2013.09.02

進歩しない人間だからこそ、歴史に意味がある ―― 「経済学史」とはなにか

経済学者・若田部昌澄氏インタビュー

情報 #経済学#教養入門#経済学史

研究室の扉を開けてみると、そこは本の山、山、山。今回の「高校生のための教養入門」は経済学者の若田部昌澄先生に、ご専門の経済学史についてお話を伺いました。「経済学史は地味な学問です」と言い切る若田部先生。思想史の中でも独特の発展をとげた経済学史の魅力をご紹介します。(聞き手・構成/山本菜々子)

普遍的なこと

―― 今回の「高校生のための教養入門」は、「経済学史」の若田部昌澄先生にお話をうかがいます。今日はよろしくお願いします!

よろしくお願いします。経済学史は非常に地味な学問なので、高校生に向けての企画なんて聞いたことがないですよ(笑)。

―― 地味な学問なんですか!?

私の学生時代はそれなりに人気だったのですが、最近の経済学の中ではあんまりポピュラーじゃありませんね。

―― たしかに、「経済学史」と聞いても、なにをしているのかピンときません。「経済史」とはなにが違うんですか。

そうそう、「経済学史」と「経済史」はよく間違われてしまします。「学」が入っているかいないかだけの違いですが、大きな違いがあります。

「経済史」という学問は、文字通り経済の歴史です。事件や制度や技術の発達といった、経済的なイベントがあり、その結果どのような作用があり、なにが生まれたのかを研究します。つまり、イベントの歴史といえます。一方、「経済学史」は、イベントを見た人達が、どのように考えたのかを研究する学問です。

たとえば、航海技術の発達により、貿易が活発化したというのは、経済的なイベントです。そのイベントを見た人達の間で、貿易が活発になっているのかどうか、貿易が活発化することは良いことなのか悪いことなのかといった、議論が生まれます。それぞれの解釈は「経済学」、「経済思想」と言えるでしょう。その「経済学」を整理するのが「経済学史」です。学問についての学問と言えるでしょうね。もっとも経済史は経済学史を理解するのにとても大事です。

シノドスでは、隠岐さや香さん(広島大学大学院総合科学研究科准教授)による科学史についての紹介がありましたが(「文系、それとも理系? いや真ん中系――『科学史』とはなにか」https://synodos.jp/intro/4262)、学問分類でいえば経済学史も科学史ですね。ただ、経済学史は経済学との関連でかなり独自の発展を遂げてきて、対象である経済学との関わり方でちょっと独特のところがあります。

―― 先生はどんな研究をされているんですか?

私は1930年代の大恐慌や1970年代の大インフレ、1990年代からはじまる日本の大停滞といった、経済危機の時代を主に扱っています。経済学史を研究している方の多くは、一人や二人の経済学者を選び、その人について深く研究していきます。私も当初はそうしていたのですが、現在は、経済危機時代の複数の経済学者を同時に研究しているんです。

経済危機について研究しようとおもったのは、次第に最近の経済停滞に関心を持ったからです。特にここ10年ほどは大恐慌・昭和恐慌時代の経済学者の論争を中心に研究しています。

―― 最近の経済停滞に興味を持ったのに、なぜ昔の経済危機について研究しているのですか?

人間が経済について考えつく大きなパターンは、もうすでに昔の経済学者によって考えつくされている気がしますね。細かい議論や計算や実証は今の経済学者の方がはるかに優れていますが、基本的な考え方は昔から変わっていないように見えます。

―― 過去の議論も現在の議論もあまり変わりがないということですね。

そうですね。たとえば、ディビッド・ヒュームの『経済論集』に、「貿易に関する嫉妬について」という論説があります。それが非常に面白いんですよね。ヒュームが生きていた、18世紀は貿易競争が盛んに行われた時代でした。オランダやイギリス、フランスといったヨーロッパの国々は、競うように貿易をしていたんです。

当時の人びとにとっては、敵国が豊かになることは、嫉妬心をかきたてられることでもありました。しかし、ヒュームは、敵国が豊かになることで自国も貿易が盛んになり豊かになることができると説いたのです。この、ヒュームが指摘した「貿易に関する嫉妬」は、その時代だけではなく、繰り返されます。時代が下っていけば、イギリスとドイツの競争になりますし、日本とアメリカになり、日本と中国であったり、アメリカと中国であったりと形を変えつつ受け継がれているんです。

少し意地悪にいうと、基本的なところで人間というのは進歩していないといえます。同じようなことを繰り返している。そういう意味で、経済学史というのは、経済についての人間の考えのパターンを取り出す上で、普遍的なことをやっていると感じています。

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偶然が重なる

―― 先生が経済学史を専攻するきっかけを教えてください。

子どものころから、歴史が好きな子どもでした。はじめは経済よりも政治の話が好きだったんですが、なんとなく、政治よりも経済の方が世界を動かしているのでは、と子どもなりに感じていました。

―― 末恐ろしい子どもですね……。

子どもといっても、小学生からではないですよ(笑)。なんで、そうおもったのかは、今となればよく分かりませんが、実は父親がかつて経済学史を専攻していた影響はあるのかもしれません。父は大学院の修士課程を出ています。結局、学者にはならずに一般企業に就職しましたが、家にはアダム・スミス、デヴィッド・リカードといった有名な経済学者の本が並んでいました。直接その本を読んでいたわけではありませんが、日常的に経済学の話は飛び交っていましたし、触れる機会も多かったんです。

父の影響もあり、大学では経済学科に入りましたが、当初は経済学史を専攻しようとはおもっていませんでした。しかし、ちょうど私が入学した1983年は、カール・マルクス没後100周年で、ケインズとシュンペーターの生誕100周年という年だったんです。経済系の雑誌ではこぞって彼らの特集が組まれていました。あのときはなんとなく、マルクス、ケインズ、シュンペーターという有名な経済学者にスポットがあたり、自然と経済学史も盛り上がりを見せていました。

それと、当時のゼミの先生が経済学史を専攻されていた方だったんです。そういった偶然が積み重なって、経済学史を勉強するようになりました。そこから経済学史の面白さにハマっていきました。

なぜ、研究者になろうとおもったのかは、自分でもよくわかりません(笑)。おそらく消去法だったとおもいます。

―― 消去法ですか(笑)。

当時は今と比べて就職が厳しくなかったので、就職活動で苦労することはほとんどありませんでした。とても景気が良かったんです。就職する先は沢山あったんですが、なんだか普通に就職するのが嫌だったんですよね。あんまり人とつきあいたくなかったんでしょうね(笑)。

―― それは致命的ですね(笑)。

最終的には消去法でしたが、その後も偶然に身をまかしていたらこの世界にいたという感じです。年をとってきて、人生と言うのは偶然の連続だということをおもいますね。多少の計画はあったとしても、明確なマスタープランにのっとって人生計画していたわけではない。現在の研究課題を発見したのも偶然の産物ですし。非常に皮肉なことに「合理的に計画し行動する個人」は経済学が想定するモデルではあるんですが、当の経済学者自身はそんなこと全然考えていないんですよね(笑)。

金槌のようなもの!?

―― 実際に大学で経済学を学んでみた感想はいかがでしたか?

経済学に大きな期待をもって入学したのはいいものの、大学で教えられるのは無味乾燥で形式的な経済学で、ちょっと失望しましたね(笑)。

―― 第一印象は良かったけど、実際に付き合ってみたらイマイチだったということですね。

しかし、勉強していくにつれ、この無味乾燥な学問が現実理解においてすごく役に立つことが分かってきたんです。付き合いが深くなって別れられなくなるほどに。

実際に最近では、経済学が政策に応用されることも多くなっています。日本ではそれほど導入が進んでいませんが、海外などでは特に顕著です。たとえば、携帯電話の周波数のように限られた資源をどう分配するのかという問題に、「オークション理論」という経済学の手法が取り入れられていますし、臓器移植などでも「マッチング理論」という手法が使われています。

また、ウナギなどの海洋資源が枯渇していることが問題になっていますが、それも経済学が解決の糸口を用意しています。誰のものでもなく、誰でも取っていいものに関しては、みんながこぞって取ってしまいます。そうすると、結局稚魚が少なくなり、みんなの取り分が少なくなってしまう。「共有地の悲劇」とかいうものですね。その対策のためにノルウェーなどでは、経済的な理論でつくられた「漁業枠」が活用されています。このあたりは、シノドスでもおなじみの勝川俊雄さん(三重大学生物資源学部准教授)が詳しいですね。

日本でも、「アベノミクス」の第一の矢である、金融緩和が話題になっていますよね。これも経済学に基づいた政策です。昔から先進国を中心に世界中でやられてきて、日本もようやく導入しました。

このように、経済学は政策に応用されています。実際に、すごく役に立つと言えるでしょうね。

―― 経済学が役に立つことは分かりましたが、経済学史はどうなんですか?

経済学史については、うーん、どうでしょう(笑)。知的好奇心を満たすという意味では役に立っているのかもしれません。

この質問は「金槌がなんの役に立ちますか」という質問と似ています。建物を建てるために役に立つと言えますが、家を建てるという目的を知らずに金槌を見たら、おそらくなんら意味の無い物体に見えるとおもうんです。道具というのは目的を持たないと役に立たないものです。

だから、「経済学史がなんの役に立ちますか」という質問には、役に立てようとおもったら役に立つとお答えします。なにだって役にたてようという意志がないとなににせよ使えませんから。ズルイ回答かもしれませんが。

―― うーん。なんだか煙に巻かれたようです。

金槌は使い方がわかっていますからね。私が言いたいのは、経済学史を役立てるには、役立てようという意志が必要だということです。それは他の学問にも言えるでしょうね。私が持っている道具は経済学史の知識ですので、これをどう自分と社会に役立つように使えるのかというのは常に意識しています。かといって、別に役立てようとしないことが悪いともおもいません。ただ、経済学史というのは、経済学と歴史を組み合わせた学問です。この組み合わせが普通の科学史とは異なるところかもしれません。私はまずはこの歴史の部分が役に立つとおもっています。

―― 歴史の部分ですか?

そうです。たとえば、「アベノミクス」について研究するとしましょう。経済学のよくあるアプローチとしては、経済学の様々なモデルを使いながら、今の状況を分析していく方法があります。

しかし、モデルというのはあくまでもモデルです。実際の経済がいつもモデル通りに動くわけではありませんし、実際の政策がモデルどおりに運営されるわけではありません。国内や国際政治の圧力がかかったり、思わぬハプニングがあったりするものです。モデルを当てはめて考えることは重要ですが、モデルによっては現実の経済とはかけはなれてしまう面というのもあるんですね。

一方、経済学史というのは、政策の中身やそれを支えている理論だけでなく、政策を考えたり、決めたりする上で人々がなにを考えているのかも研究する学問ですから、安倍さんや周りの人達がどのようなことを考え、どのような反対にあっているのかが理解しやすいと言えます。というのも、過去の経済学の論争を紐解くと、現在の論争にも通じるものがあるんです。そのため、経済状況ではなく、人にスポットを当てることで、違った角度からアベノミクスを捉えることができます。

―― 人びとの発想にスポットを当てるということですね。

それから次に経済学史は、経済学的な部分があるのでそれは歴史研究の部分にも役に立つと言えます。

経済学というのは、「人間がどういう行動を取るのか」「どのように関わり合うのか」について考えてきた学問です。たとえば、「人間は合理的に行動する」という仮定が経済学にはあります。人間は自分の利益が最大になるような行動をとるということです。

このような人間が集まって経済活動をする場合、自らの利益を優先しバラバラになってしまうかとおもいきや、その中でなんらかの秩序が生まれてきます。これが「市場」と呼ばれるものです。しかし、市場が生まれたからといって、うまくいかない場合もあります。では、どのようにしたらうまくいくのかといった、人間の関わり合い方を経済学では考えていきます。

このような人間自身と、人間と人間の関係性への洞察は、他の学問よりも徹底しています。その視点から歴史を紐解くと、いろいろなことが分かるわけです。メリットがなければ人間は動きませんから、どのようなメリットがその人にあって行動を起こしているのかを見ていきます。アベノミクスで例えるならば、安倍首相にとってどのようなメリットがあってこの政策をとっているのか、周囲の人びととはどのような利害関係で繋がっているのかといった視点で、捉えることができるのです。

―― なるほど! 経済学と歴史学のいいところを受け継いでいるんですね。

むしろ、そうありたいとおもっています。

「当然の常識」を武器に

―― 最後に高校生にアドバイスがあればお願いします!

経済学というのは、とても重要な学問です。「お金の話をするのは嫌だ」とおもっている人もいるかもしれませんが、実際にはみんながお金を稼いで生活していかなければなりません。「平和を望みたいのであれば、戦争の研究をしなければいけない」というように、お金に使われたくないとおもっている人ほど、お金について研究する必要があるとおもいます。

それに、経済学は単にお金を扱っているのではなく、人間の持っている自律性と、社会との関わりについて洞察するものです。経済学が言っていることは、世の中には利害があって、それを調整するのが社会の役割であるという当然の常識ですので、社会に出ても役に立つ武器になるでしょう。

そして、経済学というのは刻々と進化している学問です。統計やビックデータを使うことで、大きく変わりつつありますし、政策への応用も進んでいます。経済学の可能性はどんどん広がっていますので、大学で勉強するのに値する、面白い学問だとおもいます。

経済学史についていえば、歴史が面白いかどうかに左右される部分がありますので、歴史が好きな人にはおススメです。少し地味ですが、ぜひ経済学史も学んでみてくださいね。

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経済学史がわかる!高校生のための3冊

高校生のための3冊というのは意外に難しい注文です。このサイトを読むような高校生ならば、すでにかなり関心があるでしょうから、以下に挙げるような本は読んでいるかもしません。もしそうでなければ、経済学史のいろいろな姿を示す本を選びましたので、ぜひ読んでみてください。編集部からは、自著の推薦もよいというありがたい申し出もありましたが、ここは禁欲します。

アダム・スミスといえば、誰もが名前だけは聞いたことがあるはず(聞いたことがない人はこの際に覚えておきましょう)。「経済学の父」ともいわれる大経済学者ですが、その主著『国富論』や、もう一つの本『道徳感情論』を読んだという人は少ないはず。一人の経済学者の著作を、時代背景を踏まえて著作を丹念に再構成するタイプの正統的な学風ですが、読みやすく書かれています。また、意外なことにこういう読み方は、現代にとっても活かすことができるようなヒントをたくさん提供してくれます。そのあとには、たとえば井上義朗『二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想』(講談社現代新書、2012 年)が現代にまで至るさらに広い展望をあたえてくれます。

経済学史というよりは、(ある種の)社会科学への入門書です。かつては、それこそ中学生くらいまでに読む必読書に挙げられていたとおもいます。ただ、戦前の1937年に書かれているので、ところどころ違和感をおぼえるのは仕方がないですね(経済的に少し没落しているはずの主人公の家にはお女中さんがいます。これはこれで興味深い事実です)。

けれども、マルクスのマの字も出さずに、見事なマルクス経済学への入門書になっているのは、さすが岩波書店を代表した名編集者です。もうすでに読んだという人は、マルクスの『共産党宣言』や『経済学批判』の「序言」などを読んだ後で、この本を改めて読むとよいでしょう。私が一番感心したのは、粉ミルクのもとをたどればオーストラリアに行きつくというくだりですね。貿易を通じて見も知らぬ人々が結びつき、世界が一つになって行くということを雄弁に語っています。

スミス、マルクスとくれば、ケインズといきたいところ。ここでは少し視点を変えてシュンペーターとフィッシャーという、ケインズの同時代に生きた経済学者をとりあげましょう。90年代から日本経済が長期にわたって停滞していることについては、皆さんもご存じだとおもいます。この本では、日本経済について二つの見方を提示して、その源を経済学史に遡りながら整理し、望ましい処方箋について考えています。著者は国際経済学が専攻で、この本以降、次々と著作を発表していますが、経済学史の使い方、という意味で大変面白いとおもいます。また、2007-8年からの経済危機でも、この1930年代の大恐慌の時代は注目されています。なお、よくとりあげられるケインズとハイエクについては、間宮陽介『増補ケインズとハイエク』(ちくま学芸文庫、2006年)、ニコラス・ワプショット『ケインズかハイエクか』(新潮社、2012年)などがあります。しかし、この問題を考えるのに一番刺激を与えてくれるのは、ポール・クルーグマン『さっさと不況を終わらせろ』(早川書房、2012年)でしょう。

(2013年7月13日若田部昌澄先生研究室にて)

プロフィール

若田部昌澄経済学 / 経済学史

1965年、神奈川県に生まれる。早稲田大学政治経済学術院教授。1987年に早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。その後、早稲田大学大学院経済学研究科、トロント大学経済学大学院博士課程単位取得修了。ケンブリッジ大学特別研究員、ジョージ・メイスン大学政治経済学センター特別研究員、コロンビア大学日本経済経営センター客員研究員を歴任。2000年代から、現実の経済問題に発言をはじめ、リフレーション政策支持の論陣を張る。著書に『経済学者たちの闘い』(東洋経済新報社、2003年)、『危機の経済政策』(日本評論社、2009年)、『もうダマされないための経済学講義』 (光文社新書、2012年)、『本当の経済の話をしよう』(栗原裕一郎氏と共著、ちくま新書、2012年)、近著に『解剖アベノミクス』(日本経済新聞出版社、2013年)など多数。

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