2016.10.07

安保法制をめぐる憲法学者の違憲論の検証――『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』は何を論じたのか

篠田英朗 国際政治学

政治 #安保法制#集団的自衛権の思想史

安保法制をめぐるあの暑い夏から1年。違憲訴訟や廃止法案上程の動きがある中で、現実に南スーダンに派遣するPKO部隊の任務範囲をどうするのかが問題となっています。安全保障に関する議論が第2ラウンドを迎えようとしていると言えるでしょう。第2ラウンドだからこそ、新たな次元で、より深く、より広い議論にしなければなりません。本書『集団的自衛権の思想史』は、そこに大きな一石を投ずるものとなるでしょう。

著者の篠田英朗氏は、平和構築論を専攻する気鋭の国際政治学者(東京外国語大学教授)です。以下では著者自身に内容の一部を紹介して頂きます。(風行社編集部)

憲法学者が守りたいもの

 

安保法制の成立をめぐる喧騒は過ぎ去った、という雰囲気が今や各方面に蔓延している。参議院選挙も終わり、運動に参加した人たちも冷静さを取り戻している。そして、検証の季節が始まる。

たとえば学生団体SEALDsやSEALDsを担いだ団塊世代を検証する書籍などが出版されている。だが知識人たちの運動の検証はどうなるだろう。多くの著名な憲法学者たちが、安保法制が違憲であることを主張する運動を繰り広げた。彼らは本当に正しかったのだろうか。なぜ彼らは感情的になって「反知性主義」の総理大臣や国際政治学者を糾弾し、勢い余って、内閣法制局官僚群を素晴らしい知性の殿堂であるかのように語るなどということまでしてしまったのだろうか。

検証が必要である。なぜなら憲法学者は、日本社会において絶大なる権力を持っているからだ。公務員試験、司法試験、学校教科書類に至るまで、巨大な官僚機構を基盤にした前例主義や権威主義がはびこっている。予備校講師たちが全国各地で、東大法学部憲法学者の無謬性を信じるように受験生たちを指導し続けている。「芦部信喜を知らない」と述べた私立大学出身の総理大臣を「反知性主義者」と呼び、東大法学部出身の官僚群を守るべき知性の殿堂であるかのように語るとき、憲法学者は自分たちの著作を基本書とする人々が中枢を占める社会を守ろうとしているわけである。

「集団的自衛権の行使は違憲なのか?」 あらためて問い直すのであれば、よりニュアンスのある答えは次のようなものであろう。東大法学部系の憲法学者の特異な憲法論を信じる限り、違憲である。そうでなければ、違憲ではない。

 

憲法九条と日米安保によって成り立つ日本の国家体制

 

日本国憲法はアメリカ人によって起草されたものだ。その結果、日本国憲法はアメリカの伝統的な憲法思想の影響を強く受けている。在日駐留米軍は、日本国憲法よりも長い歴史を持っている。日本国憲法が主権回復した独立国家の憲法となったのは、サンフランシスコで日米安全保障条約が結ばれた日からである。これは善い悪いの法理の問題ではなく、事実の問題だ。

アメリカはポツダム宣言を受諾した日本を占領統治するにあたって、まず武装解除を進めた。憲法九条は、「大西洋憲章」によってすでに明らかにされていた旧「敵国」の「武装解除」を、恒常的な制度とする条項であった。九条を担保するはずだったのは、憲法に書かれていない「個別的自衛権」なるものではなく、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」する仕組みだった。つまり国連憲章が定める集団安全保障の仕組みだった。

もちろん言うまでもなく、冷戦の勃発によって、国連安全保障理事会に依拠する集団安全保障は機能しなくなった。しかし国連憲章は、集団安全保障が機能しない場合の代替策として、51条の個別的・集団的自衛権を制度化する方法を導入していた。したがって日本人が、代替策としての集団的自衛権に依拠する国際安全保障制度を、日米安全保障条約という形で模索したのは、自然な成り行きだった。この認識は、1940年代~50年代の外交当事者や国際法学者らによって共有されていた。そこで日米安保条約の前文に、集団的自衛権が明記されることになったのである。

しかし東大法学部系の憲法学者たちは、戦後一貫して、アメリカを参照しながら日本国憲法を語ることを禁止するために多大な努力を払ってきた。アメリカの影を無視し続けることが憲法の純粋性を守ることだと考えるのは、あるいは人間の自然な心情であるかもしれない。憲法学者は「表」を語ることを専門領域としているため、「表」だけで完結する論理を追い求めるのだろう。だがそれが現実と合致しているかどうかは別の話だ。少なくとも他人を糾弾する際には慎重になるべきだろう。

学術的な観点から言うと、東大法学部系の憲法学者たちは、アメリカ流の政治思想を基盤に持つ日本国憲法を、あえてドイツ国法学の概念で解釈し、フランス革命史への参照で、作り替えようとしてきた。このような錯綜した態度は、一見すると、謎である。だがそれが戦前の帝国大学時代から綿々と続く伝統的な自分たちの言葉で日本国憲法をコントロールしようとする試みであるとすれば、憲法学者たちが何を守っているのかは明瞭だ。

 

19世紀ドイツ国家法人説=基本権思想の残存

憲法学者たちがすでに証明済と主張する安保法制違憲論は、いくつかの前提によって成立している。その前提を信じるならば違憲論は正しいが、ところが実は前提を作り出しているのが憲法学者自身なので、いつまでたっても循環論法から抜け出ることがない。

憲法学者たちは、自衛権は自分を守るためだけのものなので、個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、と論じる。周知のように、国連憲章はこうした発想法をとらないため、国際法では集団的自衛権は合法である。それでは憲法典のどこに憲法学者の主張の根拠があるのかというと、どこにもない。すべては憲法学者の推論によって成立している論法だ。内閣法制局が憲法学者を参照するような見解を披露してきたことも事実である。だが内閣法制局も結局、日本国憲法の条文に根拠を見出せない議論で「個別的自衛権だけが合憲」論を展開してきただけにすぎない(拙著35頁)。

京都大学憲法学の雄である佐藤幸治氏の基本書を参照するだけでも、異なる視点が出てくる。佐藤によれば、「『自衛権』の存在を肯定する立場に立った場合、その『自衛権』はしばしば国家固有のものとされるが、日本国憲法上は、それは、あくまでも国民の生命・自由・幸福追求の権利を確保するためのものである」(拙著180頁で引用)。これは、日本国憲法典の11条や13条に、政府に対する国民の安全を保障する政策をとる信託の根拠を見出す立場と言ってよい。もともと「自衛権」は国際法上の概念である。憲法が同じ概念を語る必要はない。ただ「自衛権」の憲法上の裏付けを、11条や13条の基本的人権や幸福追求権を確保するための政策をとる政府の権限に見出すだけで十分だ。

社会契約論にもとづいた立憲主義を尊重するならば、社会構成員の安全の確保を図る政府の責務の規範意識こそが、国際法における自衛権を、国内法で裏付けることになる。社会構成員の安全確保のために、ある状況で米艦防護が必要であれば、それは必要であり、必要でなければ、必要ではない。自衛権行使の合法性は、国際法にのっとって、「必要性と均衡性」で審査すればよい。

諸個人の権利を守るための安全保障政策をとる権限を政府に信託するのは、「立憲主義」の根幹的な思想だ。イギリス革命やアメリカ独立革命に多大な影響を与えたジョン・ロックを読み直すまでもない。「夜警国家」は、自由放任主義に依拠した「小さな政府」にとってすら放棄されない。少なくとも英米思想の伝統に依拠した立憲主義ではそうである。

ところが(東大法学部系)憲法学者は、このような議論を否定する。立憲主義を「国民が政府を制限すること」だと定義するので、権限を政府に与えることを嫌うのである。そしてひたすら「立憲主義とは国民が政府を制限することだ」と唱え続ける。

憲法学者の立憲主義が、理論的に見るならば、実は「国民主権論」の言替えでしかないことは明白だろう。「国民」が主権者なので、常に「国民」は政府を制限し続けなければならない。憲法が政府を制限することは強調しても、憲法が国民を制限することはあえて言わないのは、国民主権論の装いをまとった国家法人説にとらわれすぎているからだろう。個人の「自然権」の不可侵性から社会構成原理を説明する(特に日本国憲法が影響を受けた英米諸国が歴史的に培ってきた)「立憲主義」を軽視し、19世紀型のドイツ・フランス流の絶対国民主権論の発想法に依拠し、日本国憲法の体系を確立しようとするのである。

ドイツ国家法人説にしたがった国家の基本権思想を採用するならば、集団的自衛権は違憲だという議論の背景も明らかになってくる。憲法を守ることは、主権者である国民の主権の純粋性を守ることなのである。主権者たる国民が自分自身を守るのが真正な自衛権で、それ以外はまやかしの自衛権だ、という抽象的な理論は、主権の純粋性を至高の価値と考えて初めて理解できる。伝統的にドイツ国法学の擬人法的国家観に依拠した観念論が根強い東大法学部系の憲法学では、真正の自衛権の主体は国民としての国家であるので、国家もまた自分自身を守るのが純粋な主権の行使であり、それ以外はまやかしなのである。

拙著では、ポツダム宣言によって「国民主権主義」の「八月革命」が起こったのだという宮沢俊義の神秘的な理論を起源とする憲法学は、大日本帝国憲法が制定された経緯から異常なまでのドイツ国法学の影響下にあった東大法学部憲法学講座の伝統を想起することによって、よりよく理解することができると論じた。天皇であれ国民であれ、純粋不可侵な主権者がいなければならない。そして主権者さえいれば、アメリカは無視できるのだった。

問題なのは、このような態度は、必ずしも自明な絶対的な真理を保証する学説とは言えない点だ。本来は英米思想に依拠した内容を持っているはずの日本国憲法との整合性も、必ずしも自明ではない。

歴史の単純化

集団的自衛権違憲論を可能にしている第二の前提は、日本国憲法制定以来、一貫して集団的自衛権は違憲とされてきたので、勝手にそれを変更するのはけしからん、という議論である。だが多少なりとも歴史的検証をする者は、このような言い方はしない。国会等における政府関係者の答弁や学者の議論を総覧しても、集団的自衛権の行使それ自体が違憲だとされるようになったのは、1960年代末になってからであることは明らかである。拙著では、歴史的な文献や国会答弁を引用して、そのことを示した。

日本人にとって、伝統的な自衛権をめぐる問題とは、満州事変の記憶であった。つまり(個別的)自衛権の拡大解釈こそが危険だとされていた。個別的自衛権と集団的自衛権を切り分けて、個別であれば合憲かつ安全だが、集団であれば違憲かつ危険だ、といった議論は、全く戦後日本的なものではない。そんなことを主張したら、「満州事変は合法かつ安全であった、連合国による戦争は違法かつ危険であった」と言っていることに等しくなってしまう。

集団的自衛権は違憲だという政府見解が定まったのは1972年のことである。今日から見るとだいぶ昔のことだが、終戦時から数えれば四半世紀の歳月を経てからのことである。それではなぜ1972年になってそのような政府見解が定まったのか。事情はより政治的である。

高度経済成長の成功体験に浸っていた1960年代後半の日本人たちは、自民党の政治家も官僚たちも、同時代の環境を制度化して長続きさせることが国益にかなうことだと信じるようになっていた。そこで安全保障は米軍に依存する形を永続化させつつ、日本は最低限の安全保障政策しか行わないまま経済成長に邁進する仕組みを永続化させることを試みたのである。集団的自衛権違憲論は、そうした特殊な時代環境の産物であった。

冷戦時代であれば、アメリカは、こうした日本の狡猾な態度を容認した。日本における共産主義勢力の台頭を恐れ、保守党政権の継続を強く望んでいたため、「これ以上の安全保障の負担に日本人は耐えられず共産主義政権が生まれてしまう」、という伝統的な自民党政治家の訴えをよく聞き入れたのである。

もっとも田中角栄の失脚に象徴されるニクソン=キッシンジャー時代の日本政府に対する不信感は、狡猾な日本外交の永続化の試みに対する不信感であったとも言えるだろう。田中政権発足直後の1972年政府見解は、対米関係の円滑維持の観点から見れば、最初から危険な賭けであった。

拙著ではさらに、沖縄返還のインパクトを特筆した。佐藤栄作政権が沖縄返還を目指すようになってから、集団的自衛権はことさら否定されるようになったことを政府国会答弁の記録から描き出した。これは状況証拠なのだが、政治的にはわかりやすい話である。

当初、沖縄返還は不可能だと考えられていた。沖縄の基地を、日本がコントロールすることに、アメリカが同意するはずがない、と考えられていたからである。そこで佐藤政権は繰り返し沖縄返還後後も、アメリカは基地を(事実上)「自由使用」できるということをアメリカに伝えた。「自由使用」問題は、「核持ち込み」問題と並んで、沖縄返還交渉のカギであったが、いずれも日本側の二枚舌外交によって処理された。

日米安保条約には基地使用の「事前協議」制度が付帯しているが、「自由使用」の容認は、「事前協議」を通じて日本側がアメリカに基地使用の内容について云々することはないと約束することによって、達成された。この態度を法律的にも固めるのが、集団的自衛権は違憲なので、行使したことはなく、今後も行使するはずはない(基地使用はアメリカが勝手に独自に自由にやっていて日本とは一切関係がない)、という立場であった。

なお沖縄が返還されるまでは、沖縄に対する攻撃に日本が対応するためには、集団的自衛権を発動することが不可避であった。1972年沖縄返還の時点において初めて「すべては個別的自衛権で対応できる」という主張が成り立つようになったのである。

長谷部恭男・元東大法学部教授は、2016年4月に刊行した著書『憲法の理性』の増補新装版に付した補章で、あらためて「一旦確定した解釈の結論は、十分な理由がない限りは、変更を許すべきではない」と唱え、「歴代の内閣法制局長官や元最高裁長官が『確立した』解釈、『規範としての骨肉化』した解釈の変更を強く批判」していることが、安保法制違憲論の屋台骨であると強調した。

だがたとえば安保法制反対運動の急先鋒の一人であった元内閣法制局長官の阪田雅裕は、2016年7月に刊行した著書『憲法九条と安保法制』において、実際の安保法制の「極めて限定された集団的自衛権の行使容認」による変更は、「程度の問題」にすぎず、「例外的に許容される武力行使に含まれるという考え方が、少なくとも論理としては成り立つ」ことを認めている。

阪田氏は、安保法制反対運動を主導して「元内閣法制局長官」の肩書を持って2014年5月の「国民安保法制懇」の設立メンバーにもなった人物である。しかし安倍首相が内閣法制局の人事慣行に反して長官に任命していた外務省出身・一橋大学卒の小松一郎がその14年5月に長官を退任し、人事慣行にそった横畠裕介が長官に昇格して、法制局も含めた政治折衝をへて7月1日の閣議決定が出された後、「国民安保法制懇」を退会した。拙著では、小林節氏の著書の一節を注で引用した。

阪田雅裕氏は結局、「『法制局の次長が局長にしてもらえて』、『ギリギリこれなら法制局としては結構です』という経緯を経て7・1閣議決定がなされてからは、『安倍総理が集団的自衛権という形式だけとって、実はとらない気持ちだったらあまり追い込んではいけない』という立場になり、安保法制懇からも離れていったという」(拙著206頁)。集団的自衛権の問題は、憲法学者が信じるよりも、もっと政治的である。

 

国際環境の変化

集団的自衛権の行使は安全保障政策としても愚劣である、といった主張を憲法学者が行っていることを目撃することもしばしばあった。的外れであろう。

すでにここまで見てきたように、集団的自衛権違憲論は、冷戦体制を前提にした「軽武装・経済成長」路線が日本の外交指針となったときに初めて生まれたものであった。その前提は冷戦体制特有のものであった。つまり非対称同盟の相手方であるアメリカは、そのような狡猾な日本の態度に何も不満を示さない、という前提である。

この前提は、アメリカが日本における共産主義政権の台頭を防ぐことに大きな国益を見出している限りにおいてのみ、あてはまる前提であった。冷戦終焉とともにこの前提が消滅したことは、周知のとおりである。政策の基本線を維持したいのであればなおさら、対米関係の維持において調整策をとるのは不可避的であった。

もちろん根本的な改変は大きな変化をもたらし、より明示的な憲法改正などになじむだろう。だが今回の安保法制は、むしろ微調整策であった。オオカミ少年のように安保法制によって全てが転覆されるかのように誇張するのは、無責任な扇動主義である。善いことであるか悪いことであるかは別にして、安保法制は日本の伝統的な国家体制を維持する方向で機能するだろう。拙著では、最後にそのことを論じた。

プロフィール

篠田英朗国際政治学

ロンドン大学(London School of Economics and Political Science)大学院修了(国際関係学Ph.D.)。広島大学平和科学研究センター准教授などをへて、現在、東京外国語大学総合国際学研究院教授。ケンブリッジ大学、コロンビア大学客員研究員を歴任。主要著書に、『ほんとうの憲法』(ちくま新書、2017年)、『集団的自衛権の思想史』(風行社、2016年=第18回読売・吉野作造賞)、『国際紛争を読み解く五つの視座──現代世界の「戦争の構造」』(講談社、2015年)、『平和構築入門──その思想と方法を問う』(ちくま新書、2013年)、『「国家主権」という思想──国際立憲主義への軌跡』(勁草書房、2012年=サントリー学芸賞)、『国際社会の秩序』(東京大学出版会、2007年)、『平和構築と法の支配──国際平和活動の理論的・機能的分析』(創文社、2003年=大佛次郎論壇賞[韓国語訳版2008年])、Re-examining Sovereignty: From Classical Theory to the Global Age(Macmillan, 2000[中国語訳版、商務印書館、2004年])など。

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