α SYNODOS 内容サンプル

α SYNODOS について

「αシノドス」は毎月1回、15日にシノドスが配信する電子マガジンです。ほかでは読めない知識と教養を満載してお届けします。

以下に、1号分の各記事の抜粋を掲載します。 実際のαシノドスは毎月メールにて、ブラウザから読めるリンクURLをお送りします。また同時に、テキストファイル形式(.txt)および電子書籍ファイル形式(.epub)のダウンロードリンクをお届けしますのでオフラインでもお読みいただけます。

01シノドス・オープンキャンパス「わたしたちが買うときにおこなっていること――なぜ消費は社会学的に研究されるべきなのか?」貞包英之

貞包英之 1973年生まれ。立教大学教授。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程単位取得満期退学。専攻は社会学・消費社会論・歴史社会学。著書に『地方都市を考える「消費社会」の先端から』(花伝社、2015年)、『消費は誘惑する 遊廓・白米・変化朝顔~一八、一九世紀日本の消費の歴史社会学~』(青土社、2016年)、『サブカルチャーを消費する 20世紀日本における漫画・アニメの歴史社会学』(玉川大学出版部、2021年)、『消費社会を問いなおす』(筑摩書房、2023年)など。

消費の拡大と拡散
 
消費を通して社会を考えるために消費を社会学的に分析する、それがわたしの研究の目標です。
 
ではなぜ消費を通して、社会を考えなければならないのでしょうか。それに対する答えは、まずは簡単にみえます。わたしたちは、日々消費をくりかえして生きています。食料や電気や娯楽など、何かを買わなければ生活できず、いくらそれが嫌だと思っても仕方がありません。自給自足でどこまで生活できるか考えてみればよいでしょう。その場合、暮らしはかなり小規模なものに押し込められます。たとえばわたしは歌をうまく歌えないし、おいしいパンも焼けない。しかし誰かにそれをやってもらい、その成果を商品として買うことで、豊かな生活を営むことができるのです。
 
良かれ悪しかれ、こうした消費をくりかえすことで、現代の生活はますます多様で、また複雑なものになっています。消費とはなにか。それをもっとも単純に定義すれば、お金を支払い、なにかしらのモノやコトを得ることといえるでしょう。ただし現代では、厄介なことに、少なくとも表面上はお金を支払わずにおこなわれる消費さえよくみられます。たとえばわたしたちは代償を支払わずに、テレビやYouTubeをみてInstagramを使うことができる。それが可能なのは、他の誰かが多くの場合、広告というかたちで支払っているからです。ではこの場合、誰が消費しているといえるのでしょうか。これはかなりの難問ですが、いずれにしろ現代の社会では、自分で支払う必要さえない「消費」まで日常化されており、それに依存して生活が送られているのです。

消費があきらかにすること
 
消費を研究することの重要性は、これでもう十分におわかりいただけたかと思います。現代では消費にまったく無関係におこなわれる活動を探すほうがむずかしい。たとえば教育は受験産業のなかに飲み込まれ、また介護や医療も消費と深く結びついています。恋愛だってなにかをともに消費するといった活動とかなりつよく関係しているのです。
 
だからこそ消費は研究に値するのですが、ただしそれだけでは、なぜ消費が社会学の研究の対象になるのかは、まだ充分にあきらかではありません。消費を何らかの意味で有用な財(お金やモノ、サービス)をやり取りすることだとすれば、それは当然、経済学の対象になります。さまざまな財の「交換」の機会として消費をモデル化し、精緻に分析すれば、どんな政策によって各人の消費をどれだけ増やせるかといった計算(当たるかどうかは別として)もできるようになるのです。
 
あるいは企業の立場に立ち、いかにモノを売るのか、いかなるモノが売れるのかを考えることもできます。現実は複雑で、それが分かれば苦労はないともいえますが、こうしたマーケティング的手法によって、一定の傾向性を読み取ることもたしかにできるかもしれません。
 
けれどもわたしが「消費の社会学」としておこないたいのは、こうしたことではありません。それらによって、経済のうまい運営の仕方や商売のやり方について発見できるかもしれませんが、それを超えて、社会について充分に考えることはむずかしい。ここでいう社会とは、集団として人びとが生きることで、さまざまな願望や欲望、愛や憎しみ、正義や不正が入り混じり、コンフリクトを起こしている、この現実の場のことを意味しているからです。社会は、何かを一方的に正しいとみなして片付くものでもなければ、正確なモデルをつくることで未来を予測できるものでもありません。さまざまに矛盾があるそうした場にわたしたちは逃れがたく埋め込まれ生活しているのであって、だからこそ捉えがたくもあるこの社会について、それでもなんとか知ろうとすることが社会学の役割なのです。
 
消費を分析することは、そのために一定の貢献をはたせるというのが、わたしの発見です。それはなぜか。重要になるのは、お金を支払うことでさまざまな望みや願いをたとえ身勝手であっても、叶えられるということです。もちろん法律に反する危険なことや他者の権利を侵害しようとすれば、取り締まられます。しかしそれは消費に内在する限界ではありません。消費そのものに焦点を絞れば、人びとは昔から、時には異端視され、糾弾されながらも、自分の望みを叶えるために何かを買い続けてきました。
 
現代社会にはこうした自由な消費がますます拡大しています。たとえばそれをファッションの歴史から確認できるでしょう。自分で好きに着たいものを着られるようになったのは一体いつの頃からなのでしょうか。性別や年齢、階層によって大きく異なりますが、いまファッションの動向を左右している若い女性についてみれば、それはそう遠い昔のこととはいえません。
 
既製服も充分に多様に売られておらず、また若い女性が自分で稼ぐための仕事先やアルバイト先を容易に見つけられない時分は、好きな服を買って着ることはほとんど不可能でした。1930年頃から戦後にかけて拡がる洋裁ブームはたしかにそれを補います。少しでも好きな服を着ようと多くの人が洋裁を習ったのですが、自分の好みの服をつくるにはそれなりの技量と修練が必要になりました。本当の意味で、10代後半から20代初めの女性たちが好きな服を手軽に着られるようになったのは、多様な既製服が安く売られ始め、さらに学生のアルバイトもさかんになる1970〜1980年代のことなのです。
 
好きな服を好きに着ようとし、多くの場合は挫折してきた人びとのそれなりに長い積み重ねを土台として、ファッションはいまではようやく自己選択できる消費の領域として若い女性たちに開かれています。ただし一方で人びとはただ好き勝手に消費しているわけではありません。大切になるのは、消費が現実社会の制約のために不可能だった欲望を叶える手段として利用されていることです。たとえば若い女性たちは、いまなお経済的な、またはジェンダー的に不利な境遇にしばしば置かれています。それを超える身近な手段としてあることで、ファッションへの関心も高いのではないでしょうか。自分で好きな服を選び着ているあいだ、少なくともその人は外面を自分のものとしてコントロールできます。社会がその人にこうあるべきと押し付ける要請に時には逆らい、場合によってはあえてそれを引き受けつつ、たとえば強かったり、かわいらしかったり、豊かだったり、理知的な存在であるように「装う」ことができるのです。
 
消費のこうした代替的な役割は、他の場面でも観察できます。たとえばわたしは『サブカルチャーを消費する』(2021、玉川大学出版局)という本で、子どもたちが20世紀なかば以降、マンガやアニメに引き寄せられたのは、それが年長者を乗り越えるという幻想をみせてくれたためと論じています。男の子たちは、弱い大人たちを尻目に自分たちは戦争に勝つことを夢みて、女の子たちはバレリーナになり、家庭に入った母親とは異なり職業的に成功することに憧れて、マンガを読む。子どもたちがそうした夢を追いかけたのは、ひとつには膨らみ続ける消費社会のなかで、マイナーな立場に置かれていたからです。子どもたちに自由に使えるお金は少なく、消費社会がいまここでそそのかす夢の多くは実現できない。だからこそ彼・彼女たちは、サブカルチャーという安価な対象を消費することで、大人によって制約されず、自由に振る舞うことを夢みたのです。

消費が代替的な手段となるのは、多くの大人にとっても同じです。そもそもわたしたちは何の代償もなく、好き勝手にモノを買っているわけではありません。何かを買うためにお金が必要で、それを得るためにほとんどの人は渋々であれ働き、あるいは人の言うことや思惑に従っています。しかしだからこそ、現実社会のせちがらさを償う機会としての消費が重要になります。自分の時間を譲り渡し、人に従って生きていくなかで手放した夢や願望を、今度は獲得した金を支払うことで、少なくとも一定程度叶えることができるからです。
 
こうしてわたしたちは消費を通して社会に縛られると同時に、そこからの解放を夢みています。だからこそ消費を研究することで、この社会にいかなる制約があり、そして人びとがどうそれを越えようとしているのかを知ることができるはずです。たとえばこの社会では、金を持っているかそうでないか、またはジェンダーや人種や学歴や年齢といったちがいによって、多くの制約が課されています。消費をなぜ、どのように積み重ねてきたかをみることで、こうした制約が具体的にはいかなるもので、人びとがそれをどう越えようとしているのかを探ることできるのです。
 
消費が経済学やマーケティングにとどまらず、なぜ社会学の対象になるのか、いまではおわかりいただけたかと思います。現代社会におこなわれている消費は、それが多様な分だけ、この社会にさまざまな不自由と制約があることを照らしだします。先に述べたように社会は複雑でその姿を直観的に捉えることはむずかしいのですが、日々人びとによってくりかえされている消費を分析することで、集団として生きられている場としての社会の複雑かつ多様な姿に近づくことができるのです。…..(後略)

02 現代社会の基礎知識「生物多様性」吉永明弘

吉永明弘 法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『都市の環境倫理』(勁草書房、2014年)、『ブックガイド環境倫理』(勁草書房、2017年)。編著として『未来の環境倫理学』(勁草書房、2018年)、『環境倫理学(3STEPシリーズ)』(昭和堂、2020年)。最新の著作は『はじめて学ぶ環境倫理』(ちくまプリマ―新書、2021年)。
 
もう何年も前のことだが、ある大学の教養科目の一回目の授業で、環境問題に関するキーワード集を配り、それぞれについて「説明できる」「聞いたことがある」「知らない」のどれかにチェックさせたところ、「生物多様性」については「知らない」が多く、「説明できる」人は皆無であった記憶がある。対照的に、「絶滅危惧種」については「知らない」はおらず、「聞いたことがある」学生が多かったように覚えている。
 
大学に入りたてで学部もバラバラの学生たちが、「絶滅危惧種」は知っていても「生物多様性」は知らない、という事実は意外なことではなく、「まあそうだろうな」と思ったものだった。
 
というのも、「絶滅危惧種」が具体的にイメージされやすい(例えばウナギが絶滅しそうだということ)に対して、「生物多様性」という言葉は何を表しているのかイメージしにくいと思われるからである。
 
にもかかわらず、近年では、これまで「自然保護」と言われてきたものを「生物多様性の保全」と言い換えることが多くなっている。「逆にわかりづらくなっているじゃないか」と突っ込みたくなるが、自然保護を推進している人たちにとっては、これによって自分たちの目的を絞りこむことができるという利点があるのだそうだ。
 
どういうことかというと、「自然」という言葉には多義性があるため、余計な批判を浴びやすいのである。例えばこういう意見がある。「種が絶滅するのも自然の流れだ」。「生きものが減っても自然に増えるだろう」。人間は何もするな、成り行きに任せるのが「自然」なのだ、という、変に達観した心持ちがここにはある。ここで「自然」は「ひとりでに」「おのずから」という意味で使われている。この用法が、昔からの「自然」という言葉の用法なのであるが、この観点からすると、自然を人間が保護するということには矛盾があることになる。
 
それに対して、「自然保護」という言葉で表されている「自然」はnatureの翻訳語である。そしてこのnatureという言葉もくせ者で、「自然」というより「森羅万象」のほうが訳語としては当たっているくらいである。
 
それでは、自然保護は森羅万象を保護しようとしているのかというと、まったくそうではない。いわゆる自然物(人工物でないもの)のなかでも、月や星、風、台風などは保護しようとしていない。また生きものの中でも病原菌などを保護するつもりは特段ない。では何を保護しようとしているのか。そんなときにピッタリくる言葉として登場したのが「生物多様性」なのである。
 
生物多様性はbiodiversityの翻訳語である。biodiversityはnatureに代わる言葉として登場し、世界的に普及した。生態学者の岸由二によると、欧米人はbとdとvが入っている単語が大好きで、biodiversityという言葉にはカッコいい響きがあるのだそうだ。それに対して「生物多様性」という訳語には、そうしたカッコよさがなく、翻訳語特有の堅苦しさがある。そこから岸は「生きものの賑わい」という訳語にすることを提案している。
 
話を戻して、そもそもなぜnatureではダメで、biodiversityを用いるようになったのかというと、先にふれたように、natureは森羅万象を含みこんでしまうからである。それに対して、biodiversityを用いると守る対象が絞りこまれる。第一に、守る対象は「生きもの」(bio)であり、第二に、その「多様性」(diversity)である。こうして、たくさんの種類の生きものが暮らしている世界を維持するという具体的なイメージが現れる。
 
ここで注意したいのは、ともすれば、たくさんの「種」が存続することに関心が集中してしまいがちな点である。生物多様性という言葉には、生きものがもともと生きていた「場所」で存続するという含みがある。保護の目的が「種の多様性」だけであれば、たくさんの種が施設のなかで維持されるという未来像もありうるが、生物多様性を守ろうとしている人たちはそんな世界を実現しようとはしていない。「種の多様性」と同じくらい「場の多様性」が重要で、「さまざまな種の生きものが、さまざまな生息地で暮らすこと」が目標なのである。これが「自然保護」に取り組んでいる人たちが具体的に描いている目標であり、これを一語で表したものが「生物多様性」という言葉なのである。…..(後略)

03 シノドス・カルチャー「教養あるナイトアウト――「学問バーKisi」でアカデミックな一夜を過ごす」坂本かがり・伊藤礼香

教養あるナイトアウト 学問バーKisi
 
いつもの夜の時間を少し特別なものに変えたいとは思うことはないだろうか。娯楽を享受するだけではない、自分の生活に対して何かしらの触発を得る。こうした一夜を過ごしたい人は、意外にも多いはずだ。
 
「教養あるナイトアウト」シリーズでは、昼間は忙しい人々が文化的な夜を満喫できるスポットをセレクト。学術的なコンテンツに触れたり、考える楽しさを実感できたりなど、このガイドを片手にちょっとした学びのひとときへ繰り出してみよう。

シリーズ初回に紹介するのは、東京都新宿にある「学問バーKisi」。営業時間は18〜23時と、学校や仕事帰りに、ふらりと立ち寄りやすいのがうれしい。
 
2023年1月4日にオープンしたばかりの同店ではその名の通り、学問や研究の話が毎夜展開されている。大学院生や研究者などのアカデミアから、ある特定のジャンルについて詳しい一般学生などがバーテンダーとしてカウンターに立つ。何かしらの専門的な知識を持つ人からその分野についての話を直接聞くことができ、素朴な疑問もぶつけられる。
 
イベントの分野は、哲学、社会学、美術、工学、農学など多岐に渡る。イベントの内容は、文系・理系問わないというのが同店の特徴だ。
 
料金システムとしては、まずチャージ料(一般1000円/1時間、学生1000円/2時間)を支払う。そして、ワンドリンク制で飲み物を注文。その後は、自由にバーテンダーとの会話が味わえる。その日のイベント内容については、公式ウェブサイトにあるカレンダーをチェックしよう。
 
今回は、同店の店長・豆腐氏にインタビューを実施。豆腐氏のこれまでの人生、学問バーKisiの魅力、今後の展開などについて伺った。そのほかにも、学際的な空間づくりやバーテンダーとして店舗に立つメリットなど、様々なことをお話しいただいた。

学問バーKisi店長・豆腐氏へのインタビュー

学術出版社の編集者時代

――まず自己紹介をお願いいたします。
 
学問バーKisi店長の豆腐と申します。1992年生まれ、2023年で31歳になります。大学に進学するまでは埼玉県で暮らし、東京大学に進学しました。その中で社会心理学という社会学に少し近い領域を専攻していましたが、真面目に勉強する学生というわけではありませんでしたね。卒業論文ではかろうじて、自分が興味を持っていた分野に取り組めたかなと思います。

――卒業論文のテーマは、具体的にどのような内容だったのですか?
 
テーマは都市のイメージについてです。私が学生の頃、吉祥寺は「住みたい街ランキング第1位」として人気がありました。多くの人は、吉祥寺と聞くと特定のイメージを持っていたと思います。しかし、このようなイメージは街の実状と比較してどのようなものなのか、そこに暮らしている人々はどのように感じているのか、街に対するイメージがどこから生まれてくるのか。論文では、これらの問題をまとめました。

――ご卒業後は、どのような進路を選択されたのですか?
 
進路については大学院に進学するか迷いましたが、最終的には就職を選択しました。

――他の記事で拝見しましたが、就職先は学術出版社だったそうですね。
 
はい、そうです。大学卒業後5年ほど、編集職に就いていました。大学4年生の11月頃から、アルバイトという形態ながらフルタイムで働いていましたね。

――そこではどのような学術書を編集されていたのですか?
 
人文・社会科学系というおおざっぱなくくりで、何でも関わっていました。歴史、経済、社会学、哲学、文学など、「文系」でイメージされるものほとんど全部です。

――関わる領域が広くて、大変そうですね。
 
大変でしたね。大変だった背景はいくつかあったのですが、なかでも売り上げを確保するために刊行点数を上げなくてはいけなかったことの影響は大きかったと思います。特に学術書関係は部数をたくさん刷れないため、出版する本の数を増やしてカバーするという方法が採られています。そうすると、出版する点数が年々増えて行くんですね。
 
ただ、学術書は必ずしもコンスタントに出版できるわけではないんですよ。1章分が固まるのに、1年間かかることも珍しくありません。このような状況下で一定の売り上げを確保するというのが本当に難しかったですね。

――それは学術出版社らしい大変さですね…。
 
そうだと思います。また私は大学院には進学していないため、学術的なバックグラウンドが十分にあるわけではありませんでした。頑張って内容を理解するけれども、わからないことも当然多かったですね。学術的な作法についても、初歩的なところで抜け落ちていることもあり、そのあたりについては注意されながら、なんとか食らいついていきました。

編集者からバーの店長へ

――では学術出版社の編集者からバーの店長になるまで、どのような経緯があったのですか?
 
「エデン」という、全国に展開している当店の系列店があります。当店と同じく、日替わりバーテンダーというのをコンセプトにしたお店です。
 
ちょうど2021年くらいから、私も池袋近辺にあるエデンの本店へ出入りするようになりました。学術出版社を退職した後に転職した会社も辞めて、フラフラしていた時期ですね。お客さんとして訪れるだけでなく、1日バーテンダーにもなりつつ、エデンのオーナーとも話すようになりました。その後、オーナーが学問をコンセプトとした店を開きたいと店長を募集しているところに、私が手を挙げてたまたま採用されたという流れです。

――またどうしてオーナーさんは、学問をコンセプトにしたお店を開きたいと思ったのでしょうか?

1つには、大学院生がバーテンダーを務める「院生バー」というイベントが人気を博していたことが、直接のきっかけになったと聞いています。大学院生や研究者どうしで横のつながりを作ってみたいとか、専門性を持った人のもとに集まって話をしてみたいといったニーズが存在していることを、エデンの様子を見て感じていたようです。

それから、1つのテーマに対して、全く異なるアプローチを試みている人たちが集い、一緒に話をする光景がオーナーの中で成功体験として頭に残っていたみたいです。
 
以前にオーナーが「宇宙」をコンセプトにしたイベントを開催したら、多彩な顔ぶれが集まったらしいです。宇宙物理学を専攻している人から、宇宙ステーションへ物資を運ぶベンチャー企業を経営している人まで幅広く。このような経験から、学問をコンセプトにしたバーをやってみようと考えたそうです。…..(後略)

04 現代社会を生き抜く知恵「「教養」が好きな日本人――教養主義の現在地」山本昭宏

山本昭宏 神戸市外国語大学准教授。1984年生まれ。専門は日本近現代文化史、歴史社会学。著書に『大江健三郎とその時代』『戦後民主主義』『残されたものたちの戦後日本表現史』。

カッコよかった「教養」
 
「教養」に憧れていたことがある。
 
たとえば、大学のときに授業を受けた何人かの先生たち。専門外の思想・文学・映画・マンガについて幅広く知っていて、話の端々にそういう情報が出てくるのだった。あるいは、大学のときの先輩たちの姿。英語やフランス語の難しそうな本を片手に、知らない音楽についていろいろと教えてくれた。
 
その人たちに「すごいですね、何でも知っていて」と言うと、必ず(これは「必ず」である)「いや、自分なんか、まだまだ」と謙遜された。学生の頃の私は、「なるほど、こういう人たちのことを教養がある人というのだな、カッコいいな」と素朴にも軽い感動を覚え、自分もあのようになりたいと熱くなったのだった。
 
それから約20年が経った現在の私は、「教養」に対して両義的に構えるようになっている。もはや素朴な憧れはない。憑き物が落ちた理由は、一連の書籍が原因である。2000年代後半に続けて出会った竹内洋、筒井清忠、高田里惠子らの書籍(これらについては後述する)から、「教養」を重んじる「教養主義」の学校制度や男女格差、階級差との緊密な結びつき、その抑圧・選別機能を学んだことで、教養への憧れが解きほぐされたのだ。
 
思えば、冒頭に記した経験のなかに、教養を相対化する要素は内在していた。
 
つまり、「大学という制度と空間」のなかで、「(体感では八・五割以上が男性だった)年長者のグループに認められたい」という動機が、私自身のなかの教養主義を駆動させていたのだった。「勉強だけではダメだ」と遊びにも打ち込んだが、それも教養主義の裏返しだった。また、教養への憧れが「人格」への憧れと不可分だったということにも改めて気づかされた。
 
最近になって、自分のなかの教養の相対化をよりいっそう推し進めてくれる二冊と出会った。『映画を早送りで観る人たち』(稲田豊史著、光文社、2022年)と『ファスト教養』(レジー著、集英社、2022年)である。とくに後者は、現代的な「教養」のロールモデルが、知識人・文化人から、起業家やタレント・芸人へと移り変わったことをわかりやすく指摘してくれて目から鱗である。さらに、近年のビジネス書などで言われる「教養」は、カネになるかどうか、出世できるかどうかという点が基準になっているという指摘にも頷かされた。

二冊の本が話題になるとともに、コスト・パフォーマンスの時間版である「タイパ」という言葉も、ときに「Z世代」と結びつけられながら、ある程度は定着した。また、従来は新自由主義批判として語られてきた現代社会の心性を根本的に問い直す態度も、レジーの議論によって、装いを新たにして広まったと言える。
 
その他、近代文学研究者の和泉司による「就活教養主義」という言葉もある。外国語能力・留学経験・アルバイト経験・サークル経験・体育会活動経験・ボランティア経験などから得た幅広い知見や能力を就職活動の場で競うために、準備するというのが「就活教養主義」である(和泉司「「教養」と「教養主義」:大学におけるその歴史的経緯」)。
 
これらの議論を読んで、新たな疑問が生じた。私がかつて憧れた近代日本の「教養」が衰退したあとも、いったいなぜこの社会は「教養」という言葉を求めるのだろうかという疑問である。もはやほとんど別物なのだから、別の言葉を使えば良いように思うが、そうならないのはなぜなのだろう。
 
いまや一種のマーケティング用語になった「教養」だが、それでもこの言葉が残っているのは、かつてのハイ・カルチャーの香りに、人びとが吸い寄せられるからなのか。あるいはまた別の理由があるのだろうか。それを考えるために、時計の針を巻き戻してみよう。

そもそも「教養」とは?
 
日本国語大辞典によれば、「教養」とは「学問、知識などによって養われた品位。教育、勉学などによって蓄えられた能力、知識。文化に関する広い知識」を指す。「品位」とあるように、情報としての知識だけではなく、それを身につけた人格のオーラをも指している幅広い言葉だった。
 
近代日本の「教養」は帝国大学とその予科にあたる旧制高等学校と結びついたエリート文化である。古典や現代の人文書(洋書)を読むことで人格を鍛え向上するという規範的態度が、大正期のエリート学生たちのあいだに定着した。読むべき本は、時代とともに変わる部分と変わらない部分があり、反体制的言論人(マルクス主義者)の論壇における位置が確立した昭和初期には、左翼文献も教養の一貫だった。
 
では、「教養」を重んじる教養主義が、エリート学生のあいだに定着したのはなぜだろうか。西洋を規範として仰いだ近代日本の特徴だと言ってしまえばそれまでだが、それだけでは教養主義の定着を説明できない。筒井清忠や竹内洋らが指摘したように、教養主義の前提には、農村と都市との断絶があり、大衆とインテリとの乖離意識があった。つまり、農村から都市へ出て、インテリへの階段を上る多くの男性学生たちにとって、「教養」を身につけることは誇らしく、輝かしかったのだ。なぜなら、都市に出てインテリになれば、階層上昇(立身出世)はほぼ約束されたようなものであり、彼らはその安定感のもとで勉学に打ち込むことができた。
 
男性主義的要素を多分に含む教養主義を支えた精神性としては、修養主義の存在も無視できない。修養主義とは、人格陶冶を目指して身を修め、心を養うことを指す。その淵源には、近世の通俗道徳(安丸良夫)があるが、明治後期から庶民的に広がったとされる(筒井清忠『日本型「教養」の運命』)。刻苦勉励自体に意義があるという、どこか体育会的な考え方だとも言える。このように修養主義と教養主義の結びつきが、大正から昭和初期の学生たちを駆り立てたのだった。そして、これらの前提は戦後も変わらなかった。むしろ戦後日本社会では、教養主義は学校の外でも、非学歴エリートの若年労働者たちに対する規範的な力を増大させていった(福間良明『「働く青年」と教養の戦後史』)。
 
しかし、農村と都市の差が縮まり、大学が大衆化した高度経済成長期を経て、それらの前提が崩れる。もっとも、竹内洋の議論によれば、1960年代には、すでに教養知とは異なる専門知や技術知が台頭していた。マルクス主義を代表とする全体的社会変革のための社会思想から、専門技術学による段階的積み上げによる社会改良を目指す社会工学的思想への転換は60年代に水面下で進んでいたが、それが広まるのが1970年だった。再び竹内の言葉を借りれば、「思想インテリ」から「実務インテリ」、「抵抗型」知識人から「設計型」知識人への転換が進んだのである(竹内洋『教養主義の没落』)。
 
ただし、インテリや知識人が言論で覇権を握るということ自体は変わっていなかったとも言える。変わったのは「教養」の内容である。1970年代以降、従来からの古典や洋書を読むという教養のリストに、映画やマンガや音楽の領域が加わった。それと合わせて、多様な雑誌メディアが誕生し、狭く・深くその道を究める読者共同体や趣味的集団が目立って乱立するようになる。そこでは情報量や読みの深さを競い合う文化は残っていたし、教養主義的な抑圧・選別をくぐり抜けるための刻苦勉励(たくさん読む・たくさん観る)をよしとする気風もまた残っていたと思われる。それでも、娯楽の比重が相対的に増したことは間違いない。学校制度の外側で、マス・メディアに媒介された集団だったからだろう。

では、「教養」による人格陶冶という言葉が過去のものになったのかというと、そうでもない。1980年代になっても、特権的知識人の威光は存在していた。柄谷行人・浅田彰・蓮実重彦といった人文学的教養を感じさせる人びとや、糸井重里・村上龍・坂本龍一らのように相対的に軽やかな人びと、ビートたけしやタモリらのテレビ教養人など、最先端の文化の香りを放っている人たちが、カッコよかったのである。そのあたりの当時の雰囲気は、筑紫哲也が聞き手を担当した『若者たちの神々』(全4巻、朝日新聞社、1984~85年)がうまく伝えている。
 
しかし、2000年代にはっきりと潮目が変わる。自己責任とサバイバルを重視する新自由主義的心性を、人びとがすがりつくようにして自ら身につけていく時代である。統治する側の戦略が功を奏して、「自助努力こそ正義」という態度は広く共有されるようになった。この時代のスターは、堀江貴文に代表される企業家・実業家や、経済評論家の勝間和代、あるいは実力のある芸人・タレントである。そうした時代において、『ファスト教養』が指摘したように、「教養」もまた「短期的な効率の良さ」を求める態度に飲み込まれていった。…..(後略)

05 今月の1冊「橋爪大三郎『日本のカルトと自民党――政教分離を問い直す』」橋本努

橋本努 1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、『自由原理』(岩波書店)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。

1.自民党はカルトと縁を切れ
 
二〇二二年七月、安倍晋三元首相が一人の青年によって暗殺された。あってはならない事件であるが、これを機に、自民党と統一教会の関係がさまざまに報じられるようになった。(統一教会の現在の名称は、「世界平和統一家庭連合」である。しかし以下では、その歴史を踏まえて「統一教会」と記すことにする。)
 
統一教会は、自民党の政治をどこまで動かしているのだろう。最近刊行された、橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』集英社新書(二〇二三年三月刊)は、自民党とカルト宗教団体の関係を鋭く分析している。今回はこの本を取り上げて、宗教と政治の関係について検討したい。
 
本書は、二つの宗教組織について論じている。一つは、生長の家から派生した「日本会議」。もう一つは、「統一教会」である。この二つの団体は、たいへん危険なカルト集団である。民主主義の社会を覆すような、野心的な社会構想をもっているからである。私たちは、どう対処すればいいのか。本書のメッセージは明快である。自民党は、カルトとの関係を断ち切るべきである。政教分離を徹底すべきである。自民党は、これを断行できるのかどうか。私たちは注視しなければならないと。かつて自民党の小泉純一郎は、「自民党をぶっ壊す」と言って大胆な組織改革をした。もし現在の自民党総裁が小泉なら、自民党と統一教会との絶縁を、とことんやり遂げるだろう。それをやるべきだというのが本書の主張である。

2.生長の家から日本会議へ
 
本書の第一部は、生長の家から日本会議が生まれるまでの過程を分析している。最重要の問題は、憲法九条をどう改正するかである。
 
日本には自衛隊がある。自衛隊は、国を守る軍隊なのかどうか。憲法九条では、軍隊ではないとされている。だがこれは非現実的である。だから憲法九条を改正して、自衛隊の存在を明確にすべきである、と考える人も少なくないであろう。
 
二〇一二年に第二次安倍晋三内閣が誕生したとき、憲法改正への機運が高まった。同年、自民党は憲法改正の草案を示した。ところがその草案の中身をみると、日本会議がまとめた『新憲法のすすめ』(二〇〇一年)の大綱とそっくりではないか。これはつまり、自民党がすすめる憲法改正は、日本会議という団体に操られている可能性があるということだ。
 
日本会議という団体は、神社本庁、靖国神社などの神社神道系、黒住教などの教派神道系、天台宗などの仏教系、霊友会、モラロジー研究所などの、さまざまな宗教団体が集うメタ組織である。日本会議は、一九九七年に、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の二つが合体してできた。自民党の憲法草案は、とりわけ「日本を守る国民会議」が一九九三年に示した憲法改正案を発展させたものとされる。この組織は、一九七八年に設立された「元号法制化実現国民会議」が改組されたものである。
 
もう一つの「日本を守る会」は、「日本青年協議会」を母体として運営されるようになった。この日本青年協議会は、「生長の家」の創設者、谷口雅春の保守的な宗教思想を継承している。現在の生長の家は、谷口雅春の考え方を否定して、新たにエコロジーの理念を掲げる組織に生まれ変わった。これに対して谷口雅春の考えを継承したのは、「日本会議」であった。
 
では谷口は、どんな考え方をもっていたのか。谷口が「生長の家」を創設したのは一九三六年であった。最初は、アメリカの「ニューソート(New Thought)」と呼ばれる、一九世紀後半のさまざまな新宗教運動に影響を受けていた。「万教帰一」という、いわば何でもありのごった煮の宗教だった。ところが戦時体制のなかで、谷口はしだいに、皇国主義に近づいていく。戦時中の日本の皇国主義を支えた。
 
しかし戦後を迎えると、谷口は思想的な危機に陥った。はたして皇国主義を貫くべきなのか。それとも皇国主義に加担したことを反省して、新たな宗教として生まれ変わるべきなのか。谷口雅春は迷ったに違いない。結局、戦後も皇国主義の考え方をベースにして、「戦後日本の憲法は間違っている」と主張するようになった。
 
戦後の日本国憲法は、米国に押しつけられたものであるから、廃棄すべきである。日本はもう一度、大日本帝国憲法を中心に据えた旧来の体制に戻るべきである。谷口はこのように考えた。そしてこの復古思想は、弟子たちを介して「日本会議」に継承されていった。日本会議は、この谷口の考え方をベースにした憲法改革案を作成する。それが現在の自民党の憲法改正草案につながっている。これは極めて危険なことではないか。自民党は、大日本国憲法に戻るべきと考えた谷口の保守思想をベースに、憲法改正論議をしているのだから。
 
谷口は、日本は大日本帝国に戻るべきだというが、これは反民主的な考え方であり、その意味でカルト的だ。その思想を継承する自民党の政治は、カルト宗教と分離されていないことになる。すでにこの問題をめぐって、菅野完著『日本会議の研究』(二〇一六年)が詳細に論じているが、橋爪著『日本のカルトと自民党』は、谷口雅春の宗教思想とその遍歴を深く検討していて興味深い。
 
谷口は、戦後になって、戦争を反省しなかったわけではない。むしろ反省した。戦争をした日本は、ニセの日本であると考えた。ニセの日本は「日本国」を名乗ったけれども、それは真の日本、すなわち「大和国」ではない。私たちは、真の大和国の存在に目覚めるべきである。そのために谷口は、政治的には天皇親政のような、天皇にもっと権力を集中させる政治制度がよいと考えた。もし天皇に権力が集中していれば、日本はアメリカが攻めてきたときに、本土決戦をするまえに、天皇がもっと早く戦争をやめる決断をすることができたであろう。あるいは天皇にもっと強い任命権があったら、そもそも大東亜戦争を阻止できたであろう。ところが当時の天皇には、それほどの権力がなかった。だから日本は戦争を始め、なかなか終わらせることができなかった。結果として甚大な被害を受けることになった。すべての失敗は、天皇に権力が集中していなかったことにある、というのが谷口の考えである。
 
谷口は、一九六九年に「生命体としての日本国家」という論文を雑誌『理想世界』に寄せた。この論文を読んだ三島由紀夫は、「久しく求めていた日本の国家像」であると絶賛した。谷口の思想は、三島のような右翼思想家を鼓舞した。谷口は、それほど影響力のある右派思想を原理化していたのである。
 
谷口はしかし、生長の家の信者たちからは批判されるようになった。信者たちは、谷口の復古的な考え方についていけなかった。また生長の家は、そもそも特定の協議も儀式もない団体であり、さまざまな団体のメタ組織であった。大日本帝国憲法を復活させるという「復憲論」を主張しても、受け入れてもらえない。そこで谷口は、生長の家とは別に、「生長の家政治連合」を発足させた。一九六四年のことである。
 
興味深いのは、これと並行して、生長の家の学生グループが、長崎大学で当時の新左翼の学生セクトとの闘いに勝利したことである。かれらは全国規模の学生団体(全国学協)を組織化していった。生長の家の学生グループには、組織力と実践力があった。そしてこの組織のOBたちは、のちに「日本青年協議会」を組織し、さらに「日本を守る会」の事務局を担当し、「日本会議」を生み出していく。このように、谷口の考え方を継承する若手の運動家たちが、日本会議を作っていく。
 
ただその過程で、谷口思想は修正された。大日本帝国憲法を一気に復活させることは、いくらなんでも不可能である。憲法を少しずつ改正していく、あるいは解釈改憲を積み重ねていく。そのような戦略のほうが、現実的である。かれらがまず取り組んだのは、一九七九年の元号法制化であった。元号に関する法律は、旧皇室典範にあったが、戦後の新皇室典範にはなかった。そこで日本を守る会は、以前の法律を根拠にして、元号法制化運動をはじめた。かれらはわずか二年で、この法案の法制化に成功した。
 
こうした成功を背景に、一九九七年に創設された日本会議は、さまざまな保守思想を自民党に売り込んだ。日本会議は現在、多くの宗教団体からなる、政治的な集票メカニズムとして機能している。自民党にまとまった票を約束する代わりに、自分たちの考え方を政治的に実現してもらう。このやり方はしかし、政治と宗教の分離という大前提に反している。日本会議は、国民の目の届かないところで、政治に影響を与えている。まったくもって、反民主的である。「宗教教団が、信徒に投票の指示をしてはいけない。それは、民主主義を破壊する行為である」というのが、本書の主張だ。
 
むろん実際の選挙においては、さまざまな利害団体や圧力団体が組織票を投じているのだから、宗教団体が組織票を投じても、それほど問題ないと思う人もいるかもしれない。しかし、そうではない。本書によれば、宗教団体による組織票は、特別に有害である。労働組合などの、社会の利害の一部を代表する団体の組織票は、害悪が少ない。これに対して宗教団体は、私たちの近代的な自由民主主義体制を、最終的には転覆するような社会構想を抱いていることがある。社会の転覆を企てるカルト的な集団が、投票を組織的に操るのはおかしい、というのである。
 
おそらく宗教にも二つの種類があって、一つは近代の自由民主主義と両立する「理にかなった宗教」と、もう一つは両立しない「理にかなっていない宗教」があるのではないか。理にかなった宗教であれば、私たちの社会を揺るがすわけではないので、ある政党に組織票を投じても問題はない、と思われるかもしれない。本書はこの点についてなにも言及していないけれども、その一方で深い洞察を示している。宗教というのは、あるときカルトになったり、カルトでなくなったりする。そういう変化をするのであり、カルト的な宗教団体だけをうまく政治から排除するのは難しい、ということだ。
 
だから政治と宗教を徹底的に分離すべきだ、という主張になるわけだが、もう一つの考え方は、日本も米国のやり方を真似して、近代の民主主義と両立する宗教を「市民宗教」として承認し、そうではない宗教を「カルト」として排除する、という方法であろう。これは一つの政教分離のやりかたである。しかしこのようなやり方が日本で可能なのかどうか。私たちは議論を積み上げなければならないと思う。…..(後略)