2013.12.09
「アラブの春」は今どうなっているのか?――「自由の創設」の道のりを辿る
「アラブの春」と呼ばれた、チュニジアとエジプトに始まる、アラブ世界の社会・政治変動が生じてから3年が経とうとしている。リビア、イエメン、シリアと急速に連鎖し、一時はバーレーンを通じて湾岸産油国に及ぼうかと見えた変革の波は弱まり、むしろ逆行しているようにさえ見えるかもしれない。今年7月3日のエジプトのクーデタでは、民衆のデモが、選挙で選ばれた政権の軍人による排除を歓呼して迎えた。シリアでは社会からの異議申し立ては政権による過酷・苛烈な弾圧を招き、国土を焦土化する内戦の淵に沈みこんだ。リビアではカダフィ政権打倒に立ち上がった各地の民兵が、政権崩壊後も武装解除を拒み、国土を割拠した状態になっている。
しかしここで再び、「やはりアラブ人には民主主義は無理だ」といった「アラブの春」以前に通用していた文化決定論に戻ってしまっては現実を見誤る。解き放たれたデモの恍惚と、政権打倒の高揚を越えて、新たな新体制を作る地味で困難なプロセスに、「アラブの春」の先行諸国は入っている。そこにおいて生じる停滞や後退、一時の挫折は、達成しなければならない課題の大きさ、乗り越えなければならない壁の高さから見れば当然とも言える。
「アラブの春」は今どうなっているのか?
旧政権が崩壊するか、政治指導者が退陣を余儀なくされ、新たな体制を設立するための移行期に入っている、チュニジア、エジプト、リビア、イエメンという4つの国について、ここでは、現状を、憲法制定を最大の課題とする移行期の政治的段階にいるととらえる。この段階における「暫定政権の担い手」と、憲法制定のための「代表者の選出制度」がいかなるものであるかを各国について考え、それらがどのような影響をプロセス全体に及ぼしているかという観点から見ていこう。
革命と立憲政治
ハンナ・アレントは、世界史上に数多く起きてきた「革命」の多くは実は「反乱」に過ぎず、それが「自由の創設」をもたらすという「奇蹟」を伴わない限り、多くは混乱と分裂のもとで再び独裁の軛に繋がれる結果に終わったと指摘する。しかし往々にして人々の関心は「反乱」の劇的な側面に向けられ、「自由の創設」の地味な側面への関心は高まらない。
「歴史家は、反乱と解放という激烈な第一段階、つまり暴政にたいする蜂起に重点を置き、それよりも静かな革命と構成の第二段階を軽視する傾向がある」(ハンナ・アレント『革命について』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1995年、223頁)
静かな革命における「構成」とはすなわち憲法制定(コンスティチューション)である。アレントによれば「根本的な誤解は、解放(リベレイション)と自由(フリーダム)のちがいを区別していないという点にある。反乱や解放が新しく獲得された自由の構成を伴わないばあい、そのような反乱や解放ほど無益なものはないのである」(アレント『革命について』224頁)。
アラブ世界の社会・政治変動に関するわれわれの関心も、ともすれば「反乱」の局面にのみ向けられてはいなかったか。デモよりも内戦よりも、自由の構成=憲法制定という地道で労の多い過程こそが、革命のもっとも重大な局面であるとすれば、「アラブの春」を経たチュニジア、エジプト、リビア、イエメンは、この段階での困難に直面しているといえる。それは成功を約束されたものではないが、失敗を運命づけられてもいないし、まだ終了してしまったわけでもない。
暫定政権の担い手
アラブ諸国の移行期の政治を、どのように見ていけばいいのか。さまざまな地域の過去の革命や民主化の事例に基づく研究を参照して考えてみよう。
ヨッシ・シャインとホアン・リンスは共編著『国家と国家の間──民主的移行における暫定政権』で、ある体制が崩壊して次の体制が設立されるまでの移行期に統治を行う「暫定(interim)政権」の比較考察を行った。そこから暫定政権を分析するための四つの類型による分類論を提案している。それによれば、多くの暫定政権は次のいずれかに当てはまる。
(1)臨時(provisional)政権
(2)権力分担(power-sharing)政権
(3)管理(caretaker)政権
(4)国際管理(international interim)政権
(*1)Yossi Shain and Juan Linz, 『Between States: Interim Governments and Democratic Transitions, Cambridge』 Cambridge University Press, 1995, p. 5.
(1)の臨時政権は、革命などによる政権崩壊を受けて、政権を打倒した勢力が政権を掌握して恒久的な新体制設立に向けての過程を取り仕切る。(2)の権力分担政権では、旧体制派と革命派が権力を分け合う。(3)の管理政権は、退場を余儀なくされている旧体制派が移行過程を管理する。(4)では、政権崩壊後に国連などの国際的主体が選挙監視など移行過程を管理する
この分類を用いてみれば、チュニジアでは、2011年1月14日の、ベン・アリー大統領の突然の国外逃亡後に、残された文民閣僚たちによる「管理政権」がまず成立した。そして、管理政権によって運営された2011年10月の立憲議会選挙の結果に基づいて成立したナハダ(復興)党主導の政権は「臨時政権」に近い。第一党になったが過半数を取れなかったイスラーム主義のナハダ党は、第二党で世俗的な「共和主義のための会議」、第三党で左派的な「労働と自由のための民主フォーラム」と連立して、大統領・首相・議会議長のポストを割り振り、組閣した。
大統領となった「共和主義のための会議」代表のモンセフ・マルズーキーや、首相となったナハダ党幹事長のハマーディー・ジバーリーはいずれもベン・アリー政権時代に投獄されるか、海外亡命を余儀なくされていた。その意味で、旧体制における反体制勢力が、旧体制の崩壊に伴って政権についたという意味で臨時政権に近い。しかし2010年12月から翌年1月にかけての大規模デモにはそれほど主導的役割をはたしていなかった。そのため、革命を行った勢力がそのまま政権についたわけではない。革命によって可能になった自由な選挙という条件のもとで、最も効果的に集票活動を行った結果、政権を獲得したのである。
ここから、旧政権下で勇敢に支配に抵抗していたという正統性はあるものの、臨時政権の担い手としての「革命的正統性」には欠けるところがある。そのことが、正当に選挙で勝利しながらも、立憲過程を力強く牽引していく力に欠ける要因になっていると思われる。2013年に二度の野党指導者暗殺が起こるたびに、リベラル・左派と旧体制派や労働組合が一致してナハダ党主導政権への退陣圧力を高めた。2月にはジバーリー首相は辞任を余儀なくされ、ナハダ党幹部で内相を務めていたアリー・アライイドに交代したが、7月の新たな野党指導者暗殺事件をきっかけに再度高まった圧力に耐えかねて、10月にはナハダ党主導の政権そのものが近い将来の下野の意志を表明せざるを得なくなっている。
エジプトの場合、ムバーラク政権崩壊と共に、旧体制の中核にあった軍が暫定政権の担い手を務める「管理政権」が成立した。2011年1月25日に始まる反ムバーラク政権の大規模デモに直面して、軍は大統領と側近、そして内務省系の治安警察を見捨てて政権を離脱した。軍の管理政権は、一時的に、ムスリム同胞団主導の、ある種の「臨時政権」に地位を譲った。2011年から翌年にかけての人民議会(下院・立法府)や諮問(シューラー)評議会の選挙や、2012年5月から6月にかけて行われた大統領選挙と決選投票で、ムスリム同胞団とその設立した自由公正党が勝利した。2012年6月30日にはムスリム同胞団のムルスィー氏が大統領に就任。エジプト近代史初の、選挙で選ばれた文民大統領となった。
ここでもチュニジアと同様に、旧体制下で弾圧されていた反体制組織が、政権崩壊後の選挙で勝利し、権力の座に就いたという意味で、ある種の「臨時政権」と言えるものの、直接的に革命を主導した勢力が政権を獲得したわけではない。ここから、「革命的正統性」を十分に主張できず、革命の主体を標榜する様々な勢力からの挑戦を受け、政権運営に行き詰まった。チュニジアとの比較では、チュニジアではイスラーム主義勢力の第一党が、左派・リベラル派と連立を組んだのに対し、エジプトではムスリム同胞団がほぼ単独で政権を掌握したという点が異なっている。
いまだ記憶に新しいと思われるが、2013年6月30日の大規模デモで、ムスリム同胞団の統治への反対勢力が、革命派若者から旧体制勢力まで幅広く結集し、7月3日の軍のクーデタを呼び込んだ。その後の政権は再び軍が実質的な権力を握る、「管理政権」に戻ったといえる。
リビアの場合、内戦でカダフィ政権が完全に打倒され、反カダフィ政権の内戦を主導した国民移行評議会が首都トリポリ陥落後にそのまま政権を握ったという意味では、典型的な「臨時政権」が成立した。臨時政権が選挙を行って、選挙で勝利した勢力によるもう一つ別の臨時政権に権限を受け渡したところまでは、当初示した工程表通りだった。しかしこの第二の臨時政権が統治と立憲過程で行き詰っているのが現状である。
2012年7月の選挙の結果を受け、8月に国民議会が招集されると、国民移行評議会は国民議会に権限を委譲して解散した。暫定的な国家元首となる国民議会議長には、1981年に亡命して以来、在外の反政府組織リビア救済国民戦線(NFSL)を指導してきたムハンマド・マガリヤフが選出された。首相にはカダフィ政権期に亡命していた弁護士のアリー・ザイダーンが就任した。旧体制への反体制勢力による、選挙を経た臨時政権が設立されたといえよう。
しかし、カダフィ政権を軍事的に打倒した際の功績を主張する各種民兵集団が競い合い、治安が不安定な状況が続く。民兵集団やデモ隊による、カダフィ政権の残存勢力の一掃への強硬な要求を背景に、カダフィ政権時代の要人を包括的に公職から排除する法律が国民議会で制定されたが、それに基づいて、長く在外反体制指導者の筆頭格であったマガリヤフですら、1970年代の短い時期にカダフィ政権で要職にあったという理由で、国民議会議長の辞任を迫られる事態になった。「移行期の正義」を硬直的なルールで適用すると、移行期の政治の担い手そのものがいなくなってしまうというパラドクスが生じている。
イエメンの場合は、他の三カ国と大きく異なり、既存の与野党に大規模デモを主導した新たな勢力が加わった「権力分担政権」が成立した。湾岸協力会議(GCC)諸国や米国などが仲介し2011年11月に結ばれた合意では、サーレハは訴追免除を条件に大統領職から退任し、ハーディー副大統領が大統領代行として権限を委譲された。2012年2月には短縮された2年間の任期についての大統領選挙が行われたが、ハーディー大統領代行以外の候補者は立たず、ほぼ100%の信任投票を現職が受けるという形になったため、国民の意志が十分に表出されたかどうかは定かでない。
また、サーレハ前大統領が訴追や追放、あるいは内戦の末の殺害といった憂き目にあわず、支持基盤である与党・国民全体会議の党首であり続けている。ハーディー大統領は国民全体会議の副党首に留まっており、その意味では依然としてサーレハ前大統領の「部下」なのである。このような勝者と敗者を曖昧にした権力再配分の手法を用いることで、内戦突入の危機や、移行期の大規模な混乱を未然に防いでいると考えることもできるが、問題解決や責任追及が棚上げされるという側面も目立ってきている。
ハーディー大統領の政権において、選挙ではなく、部族や団体など各種の勢力の代表者を指名した「国民対話会議」が招集され、統治機構改革や北部や南部の反乱・分離主義への対応、連邦制などが協議されている。多数決原理を取らない対話会議であるため、議論の終着点や期限は必ずしも明確ではなく、協議は長期化、拡散する傾向がある。
立憲過程の動揺──多数決型からコンセンサス型へ
このように4カ国の移行期は、それぞれの政権崩壊のあり方や、それ以前の国家建設の経緯に由来して、異なる担い手によって進められ、異なる経緯を辿ることになった。そして移行期の政治の最大の課題である憲法制定に関しても、4カ国で事情は異なっている。移行期の過程で、各国とも軌道修正や大幅な変更を迫られている。
各国の立憲過程のあり方とその変化を見ていくために、ここではアレンド・レイプハルトが民主主義諸国を分類するのに用いた「多数決型」と「コンセンサス型」の概念を応用してみよう。レイプハルトはイギリスの「ウェストミンスター型」に代表される、選挙によって多数派を獲得した勢力が統治を行う「多数決型」と、スイスやベルギーなどに原型が見られる、社会の幅広い勢力からの代表選出を制度的に行う「コンセンサス型」に民主主義諸国を分類し、通念とは異なり、純然たる多数決型民主主義はそれほど主流ではないことを示した(*2)。
(*2)アレンド・レイプハルト『民主主義対民主主義──多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究』粕谷祐子訳、勁草書房、2005年。
レイプハルトの議論は定着した民主主義体制についてのものであり、民主主義が定着するかどうかまだ定かでないアラブ4カ国について適用するのは適切と言えないかもしれない。しかしここで問題にするのは、移行期の暫定的な政治過程における、憲法制定という課題に限定した決定機関の選出法である。安定した民主主義に到達するための過渡期にどのような制度がありうるのか、アラブ諸国は試行錯誤、あるいは「実験」をしていると言っても良い。その過程の制度を「多数決型」と「コンセンサス型」の概念で読み解いてみることにする。
すでに見てきたように、移行期のアラブ4カ国は、いずれもある種の「革命」的な変動を過去3年の間に経験したものの、単一の革命勢力がそのまま臨時政権を樹立して立憲過程まで取り仕切ってきたわけではない。「革命的正統性」を体現し、「人民の意思」を自らがそのまま代表すると主張できる主体が組織化し統一した形で存在していない。そこから、何らかの形で立憲過程の代表者を選出して、改めて「人民の意思」を表出する手続きが必要となる。
アラブ諸国の移行期を見れば、大きく分ければ、選挙で立憲過程の代表者を立憲議会に直接的に選出して多数派の主導による立憲過程を進める「多数決型」の手続きと、選挙を必ずしも経ずに、地域、民族、宗派、部族、職能団体、労働組合そして既存あるいは新興の政党といった各階層・各勢力から代表者を選出した「国民対話」型の会議で立憲議論を行う「コンセンサス型」の手続きが認められる。
チュニジアの場合、2011年10月の選挙で選ばれた議員がそのまま「立憲議会」を構成するものとされている。直接選挙による、多数決型の憲法制定過程が設定されたのである。ただし第1党のナハダ党が絶対多数の議席を取れず、イスラーム主義の他の勢力も政治的組織化に未発達だったことから、思想信条を大きく異にするリベラル・左派との連立政権を汲んだことで、一定のコンセンサス確保を目指したと言えよう。しかし2013年に進んだ野党・旧体制勢力の結集の動きが進み、政権としては退陣の表明を迫られた。ただ、立憲議会の解散・再選挙については拒否しており、制度としては多数決型で、運用面でコンセンサス確保を目指す手法での立憲過程を維持しようとしている。
エジプトの場合、暫定政権を担った軍の設定した移行の工程表では、2011年から12年にかけて選出された人民議会・諮問評議会は、そのまま立憲議会とはならないものとされた。そして立憲議会(憲法起草委員会)は、多数決原理ではなく社会各層・各勢力から選出するものとされ、その中での議員の割合はごく少数に限定されるものと規定された。そもそも憲法起草委員会委員を、議会両院の議決によって選出するか否かすら、当初は曖昧だったが、選挙で相次いで勝利したムスリム同胞団(自由公正党)は、議会での多数決による立憲会議の議員選出を強く主導し、イスラーム主義勢力が多数を占める立憲会議を成立させた。
ムスリム同胞団は少数派のボイコット戦術を押し切って、2012年12月の新憲法制定に持ち込んだものの、これに対して高まった世俗派各勢力の反発が、革命派と旧体制派の合流をもたらし、2013年7月3日のクーデタを呼び込んだ。2013年制定の憲法は停止され、軍と暫定政権が指名した新たな立憲会議(「50人委員会」と呼ばれる、諸政治勢力・団体・学者・知識人・若者などの各種代表者からなる)によって実質的に新たな憲法制定といえる大幅な改正の審議が進んでおり、早ければ年内にも新憲法案への国民投票が行われる見通しになっている。
軍が設定した曖昧な「コンセンサス型」の立憲過程において、議会や大統領選挙での多数派形成を背景に、ムスリム同胞団が「多数決型」の運用を行って、一度は憲法制定を果たしたものの、大衆動員と軍の介入によって強制的に停止させられ、よりコンセンサス的な手続きによる立憲過程のやり直しがなされていると言える。問題はやり直しの立憲過程からムスリム同胞団が超法規的・暴力的に排除され、その意思がコンセンサスの中に含まれていないことである。
リビアの場合、カダフィ政権との内戦の過程で国民移行評議会が示した工程表では、国民議会が選挙によって選出された後、今度は国民議会が立憲議会(憲法起草委員会)を「選出」するはずであった。この場合の「選出」が、議会の投票によるものなのか、また議員の間から選ぶのか、あるいはまた投票ではなく協議・対話によって、より広範な社会諸勢力への憲法起草委員会委員の議席の配分を行うのかは曖昧なままだった。
状況をいっそう紛糾させたのは、国民移行評議会が国民議会に権限を委譲して退陣する直前に、工程表を改正し、憲法起草委員会もまた直接国民によって選挙されると定めたことだ。このような決定が合憲であるかが司法の場で争われると共に、立憲過程のあり方と主体そのものについての議論が振り出しに戻ることで、リビアの立憲過程は停滞し長期化した。そもそも国民移行評議会の決定の「合憲性」を判定する憲法規範が確立あるいは存在しているかどうかが定かではない。
結局、2013年7月に国民議会で憲法起草委員会選挙法が可決され、リビアを構成する三つの地域(トリポリタニア、キレナイカ、フェッザーン)に均等に20議席ずつを配分し、ベルベル民族など少数派への割り当ても規定した60人からなる憲法起草委員会を直接選挙で選出することになった。この場合、国民議会との権限の相違や上下関係が将来の問題になる。治安を含めた各種の政治的混乱が続く中で、選挙の実施のめどは立っていない。
そうこうしているうちに8月にはザイダーン首相が国民対話会議の開催を提唱した。それによれば、選挙を経ずに、地域・部族・団体等の幅広い諸勢力から代表者を選出し、諸問題に関する議論を行う協議体の設立を目指している。選挙によって選ばれた代表者による多数決原理の決定に限界が見えてきたところで、コンセンサス型の機構を導入する試みと言える。しかし選挙で選ばれた国民議会と、選挙で選ばれることになっている憲法起草委員会、そして選挙を経ない国民対話会議が並存した場合、どこに国民の真の意思が反映されているのかが、少なくとも短期的には分かり難くなるだろう。
これに対してイエメンでは、2011年11月の合意の当初から、国民対話会議による、選挙を経ない代表者間での、オープンエンドの協議によってコンセンサスの形成を目指しつつ、当面の危機を回避・先送りするという手法が採用されてきた。そこから、大統領選挙でも対抗馬が出されないなど、政治的な自由化や競合が十分に進んだとは言えない。サーレハ前大統領や側近の追及もなされず、支配政党が依然として最大勢力として、そしてサーレハ前大統領を党首として存続している。十分な改革がなされず、なし崩しに旧体制が復活する可能性が残されている。
しかし当面の内戦や衝突を回避するだけでなく、国民対話会議を通じて、これまでになく多様な諸勢力が発言の場を得て、かつてなら弾圧の対象となるような自治や改革、そして分権制や連邦制の要求まで行えるようになったことも確かである。しかしコンセンサス形成を待つ以上、決定までには多くの時間を要する。国民対話会議で諸勢力が多種多様な要求を表明することで、社会に遠心力が高まっていく一方で、既存の支配勢力の変化や自由化への抵抗も頑強になり、一定の「落としどころ」を諸勢力が見出すまでにかかる時間は極めて長いと思われる。その間に国内・国際環境の変化が生じれば、国民対話会議の効力を減じさせないとも限らない。
アラブ世界に「自由の創設」はなるか
上記の4カ国では、移行期の立憲プロセスという地味な過程に注目すれば、派手なデモや暴動や、テロや内戦といった事象とはまた別の、困難な試みが進められていることが分かる。
大きな流れとしては、イエメンを除く各国では、「アラブの春」による政権崩壊後、それまでには不可能だった自由で競争的な政治・政党活動を解禁し、自由で公正な選挙を実施して、民意の所在を明確にしようとした。そこから「多数決型」の決定による立憲プロセスがまず試みられた。しかし選挙による多数決型の意思決定が、社会の中のかなり大きく、かつ有力な層から強い不満を呼び覚ましたことで、コンセンサス型の代表者選出による意思決定を導入しなければならない段階にいずれも至っている。
確かに、政治的な組織化や動員が長く制限されてきたアラブ諸国では、不意に開かれた政治な自由の空間で、一度だけ行われた、あるいは短期間の間に複数回行なわれた選挙の結果だけに基づいて、多数決型の意思決定を推し進め、恒久的な体制を定めてしまうのは、時期尚早と言えるだろう。しかしコンセンサス型の意思決定は、その選出の手続きや運用の如何によっては、単に従来からの「声の大きい」既得権益に再び大きな意思決定権を配分することにつながりかねず、「革命」の際に期待された改革が停止され、抑圧的・強権的体制の再構築につながりかねない。その場合民衆のデモなどによる不安定化が再度引き起こされ、政権の動揺や崩壊を経て振り出しに戻る、ということになりかねない。
しかしこれらはアラブ諸国の固有の文化や心性に由来するというよりは、「民衆の意志を体現する」ことによって正統性を確保する民主政体の成立に必然的に付随する困難である。アラブ世界に「自由の創設」はなるか──「反乱」の段階を越えた、地道で困難な道のりを、粘り強く見届けていく必要がある(*3)。
(*3)4カ国の移行過程のより詳細な事実関係は、雑誌『UP』(東京大学出版会)2013年12月号および2014年1月号に掲載予定の拙稿「アラブ諸国に『自由の創設』はなるか」(上・下)にまとめてある。
サムネイル「Tahrir Square on February11.png」Jonathan Rashad
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Tahrir_Square_on_February11.png
プロフィール
池内恵
東京大学先端科学技術研究センター准教授。アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授を経て2008年より現職。専門はイスラーム政治思想史、中東政治。『現代アラブの社会思想──終末論とイスラーム主義』(講談社、2002年、大佛次郎論壇賞)、『書物の運命』(文藝春秋、2006年、毎日書評賞)、『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2008年、サントリー学芸賞)など。