2016.06.13
生きづらいのは進化論のせいですか?
進化論って、適者生存のこと? 進化論のせいで生きづらくなっていないですか? 絶滅から生命の歴史を考える『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』著者である吉川浩満さんに、私たちの「進化論」と科学的な「進化論」との違いについてお話を伺った(聞き手・構成/山本菜々子)
進化論のせいで生きづらい?
――進化論は、ずっと温めていた企画なので、実現できてとても嬉しいです。今日は『理不尽な進化』著者の吉川さんに色々と話を伺いたいと思います。
よろしくお願いします。パフェ頼んでもいいですか。
――どうぞ、どうぞ。
ありがとうございます。いただきます。
山本さん(註:インタビュアー)がくださった企画要旨のメールに、「生きづらいのは進化論のせいだ!」とあったのが印象的でした。半分ご冗談なのかもしれませんが、おっしゃることはよくわかります。そのあたりから始めましょうか。
――「弱肉強食」「適者生存」みたいな言葉を聞くと、日々がむしゃらに頑張らないといけないような気がしてきて、つらくなります。
そうですよね。社会に流通している進化論風の考え方に触れて、生きづらさを感じる人がいるのはよくわかります。
特にビジネス書や処世術の本なんかには、そうした弱肉強食的な価値観がよく見られます。社会は生き残りをかけたサバイバルゲームだ、ライバルとの競争に負けたら滅びるしかない、そのためには進化していかなければならない、というような。人の劣等感や優越感を刺激して競争へと駆り立てようとする論法ですね。これに違和感を覚えるのは山本さんだけではないと思います。私もそうです。
反対に元気になる人もいます。先日、進化論について本を書いたと知人に言ったら、「やっぱ進化論いいっすよね」と返ってきました。話を聞くと、今の世の中は弱者や無能が優遇されすぎている、本当に優れた者が生きづらい社会だ、弱者や負け犬の救済は一切不要、生活保護も打ち切るべき等々と熱っぽく語る。彼は、こうした弱肉強食の真理を教えてくれるのが進化論だと思っていて、だから「進化論いいっすよね」となるのですね。軽いめまいを覚えましたが。
そんなこんなで、詳しく学んだことはなくとも、また賛否にかかわらず、私たちは進化論をなんとなくわかったような気になっている。弱肉強食の世界の中で、適応して生き残る者と適応できずに死んでいく者がいる、といった認識ですね。勝ち組/負け組とかモテ/非モテのような言葉もそうした文脈で語られています。
ところで、そもそもこれは本当に進化論なのか。実際のところ、日常生活で流通している進化論と、専門家が研究している進化論とでは、かなり違います。専門家の世界では進化論は有用な科学理論として存在していますが、その一方で、私たち素人はその内容をよく理解しないまま、いいように語っているのです。
「進化論」は「ダーウィニズム」ではない?
――では、この社会にある「進化論」はいったいどこからやってきたのでしょうか。全部、私たちの科学的知識の無さや誤解から生まれたものなのですか?
社会に流通している通俗的な進化論が、科学理論としての進化論を誤解していることはたしかですが、まったくのデタラメというわけでもありません。ちゃんとした出自があるにはあります。
それは、科学史家のあいだで「発展的進化論」と呼ばれる、ダーウィン以前の進化論です。有名なのはフランスの博物学者ラマルク。キリンの首が長いのは、先祖のキリンが高所の葉っぱを食べるために努力をつづけたからだ、という話を聞いたことがあるでしょう。ラマルクは、生物の進化には目標があると主張しました。また、生物には目標の達成度に応じて優劣の序列がある。ラマルクにとって進化とは前進であり発展なのです。
その後、イギリスの思想家ハーバート・スペンサーがラマルクの進化論を発展・拡張させて、世界中で大ブームになりました。彼は、宇宙のあらゆる物事が進化すると考えました。彼に言わせれば、人間の社会も古代国家や未開社会から近代的な国家へと進化していく。その過程において、「適者生存」──この言葉を考案したのもスペンサーです──の競争が行われるのです。
このようにしてスペンサーは、ラマルクの発展的進化論と当時の資本主義先進国を席巻していた自由競争主義を接続し、上昇志向の近代人にぴったりの「進化論」を仕立てあげました。
――ということは、私たちが考える「進化論」はスペンサーのものであると。
そうです。ラマルクの発展的進化論を人間社会に適用したスペンサーの思想です。歴史の教科書などで「社会ダーウィニズム」と呼ばれますが、だから本当のところはこの思想はダーウィニズムではありません。正しくは社会ラマルク主義、あるいはスペンサー主義と呼ばれるべきものです。学問の世界ではすでに否定されています。
いま学問の世界で認められているのはダーウィン由来の進化論です。これは生物の進化にいっさいの目的や目標を認めません。生物の進化を左右するのは目的や目標ではなく、偶然です。進化は単なる結果でしかなく、それ自体ではよいものでもわるいものでもありません。だから生物間に優劣の序列もありません。進化の目的や生物の序列といった発展的な考えと手を切った進化論です。
つまり、私たちの社会にはふたつの進化論が共存しているということになります。学問としての進化論と、一般人の世界像としての進化論。前者はダーウィンが発祥ですが、後者はスペンサーによってつくられたものなのです。
現在、「ダーウィニズム」という言葉が「進化論」の同義語のように使われているために、たとえば「進化論のせいで生きづらい」と思うとき、元凶はダーウィンにあるように感じるかもしれません。でもそれは濡れ衣です。
――社会にも進化論を当てはめることに問題があるのでしょうか。
そこは微妙なところで、これには「問題がある」というより「問題があった」とお答えするのがよいかもしれません。20世紀半ばまで世界を席巻した元祖「社会ダーウィニズム」は、科学的に間違っているだけでなく、植民地主義や人種差別を正当化するひどい代物でした。その意味では明らかに問題があった。
でも、本来ダーウィニズムは、進化の目的や生物の序列を認めないわけですから、そのような含意をもつことはありません。実際、現在では生物学だけでなく、人間の社会や心理を扱う学問──心理学や経済学、社会学など──にもどんどん採り入れられています。
アメリカの哲学者ダニエル・デネットは、ダーウィニズムを「万能酸」と呼びました。万能酸とは、どんなものでも侵食してしまう空想上の液体のことです。つまり、ダーウィニズムは本来、生物だけでなく社会にも人間にも、また製品やサーヴィスといったものにも適用できる万物理論です。そして、科学理論だけでなく思想や宗教といった人間のあらゆる精神的活動に影響を与えずにはいません。私もデネットに賛成です。ただ、その適用の仕方には注意しなければならないということです。
進化論という「お守り」
――私たち一般人が漠然とイメージしている進化論と専門家が研究している科学的な進化論とは別物だということはわかりました。でも、どうして別物になってしまうのでしょうか。
その理由は、根本仮説である自然淘汰説の独特の性質にあると思います。
「適者生存」という言葉がありますね。これは自然淘汰説を言い換える言葉としてスペンサーによって考案され、ダーウィン本人にも採用されたスローガンです。この言葉は社会ダーウィニズムによって濫用されたせいで現在ではあまり好んで用いられないのですが、それ自体としては自然淘汰説の中心アイデアを明快に伝える優れたキャッチフレーズです。
その中心アイデアとは、「適者」は「生存(繁殖)」によってのみ定義される、というものです。適者とは単に生き延びて子孫を残した者を指すのであって、私たちが「弱肉強食」や「優勝劣敗」のイメージで想定するような強さや能力とは関係がない。ただ、生きのびて子孫を残すことができる者を「適者」とみなしているだけなのです。
ところが私たちは、「生存する者を適者とする」をひっくり返して、「適者は生存する」という自然法則のようなものとして適者生存のアイデアを用いています。
――法則じゃない?
はい。適者生存の原理は、「適者は生存する」という法則ではありません。「生存する者を適者と呼ぶ」という約束事であり、そこから仮説をつくりだすための前提です。
たとえばケプラーの法則は、実験や観察によって真偽を検証することができます。でも、適者生存の原理は、真偽を検証できるようなものではありません。「結婚していない人を独身者と呼ぶ」と同じように、適者の意味を定義しているにすぎないのです。これを前提として、科学的に生物の有様を説明する仮説を立てるわけです。
私の好きな言葉に、「進化論は計算しないとわからない」というものがあります(星野力さんによるもので、同名の本も出版されています)。学問的な進化論は、この基準を前提として仮説を立て、計算したり調査をしたりしてようやく成立するものです。
つまり私たちは前提と結論を取り違えているのです。
──どうして取り違えるのでしょう。
おそらくはそれが都合のいい「言葉のお守り」になるからです。私たちは、半分は無意識に、半分は意図的にそうしているんじゃないかと思います。
哲学者の鶴見俊輔は終戦直後の1946年、「言葉のお守り的使用法について」という論文を発表しました。
彼は、私たちが使う言葉には「主張的な言葉」と「表現的な言葉」があると言います。主張的な言葉とは、1+1=2のように、真偽を確かめることができるものです。表現的な言葉とは、「結婚してください」のように、真偽の関係なく、呼びかける相手になんらかの影響を及ぼすような言葉です。
鶴見が問題にしているのは、実質的には表現的なのだけれど、形だけは主張的な言葉に見える場合です。たとえば戦争中に唱えられた「米英は鬼畜だ」という言葉。たんに米英を憎み嫌う表現的な言葉ですが、あたかも主張的な言葉のように使われました。これを彼は「ニセ主張的命題」と呼びました。
このニセ主張的な命題は、お守りのように、なんらの検証なしにありがたがられる言葉になりがちだと鶴見は言います。「米英は鬼畜だ」はその典型で、社会で認められている価値観に乗っかることで、なんとなく安心するのですね。自分の言葉に箔がつく。これが言葉のお守りです。
「適者が生存する」という擬似法則は、このお守り的使用法にぴったりなのです。ぱっと見、それは自然法則のようなものに見えます。でも、先に確認したとおり、適者生存の原理は「生存」によって「適者」を定義するものですから、結局のところそれは「生存する者は生存する」という同語反復になるしかありません。検証をまつまでもなく、つねに正しい命題です。
いっけん自然法則に見えながら、その実つねに正しい同語反復的な命題。何も言っていないに等しいけれど、その代わり、あらゆる物事に当てはめることができる言葉。これ以上にお守り的使用法に適したものはありません。
各種メディアや広告、はたまた匿名掲示板などで私たちが出会う進化論は、まさにそのように機能しています。「優れた者が勝ち残る」とか「劣ったものは淘汰される」とか「滅びる運命だった」とか、いろいろなヴァリエーションがあると思いますが、煎じ詰めれば「適者は生存する(生存する者は生存する)」という同語反復を、さも自然法則の結果であるかのように言い立てているだけなのです。
実際には「ざまあみろ」とか「残念だ」とか「そうなりたい」といった表現的な言葉であらわされるべき感情を、まるで主張的な科学理論であるかのようなパッケージにくるんで送り出すことができる。こんな便利なものはなかなか手放しづらいと思います。
『理不尽な進化』を生物種の絶滅の話から始めたのは、こうした都合のいい進化論の理解と使用法に対して、ちょっと揺さぶりをかけてみたいと思ったからでした。
絶滅のシナリオ3パターン
――『理不尽な進化』を読むと、多くの生物は絶滅しているんですね。
はい、これまでに登場した生物種の99.9パーセントは絶滅したといわれています。存続しているのは0.1パーセントにすぎない。つまり生物種はほぼ絶滅する。
これは少し不思議なことでもあります。生物個体なら、寿命というかたちであらかじめ死がプログラミングされている。でも生物種の絶滅があらかじめプログラミングされているとは考えにくい。では、どうして絶滅するのか、寿命とは違う理由を探さなければならない。
普通に考えれば、生存競争に敗れたから、つまりは生物として劣っていたから絶滅したんだということになる。これが現代のスペンサー流進化論の常識です。
でも、「別にそんなことなくね?」と問題提起をした学者がいました。古生物学者のデヴィッド・ラウプです。彼は膨大な化石標本と統計学を駆使して、どうして生物種が絶滅へといたるのかを探った。
彼の結論は、生物種は多くの場合、運がわるくて絶滅するのだというものです。
ただ、もちろん、すべてが運次第というわけでもない。もう少し詳しく見てみると、生物種が絶滅へといたる過程には、次のような三つのシナリオがあると言います。
1.弾幕の戦場
2.公正なゲーム
3.理不尽な絶滅
弾幕の戦場は、完全に不運による絶滅を指します。隕石の衝突とか火山の噴火の現場に居合わせてしまった生物種は、生物としての能力や特徴にかかわらず絶滅してしまいます。「運がわるくて絶滅する」と聞いたときに思い浮かべるのはこうしたシナリオかもしれませんが、すぐ後に述べるように、これがすべてではありません。
もちろん、ふだん私たちが思い描く進化論のイメージに近い絶滅もあります。それが公正なゲームのシナリオです。市場における企業同士の競争のように、生存競争の結果として絶滅が起こる。こうしたかたちで起こる絶滅も当然あります。
前者の絶滅は「運」によって、後者の絶滅は「能力」によって引き起こされたということになります。
――運の場合も、能力の場合もあると。ちなみに、この二つでシナリオは説明しつくされているような気もするのですが。もう一つの「理不尽な絶滅」とはなんでしょうか。
ラウプによれば、生物の歴史において、運の要素は弾幕の戦場のようなロシアンルーレットよりも複雑な働きをします。それが理不尽な絶滅で、これはいわば「運」と「能力」が組み合わされたシナリオです。
有名な恐竜の絶滅は、理不尽な絶滅シナリオの典型です。
隕石衝突の直後、まずは落下地点の近くにいた生物が弾幕の戦場シナリオによって死に絶えました。その後、衝突により大量の塵が巻き上がり、地球に降り注ぐ太陽光を遮ります。これは、数カ月から数年にわたって続いたようです。
その結果、光合成生物が絶滅し、それを食べていた草食恐竜も絶滅、草食恐竜を食べていた肉食恐竜も絶滅しました。この危機を生き延びたのは、光合成を必要としない菌類や、寒冷な気候に強い小動物たちでした。恐竜たちは、隕石衝突後の世界の中ではもっとも不利だったわけです。
つまり、まず隕石の衝突という運が支配する弾幕の戦場があり、衝突後の世界の新しいルールの中で能力をもとにした公正なゲームが設定されたのだと言えます。「能力」を競うゲームのルール自体が「運」によってもたらされた。これによって起こるのが理不尽な絶滅です。
結局のところ恐竜は能力が無かったんでしょ? と思うかもしれません。でも、これはマイケル・ジョーダンに子供用の障害物競争をさせるようなものです。ジョーダンが素晴らしいバスケットボール選手であることは誰もが認めていると思いますが、彼に子供と同じトンネルや輪くぐりはできないでしょう。ジョーダンがいつまでたってもゴール出来ないのを、彼の能力不足だと言えるでしょうか。
――なるほど、「運」か「能力」か? ではなく、両方、もしくは、「運」によって「能力」そのものの定義が変わるということですね。
そうです。ラウプが「生物種は運がわるくて絶滅する」と言うときに想定している「運」とは、このような理不尽な絶滅シナリオにおける微妙な運の働きです。
私たちは普通、生物の歴史を生き残りの観点から眺めます。すると生存バイアスが働いて、生き残った生物種は能力に優れていたから生き残ったのだと考えがちです。
でも、全生物種の99.9パーセントを占める絶滅の側から生物の歴史を見たとき、そこには能力的に優れた生物種から残念な生物種まで、ありとあらゆるヴァリエーションがあったことがわかる。
この事実を正面から受け止めたとき、どのような教訓が得られるか。それは、生き物たちの存亡を左右した決定的な要因は、能力そのものでも運そのものでもなく、運によって能力の定義自体が変わってしまうという歴史の「理不尽さ」にあるのだということです。
凡人の考えを撃つ?
──それが『理不尽な進化』という書名に込められたメッセージでしょうか。
そのとおりです。最後にもうひとつ、なんでこんな本を書いたのかについてお話ししたいと思います。
ある自然科学の専門家が、本書を読んで「凡人の考えを撃って何がおもしろいのか」という趣旨のコメントをしているのを見かけたことがあります。
言いたいことはよくわかります。まず、専門家の進化論と素人の進化論のあいだに乖離があるという事実や、これまで現れた生物種のほとんどが絶滅しているという事実は、少しでも進化論をかじったことのある人にはわかりきったことです。それこそ凡人にすらわかるはずです。
もし進化論という学問を発展させたいならば、凡人にかかずらうことなく、非凡な研究者や研究成果と付き合い、新しい知見を生みだす努力をしなければなりません。もちろん私も一人の進化論ファンとして研究の進展を願っています。でも、それは私の仕事ではありません。専門家の仕事です。
では、何がしたかったのか。それは、進化論を語るときに凡人たる私たち一般人は実際のところ何をしていることになるのか、これを理解することでした。この社会に流通している進化論のイメージが、科学の世界で運用されている進化論と違うことは、ちょっと調べればすぐにわかります。でも、どうしてこのような乖離が生じるのか、それによって私たちにはどんな利得や損失があるのか、これを考えてくれる人はめったにいません。
どれだけ成功したかは心許ないにせよ、本書で私はこのことについて考え、とりあえずの仮説を提示しました。先に述べたように、私たちは進化論を言葉のお守りのように使用しているのではないかということ、そしてそれは自然淘汰説がもつ独特の性質によって導かれるものではないかということ、これがその仮説です。
結果として「凡人の考えを撃って」いるように見えることもあるかもしれませんが、私の関心は批判や教化を行うことではなく、あくまで理解することにあります。
ふだん私たちは何を考えているのか、何をしていることになるのか。これが関心であり、これはこれでひょっとしたら、私たち現代人のセルフ・ポートレイトあるいは現代社会の習俗を伝える社会人類学的資料として、非凡な成果につながるかもしれない仕事だと思っています。
プロフィール
吉川浩満
文筆家。1972年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部、国書刊行会、ヤフーを経て、現職。山本貴光とともに「哲学の劇場」を主宰。著書に『理不尽な進化』『心脳問題』『問題がモンダイなのだ』ほか。関心は哲学/科学/芸術、犬猫鳥、デジタルガジェット、単車、映画、ロックなど。卓球愛好家。
Twitter: @clnmn
ブログ: http://clnmn.hatenablog.com/