだまだ研究の課題として残されている部分です。

 

荻上 なるほど。被害の4割はアメリカの砲撃によるものということですが、残りの6割はどうですか?

 

中野 日本兵に殺害されたか日米戦の巻き添いになったと推測されますが、その割合を示すことは難しいと思います。はっきりと手がかりがあるのは、米軍の戦争犯罪調査の過程で明らかになった、日本軍による集団殺害・戦争犯罪の頻発事例です。そうしたものは資料に基づいて確定できると思います。【次ページへつづく】

 

 

 

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