2025.07.04

中東政治――中東を「難しい」で終わらせないために

シノドス・オープンキャンパス10 / 末近浩太

国際

はじめに

中東政治と聞くと、何が頭に浮かぶでしょうか。多くの人は、紛争や独裁などに苦しむ人々の姿をイメージするかもしれません。記憶に新しいところでは、パレスチナ/イスラエルでの激しい紛争でしょう。2023年10月7日、パレスチナ・ガザ地区を拠点とするハマース(ハマス)がイスラエルに対して大規模な奇襲攻撃を行い、多くの民間人を殺害・拉致しました。これに対して、イスラエルはガザ地区に対する大規模な軍事侵攻に踏みきり、深刻な人道危機が起こりました。(本記事は「αシノドス」2024年1月号からの転載です:編集部)

それだけではありません。中東では、シリアやイエメン、リビアなどの他の諸国でも紛争が続いています。紛争が起こっていない諸国でも、その多くで人々は独裁や抑圧、不正や汚職といったさまざまな問題に直面しています。

私たちが日々見聞きするニュースでは、こうした中東の人々の苦悩が伝えられてきました。

こうしたなか、私たちは、「なぜ中東の政治はいつも混乱しているのか」「なぜ中東では紛争や独裁が続いているのか」といった漠然とした、それでいて素朴な疑問を抱きがちです。そして、ときとして、それが「中東らしさ」であるかのように考えて、理解した気になることがあります。そこでよく取り沙汰されるのが、私たちとは異なるイスラームやアラブといった宗教や文化の存在でしょう。

この場合の「異なる」には、「私たちとは違う宗教や文化を持っている点で異なる」という意味と、「私たちとは違ってそれらに執着し続けている点で異なる」という意味の2つが含まれます。

つまり、中東の人々は宗教や文化といった私たちが既に克服したと考えている前近代的な考え方にとらわれているから、いつまでも仲良くできない、だから、政治が混乱してしまうのだ、という見方です。これは、私たちが進んでいて、中東の彼ら彼女らが遅れている、という見方でもあり、それが正しいかどうかにかかわらず、私たち自身に優越感や安心感を与えてくれる面があります。

例えば、中東で紛争が発生するたびに、「イスラームはやっぱり怖い」(宗教にこだわらなくなった私たちは偉い)、「アラブ人の考え方は理解できない」(戦争よりも平和を大事にする私たちは偉い)といったコメントや感想がSNS上に溢れます。中東で起こっていること、あるいは中東政治を語る際には、どうやら私たちとは異なる宗教や文化にその原因を求める傾向があるようです。

中東は例外なのか

しかし、このような見方は正しいのでしょうか。こういうときの答えは、たいてい決まって「ノー」です。そう、「ノー」なのです。その理由は後ほど詳しく述べますが、中東のことを考える前に、少し視野を広げて頭を整理しておきましょう。次の3つの点に着目するだけでも、暫定的にも「ノー」が妥当であることがわかります。

第1に、紛争や独裁は中東政治にだけ見られる問題ではない、という点です。むしろ、現下の世界では、紛争の件数も独裁国家の数も高止まりが続いています。スウェーデンのウプサラ大学が作成している有名な紛争データセットUCDPのグラフ(State-based conflicts by region (1946-2022)を見てみましょう。これは1946年から2022年までの世界で発生した紛争の件数を地域別に折れ線グラフにしたものですが、世界全体として「右肩上がり」であり、紛争が起こっているのは中東(Middle East)だけではないことが読み取れます。

https://drive.google.com/file/d/1R2f201hqjESZUopnB3btg6wUwXhhDCIl/view?usp=sharing

*以下から自由にDLできます。https://ucdp.uu.se/downloads/charts/

他方、独裁についてもデータを見てみましょう。この地図は、これまたスウェーデンのV-Dem研究所が作成した、「自由民主主義(Liberal Democracy)」の指数を国別に色分けしたものです。中東のあたりを眺めてみると、軒並み低スコアです。しかし、世界ではむしろ民主主義が確立している国の方が少ない。特にアジアとアフリカのほとんどが中東諸国と同じレベルです。この指数だけ見れば、中東諸国は、ある意味では(悪い意味でも)「普通」なのです。

https://drive.google.com/file/d/1gD78Ft34ycviULTjn8pDDeEbM1z73PPa/view?usp=sharing

*以下から自由にDLできます。https://v-dem.net/data_analysis/MapGraph/

第2に、イスラームやアラブといった宗教や文化は中東以外の場所にも存在する、という点です。特にイスラームは世界的な宗教です。現在、世界最大のムスリム(イスラーム教徒)人口を抱えているのは東南アジアのインドネシア(約2億人)であり、次に多いのは南アジアのパキスタン(約1.7億人)です。両国とも中東諸国ではないですが、民主主義に基づく政治が行われており、また、紛争も起こっていません。もし宗教や文化が紛争の根本原因であるというならば、論理的には世界中で火の手が上がることになりますが、実際にはそうなっていない。

第3に、案外気付きにくいことですが、そもそも、私たちが見聞きする政治のニュースは、世界のどの地域にかんしてもほとんどの場合が明るい話題ではない、という点です。中東であれ、日本であれ、政治のニュースと聞いて、明るい話題を思い起こすことは難しいでしょう。むしろ、気が滅入るような話題ばかりではないでしょうか。「理想の政治」が実現していないのは、中東だけではないのです。

以上、3つの点に着目するだけで、中東をことさらに例外視、特別視する必要がないことがわかります。中東で起こっていることは他の地域でも起こり得ます。だとすれば、紛争や独裁が続く原因を考えるときも、中東に特化した要素や説明に一目散に飛びつくことなく、何が「中東らしさ」で、何がそうでないのか、見極めるための冷静な思考が大切になります。

中東政治学とは何か

では、そんなとき、私たちは何に頼ればよいのでしょうか。中東に詳しい人、例えば、現地での豊富な滞在経験を持つ人や独自の「情報筋」に通じている(と主張する)人は頼りになるかもしれません。「専門家」を自認する彼ら彼女らしか持ち得ない「閉じられた知」をこっそり教えてくれるかもしれませんし、そうでなくとも、それを根拠とした独自の分析や「オピニオン(意見)」を聞かせてくれるかもしれません。

しかし、当然ながら、私たちのほとんどは、JB――ジェームズ・ボンド、ジェイソン・ボーン、ジャック・バウワーなどのお話のなかの諜報員――のような個人の芸当をまねることはできません。そうでなければ中東政治はわからない、というのであれば、私たちは絶望するしかありません。自分自身で集めた情報から構成された中東を主体的に理解しようとする営みは、失敗するか、そうでなくとも、不十分なものに終わることが約束されます。

だとすれば、私たちはこうした「専門家」が語る中東を鵜呑みにするほかないのでしょうか。そんなことはありません。学問という強い味方がいるからです。ここで登場するのが、中東政治学という学問です。中東政治学の目的は、中東で起こっていること、つまり、さまざまな政治現象を説明することにあります。説明とは、「何が」起こっているかに加えて、「なぜ」起こっているのか、因果関係を明らかにしようとする営みです。

ここで強調しておきたいのは、その説明が本当に正しいかどうか、理論と証拠をオープンにすることで研究者のあいだで相互にチェックが繰り返されていることです。その結果、誰もがアクセスできる、誰もが使うことができる、誰もが頼ることができる体系化された学知が築き上げられていく――そう、学問は「セオリー(理論)」と「エビデンス(証拠)」に支えられた「開かれた知」なのです。

「専門家」は、彼ら彼女らしか知り得ない「閉じられた知」に基づき、その人独自の「オピニオン」を示してくれます。例えば、ジャーナリストや評論家といった個人による取材や調査の成果には、その独自性や唯一性という強みがあります。事件直後の現場に足を運んだり、現地の人々の生の声を拾うことで得た情報は、何にも代えがたい貴重なものとなります。しかし、それらを見聞きしても、私たちが主体的に中東政治を理解することは難しい。つまり、私たち自身の武器になり得ません。

これに対して、学問という「開かれた知」である中東政治学は、それを用いることで私たち自身の主体的な中東理解を促してくれます。中東政治学は、学問のルールに則った研究者の集団による不断の営みであり、「何が」起こっているかを「知る」ための新たな情報やデータを収集しながら、それを元に「なぜ」起こったのかを説明する方法を絶えず更新していく。そこでは、それまで妥当だと考えられていたある説明が否定されることもありますが、それは、新しい説明の方法が生み出される過程でもあり、また、研究者による切磋琢磨や積み重ねの結果でもあります。そして、こうした戦いを勝ち抜いた説明が、定説や通説となっていく。そんな中東政治学を私たちは頼らない手はありません。

紛争はなぜ起こるのか

では、実際に紛争はなぜ起こるのか、中東政治学の枠組みで考えてみましょう。先に触れたUCDPのグラフを見ると、中東では2010年以降に紛争の発生件数が激増していることがわかります。これは、2011年に起こった「アラブの春」の影響です。すなわち、何十年も権力の座に君臨してきた独裁者たちが、不満を爆発させた市民の抗議デモによって次々に退陣していった事件です。

独裁者の退場は、基本的に良いことだとして歓迎されますが、問題は、その後に平和や安定、繁栄が約束されているわけではない、ということです。独裁→革命→民主化→繁栄が理想的なシナリオとして考えられてきましたが、実は中東だけではなく世界のどの地域でもそれほどうまくいったケースは多くありません。

独裁者が退陣した後には、市民は自由になります。そして、どのような国をつくっていくのか、誰が権力者になるのか、自由に語れるようになる。自由に語れるということは、独裁の時代とは違って異なる意見や立場が表面化する。その相違が平和的な方法、例えば、選挙によって解消ないしは収斂していけばよいですが、暴力によって異なる意見や立場を持つ人々を沈黙させようとする事態が起こることもあります。また、かつての独裁者の取り巻きたちに対して、積年の恨みを晴らそうと暴力を用いてしまう人々も出てくるかもしれません。それが国家内での紛争、すなわち、内戦を発生させます。これは、例えば、旧ユーゴスラヴィアやアフリカのいくつもの国で見られてきた現象です。

「アラブの春」の後、中東でも独裁者の退陣ないしは弱体化によって、いくつもの国で内戦が起こりました。リビア、イエメン、シリア、それから一時的ではありますがバハレーンでも武力衝突が起こりました。チュニジアとエジプトは政変後に一時的に民主化しましたが、まもなく再独裁化が始まりました。

ここで観察できるのは、「独裁による安定」と「紛争による不安定」という2つの、どちらも望ましくない傾向です。どちらに転ぶのか、中東政治学では、独裁者による巧妙な統治手法、国軍の性格、天然資源(石油や天然ガス)の保有量、民主化を求める社会運動の歴史や特徴など、さまざまな角度から研究を重ねてきました。それらをここで詳しく紹介することはできませんが、重要なのは、中東で起こっていることは実は他の地域でも起こってきた、そして、それゆえに、主観的な経験に基づく「閉じられた知」に頼ったり、中東に特化した特別な説明――例えば、イスラームやアラブが原因だとする見方――を振りかざさなくても、その政治のあり方を合理的に説明できるということです。

そういえば、そもそもの問題として、なぜ中東には独裁者が多いのでしょうか。独裁者が退場した後に内戦になる恐れがある、という説明以前に、独裁者がいなければそんなことにならないのに、というのが素朴な疑問でしょう。

中東の独裁については、これまた中東政治学のメイントピックの1つです。そこでは、主に国家形成の困難の文脈で説明されてきました。つまり、現在の中東諸国は、西洋列強によって画定された国境線に沿ってできた歴史的経験から、国民としての一体性や仲間意識が十分に醸成されていない。それゆえに、その国を安定させるには独裁が合理的な方法となる。独裁者からすれば、あまりにも違う異なる意見を自由に語らせたら、国がバラバラになって潰れてしまう、だから力でこれを封殺しなくてはならない、という理屈になってしまうのです。

紛争はなぜ終わらないのか

中東の紛争が、特定の国のなかでの紛争、つまり、内戦から始まるとして、次に別の疑問が浮かびます――一度始まった紛争が、なぜなかなか終わらないのか。それどころか、アメリカやらロシアやら超大国の陰が常にちらついていて、1つの国のなかでの紛争に収まらず、それが終わるどころか周辺諸国や世界へと飛び火するかたちでエスカレートしているようにすら見えることがあります。

象徴的なのが、やはりパレスチナ問題でしょう。2023年10月のハマースの奇襲攻撃に対するイスラエルによるガザへの報復は常軌を逸する残虐さを露呈しました。これに対して、世界では即時停戦を求める抗議行動だけでなく、イスラエルやユダヤ人に対するヘイトが広がっていきました。何よりも、イスラエルの報復の是非をめぐって各国間の対立が深まった結果、国連の安全保障理事会が機能不全に陥る事態となりました。多くの国がイスラエルに自制を求めるなか、アメリカだけが拒否権を行使してまで報復攻撃を支持し続けたからです。

むしろ、こうした国際社会の分断や対立こそ、中東の紛争が終わらない原因の1つであり、また、エスカレートさせる効果をもたらしてきました。つまり、もともと特定の国のなかでの紛争に諸外国が関与することで、いわば代理戦争のような構図ができてしまう。こうしてステークホルダーが増えることで、紛争を終わらせるための交渉は複雑化し、和解や和平のための統一したシナリオを描くことが難しくなってしまいます。極端な場合には、内戦の当事者たちがもう戦うことに疲れてしまい、何とか話し合いで事態を収拾したいと思っているのに、諸外国がそれを許さないどころか、もっともっと戦うように焚きつけるようなことがあるのです。

そのことを、中東政治学では中東の紛争の「同心円構造」として論じてきました。大中小の三重の円をイメージしてください。中東のどこかで起こった国内での紛争(小さな円)は、中東域内での対立(中くらいの円)に絡め取られ、最後は地球規模の国際政治の対立(大きな円)における代理戦争のようなかたちとなります。

いくつか例を見てみましょう。2011年に始まったシリアでの紛争は、もともとはバッシャール・アサド政権による長年の独裁に対する市民による抗議デモが発端でした。アサド政権と反体制派との内戦(小さな円)が起こってから、イランとサウジアラビアという中東でライバル関係にあった2つの地域大国がそれぞれを支援するようになります(中くらいの円)。そして、イランとサウジアラビアは、それぞれロシア・中国とアメリカと強い関係を持っており、その結果、グローバルな超大国間の競合関係(大きな円)に絡め取られていきます。

つまり、シリア内戦は、もともとの当事者であるシリア人たちを置き去りにして、中東域内のイラン・サウジ対立、国際政治のロシア・中国とアメリカの対立のいわば代理戦争の様相を呈してしまったのです。これでは、紛争の終結は見込めません。

今回のパレスチナでのハマースとイスラエルとの衝突(小さな円)にも、これと似たところがあります。イランとサウジアラビアは、紛争が激化する以前の2023年初頭に歴史的な和解を実現していましたが、それでも、イランはハマースの最大のスポンサーとしてパレスチナ寄り、他方、サウジアラビアはイスラエルとの国交正常化に秒読みだと言われていました。紛争が激化した後は、ロシアと中国が即時停戦に賛成、つまり、パレスチナ側の要求や利益を反映しようとする一方で、先に触れたようにアメリカはイスラエルが望んでいたガザ攻撃を継続させようと躍起になりました。

問題は、なぜこのような紛争の「同心円構造」ができてしまったのか、です。実はこれについては、中東政治学もいまだに定説や通説と呼べるような理論を確立できていません。そもそも、こうした構造は中東以外の地域、例えば、最近だと2022年からのウクライナ戦争でも一定程度観察できます。しかし、誰もが観察できる事象からこそ、研究者たちはその謎を解くための「開かれた知」を発展させてきました。私たちはそれに自由にアクセスすることができるし、また、その発展に主体的に関わることができるわけです。

このように、中東で一度始まった紛争が、なぜなかなか終わらないのか、という問いに対しては、「同心円構造」をイメージしながら合理的に理解することができます。主観的な経験に基づく「閉じられた知」も、イスラームやアラブを重視する中東に特化した説明も、必ずしも不可欠だというわけではありません。

おわりに――異文化理解を超えて

私たちは、中東政治と聞くと、なぜそんなに構えてしまっていたのでしょう。中東に行ったことがない、現地の情報筋に通じていない、イスラームを信じていない、アラブの文化の深層を理解していない、だから中東のことはわからない、わかるはずないのだ、と。

そんな風に考えてしまう背景には、異文化理解の「呪い」があるのでは、と思っています。どういうことでしょうか。

外国や世界について学ぶことは、今も昔も、誰にとっても大事なことです。日本では、それを異文化理解と呼んできました。グローバル化が進むなかで異質な他者との共存が不可避となるなかで、円滑なコミュニケーションの確立や無用なトラブルの回避のためには「文化の違い」を学ぶ必要がある。それが、異文化理解の理念です。

しかし、この異文化理解という言葉のなかの「異文化」にも「理解」にも副作用のようなものがあるのではないでしょうか。そして、それらは――「呪い」とも呼ぶべきでしょうか――、私たちの異文化理解を促進するどころか、反対に歪めてしまいかねない問題を含んでいます。

「異文化」という言葉から考えてみましょう。私たちは、それを何度も口にしていくうちに、外国や世界を見るときに「自文化」との違いばかりを探す癖がついていきます。中東の人々を異質な他者と見なすのは容易いですが、それゆえに私たちと彼ら彼女らが何も変わらない、同じ人間であるという当たり前の事実が見えにくくなります。

確かに、中東の人々は、私たちと異なる宗教(イスラームやユダヤ教)を奉じていたり、アラブやペルシアといった異なる文化を持っています。しかし、彼ら彼女らにも、私たちと同じ人間としての生活と人生がある。中東をまなざす際に、それを異文化として構えすぎると、そんな当たり前の事実が見えなくなってしまうことがあります。そして、翻って、シリアやパレスチナの戦火に苦しむ人々の映像を見ても、どこか想像を超えた論理で動いている別世界の出来事のように見えるかもしれません。これでは中東政治への理解は深まりません。

他方、「理解」という言葉にも、「呪い」があります。何をどこまで理解すれば理解したといえるのか、その基準は曖昧です。それゆえにエンドレスの無理ゲーになりがちです。

私たちは、中東をよく理解している人と聞くと、先に述べたような現地経験が豊富な人や現地に知人友人がたくさんいる人をイメージすることがしばしばあります。もちろん、中東へのコミットメントが強ければ強いほど、その人は深く中東のことを理解できているというのは、自然なイメージでしょう。例えば、第一次世界大戦中にアラブ人たちとともにオスマン軍と戦った英国(当時は大英帝国)の考古学者・陸軍情報将校のT・E・ロレンス――いわゆる「アラビアのロレンス」――でしょうか。彼は、戦争という極限状態でアラブ人と苦楽をともにしたことで、いわば魂のレベルまでアラブを理解した人として称賛されています。

しかし、それと同じレベルの理解をしようとすると、ほとんどの人は主体的に中東を理解できないことになります。異文化理解とは、イスラーム教徒になってイスラームを信じることでもなく、アラブ人と寝食をともにしてアラブ人の魂を宿すことでもなく、あくまでも知識として「文化の違い」を学ぶ姿勢のことを指すのではないでしょうか。自分自身が異文化と同一化する必要はないのです。

繰り返しになりますが、異文化理解はとても大事なことです。しかし、それだけでは中東政治を理解するためには不十分です。それどころか、生真面目に「異文化」に自らを同一化するかたちで「理解」しようとすればするほど、もしかしたら中東の紛争や独裁を考える際に役に立つ「開かれた知」に背を向け、結果的に中東政治を理解する機会を逸してしまうかもしれません。

「開かれた知」、学問としての中東政治学は、誰もが手にすることができる武器です。最近は、日本語で書かれた著作も増えてきています。是非興味を持っていただければ嬉しく思います。

プロフィール

末近浩太中東地域研究 / イスラーム政治思想・運動研究

中東地域研究、イスラーム政治思想・運動研究。1973年名古屋市生まれ。横浜市立大学文理学部、英国ダラム大学中東・イスラーム研究センター修士課程修了、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科5年一貫制博士課程修了。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現在立命館大学国際関係学部教授。この間に、英国オックスフォード大学セントアントニーズ・カレッジ研究員、京都大学地域研究統合情報センター客員准教授、英国ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)ロンドン中東研究所ならびに政治・国際学部研究員を歴任。著作に、『現代シリアの国家変容とイスラーム』(ナカニシヤ出版、2005年)、『現代シリア・レバノンの政治構造』(岩波書店、2009年、青山弘之との共著)、『イスラーム主義と中東政治:レバノン・ヒズブッラーの抵抗と革命』(名古屋大学出版会、2013年)、『比較政治学の考え方』(有斐閣、2016年、久保慶一・高橋百合子との共著)、『イスラーム主義:もう一つの近代を構想する』(岩波新書、2018年)、『中東政治入門』(ちくま新書、2020年)がある。

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