2021.09.13
「答えは人それぞれ」で終わらせる前に――『「倫理の問題」とは何か メタ倫理学から考える』(光文社新書)
初対面の人に自己紹介の中で「倫理学を専門にしています」と言うと、しばしば、「え、心理学ですか」と聞き返されます(年度はじめの授業では「すみません、論理学の授業だと思っていました」といって申し訳なさそうに出て行く学生さんもいます)。
「いえ、心理学ではなく、倫理学というものです。ほら、倫理とか道徳とかの」と私が続けると、たいてい「ああ、そうですか。大変なことをなさっているんですね、ほら、倫理の問題には答えなんてないでしょう」と返ってきます。確かに倫理の問題は答えることが難しい問題であることが多く、そう言いたくなる気持ちはよく分かります。
「倫理の問題の答えなんて人それぞれでしょう」という発言もよく聞かれます。これも人の倫理観や価値観といったものには他人がみだりに口出しをすべきではない、という現代の自由主義の風潮からすると肯けるものです。
しかし、私を含めて倫理学を研究している人たちは、必ずしもそのようには思っていません。実はそもそも倫理の問題に答えがあるかないか、ということが倫理学の研究の対象で、それこそ古代ギリシアのソクラテス以来、2000年以上揉め続けている問題なのです。
答えがある問題と答えがない問題、答えが人それぞれの問題、それらの違いは何でしょうか。たとえば、「明日、貴方の丸い三角は400mを緑にした?」という問題には答えがないように見えます。問題が意味をなしていないからです。他方で「ラーメンにはメンマが入っていた方がいいか」という、人の好みを問うような問題の答えは、人それぞれでいいように見えます。
では、「電車で偶然、隣に座った子どもに理由もなくひどい暴力を振るっていいか」という倫理の問題はどうでしょう。これはさすがに「そんな暴力を振るってはならない」が答えであり、人それぞれと言うわけにはいかないように見えます。
もちろん、倫理の問題に答えなんてないと考える人がイメージしているのは、そのような問題ではなく、もっと複雑で微妙な問題だ、と言われるかもしれません。たとえば、「人間は動物を食べてもいいか」という問題は、現代の日本では多くの人が食べてもいいと答えるかと思います。しかし、その動物でハムスター、猫、犬、猿をイメージしたらどうでしょうか。特にそれが飼い猫、飼い犬だったら。さらには(小説『ヒカリゴケ』で描かれたように)人間を含めるとどうなるでしょうか。とたんに、「人間は動物を食べてもいいか」という問題は、答えのない難問、あるいは人それぞれとしか言えない問題に見えてこないでしょうか。
そうすると、倫理の問題には答えがあるものとないもの、人それぞれのものがある、と考えておくのが無難な気もします。しかし、それでも問題は解決しません。猫を飼っている人は「猫を食べるなんてとんでもない、猫は食べものではない、それが絶対の答えだ」と言って猫を食べる人を非難するかもしれませんが、猫を食べる文化圏の人は「それは人それぞれの問題でしょう、外野がとやかく言わないでください」と答えるでしょう。結局、ある問題と答えの関係を決める条件は何なのでしょうか(答えがあるかどうかも人それぞれだ、という答えもあるでしょう)。
このような条件を考える手がかりになるのは、その問題が法律の問題でも数学の問題でもなく、倫理の問題であるということです。法律の問題なら六法全書や裁判所の判例集を参照することで、数学の問題は公式に当てはめることで、基本的には答えを求めることができます。しかし、倫理の問題では参照すべきものがありません(もちろん倫理学者たちの仕事の一つは、これを参照するといい、というさまざまな基準の案を提示することでもあります)。その一方で、倫理には先の子どもへの暴力の例のように絶対にやってはいけないこともあるような気がします。そうすると、これがまさに「倫理の問題」だから、答えがあるとかないとかの問題が生じているようにも見えるのです。しかし、そうすると今度は倫理って何? 倫理の問題って何?という疑問が湧いてきてしまいます。
そういうわけで、倫理学の中では、倫理とは、倫理の問題とは何のことなのか、ということが長らく研究の対象になっています。え、そんなことも分からずに研究しているの、と言われるかもしれません。しかし、実際問題、倫理学を研究している人たちの間でも、倫理の問題とは何のことなのか、共通の了解があるわけではないのです。
私がまだ学部生だった頃のことですが、ある倫理学の研究会で、意識と経験にかかわる現象学についての発表がありました。それに対してある先生が「ところで、この発表はどこが倫理を問題にしているのですか(つまり、とうてい倫理の問題には見えない)」という趣旨の質問をしました。その頃は私も、漠然と、人間関係のルールのようなものとして、倫理を捉えていたので、確かになあ、と思って聞いていました。
すると、それに対して(発表者ではない)別の先生が「この問題のどこが倫理の問題ではないというのか」と食ってかかりました。もっともその先生(および発表者)はどういう点でこの問題が倫理の問題なのかを語ってくれなかったので、そのときの私には結局、人間の意識が経験と、そして外界どのような関係にあるか、ということがなぜ倫理の問題になるのか、よく分かりませんでした(今は分かるような気がしています)。しかしながら、このときの経験は強烈で、それ以来、倫理の問題とそうではない問題の違いって何なんだろうなあ、と漠然と思っていました。
それから20年近くが過ぎて、今回、光文社さんから機会を頂き、『倫理の問題とは何か メタ倫理学から考える』という書籍を上梓しました。執筆に当たって、あらためていろいろな資料や文献を調べている中で、倫理という言葉は本当に様々な意味で使われているということが分かりました。それにもかかわらず、私たちは倫理という言葉を使って互いに語り合い、議論し、共に生活をしているのです。それってすごいことですよね。
この本で目指したことは、そうした多様な倫理の理解を統一しようということではありません。むしろ多様な理解は多様にしておいたままで、どこが違っているから、人々の倫理の理解に違いが生まれるのか、その上でなお共通と言えるような要素はあるのか、倫理の理解が違っている相手のことをどう理解すればいいのか、ということを考えようとしたものです。そして、ある問題が倫理の問題であるなら、それは経済の問題や芸術の問題と何が違っているのか、すなわち倫理の問題の特徴とは何か、そういったことを考えることを通じて、本文の冒頭の倫理の問題に答えがあるのか(というより、なぜ答えがあるとか、ないとか思ってしまうのか)、もし答えがないとしたらどうしたらいいのか、ということを検討しています。
倫理の問題というのは不思議な問題です。一方で、これは倫理の問題だから適当に扱うわけにはいかない、深刻に考えなければ、と言われることがあります。他方で、倫理の問題なんて今はどうでもいいんだ、とぞんざいに扱われることもあります。倫理は医学や科学、経済の発展の足を引っ張るばかりで、そんなことを気にしていたら、私たちの社会は全然先に進まないと言われることもあります。
確かに、新しい研究をはじめようとするたびにいちいちたくさんの書類を作成して、倫理委員会にお伺いを立てねばならない、などのことを考えると、そう言いたくなってしまう医学者や科学者、経済学者がいるのも分からないではありません。しかし、そこで考えてみてほしいのは、その医学者は何のために医学を発展させようとしているのだろうか、ということです。もし、それが人の命を救いたい、という想いだとすれば、その想いはとても倫理的なものですよね。あるいは科学的な真理の探究も、それが人類にとって価値のあることだとからそうしている、ということかもしれません。
そうすると、そこでは医学と倫理、科学と倫理が対立していたのではなく、ある倫理と別の倫理が対立している、ということにはならないでしょうか。そのように見方を変えると、直接に対立を解消することはできないとしても、お互いを理解するための筋道が少しだけ見えてくるかもしれません。
この本が目指したのも、直接に倫理の問題に答えをだすことではなく、倫理とその問題についての見方を少しだけ変えることで、私たちの日常を少しだけ生きやすくするヒントをみつけることです。皆さんもぜひ自分の倫理の問題について、そして周囲の人や社会が直面している倫理の問題について、考える機会をもってみてもらえればと思います。
プロフィール
佐藤岳詩
専修大学文学部准教授。1979年、北海道生まれ。専門は倫理学。著書に『R.M.ヘアの道徳哲学』『メタ倫理学入門-道徳のそもそもを考える』『「倫理の問題」とは何か』など。