ヘイトスピーチ規制論争の構図――規制の「効果」と「範囲」をめぐって

ヘイトスピーチやレイシズムは、多くの欧米諸国において何らかの形で規制されている。日本には、そうした規制はない。

 

このように書くと、いかにも海外での動向を論拠に日本でもそうした規制を! という議論が始まるように思われるかもしれない。実際、この論考にそうした意図がまったくないわけではない。

 

しかしここでまず伝えたいことは、欧米諸国におけるそうした規制の位置づけが、いかに「論争的」なものであるかということについてである。実際そうした規制は、成立にあたって激しい論争を経験しているものが多い。論争の中で成立に至らず消えていった法案も少なくないし、また規制が成立してからも、その適用や改正をめぐって常に議論が繰り返されている。ヘイトスピーチやレイシズムにかかわる規制が何の議論も呼ぶことなく成立したなどという事例は、ほぼありえないと言っていい。

 

この論考ではこうしたことをふまえて、欧米諸国においてヘイトスピーチやレイシズムの規制をめぐってどのような議論がなされてきたのかについて、そうした規制の「効果」と「範囲」という2つの側面から整理してみたい。それを通して、日本における今後の議論がより現実的なものになるための、基盤となる材料が提供できればと思う。

 

なお、本論に入る前に2点ほど補足を。1点目、ここでの議論は、おもにアメリカの政治学者Erik BleichのThe Freedom to be Racist?: How the United States and Europe Struggle to Preserve Freedom and Combat Racismという本を下敷きにしている(以下、とくに断りがない限りカッコ内の数字はこの本のページ数を表す)。これは2014年2月に明石書店より翻訳出版(明戸隆浩・池田和弘・河村賢・小宮友根・鶴見太郎・山本武秀の共訳)される予定なので、より詳細な議論を確認したい方は、そちらを手にとっていただければと思う(*1)。

 

(*1)http://freedom-to-be-racist.blogspot.jp/

 

2点目、この論考では、ヘイトスピーチやレイシズムに関わる議論を、各国の事例に共通する一定のパターンをふまえて横断的に取り上げている。しかし実際には、こうした規制は各国の社会的な文脈に依存する部分が大きく、共通性だけですべてを論じることはもちろんできない。本稿で十分論じることができていないこうした各国の文脈の違いについては、朝日新聞『ジャーナリズム』2013年11月号(特集・ヘイトスピーチを考える)掲載の記事「欧米のヘイトスピーチ規制から日本の行く先を考える」で検討しているので、そちらを合わせて参照していただければ幸いである。

 

 

1 ヘイトスピーチ規制論争の基本的な構図

 

ヘイトスピーチやレイシズムの規制をめぐる論争は、基本的には、何らかの規制が必要であるという立場(規制必要論)と、そうした規制に反対する立場(規制反対論)のあいだで行われる。ただし多くの議論は、規制反対論の側が提示した批判に規制必要論の側が反論する、という形で行われるので、以下ではその順序で整理を行うことにしたい。

 

 

■自由の制約

 

おそらく多くの人が最初に頭に思い浮かべる規制反対論は、「規制は自由を制約する」というものだろう。こうした議論は、いわゆる「表現の自由」にかかわる規制についてはもちろん、より一般的な差別禁止法の制定においても繰り返し提示されてきた。実際、よく知られたアメリカの1964年公民権法の制定の際にも、またそれから半世紀近くを経た2006年にドイツで一般平等待遇法(人種のほかジェンダーや障害も含む包括的な差別禁止法)が制定された際も、「自由の制約」は反対論の側の最大の根拠の一つだった(125)。

 

これに対する規制必要論の側からの主要な反論は、規制反対論が言う「自由」には「差別を受ける側」の自由が含まれていない、というものだ。またその上で、差別を受ける側の自由が一般的な意味での自由よりも重要である場合には規制は正当化されるはずであり、実際多くの分野ですでにそうした制約は行われている、と主張されることも多い(125)。

 

ただし、こうした論点は全体からみれば議論の「前提」にあたるものであり、これだけで議論してもたいてい水掛け論に終わるだけである。むしろここでは、ヘイトスピーチやレイシズムの規制に関わる議論が「自由」と「規制」のバランスを前提にして成り立つものだということを、確認しておくことが重要だろう。

 

 

■対抗言論

 

さて、規制反対派は問題の解決策として新たな規制の導入を否定するわけだが、その場合当然その「代替案」が求められることになる。そこで規制反対派がしばしば提示するのが、「対抗言論」(市民が言論によってヘイトスピーチに対抗すべきという議論)という議論だ。こうした発想は、古くはジョン・スチュアート・ミルにまで遡るが、ヘイトスピーチ規制に慎重なアメリカや日本では、規制の代替案として現在も頻繁に参照される。

 

これに対して規制必要論が指摘するのは、こうした対抗言論の非現実性だ。そもそも不利な立場に置かれている人々に対して、言われたら言い返せばよいだけだというのは、当事者に対してあまりにも過酷ではないのか(4)。実際、規制必要論の多くはこうした対抗言論が難しいという状況認識をふまえて議論を始めており、規制必要論の側が対抗言論という代替案に納得して議論が終わるという展開は基本的に想定しにくい。

 

 

■既存の法律による対処

 

「対抗言論」以外の代替案としては、「既存の法律で十分対処できる」という議論もある。こうした議論は、たとえばイギリスで2006年に宗教的憎悪法が制定された際に、非常にわかりやすい形で現れた。

 

イギリスでは1965年の人種関係法の制定以降、人種および民族についてのヘイトスピーチについては規制を行ってきたが、宗教に基づくヘイトスピーチは対象外だった。しかし2001年の同時多発テロ事件以降「イスラム憎悪」が高まる中で、宗教に基づくヘイトスピーチについても規制の必要性が主張されるようになる。このとき出てきた主要な批判の一つが、「すでにある人種や民族についての規制を援用することで十分対処可能だ」という議論だった(26)。

 

宗教的憎悪法はこうした批判を押し切って成立に漕ぎつけたのだが、その際規制必要論の側から出された反論の一つに、次のようなものがある。それは、イギリス国民党(イギリスの代表的な反移民政党)のような団体は、むしろ既存の法律で対応できない「隙間」を集中的に狙って活動する、という議論だ。こうした立場からすると、国民党のような相手には既存の法律では対応できず、より直接的な規制が必要だということになる(27)。

 

 

 

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