2017.05.12

何がドイツ人とユダヤ人を和解させたのか?

『〈和解〉のリアルポリティクス』著者、武井彩佳氏インタビュー

情報 #「新しいリベラル」を構想するために

過去をめぐる軋轢が絶えない日中韓。和解は謝罪や赦しとしてとらえられ、日本はドイツをみならえと言われてきた。だが、ドイツ人とユダヤ人との和解が可能になったのは、真摯な反省のみによるものだったのか? 実はそこにはリアルポリティクス(現実政治)があったとする武井彩佳氏にお話を伺った。(聞き手・構成、芹沢一也)

――本書は、ドイツ人とユダヤ人の和解を、一見、和解とは相いれないようにみえる「リアルポリティクス」の視点から検討するものです。

アジアの近隣諸国と日本との和解もそうなのですが、私たちは「和解」というものを謝罪や赦しといった「こころ」の問題としてとらえがちですよね。しかし実際には、和解は政治、経済、そして軍事など、複数の分野にまたがる制度として構築されます。何が国家にとって利益であり不利益であるのか、そうしたことが政治的、経済的、軍事的に測られ、そしてリアルポリティクスに基づいて交渉される場が、まさに和解なのです。

こうした側面を見落として、謝罪や反省といった精神的な次元のみで理解しようとすると、なぜあるケースでは和解でき、他のケースではうまく行かないのか、その違いが見えてこなくなります。そういった観点から、あえて和解の制度的、物的な側面に光を当てて、和解を構築した要素へと分解してゆくことが必要だと考えました。

――しかし、内外から日本はドイツに見習えと言われます。その場合、日本には真摯な反省が欠けている、ということが言外ににおわされています。

日本においてはドイツ(統一前は西ドイツ)の戦後処理を、加害の過去を克服し、かつての犠牲者と和解する「モデル」とする見方が強くあります。ドイツの例から学べることが今でも多いのは確かです。

私たちがドイツの姿勢を倫理的、道徳的にも高いものとして位置づけてきたのは、たぶん日本の戦後処理はこうした「倫理」を欠いたという理解があります。これを求めるがゆえに、ドイツの規範性を強調する傾向にあったのではないかと思います。

しかし、実際のドイツの和解をみれば、決して謝罪や反省だけで達成されたわけではないことがわかります。自国の経済的利益や安全保障の観点から、非常に現実的な選択が積み重ねられており、それは時には特定の犠牲者は救済するが、他は切り捨てるといった選択を伴うものでした。

――決して被害者の立場にたっての和解ではなかったと。

必ずしもそうではなかったと思いますが、ドイツは、ドイツにとって政治的利益のある相手との和解を優先しました。その結果、例えば共産主義国家に暮らすナチ犠牲者は冷戦が終わる頃まで補償対象から抜け落ちていましたし、パレスチナ難民のように、間接的に不利益を被る集団が生まれるといった現実もありました。

こうした「過去の克服」の実像は、日本ではあまり知られていません。ドイツは「何が望ましいか」より、「何が実現可能か」という観点から選択を繰り返しました。その積み上げが和解となったのです。ただし、それは単なる損得勘定や弱肉強食のパワーポリティクスではありません。要所要所で謝罪のジェスチャーを示すことで、その現実主義は人の顔をしたものになっているわけです。

近年、日中韓において過去をめぐる軋轢が絶えない中で、なぜドイツの戦後処理は成功したとみなされるのか、今一度、問い直す必要があると考えます。その際の分析枠は、謝罪や反省といった要素より、むしろドイツ人とユダヤ人がともに追及したリアルポリティクスにあるのではないでしょうか。

――和解によってドイツが追及した国家利益とは何だったのでしょうか?

ドイツにとってユダヤ人補償は、もちろん罪を償うという大義から出発しています。この点は強調する必要があります。しかし、当時の国際政治の文脈では、和解を推し進める動機は、冷戦下の安全保障にありました。

国が東西に分断されたドイツは、冷戦の最前線に位置していたため、安全保障が最大の関心事となりました。そして、アメリカを中心とする西側軍事同盟の中で地位を確保するためには、信頼できる国家として国際社会に復帰する必要がありました。

戦勝国も、大戦でドイツがもたらした被害に目をつむって、ドイツを仲間に迎えることはできなかったわけです。したがって補償は、ドイツの被害国や犠牲者集団を懐柔し、ドイツの地位を向上させる手段の一つと認識されていました。

――まさにリアルポリティクスですね。

はい。現に、謝罪し償うことが、ドイツの名誉の回復と相反するとは考えられていませんでした。補償を支払うことで信用が回復され、戦勝国の後見から脱し、軍事同盟も安定すれば、最終的には国家利益になるわけです。ドイツはこうしたトータルの意味での復権を求めていました。道義的責任を果たすことが、名誉を回復する近道になると理解していたのです。

しかし、イスラエルに対して金銭的補償と同時に軍事支援も行っていることは重要です。この二つはセットになっており、金を払うだけでなく、国防という、人の血が流れる場所でも援助するという姿勢を示すことが、本当の意味でドイツの格を上げる。このように一部の保守・反共の政治家は考えていたようです。

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――ドイツから「血の付いた金」を受け取らせた、イスラエルにとってのリアルポリティクスはどうでしょうか?

イスラエルの建国が1948年、周辺のアラブ諸国に対して大きな勝利を収める6日間戦争が1967年ですので、この約20年はイスラエルの建国期と呼べるでしょう。この間イスラエルでは、戦争に負ければ国家消滅の危機に瀕すると信じられていましたので、指導者にとっては国の存続を維持すること以上に大事なことはありません。

そのためには国力増強による領土の支配がもっとも重要であり、それ以外は後回しにされる傾向にありました。後回しにされた中に、ホロコースト生存者のケアも含まれていました。逆説的にも、ホロコースト生存者を受け入れるために建国された国であるはずのイスラエルにおいて、犠牲者本人の意見があまり顧みられない状況が生まれていたのです。

――ほかの何よりも国家の生き残りが優先されたんですね。

ナチ犠牲者にとっては、ドイツの金や武器で国を創るとは言語道断なわけですが、イスラエルが国家として生き残るためには、「血の付いた金」でも必要だったのです。したがって補償も、犠牲者個人の生活改善よりも、インフラ形成などの国家基盤の創出につぎ込まれました。

このような政府の姿勢を「裏切り」であると感じる国民は多かったのですが、当時の首相ベングリオンはこうした感情的な反発を一蹴します。死者の名誉より現在の生活と安全を、過去より未来を優先させる姿勢において、ベングリオンに迷いはありませんでした。全体の利益を個人の利益に優先させる姿勢は、昔も今も、イスラエルのリアルポリティクスの根幹にあります。

――ドイツとイスラエルの和解はリアルポリティクスのもと進んでいったとのことですが、となると「過去の克服」はどのようにしてドイツの「政治文化」となったのでしょうか?

よく指摘されるように、終戦から20年ほどの間は、ドイツ社会はナチ時代からの明白な延長線上にありました。当然、過去と向き合うという意欲も脆弱でした。時には世代間の暴力的な対立を生みつつ、そのような連続性を断ち切ることを目指したのが、68年の学生運動です。60年代末の困難な時代を経て、80年代後半になると、学生運動を主導した世代が社会で主流化します。

この世代は、新しい政治文化の担い手です。ナチであった祖父や父と対決した経験を、自らのアイデンティティの核としています。こうした人々が社会の中枢に位置し、子供たちを教育してゆくわけですから、学生運動以降のドイツは新しい社会に生まれ変わっていると言ってよい。

そこにおいて「過去の克服」は、自分たちの誇れる成果なのです。負の過去を清算して民主主義的な社会を創りあげたという自負が、この世代にポジティブなアイデンティティを与えます。

――自虐どころか、誇りなんですね。

はい。加害の過去について語ることを「自虐的」と見なす傾向のある日本とは異なり、現在のドイツにおいて過去を反省し、ホロコーストを想起することは、必ずしもネガティブな行為ではありません。それはまさに自分たちの民主主義の形成について考えることを意味しているからです。

アウシュヴィッツ解放70周年である2015年の1月27日に、当時の独大統領ガウクは「アウシュヴィッツを欠くドイツのアイデンティティはあり得ない」と語りました。この言葉にはつの意味が込められています。一つは、過去を忘れることはできないという反省。もう一つは、ドイツは過去を乗り越えて民主主義的な社会を築いたという自己の肯定です。

こうした両義性が、ドイツのアイデンティティを形成しています。だからドイツには戦争の犠牲者のメモリアルが至る所にあるのです。こうしたメモリアルは、ドイツの民主主義を証明するものとして存在しているのですから。

――そして現在では、ホロコーストはドイツのみならず、「全ヨーロッパ的プロジェクト」であったと認識されています。

かつて、ナチとはドイツ人のことを意味していました。戦後のヨーロッパ諸国は、自らをナチ・ドイツの犠牲者、もしくはナチに対するレジスタンスを行った国という神話を掲げて国の再建を行っています。例えばナチ・ドイツによる併合をむしろ歓迎したオーストリアは、戦後、ドイツの最初の犠牲国としての自己理解を前面に押し出しました。

しかしながら、実はナチズムがヨーロッパ諸国において多くの賛同者を見出し、ドイツに支配された国々すべてで対独協力者が出たがゆえに、600万人のユダヤ人の殺害が可能となったのです。このことは、戦後長い間語られてきませんでした。

ドイツ傀儡のヴィシー政権が存在したフランスでさえ、普通のフランス人のホロコーストへの関与が指摘されるようになるのは80年代後半になってからです。戦後に共産主義となった東欧諸国では、ソ連が崩壊するまで、自国民がナチに協力した過去は意図的に葬られていました。

――何が状況を変えたのでしょうか?

90年代末になって、冷戦の間ふたをされていた過去が蒸し返すようになり、ユダヤ人財産の返還訴訟や、強制労働の問題が再燃します。この時になってようやく、実はヨーロッパ諸国のすべてがホロコーストの従犯ではなくとも、多くがかなりクロに近い傍観者であったことが明らかになったのです。こうした加担と沈黙により、あの規模でホロコーストが可能になったことも理解されるようになりました。

このため2000年代に入ると、ドイツ以外でも、ホロコーストがヨーロッパ諸国の歴史に組み込まれるようになります。2000年にストックホルムで開かれたホロコースト国際会議において欧米の指導者は、ホロコーストについて教え、記憶を次世代に伝えてゆく必要性を訴える声明を出しています。

こうしてヨーロッパ全体が、ホロコーストの想起を民主主義国家としての責務と見なすようになっていったのです。これが私が本書で「ホロコースト公共圏」と呼んだもので、ホロコーストをヨーロッパ共通の過去として引き受け、それへの姿勢を通して民主主義の定着度を測るバロメーターとする、という気運が生まれたということです。

――それがソ連崩壊後の東欧にも広がっていくわけですね。

そうです。ホロコーストへの姿勢は、旧共産圏の東欧諸国がEUに加盟し、ヨーロッパ的な価値の共同体に参入するための一種の「踏み絵」として機能するようになります。実際、この時期より、東欧各地でユダヤ博物館が設立されたり、ホロコースト研究所が立ち上げられたりしています。

ただし、多くの東欧諸国がすでにEUに加盟した現在、自国におけるホロコーストの歴史と向き合う意志は弱くなってきていると言われます。民族主義的な右派政権が各地に存在する現在のヨーロッパで、これからも「ホロコースト公共圏」の維持が可能なのか、見定める必要があるでしょう。

――他方で、90年代後半から、ユダヤ人への特別な配慮はユダヤ人の特権であるという言説が現われますね。

戦後のドイツ政治においては、反ユダヤ主義者と批判されることは致命的でした。政治家であれば政治生命を絶たれますし、一般の人にとっても重い社会的制裁を受けることを意味しました。したがって皆ナチズムの断罪に余念がなく、表向きには反ユダヤ主義者不在の「親ユダヤ主義的」社会が生まれました。

ユダヤ人に対する姿勢は、ポリティカル・コレクトネスの表現そのものであったわけです。特にドイツ統一後、旧東独の人々を連邦共和国的な価値体系に統合する必要から、ホロコーストが東西ドイツ共通の過去として国家的に位置づけられるようになると、まさに過去への反省がイデオロギー化しました。

しかし、こうしたスタンスを欺瞞であると受け止める人もおり、ドイツ人はユダヤ人に言いたいことがあっても言えない、ユダヤ人は過去を引き合いに出してドイツを脅迫するといった見方が水面下にはありました。それが、ユダヤ人は犠牲者としての特権を悪用するという言説として現れるわけです。

――バックラッシュが起こるわけですね。そこにはどのようなロジックがあるのでしょうか。

ユダヤ人には特権があるという理解は、「ドイツ人には特権がない」という認識の裏返しです。ホロコーストの加害者としてのドイツがつねに語られる中で、ドイツ人には犠牲者としての自己理解もありました。

例えば、東欧から追放され土地や財産を失った「被追放民」や、戦後にソ連に抑留されたまま死亡した兵士の家族などです。「われわれだって苦しんだ」という思いが、戦後ドイツには通奏低音のように流れていました。そのため、自分たちの犠牲を語る権利は認められない一方で、ユダヤ人が犠牲者の地位を「占有」しているという反発があったのです。

ユダヤ人によるホロコーストの利用という主張は、たいてい補償問題と連動して表出してきました。特に90年代には、終わりがないように思われた補償要求に対する反発が誘因となっています。

ただし、補償財団『記憶・責任・未来』による補償支払いも終了し、原則的には新たな補償請求をたてることが不可能となった現在では、こういった主張はあまり聞かれなくなりました。良くも悪くも、ホロコーストの当事者が不在となる時代には、過去は「過去」として整理されてゆくのです。

――ただ、そうした「過去」を共有できない、トルコからの労働移民がドイツ国内には大量にいます。

おっしゃるように、トルコ系の労働移民にとって、ナチズムやホロコーストの過去は自分とは何の関係もないものです。また、労働移民の集団には、60年代末の学生運動でドイツ社会が経験した、ナチの過去を払拭するための、世代間の対立の記憶もありません。

しかしドイツ社会には、ナチズムを反省することによって民主主義の浸透を図るという基本構図があります。子供たちはトルコ系であろうと、何系であろうと、教育システムを通してこうした規範の中で社会化されるわけです。

過去への姿勢が民主主義のバロメーターとされる状況は、イスラム教徒の労働移民社会においては、大きな矛盾であるように思われます。なぜなら、彼らにとってホロコーストにより生まれたイスラエルは、パレスチナ人を抑圧する国家です。イスラム教徒が殺され抑圧される世界システムの元凶が、イスラエルであると考えている者は多い。

――最初におっしゃっていた、ユダヤ人との和解が、不利益を被る集団を間接的に生み出したという問題ですね。

その通りです。さらに、戦後ドイツ社会が当然視してきた、ユダヤ人に対する一種の「配慮」と「遠慮」は、労働移民社会に対しては適用されないダブルスタンダードに他なりません。ドイツの政治家がユダヤ人に対して頭を垂れるその後ろで、トルコ人は差別され、レイシズムの対象とされてきました。ユダヤ人には暗黙の了解で認められてきたことが、トルコ人に対してはそうではなかったのです。

こうした認識のもとに育つ移民家庭の子供に、いかにホロコースト中心的なドイツの歴史認識を導入するか。ドイツはここ10年ほど、教育を通してこうした移民の子弟の社会統合に力を入れています。

――うまく行っているのでしょうか?

一般的には機能しているように思われます。様々な背景を有する子供たちが、ドイツの過去を自分たちの過去として引き受けることで、ドイツ人になってゆく。歴史認識の共有は、まさに移民の子供を「ドイツ人」にする手段です。

もちろん、うまく行かないこともあり、移民社会の中から潜在的な反ユダヤ主義が表面化することもあります。近年、パレスチナ情勢が緊迫すると、ドイツに暮らすユダヤ人がイスラム教徒の移民と思われる人に襲撃されたり、シナゴーグが放火されたりする事件が発生しています。

移民は、ドイツやEUという国家的枠組みを超えて、イスラム教徒の世界的な共同体に属すというアイデンティティを持っていることを忘れてはなりません。複数の所属を持つ人々が重層的につながる社会が、多文化化したドイツの現実でもあるのです。

また、最近のシリア難民の流入で、ドイツのイスラム教徒をめぐる環境は変化しています。ドイツ人の中にイスラム教徒の難民受け入れに反発する声が聞かれる中で、ユダヤ人コミュニティの中でも、難民や移民が持ち込むとされる反ユダヤ主義を懸念する声もあるからです。

ユダヤ教徒、イスラム教徒ともにドイツの中のマイノリティでありながら、必ずしもマジョリティ社会に対する利害を共有しているとは言えません。ドイツにおいてユダヤ人共同体と、イスラム教徒の移民社会の関係がどのように変化してゆくか、これからも観察してゆく必要があります。

――ドイツ国内のムスリム労働移民やテロの問題があるなかで、ドイツは今後もイスラエルに「特別な配慮」を示しつづけるのでしょうか?

ユダヤ人国家への配慮は、長くドイツの中東外交の基本姿勢でありました。イスラエルは、ドイツと歴史によって結び付けられた特別な国であり、他の国と同じではないと考えてきました。こうした理解から、イスラエルへの軍事支援がなされ、またイスラエルが核兵器を所有すると言われる中で、ドイツは核弾頭を搭載可能な潜水艦を売却してきたのです。

こうした特殊な関係は、もちろんユダヤ人国家への「特別な配慮」という言葉により説明されます。しかし同時に、現実にはこれは政治と経済、そして軍事が複雑に絡み合った制度として存在しています。特に軍事は大きなビジネスでもありますから、国内経済や雇用の維持といった側面も考慮する必要があります。

こうした関係性においては、急な方向転換は困難です。関係の維持自体に利益があるため、自己保存能力が強く働きます。ドイツ国民の感情として、ユダヤ人に対する配慮はもうやめたいと思っていても、構造として出来上がっている関係は一夜で解体できるものではありません。

他方で、ドイツはイスラエルのパレスチナ政策に対し、声を大に批判することは避けてきました。例えば、国連でイスラエルに対する非難決議が採択されるようなときは、ドイツはアメリカとともに反対票を投じるのが常でした。ここにはかつての加害者は、イスラエルの政策に意見する資格を有さないという自己認識があったと思います。

――加害者意識とともに、経路依存性の問題があるわけですね。変化の兆しはないのでしょうか?

終戦から70年以上が経ち、あと数年でホロコーストの当事者世代が完全に不在になる時代が来ます。これからはドイツとイスラエルの関係は、一定の留保は残しながらも、徐々に普通の国家関係へと進んでゆくと思います。

その兆候はすでにあります。例えば2012年末に、国連総会はパレスチナに、「国家」として国連オブサーバーの地位を与える決議を賛成多数で採択していますが、この時ドイツは棄権しています。イスラエルから反対票を投じることを期待されていたにもかかわらず、そうしなかったわけです。

イスラエルの数少ない友人であるドイツが距離を置く姿勢を示したのは、ネタニヤフ政権には大きな痛手となったと言われています。またドイツは原則的にオスロ合意による二国家解決を支持しており、ヨルダン川西岸での入植地建設の凍結と引き換えに経済支援を約束するなど、これまでとは違ったアプローチを見せるようになっています。

加害者・犠牲者ともに当事者がいなくなった社会において、「過去」というカードが政治的な効果を失ってゆくのは当然です。その点、過去が現在の政治において今だに強力なカードとなり、現実の問題を生み出し続けているアジアの状況においてこそ、その理由を再検証する必要があります。その意味で、ドイツ人とユダヤ人の和解は、やはり一つの事例として私たちの参考になるのではないでしょうか。

プロフィール

武井彩佳ドイツ現代史、ホロコースト研究

学習院女子大学国際文化交流学部教授。早稲田大学博士(文学)。
単著に、今回取り上げる著書の他、『戦後ドイツのユダヤ人』(白水社、2005年)、『ユダヤ人財産は誰のものか――ホロコーストからパレスチナ問題へ』(白水社、2008年)、『〈和解〉のリアルポリティクス――ドイツ人とユダヤ人』、(みすず書房、2017年)などがある。

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