「地域エゴ」の何が悪いのか?――NIMBYから考える環境倫理

私の研究分野は「環境倫理学」である。「環境倫理学」という名前からは、環境主義者の高邁な理想を聞かされるという印象を持たれるかもしれない。あるいは自然と人間に関する難解な論理を構築しているというイメージがあるかもしれない。確かに、環境倫理学には「人間中心主義は克服できるか」とか「自然にはいかなる価値があるのか」といった問いに対する込み入った議論がある。議論をきちんと追っていけば、現実の環境問題に関わる話だということが分かるのだが、ちょっと聞いただけでは、どこか浮世離れしているという印象を受けるかもしれない。

 

近年では、環境倫理学の議論も、より地に足の着いたものに変わりつつある。もちろん、それまでの議論が無意味だったというわけではない。総論的な議論も重要だし、今も行われている。ただそれに加えて、具体的な環境紛争の事例をふまえた議論が多く見られるようになったというのが、近年の環境倫理学の特徴である。

 

私自身は、地球の人口の半数以上が都市に住む時代に、身近な環境とは都市環境なのだから、都市環境をテーマにした環境倫理学を展開する必要があると考え、2014年の1月に『都市の環境倫理――持続可能性、都市における自然、アメニティ』(勁草書房)という本を上梓した。そこでは身近な環境に対する愛着が環境保全の鍵になると主張し、そこから他の地域や地球環境にも目を開いていくという道筋を描いた。

 

後にその点に対して、「はたしてそううまくいくだろうか。自分の住んでいる環境に対する関心にとどまり、他の環境に目が向かなくなるのではないか」という質問を受けたことがある。確かにそうかもしれない。まちづくりに熱心な人が地球環境には無関心ということはありうる。自分の地域の環境には関心があるが、他の地域の環境には無関心ということは、もっとありうるだろう。そこから、地域への愛着は乗り越えられる必要があり、より一般的な立場から環境保全を論じることが結局は重要なのだ、という意見が出されるかもしれない。

 

 

環境保全の動機づけ

 

より一般的な立場から環境保全を論じることは、確かに大切だろう。しかし、逆にそのことによって、地域への愛着や関心が軽視されることに対しては、あらためて疑問を呈したい。というのも、人々を環境保全へと動機づけるものは、具体的な地域環境に対する経験にあると思われるからだ。

 

サイエンスライターのデイヴィド・タカーチは、保全生物学者たちにインタビューをする中で、彼らが保全生物学を専攻したきっかけについて聞いている。その中に、子どもの頃の遊び場でもあった身近な自然が不当に破壊されたことへの憤りによって環境保全に動機づけられたという趣旨の発言がある。例えばリード・ノスはこう述べている。

 

 

「私が住んでいたのは、オハイオ州デイトン近郊の、開発が比較的急速に進んでいた地域でした。自分の目の前で、お気に入りの遊び場が破壊されていく。それは、遊び場がなくなってしまうという個人的なできごとではありましたが、目の前で生き物たちが殺されていくことは、いつも恐怖と悲しみで私を打ちのめしました」(タカーチ『生物多様性という名前の革命』(日経BP社)より)。

 

 

このように、「お気に入りの遊び場が破壊されていく」のを間近で見たという経験が、環境保全の研究を行う動機の一つになったとされているのである。もちろん、このような経験がないと環境保全活動ができないというわけではない。しかし、「自分の好きな場所を破壊されたくない」という気持ちが、環境保全の大きな動機づけとなることは確かだろう。

 

この場合の場所や環境は、いわゆる「自然」に限定されるべきではない。環境とは、自然と人工物を含んだ「身のまわり」を意味する言葉であり、典型的には生活環境のことを指す。「自分の住んでいる環境を守りたい」という気持ちも、環境活動への動機づけになるといえる。

 

 

「NIMBYのどこが悪いのか?」

 

しかし、このことを強調したからといって、「自分の地域の環境には関心があるが、他の地域や地球全体の環境には無関心」であることに伴う問題は解決しない。逆に、自分の地域の環境を守ることを声高に叫ぶことは、場合によっては「地域エゴ」と呼ばれて非難の憂き目にあうだろう。

 

例えば、自分たちの環境を守るために、廃棄物処理施設や葬儀場を自分の住む地域には建設させない(が、施設自体はどこかには必要だと考えている)というのが典型的な「地域エゴ」のイメージである。そのとき、地域住民は、他者の権利が犠牲になる可能性を省みずに、自分(たち)の権利、趣味、主義などを独善的に主張しているとして糾弾されることになる。

 

ここで「地域エゴ」と呼ばれるものは、欧米ではNIMBYと呼ばれており、近年では日本でもその名を耳にするようになった。NIMBYとはNot in my backyardの頭文字をとったもので、迷惑施設などを作る場合に「自分の裏庭だけはやめてくれ(他の人の裏庭に作ってくれ)」と言うことがNIMBYの主張とされる。関連する言葉として、NIABY(Not in any backyard)があるが、こちらは当該施設が「どの人の裏庭にも要らない」という首尾一貫した主張とされる。

 

これまでの環境倫理学では、地域エゴやNIMBYについて、明示的に検討されることは少なかった。そんな中、アメリカの環境倫理学の雑誌Ethics, Place and Environment(vol.13,Issue3)の中でNIMBY特集が組まれた。Feldman & Turner の意見論文「NIMBYのどこが悪いのか」(Why Not NIMBY?)と、それに対する6人の論者によるコメントが掲載されている(その後、それらのコメントに対して、Feldman & Turnerは、その後継雑誌Ethics, Policy and Environment(vol.17,Issue1)にリプライを掲載している)。

 

 

NIMBYに対する三つの倫理的批判

 

Feldman & Turner の問題意識は、NIMBYを叫ぶ人々に対して倫理的な非難を向けることは妥当なのか、という点にある。基本的には、NIMBYを叫ぶ地域住民は自分が住んでいる環境を守ることを主張しているわけだが、そのような人たちを倫理的に非難してよいのだろうか。

 

Feldman & Turnerの答は、「NIMBYは倫理的に悪いとはいえない」というものだ。彼らによれば、NIMBYには(1)罪深き自分勝手である、(2)公共善に無関心である(全ての人のNIMBYの要求が尊重されたら、公共の利益になる施設はどこにも建設できなくなる)、(3)環境不正義の源泉となる(少数の豊かな人々のみが、自らのNIMBYの要求を通すことができ、そのしわよせが貧しい人々のいる地域に来ることになる)、という倫理的な批判があるが、それらはすべて反論できるという。【次ページにつづく】

 

 

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