2014.11.10

関東大震災における朝鮮人虐殺――なぜ流言は広まり、虐殺に繋がっていったのか

加藤直樹×山田昭次×荻上チキ

社会 #荻上チキ Session-22

91年前に起こった関東大震災。そこでは、「朝鮮人が武器を持って暴動を起こしている」、「井戸に毒を入れている」などといった流言が広まり、日本人によって多くの朝鮮人が命を奪われる事態になった。では、なぜそのような流言が広がり、朝鮮人の虐殺に繋がっていったのだろうか。ヘイトスピーチが問題となる今、関東大震災について考えることで、私たちは歴史から何を学ぶべきかを追求していく(TBSラジオ 荻上チキSession-22 「加藤直樹×山田昭次『関東大震災』もうひとつの記録」より抄録)。(構成/若林良)

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なぜ、関東大震災への関心を持ったか

荻上 今夜のゲストをご紹介します。まずは今年3月に、関東大震災時の朝鮮人虐殺の証言や記録をまとめた『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』を出版されました、フリーライターの加藤直樹さんです。よろしくお願いします。

加藤 よろしくお願いします。

荻上 続きまして、歴史家で立教大学名誉教授の山田昭次さんです。山田さんは著書に『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任-』などがあり、近代日本の、アジア侵略に関する問題の追及を続けています。

山田 よろしくお願いします。

荻上 まずは、加藤さんにお聞きできればと思います。この『九月、東京の路上で』は僕も拝読し、新聞書評も書かせていただきました。なぜこのタイミングで、こうした内容の本を執筆することになったんでしょうか。

加藤 関東大震災に焦点を当てて本を書かなければいけないと思ったのは、2000年の「三国人発言」がきっかけですね。

当時東京都知事だった石原慎太郎が、東京で大きな地震が起きた際に、「三国人」が大きな暴動を起こす可能性があると。その時は自衛隊が治安出動してほしいということを言いました。

当時これは非常に問題になって、石原都知事がかなり批判されたんですけれど、どうしてもその焦点が「三国人」(終戦直後に使われていた朝鮮人、台湾人を指す差別語)という差別表現を使ったという言葉の問題だけに終わってしまっていたんですね。でも、そもそも地震の時に外国人が暴動を起こすという、その発想自体が「なんかおかしいな」と思ったんです。

そこで、いろいろ調べているうちに、そんなことは過去に起きたことがないし、むしろ災害時に外国人やマイノリティを攻撃する流言が広まり、そうした人々が暴力を振るわれたり、殺されたりするという事態が、世界的に繰り返し起きてきたことが分かったんですね。

そういうことが分かってきた後で、もう一度関東大震災について調べた時に、本当にこれは恐ろしいことだと思いました。関東大震災時に起きたのは単なるパニックではなくて、行政が流言を広めてしまったために事態がさらに悪化したという出来事だったわけです。災害時の流言に対して行政が適切に対応するのか、あおってしまうのか、そういう問題意識をもって振り返ると、関東大震災は単なる昔の話じゃないと思ったわけです。

荻上 なるほど。石原さんの発言は、災害時における流言のステレオタイプでもあると。「三国人」発言について、僕は当時大学一年生なので分からなかったんですけど、ちょっと歳を重ねて統計を見ると、彼が言ったような外国人犯罪が増えているという認識自体も、実際は問題がありましたね。

でも、そうした認識が「ホントそうだよね」という感じに広まってしまうと、結果として誰かが一線を越えたとしても、それを止めることが難しくなってしまう。ですので、関東大震災を現在の教訓として、改めて今日は色々考えていきたいと思います。

そして、山田さんにお聞きしたいのですが、山田さんはこの問題を長らく研究されておりますが、どうして関東大震災、時の朝鮮人虐殺の問題を研究しようと最初は思われたんですか。

山田 うーん、僕は日韓条約反対闘争の頃から、朝鮮問題に関わっていますからね。それで、朝鮮人学校に対する弾圧問題なんかの場にもいてね。そうした経緯で、いろんな朝鮮人の苦しみを聞いて、朝鮮の方たちが抱える問題が、他人事とは思えなかったんです。

荻上 テーマとしても、自分の中にあった。

山田 ええ、付き合って行く中でね。そうした中で、日本の左翼も朝鮮人に理解がないってこともよくわかった。私の動機には、左翼に対する憤慨もあったんですよ。

本当に虐殺はあったのか

荻上 今日はまず、この質問を読みたいと思います。

「今日のテーマですが、本当に虐殺はあったんでしょうか。このようなテーマ設定をすることこそが、無実の日本人を貶めることに繋がると考えないのですか」

というメールをいただきました。昨今、朝鮮人虐殺はそもそもなかったのだ、という主張も出ていますので、その妥当性は番組内で少し取り上げたいと思いますが、こうした意見は山田さん、いかがですか。

山田 (朝鮮人虐殺は)ありました。あったというより、他ありません。実に残酷な殺し方をしたんですよね。特に女性に対しては、陰部をわざと刺すとか、妊婦だと腹を裂いて、中の胎児を引き出すとかね。

男性に対しても、竹やりで殺したり、火の燃えている中に投げ込んだり、そういうことをやっているんですけど、女性に対する殺し方は更に残酷でした。民族差別と女性に対する性的な差別が、二重になっていたと思います。

加藤 僕からもそのご質問に対しては、簡単にお答えできると思います。たぶんその方は忘れているんでしょうけれども、昔から、歴史の教科書で朝鮮人虐殺に触れていないものはほとんどないんですよね。中学か高校で目にしているはずなのです。今でも、中学の歴史教科書で朝鮮人が虐殺されたことに言及していないのは、一番右寄りの自由社の教科書だけです。

あるいは、内閣府中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」で出した「1923関東大震災報告書第2編」の中でも、「混乱の拡大」「殺傷事件の発生」というタイトルで、虐殺をメインに取り上げて、それがどのように展開したかということを論じているんです。

荻上 2009年だから、自民党政権の時ですよね。

加藤 そうですね。この報告書では、虐殺によって殺された人々(朝鮮人と、誤殺された日本人、中国人)の数は、震災全体の死者数の1%から数%に上るだろうとまとめています。当時震災で死んだ人は10万5000人ですから、1%はほぼ1000人です。そういう規模の虐殺があったことを、内閣中央防災会議の報告書が明らかにしているわけです。つまりこれは、歴史学の常識なのであって、まともな歴史学者の範疇に入る人で、「朝鮮人虐殺はなかった」と言っている人は一人もいないのです。

また、震災後の2年後に出た警視庁の報告でも、「朝鮮人が暴動を起こした」といった話が流言であって事実ではなかったということを前提に書かれています。そうした流言がどのように発展し、どのように広がっていったのかということも分析しています。多くの朝鮮人が殺傷されたことについても書いています。

当時のメディアでもそれは同様です。例えば、戦前を代表する保守派のジャーナリストである徳富蘇峰も、「かかる流言飛語―即ち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば、残念ながら我が政治の公明正大と云ふ点に於て、未だ不完全であるを立証したるものとして、また赤面せざらんとするも能はず」と書いています。

要するに朝鮮人虐殺が実際にあったこと、朝鮮人暴動などデマだったことは当時から常識だった。今になって、暴動はデマじゃなくて本当にあった、虐殺はなかったというようなことを言い出すのは、90年経って当時を知る人がもはやこの世にいなくなったのと、それをいいことに歴史を改ざんしようとする人々が増えたということです。

根底にある愛国心教育と、朝鮮人への差別意識

荻上 ちなみに、このメールの方がどうかは分からないですが、最近言われている「朝鮮人虐殺は無かった」との主張には、実は言葉のお遊びみたいなところが少しあります。実際に殺された朝鮮人は確かにいたが、彼らは悪い朝鮮人だから殺されても仕方がなかった、つまり正当防衛であって虐殺ではない、というロジックになっているんですね。山田さん、なぜ自警団は、朝鮮人をターゲットにして、殺害を行うことになったんでしょうか。

山田 例えば、1919年3月1日に起こった3・1運動なんて大きな独立運動がありましたよね、朝鮮全土にわたって起こった。それは、参加人数が200万人で、約6ヶ月続いているんですよ。日本人は官民ともに、これに恐怖感を抱いたわけですね。しかし、日本人には、朝鮮人に対する恐怖感もあると同時に、差別意識も非常に強かったと思います。

在日朝鮮人が増えてくるのは第一次世界大戦の頃からです。その頃に朝鮮人について書かれた文書なんかを見ますとね、朝鮮人の賃金は日本人より2、3割安いというんですよ。それでなおかつ、長時間で危険で汚い、労苦の多い仕事に従事されられたのです。

朝鮮人は恐ろしい人間であると同時に、差別された蔑視の対象としても見られていて、そこから、「排除しても構わない」という意識が生まれてきたのがひとつ。また、自警団に入ったのは貧しい人が多かったんですけど、大正デモクラシーの時代と言えども、民衆はまだ皇国臣民だったんですね。お上のいう事は間違いないだろうという意識がありましたから、官憲が流言朝鮮人暴動のデマを信じてしまったのです。

荻上 ある種、大本営発表のような形として、流布されていた。

山田 お上の言う事は絶対だと、そういう意識が民衆にありますからね。それから、裁判で「なぜ朝鮮人を殺したか」と問われた時に、「国のためを思って殺しました」と答えるケースが多いんですよ。

荻上 実際に殺した人がそう証言している。

山田 ええ。いわゆる愛国心を叩きこまれているんですよ。

今の若い人は、戦前の愛国心教育がどんなにひどかったかもうお分かりにならないだろうと思います。僕の体験を言いますとね、小学校では、毎朝朝礼の時は宮城に向かって敬礼し、それから天皇の写真や勅語をしまっておく奉安殿の前では頭を下げるようにしつけられていました。

それから、入学式や卒業式、お正月となると、校長が、教育勅語をおごそかに読みます。小学校1年生2年生とかじゃ、勅語の難しい文章はわからないですよね。だけど感情的にね、天皇や皇后は尊いものだということを、小さいころから叩きこまれるんです。

荻上 山田さんは1930年生まれですから、終戦のタイミングで15歳だった。

山田 ええ、だから、皇民化教育が一番厳しい時ですよ。だって、小学校2年生の時日中戦争が始まります。それで、敗戦の時は商業学校4年生だから、だいたい小学校から中等教育の時期まで戦時下の皇民化教育を受けました。

「国のため」としての虐殺

荻上 自警団の論理の中では、お上も言っているし、それからメディアも朝鮮人は危険なやつらだと報じているし、いざとなったら戦うのが、国のためだという人が多かったと。

そしてまた、震災が起きる前も、それから震災が起きてからも、さまざまに朝鮮人は危険だ、実際に暴れているじゃないかというような情報がどんどん流されたんですね。

山田 こういうエピソードもありますよ。9月4日の夜、埼玉県本庄警察署にね、自警団が押し寄せてそこに収容されていた朝鮮人を殺してしまいました。翌日、本庄署の警察官がある農民に会ったら、「ふだん剣をつって子どもなんかばかりおどかしやがって。このような国家緊急の時には人一人殺せないじゃないか、俺たちは平素ためかつぎをやっていても、昨晩は16人も殺したぞ」と言われました。

加藤 埼玉では、夜道で朝鮮人を見つけ、殺して川に投げ込んだ男が、翌日警察に行って、「俺は朝鮮人を殺してきたぞ」と威張ってそのまま逮捕されたという事件がありましたね。本人は勲章でも貰えると思っていたと。だから、本当にそういう意識があったんですよね。

山田 ええ。彼らは朝鮮人を殺すことを、国のためと思い込んでいたんですね。

荻上 加藤さんも本の中でお書きになっていましたけど、朝鮮人を殺したという人がむしろ同情された、といった反応もあったとかありますが。

加藤 東京だと、多くの人が一度に殺されて大きな裁判になったという事例はなくて、一人とか数人を殺した人が捕まって裁判になったという事例が多いですね(多くの人が一度に殺された事件自体がないわけではありません)。一方、埼玉や群馬では、何十人っていう人たちがいっぺんに殺されて、しかも警察署を襲って殺したりしている例が多いんですね。

そういう時は、地域の人々が集団で襲っていますから、実際には誰が殺したのかははっきりしないわけですよ。そうすると結局、事件後に捕まった人というのは、独身者だったりして、捕まっても大丈夫そうな人を地域共同体の中で選んで差し出していたようです。

つまり実際に殺した人が捕まって裁判を受けたというよりは、「みんなの代表として」という例が多かったみたいですね。逮捕された人たちもそういう意識ですし、帰ってきた人たちも自分たちの地域のために頑張ってくれたと迎えたわけです。

もちろん自分たちのやったことが正しかったと、みんなが思っていたかはわかりませんよ。だけれど、皆のために彼は刑に服したんだ、という発想が強かったみたいですね。

デマや流言の大きな広がり

荻上 虐殺を促すことになったデマや流言には、どのようなものが、いつから広まっていったんでしょうか。山田さん、いかがですか。

山田 内容としては、朝鮮人が暴動を起こしたとか、毒を井戸に入れたなどですね。しかし、朝鮮人と付き合いがあった人は殺しておらず、積極的にかくまっています。

例えば、千葉県東葛飾郡法典村丸山部落の農民たちは、2人の朝鮮人がその部落の人たちと日常的に付き合っていました。だから他の部落の人が殺しに来た時には、丸山部落の農民たちは朝鮮人を守っています。

工場なんかでも、小さな工場主はしょっちゅう朝鮮人と付き合っているので、彼らは震災時に、朝鮮人をかくまっています。

やっぱり、生活の中で「自分たちもあの人たちも同じ人間だ」という感覚になれば、偏見なんて吹っ飛んで、逆にかくまって守るんです。

僕なんかも朝鮮人に対する認識が変わったのは、一人の朝鮮人と長年付き合ったことが大きかったですしね。建前じゃなくて腹の底を言いあっているうちに、こちらも変わるし、向こうも変わる。だから、交流がすごく大事なことだとは思いますね。

荻上 「暴動を起こしている」という情報を信じた人たちが、どういった形で虐殺という行動に繋げていったのでしょうか。

加藤 地域やシチュエーションによっても違うと思います。自警団を町内で組織して、検問で引っ掛かった人を殴りつけたり殺したりするというパターンがひとつの典型ですよね。

当時の、東京府の人口は400万人ぐらいでしたが、その4分の1にもなる100万人が流出するほどの、避難民の大移動が起こるわけです。そうすると、自分たちの町にも色々な人が通っていくわけですよ。

そういった時に見かけない人とか、どうも怪しいぞと思ったような人に対して、おい待て、お前日本人なのかという風に聞いて、「ガキグゲゴと言ってみろ」とか、「十五円五十銭」と言ってみろと自警団が詰問するんですね。朝鮮人にとっては、頭に濁音がつく言葉の発音が難しいので、そこから発音がおかしいと感じたら、殺してしまう。

そうなると、朝鮮人じゃなくても、怪しいと思われた人は殺されてしまうことにもなります。例えば看護婦さんが朝鮮人と勘違いされて火に投げ込まれそうになって、看護婦章を見せてようやく疑いが晴れたという話があって。看護婦って白い服を着ていますよね。それが朝鮮の民族衣装と間違えられたのかなと思いますが。

あるいは聾唖の人や沖縄の人が、言葉がおかしいという理由で殺されたりとか、そういう例もたくさんありますね。

さらに、都心から広まったデマが埼玉や千葉に流れていき、被災地でもないのにデマに興奮した人たちが、警察が移送してきたり、保護している朝鮮人を襲うのがもうひとつの典型ですね。

警察が朝鮮人を移送するのは、別に彼らが犯罪を行ったからではありません。当初の数日間は、警察の中でも流言を信じている部分があるわけです。それで、もしかしたら朝鮮人が悪さをするかもしれないと言って、予防拘束として全部捕まえて来るんですね。暴動がデマだと分かったあとは、保護の名目となりますが。それで、警察が移送していたり、保護していたりする朝鮮人に人々がわっと襲いかかって、皆殺しにしてしまうことがありました。

山田 みんな、デマに踊らされていました。特に関東に近い、東北とか中部地方でも、朝鮮人が爆弾やピストルを持ってくるというデマが流れ、みんな震えあがっていました。虐殺までは至らなかったけれども、やっぱり自警団がいっぱいできるんですよ。

富山県や、仙台にも自警団がたくさんできて、中には警察じゃ不安だから軍隊に来てもらいたいという声もありました。当時は、本当にすごかったんですよね。【次ページへつづく】

震災当時のメディアの麻痺

荻上 9月1日から数日は、関東ではそもそも新聞が刷れない状態が続きました。

山田 そうです。震災で印刷機が壊れて発行停止になってしまった。一方で、地方の新聞では、朝鮮人が爆弾を持っているなどの流言が毎日のように流れたんです。

荻上 東京から伝言ゲームで伝わってきた流言をそのまま報じて、それを読んだ人がまた信じてということになっていった。裏付けがないままの記事が多く書かれてしまったというので、メディア史に残すべき事件だと思います。

加藤 結局、当時の震災直後の新聞は、東京で取材ができなかったわけです。あるいはできたとしても、裏を取るようなまともな取材はできない。

多くの場合避難民から聞いて、それをそのまま書いているだけなんです。ですので、震災直後の新聞が流したデマ記事には、朝鮮人暴動だけではなく、伊豆諸島がすべて沈没したとか、富士山が爆発したとか、当時の首相の山本権兵衛が暗殺されたとか、本当にむちゃくちゃなものがあります。朝鮮人暴動の記事も、そうした誤報、虚報のひとつだったわけですね。

荻上 東京で取材することができるメディアが機能しない中で、地方紙が伝聞情報で記事にしていった。その時に、今おっしゃったような怪しい情報もたくさん入っていた。しかし、今朝鮮人虐殺を論じる人の中には、でも当時報じていたメディアがあったじゃないか、ほれ見たことかというような人もいますよね。

加藤 「震災当時の新聞が朝鮮人暴動を伝えているじゃないか」と言って、震災直後の新聞を「証拠」だと言うのはあまりにもおかしな話です。たとえて言えば、1994年の松本サリン事件直後の頃、誰もオウム真理教の犯行だとは思わず、ある会社員が怪しいといって週刊誌や新聞があることないこと書き立てたことがありましたよね。あの頃の新聞や週刊誌を持ち出して来て、これを見ろ、オウムの犯行だとは誰も言ってない、会社員が怪しいということをみんな書いているじゃないか、こいつが真犯人だ、と言っているのと一緒です。

山田 もともと、朝鮮人に対する潜在的な偏見があったから、新しくデマがきたというような感じですね。ただ、避難民にも中には冷静な人がいる。例えば、「私は地震と火災で逃げるだけが手いっぱいで、朝鮮人だって同じで暴動なんて起こしている暇はない」ということを言っている人もいました。

阻止できたケースもあった

荻上 流言が飛び交い、そこから虐殺に繋がってしまったケースがたくさんある一方で、虐殺されそうな方も守ったケースがあるということですよね。先ほどの山田さんのお話ですと、もともと付き合いがあった人が守ったとのことでしたが。

加藤 その通りだと思いますね。僕もかなりいろんな証言を読みましたけれど、やっぱり殺した人たちの多くは、朝鮮人という存在を空想的に見ているわけですね。なんかこう、人間じゃないような、抽象的な恐怖のイメージを膨らませて怯えている。

荻上 当時のメディアでは「不逞鮮人」という、4文字の言葉で表現されたりしていますよね。

加藤 ええ、そうですね。一方で朝鮮人を守った人たちは、やっぱり普段から付き合いがある人なんですね。

例えば、先ほど山田先生がふれていた千葉の丸山集落。これは今の船橋市丸山ですけれど、ここの人たちは、前から住んでいた朝鮮人を、集落で一致団結してよその自警団から守ったんですね。

あるいは、埼玉のある地域。小さな町工場の経営者がいまして、朝鮮人の職人を使っていました。そこに朝鮮人がいる事を、町の人はみんな知っているわけですから、大勢で押し寄せてきたんです。「あんたのところは朝鮮人を使っているだろう。殺すから差し出せ」と言われた時に、その工場の経営者は日本刀を持ってきて、「あの職人たちは出て行った。もういない。疑うのなら俺の家に入って探せ。その代わり見つからなかったら、俺の日本刀がものをいうことになる」と答えたんです。

その人は剣術の指南だったので、みんなすごすごと帰っていったという話が残っていますね。実際は物置にかくまっていたのですが。ですから、本当に身近に接していて、人間として付き合いがあったかなかったかというのは本当に大きいと思いますね。

荻上 警察がかくまったというケースもあるんですか。

加藤 ありますね。有名なのが横浜の鶴見署の署長の大川常吉さんです。彼は、約300人の朝鮮人を一週間ほどかくまっていました。近所の工事現場で、朝鮮人の労働者が働いていたのですが、有力者を筆頭に町の人たちが、「彼らを差し出せと」言ってきました。それに対して、大川署長が非常にギリギリの交渉をして、守り続けたという話があります。

先日、横浜の郷土史家の方からお話を聞いたのですが、大川署長は工事の責任者である日本人の親方たちや、日本人の下にいる朝鮮人の親方との付き合いがあったようです。そうした関係を通して、朝鮮人に対するより親密な感覚を持てたのではないでしょうか。

根底にある「歴史」を読み解く

荻上 なるほど、今風に言えば、メディアから流れるヘイトスピーチで「朝鮮人観」を作りあげた人と、身近な存在として接していた人とで、行動が分かれたということだと思うんです。

自警団や警察の話が出てきましたが、自警団だけが暴走したというは言えないのですね。

加藤 そうですね。これこそ研究者の方々が長年にわたって発掘してきた事実なのですが、当時の行政が、流言を拡散してしまい、虐殺に加担しているんです。内務省警保局が通達を出して、不逞鮮人が放火をして暴れているというアナウンスを全国に向けて行うんです。警視庁も管内各署に、不逞の徒が暴れているという趣旨の通達を出しています。これが問題を拡散させてしまったのがひとつ。

警察では、流言を真に受けた巡査がメガホンを持って「朝鮮人が暴れている」とか言って回ったりする。後に読売新聞の社主となる正力松太郎さんは、当時、警視庁の幹部でしたが、一時、朝鮮人暴動の流言を信じてしまったと回想しています。結局、行政のこうした対応が、流言を拡大させることになってしまったわけです。

そのことは、震災翌月の10月20日に朝鮮人問題の報道が解禁されて以降、メディアで非常に問題になります。自警団だけが裁判にかけられているけど、本当は警察があおったんじゃないかと、当時の新聞でいろんな人が書いています。

軍の場合はもっと深刻です。自ら虐殺しているからです。先ほどの内閣府の防災庁会議の報告にも出てきますが、80年代に発見された軍の文書「戒厳司令部詳報」の中の「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」にですね、朝鮮人、あるいは朝鮮人と誤って日本人を殺したケース、そして中国人を殺したケースが合わせて20件、記録されているんです。

つまり、関東大震災の朝鮮人虐殺という問題を、噂に踊らされやすい人々が暴走したという話で片付けてしまうのは、問題の矮小化だと言えます。

荻上 人々が虐殺を行ってしまったのは、そもそも国や報道機関が、国がそうした情報を常に流していたからだと。

加藤 そうです。災害の混乱の中で、行政がレイシズム的な判断をしてしまった。そして人々に、情報として拡散してしまったことが最大の問題だと思います。

荻上 行政の差別意識に関しては、山田さんはどうお考えですか。

山田 お役人なんてみんなそんなものですよ。自警団の問題は、かなり長期的に見ないと理解ができません。自警団は、青年団とか在郷軍人会が母体になっていることが多いのですが、これが国家のために動くようになったのは、日露戦争直後くらいからです。

その時期、社会主義団体なんかが出るでしょ。国家がそういった存在を気にして、その対策の一環として、こうした団体の設立があったんですよ。

荻上 もともとお国のためにという形で作られた組織が、自警団のルーツにあったと。

山田 ええ。日露戦争が、更に日本が帝国主義国家として成長するためには、社会主義などを排除して、国民も国家の統制下に置かなければならなかったんです。

荻上 東京のメディアは一時期機能を停止していましたけど、地方のメディアは、後で訂正報道とか、報道が間違っていましたということを伝えていたんですか。

山田 そんなことしてないでしょうね、聞いたこともありませんし。

加藤 震災翌年の日本新聞年鑑に、そういう文章が載っていないか、探してみたことがあります。震災の翌年だから当然その問題にも触れているだろうと思って見たんですけど、ほとんど触れてないですね。各新聞社がですね、自分の新聞はあの震災の時期をこう乗り切ったというような報告を書いているんですけど、大体その、きれいごとで終わっているんですよね。通信社の誤報について他人事として触れた中でだけ、誤報の例として「八王子を朝鮮人が襲撃」というものが取り上げられていましたが。

国家によるメディアの操作

荻上 では、ここで一旦、メールのご紹介をできればと思います。体験談を聞いたという方から。

「昨年97歳で亡くなった祖母からそれに関する話をちらっと聞いた事があります。祖母の話では、地震のあと朝鮮人が襲ってくると聞いて、鍬や鎌を持って見張りをした。祖母は怖くて押し入れの中で震えていたと、それだけの話だったんですが、埼玉の田舎で本当にそんなことがあったのかと思い、戦争の時の話じゃないのと聞いたら、地震の時だと言うので、ますます意味が分からなかった記憶があります」と。

また、「生きていれば100歳を超える曾祖母は、江東区北砂で震災に遭いました。その曾祖母が、朝鮮人虐殺についてこんなことを話していました。地震の後、朝鮮人たちが暴れるのを防ぐために、土手、恐らくは荒川のことだと思います、に集めて焼き殺した。この話を聞いた時私は小学生だったのでとても怖い気持ち半分、もう半分はただの噂話だろうと思いました。恥ずかしながら今の今まであの話はがせだとばかり思っていました。曾祖母のあの話は本当だったのでしょうか」という、2通のメールをいただきました。

山田さん、全国各地のメディアを追っていって、資料を集めたということなんですけど、メディアは本当に一枚岩でこういう流言を流してしまったのか、そうではないメディアもあったのか、そのあたりについてはいかがでしょう。

山田 全体的にはだめだけど、部分的にはしっかりした、新聞とか週刊誌はありましたね。例えば、新潟のいくつかの新聞は、この報道は本当だろうか、高崎発とか、宇都宮発で朝鮮人暴動なんか起こしたなんて載せているけど、情報の信憑性に欠けるのではないだろうかと、そういった疑いの姿勢を見せています。

それから、新潟県の柏崎で発行された『越後タイムス』という週刊誌で小川未明やその他の人々が、ちゃんと事件の批判を書いていました。数は少ないけど、そういうものもあるにはあったんですよ。

また、新聞の投書の中で注目すべきものがあります。例えば、踏みにじられた人間の立場で考えて、亡国の民というのはどんなに心細いだろうと書かれた投書もありました。

荻上 なるほど。これまでは「流言」という認識に基づいてお話を聞いてきました。一方で、「朝鮮人にむごい仕打ちがあったのはよくわかったが、朝鮮人が放火や強盗をしたのは事実でないと果たして言いきれるのか」という意見も聞かれますよね。

加藤 朝鮮人について言いますと、まず組織的な暴動、テロリストが政治的な意図を持って何かしたということはなかったということは、司法省の報告の中ではっきりと書かれています。「一定の計画の下に脈絡ある非行をなしたる事跡を認め難し」。組織的な計画はなかった、その形跡はなかったと認めているわけです。

ただ、その一方で、政府にとっては、悪い朝鮮人もいたというキャンペーンを行う必要がありました。というのは、これほどの虐殺が行われたということが、日本の朝鮮支配を動揺させる可能性があったからです。朝鮮人の怒りが湧き上がるおそれがあった。

そこで、司法省は、いろんな流言を集めて、朝鮮人の一般的な刑事犯罪を40数件くらい並べたリストを、10月20日の朝鮮人問題の報道解禁にあわせて発表しているんですね。その中には強盗とか放火といった恐ろしいものも入っているけれど、その多くは、被疑者不祥で、場合によっては被害者まで氏名不詳といういい加減なものです。

たとえば「氏名不詳の朝鮮人が氏名不詳の居酒屋女風の婦人を強姦す」とかね。こうなっちゃうと、何のことやらです。ただの流言をまとめたものにすぎないわけです。

実際には、朝鮮人で犯罪によって起訴された人は12人しかいません。そのうちのほとんどは窃盗で、あとは工事現場のトロッコで寝ていたところを自警団に捕まって、そこにダイナマイトが転がっていたなどのケースです。

当時の工事現場にはおおかたダイナマイトがありましたし、爆発物不法所持の罪で起訴されただけです。裁判の判決も、誰かに害を与える意図はなかったという結果になっています。

また、このリストの中には「朝鮮人が放火した」というものもあります。しかし、その火自体も広がらず、すぐ消し止められたとあります。ほとんどは氏名不詳。もちろん捕まっていません。それと別に、警視庁の記録には、東京で25件の放火があったけど、朝鮮人が放火の疑いで捕まったのは2件で、いずれも軽微な未遂であったとあります。

戦後まもなく、吉河光貞という検事がまとめた『関東大震災の治安回顧』には、「震災直後司法警察官の捜査が一時この種鮮人犯罪の検挙に傾注された観あるにかかわらず、被疑事件として同検事局に送致された放火、殺人などの重大犯罪すら、その大部分が犯罪の嫌疑なきものとして不起訴処分に付されるがごとき状態であったことは注目に値する」という遠まわしな言い方で、この司法省のリストに疑問を示しています。

震災時、相当な数の朝鮮人が警察で取り調べられたのに、実際に犯罪を行なっている朝鮮人はほとんど見つからなかったじゃないかというわけです。

荻上 これだけ流言が広まって虐殺があったということで、9月7日からメディアに対して報道規制がかかりますよね。10月20日までそれが続く。それが解かれた後に、メディアが「やっぱりあった」みたいな形で報じましたよね。

加藤 10月20日、朝鮮人問題の報道が解禁された時に、自警団事件のことが一気に前面に出たんですよね。悪いことをした朝鮮人もいた、というリストを発表したのは、そのショックを和らげるためでもあるでしょう。

荻上 起訴段階のもので載せていたりもするので、それが裁判でどうなるかは司法手続きにならないと分からないものもありますよね。でも、国民への悪影響を防ぐために、「実際に野蛮な人たちがいたから正当防衛だ」というような論陣を張っていたというわけですか。こうした否定論が、今になって出てくることについては、山田さんはどう思われますか。

山田 教科書では、自警団が殺したことは最低限認めているけど、軍隊や警察が殺したことは隠される傾向があります。

「軍隊や警察が朝鮮人を殺した」という事実を隠してしまいたいのか、と疑ってしまいます。横浜市教育委員会が発行する「わかるヨコハマ」という中学生向けの副読本があります。

2012年版では、自警団や軍隊、警察が朝鮮人を殺したことが書いてあるのですが、それを2013年5月に改悪し、朝鮮人を殺したのは自警団だけということにしているんですよ。

荻上 加藤さんは、この動きについてどう思われますか。

加藤 関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する論というのは、要するに震災直後の新聞記事だけを「根拠」としていると言っていいと思います。そうした記事の内容は、常識で考えても荒唐無稽だったり、1ヵ月後には完全に否定されてしまったような内容ばかりです。

ところが、そうした新聞記事を持ち出してきて、ここに書いてあるからこれは事実だと言う。本当にお話にならないような論法です。でも、それでも十分に、さっき先生がおっしゃられたように、地方議会などで騒いで、副教材の記述を改めろというような、そうした動きが出てきてしまっていると。非常にまずいことだと思っています。

荻上 最初に、「朝鮮人虐殺は虚言」ということを信じたい人が存在して、少しずつそういった言説が流通するということですよね。

最近出された、「朝鮮人虐殺はなかった」ことを主張する本の帯には、「従軍慰安婦だけではない」と書いていたりもするので、そうした動きはそれぞれ連動しているのだなと感じています。このような状況の中で、加藤さん、これから何が必要だと思われますか。

加藤 関東大震災の時に朝鮮人を殺した人と殺さなかった人の違いは、やはり人間として接していたかどうかだったという話が先ほど出ましたけど、中国人とか韓国人とか、外国人に対して人間的な共感を持たせないように仕向ける動きが今、強くなっていると思うんですね。

それをはねのけて、「同じ日本人同士」といった内向きなものではない、普遍的な共感や結びつきを強めていくしかないと思います。

(TBSラジオ 荻上チキSession-22 「加藤直樹×山田昭次『関東大震災』もうひとつの記録」より抄録。)

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プロフィール

加藤直樹フリーライター

フリーライター。1967年東京生まれ、法政大学中退。『九月、東京の路上で』(ころから刊、2014年3月)が初の著作。

この執筆者の記事

山田昭次日本史

1930年生まれ。立教大学名誉教授。近著に『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任』(創史社)『全国戦没者追悼式批判―軍事大国化への布石と遺族の苦悩』(影書房)『関東大震災時の朝鮮人迫害―全国各地での流言と朝鮮人虐待』(創史社)など。

この執筆者の記事

荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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