2014.01.10

「どうせ高齢者」意識が終末期ケアにもたらすもの――英国のLCP調査報告書を読む

児玉真美 ライター

福祉 #終末期ケア#終末期医療

今年8月、英国でリバプール・ケア・パスウェイ(LCP)に関する調査報告書 “MORE CARE, LESS PATHWAY A REVIEW OF THR LIVERPOOL CARE PATHWAY”(*1)が刊行された。

LCPとは、死が数日以内に差し迫った臨死期の患者への看取りケアのクリティカル・パス(*2)。病院での劣悪な看取りケアのへの批判を受け、ホスピスでのケア・スタンダードを病院やナーシングホームなどにも広く平準化する目的で2003年に作られた。英国ではNHS(国民医療サービス)の医療下で死亡する患者の約29%にあたる年間13万人に適用されている。

本来は、患者の自己決定を重視し、チーム医療によって丁寧なアセスメントを繰り返しながら、臨死期の患者とその家族の身体的、心理的、社会的、スピリチュアルな苦痛を軽減するべく作られた、優れた臨床実践モデルである。

しかし英国ではこのLCPについて、数年前から、高齢患者に機械的に適用され、鎮静と脱水によって手間をかけずに死なせるための手順書と化してしまっているとの告発が相次いでいた。ついに去年、ケント大学の臨床神経科教授、パトリック・プリシノが医師会での講演において「まだかなり生きられる高齢患者がLCPによって殺されている可能性が高い」「エビデンスもなしに始められるLCPは、もはやケア・パスというよりも幇助死パスウェイと化してしまっている」などと激しく非難したのを機に、一気に社会問題化。保健相が独立の委員会(委員長はジュリア・ニューバーガー上院議員)を立ちあげて調査を命じていたもの。

調査委員会は今年2月から5月にかけて、広く一般からも医療職からもLCPの体験談を募集したほか、実際にLCPを使っているさまざまな現場を訪れて医療職の声を聞き、また一般からはロンドンなど4カ所で直接的な聞き取りの機会を設けた。それらのエビデンスを分析した結果を取りまとめて委員会から刊行されたのが、この報告書である。

報告書では、「委員会が得た多くのエビデンスによれば、LCPが適切に用いられた場合には患者は穏やかで尊厳のある死を遂げている」(1.8コラム 13頁)など、意識も技能も高く経験豊富な医療職によって適切に用いられた場合には、LCPは本来の役割を果たすことが繰り返し強調されている。しかし、上の文章は次のように続く。「しかし委員会は調査で読み聞きした内容から、LCPの実施が劣悪なケアと関連していることが少なくないことを確信してもいる」。全体として、調査以前からの告発がほぼ裏付けられた結果となっている。

(*1)https://www.gov.uk/government/uploads/system/uploads/attachment_data/file/212450/Liverpool_Care_Pathway.pdf

(*2)http://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%91%E3%82%B9

調査によって判明した終末期ケアの問題点

報告書が指摘する主要な問題点のいくつかに沿って、英国の死にゆく高齢者へのケアで何が起こっているのか、その実態をざっと概観してみたい。

(1)LCP開始の決定

家族や介護者が患者のところへ行ってみると、なんらの事前説明もなしに治療が劇的に変更されていた、という体験談を調査委員会は繰り返し耳にした。もはや臨床的治療も緩和ケアもなく、患者は不必要に、あるいは過剰に鎮静されているように見えたという。…(中略)…それらの家族は、比較的経験の浅い臨床医の前夜の決定で、この患者は『パスウェイ適用になりました』と告げられたという。(1.41 22頁)

数日以内の死を正確に予測する方法はないだけに、LCPの開始の決定に際しては家族とのコミュニケーションが大切になる。しかし、あまりにも多くの場合に家族や介護者はLCPを始める意思決定に参加を求められていない。家族や介護者に何の説明もなく、時にはLCPのパンフレットだけを手渡したり、患者が死に瀕している事実すら知らせることもなしにLCPが開始されている。夜間や週末に研修医など経験の浅い医師が独断で決定しているケースも少なくない。

またLCPはいったん適用した後も3日ごとにチームが患者の状態を再アセスメントするよう求めているが、LCPが機械的な手順書と化していると、患者の症状に改善の兆しがあっても十分な注意が払われていない可能性がある。

(2)コミュニケーション

……中には、家族と介護者が患者の受ける治療について決めるのは自分たちだと誤って考えているケースや、臨床医が「最善の利益」アセスメントに家族と介護者に同意を求めたり相談すべき場面で、そうしないケースもあった。(1.44コラム 22頁)

LCPを巡る最近の論争と不満の多くは、臨床スタッフと家族と介護者間のコミュニケーションがしっかり取れていれば十分に防ぐことのできた問題によるものと思われる。(1.46 23頁)

……さらに案じられることとして、調査委員会は心ない言葉やひどい表現が使われた事例を耳にした。通りすがりの医師や看護師から「ところで、Xさんは、まだ意識がありますか?」あるいは同様の意味のことを言われたという話が数例あった。どうしたらこういう対応が適切と言えるのか理解しにくい。(1.49 24-25頁)

患者や家族や介護者とのコミュニケーションの重要性については、複数の項目に渡って繰り返し指摘されている。

報告書は、各種学会や医療行政に関連する機関に対して医療職の意識改革、コミュニケーション・スキルを含めた力量アップに向けた研修や教育の見直しを求めると同時に、病院には患者ごとに担当者を決めて説明責任を果たすことや、意思決定プロセスを患者や家族と共有するためのシステムを構築することなどを提言している。また患者や家族と落ち着いてコミュニケーションを図り、患者の死後の家族のグリーフケアまでを見通して患者と家族をきちんと支えるための環境整備の必要性にも触れている。

さらに家族や介護者が一貫性のある意見を持つためには、死を生きていることの一部と捉え、率直な国民的議論を喚起することの必要も指摘されている。

(3)栄養と水分

病院職員が家族や介護者に対して、患者にLCPを適用することが決まったので、そのため『栄養と水分は中止しました』と告げた、という事例を調査委員会は数多く耳にした。調査委員会は栄養と水分を「中止する」という概念に問題があると感じている。終末期に至るとたいていは食べ物や飲み物への欲求が低下するため、差し出されたものを患者が拒むことはあるだろう。しかし、食べ物と飲み物を拒否するのは患者がするべき決定であり、臨床スタッフのするべき決定ではない。寄せられた少数の体験談からは、時として死を早める目的で水分が引き上げられていることが疑われる。(1.58 27頁)

口が渇くだけのドライマウスなら口腔ケアをしっかりすれば十分だが、のどが渇いている患者に一杯の飲み物まで拒むのは患者を苦しめ、非人間的である。(1.62コラム 28頁)

LCPは口からの摂取が可能な限りは、とろみをつけるなど可能な形態で水分を口から摂るように患者を支援することを基本としている。ホスピスと在宅ケアではその努力が払われている一方、病院ではLCPの提言が守られておらず、水分補給が不適切であるケースが多い。例えば、しっかりしたリスク対利益の検討もないまま、水分や食べ物を気管に飲みこんでしまう誤嚥リスクを回避しようと口からの摂取をやめてしまっている。経管栄養については既存のガイドラインもあるが、経口での摂取についてのガイドラインも必要だ。

(4)鎮静と鎮痛

LCPでは患者への投薬内容については4時間おきに臨床的にアセスメントするよう推奨しているが、LCPの開始とはそのアセスメントをやめてしまうことと同義のようだった、と多くの家族が共通して感じている。そうなった時のLCPとは、何の裏づけもなく説明もないままに、次は栄養と水分の停止、そして強力な麻薬系鎮痛剤と鎮静剤の継続投与と、あたかもステップ化した手順や項目チェック作業でしかないかのように感じられた。(1.67コラム 29頁)

調査では、あまりにも多くの人が、別れた時には患者は穏やかで状態が落ち着き、会話も可能だったのに、わずかな時間の後に、あるいは医師や看護師が来室した後に、戻ってみたらシリンジポンプがセットされていて、大切な人と二度とコミュニケーションが取れなかった、と語った。(1.69 29頁)

病院では、モルヒネが適切ではない場合や鎮痛が必要でない場合にまで、多くの患者がシリンジポンプでモルヒネを投与されているように思われる。これは臨床的に許されることではない。(1.72 30頁)

脱水から不穏になった患者は水分補給で改善が見られるが、不穏の原因が脱水だと分からず鎮静で対応してしまうと、脱水がさらに進む悪循環になってしまう。もっと緩和ケアの専門家の関与が必要であり、また終末期の薬の使い方については、水分補給のやり方と同様、さらなる研究が必要となる。

(5)DNR(蘇生無用)指定

調査委員会が設定した家族と介護者からの聞き取りの場では、心肺蘇生無用指定に同意すると、それでLCPの開始にも同意したことになると臨床スタッフは捉えていた、と多くの人が語った。これは、まったく不適切である。(1.81コラム 32頁)

患者の状態によって心肺蘇生が有効かどうかの判断は最終的には責任者である臨床医が決定すべきことではあるにせよ、望ましい臨床のあり方(ベスト・プラクティス)としては、患者自身の望みを考慮に入れ、患者と/または家族や介護者を最終決定に至るまでの検討に加えるのが望ましい。

患者本人や家族や介護者には決定の理由が説明されて当たり前であり、その説明について質問したり、説明の内容を理解したり受け止める時間が与えられて然り。また、仮に同時に話題に出たとしても、緩和ケアや終末期医療と心肺蘇生とは別の問題であり、そのことは患者にも家族と介護者にも明確に伝え、別々の問題として記録しなければならない。

(6)金銭的インセンティブ

金銭的なインセンティブと死にゆく人のケアとがどのような形であれ繋がることには、きわめて大きな問題がある。…(中略)…調査委員会は、LCPを実施した患者ごとに金銭支払いがされたり、それに類するアプローチは停止すべきだと提言する。……(以下略)(1.91 34頁)

ベスト・プラクティスを推奨するシステムの一環として、地域によっては患者にLCPが適用された割合に応じて金銭支払い制度が設けられている。このことについて報告書は、意図的に患者の死を早めているとの疑念を招いただけでなく、本来は常に繊細で専門的な臨床判断が行われるべきところで「項目チェック」作業的なアプローチが促進されてしまった可能性があると指摘している。

(7)より広範な問題

このたびの調査の過程において、死にゆく高齢者のケアが必ずしも本来あるべきものとなっていないことを強く示唆する多大なエビデンスが家族と介護者から寄せられたことに、調査委員会は驚かされた。厳密に見極めることは不可能だが、高齢者差別が起こっているのではないかとすら調査委員会は考えている。(2.21 39頁)

特に懸念されるのは認知症患者、高齢者、そして知的障害のある人々といった弱者でのLCPの利用である。私の意見では、もしもそういう人たちが死に瀕しているとしたら、LCPはまさに用いるべき正しいツールである。しかし、可逆的でありうる病状でパターナリズムによって誤った判断がされてしまう可能性があるのも、やはりこれらの患者であろう。その判断自体はLCPとは無関係で、実際のところLCPの基準に反しているが。(2.20添付 上級医師から寄せられた声 39頁)

LCPそのものについても、導入されて以来10年間の有効性が検証されていないことや、内容の不備がいくつか指摘されてはいるが、報告書はLCPそのものの欠陥というよりも、それを適用する医療職の意識や姿勢の問題と捉えて、その問題点を具体的に検証している。

LCPについては今後半年から1年間は使用せず、個別の終末期ケアプランで代用するよう提言しているが、その背景にあるのは、そもそも死にゆく患者のケアには包括的なアプローチではなく、あくまでも個々の患者の個別のニーズに応じて運用されるパーソン・センターの個別ケアプランで対応すべきだとの見方である。

調査で明らかになったのは「医療職の間にある閉鎖性、思いやりの欠落、死にゆく人をケアするスキルと力量の改善の必要、患者や家族や介護者を第一におき尊厳と敬意を持ってケアする姿勢の必要」(3.10 48頁)だ。そして、コトは単なるLCPの運用問題を越えているとして、関連機関や各種学会に対して教育や研修の見直しを提言。そのためには、緩和ケア理念のガイダンスだけではなく、疾病群ごとに技術的なガイダンスが必要であるなど、細かく具体的な提言を多数行っている。また、政府に対して研究費を含めた予算の増額や人的資源の充実を含め、終末期ケア・システム全体の抜本的な見直しを勧告している。

「過剰医療」でも「余計なことは一切せず、さっさと死なせる」でもなく

私は現場医師らがLCPの適用実態についてメディアに告発の手紙を書いた2009年から、折に触れてブログで拾いながら、この問題を「無益な治療」論のひとつの顕れとして捉えてきた。報告書の中に「母のカルテには、まるで医療チームが母を死なせる決定をしたことをそれで正当化するかのように、大きな文字で『無益』と書かれていました」(1.50に添付 25頁)という家族の声があるのは、きわめて象徴的だと思う。

「無益な治療」論とは、もともとは「もう助けることのできない患者を甲斐のない治療で無駄に苦しめるのはやめよう」と、無益な過剰医療への反省として始まった議論である。ところが、議論が繰り返されていくうちに少しずつ変質変容し、今では一方的な治療の差し控えや中止の決定権を医療サイドに認める論拠として機能し始めているように見える。

最初は臨死期での無益な過剰医療への反省に立って作られたLCPも、広く普及していくうちに、少なくとも一部の医療現場で本来の理念から離れて形骸化し、患者や家族をなおざりにして医療サイドがすべてを一方的に決め、機械的に進める死への手順と化していった。このプロセスは、「無益な治療」論の変容変質に重なって見える。調査に寄せられた別の声が、そのことを鋭く指摘している。

終末期の患者ケアを改善する手段として作られたものが、今では医療職が治療は続行に値しないと決めた時に、生きる権利を引き上げる方法として利用されているように思われる。(1.83に添付 32頁)

「無益な治療」論について、私が感じてきた大きな懸念のひとつに、本来は特定の患者への特定の治療を巡って、患者の固有の病状とニーズに応じて常に具体的に個別に検討されるべき「無益」性の判断が、こうした議論の繰り返しによって徐々に抽象化され、いつのまにか障害像や年齢によって包括的に一律の線引きをする「無益」論が紛れ込んでいるのではないか、という疑問がある。それは、拙著『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』や著者インタビューで指摘したように、「どうせ高齢者」「どうせ終末期」「どうせ認知症患者」「どうせ重症障害者」と暗黙のうちに線引きをして、そこから先は丁寧にケアしようとする興味関心をさっさと引っ込めてしまう「無関心」のことだ。

調査委員会の報告書が炙り出しているのは、まさにそうした「どうせ高齢者」意識と、その先に繋がる「無関心」が英国の医療現場に広がっている実態といえるのではないだろうか。そして、その無関心は、かつて志の高い医療職の心を痛め、彼らにLCPを作らせた過剰医療の背景に潜んでいたものでもある。

私には、かつての「患者を無益に苦しめる終末期の過剰医療」も「幇助死パスウェイになっている」と批判される現在のLCPの機械的適用実態も、同じ1枚のコインの表裏に過ぎないように思える。機械的に生かされたまま無関心に放置されることに尊厳がないのと同様に、問答無用で「生きる権利を引き上げ」られて機械的に死なされることにも尊厳などありはしない。患者と家族の望みだって、そのどちらでもないはずだ。

問題は、コインの裏や表に顕れている現象としての「過剰医療」にあるのでも、LCPという特定のパスにあるのでもなく、まして鎮静や鎮痛や胃ろうを含む経管栄養などといった特定の医療技術にあるのでもない。コインそのものに本当の問題があるのだ。だからこそ調査委員会は、コトは単にLCPの問題に留まらず、関連機関や国を挙げて終末期医療の抜本的な改革に取り組む必要があると指摘し、必要な改善を数多く具体的に提言した。医学界、医療関連の行政・監督機関や国に対して、コインの正体と正面から向き合えと言っているのだと思う。

現在、日本では終末期の過剰医療への批判が繰り返されている。そして、その批判は「いかに終末期医療を受けずに死ぬか・死なせるか」という議論に短絡し、さらに尊厳死の法制化に向かう議論へとなだれ込んでいこうとしているように見える。しかし本当に議論すべきは「いかにして終末期医療を受けずに死ぬか・死なせるか」ではなく、「いかに終末期医療を改善するか」であり「いかにすれば個々の患者の個別性に応じて、終末期を苦しくないものにできるか」の具体的で詳細な検証のはずだ。

英国のLCP調査委員会が実施した調査の手法、寄せられたエビデンスとの向き合い方、細かく具体的な問題分析とそれに基づく提言の数々などがまとめらたこの報告書は、私たちにとっても、尊厳死法制化を拙速に議論する前に、まず何に目を向けるべきか、そして何を考え議論するべきかについて、示唆に富んでいるように思う。

プロフィール

児玉真美ライター

1956年生まれ。京都大学文学部卒。カンザス大学教育学部でマスター・オブ・アーツ取得。2006年7月より月刊「介護保険情報」に「世界の介護と医療の情報を読む」を連載中。2007年5月よりブログ「Ashley事件から生命倫理を考える」を開設。著書に『私は私らしい障害児の親でいい』(ぶどう社・1998)、『アシュリー事件~メディカルコントロールと新・優生思想の時代』(生活書院・2011)、『新版 海のいる風景』(生活書院・2012)。「現代思想」2012年6月号「『ポスト・ヒポクラテス医療』が向かう先~カトリーナ“安楽死”事件・“死の自己決定権”・“無益な治療”論に“時代の力動”を探る」。

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