2014.01.06
新春暴論2014:なにが「大人」と「子ども」をわけるのか?――「大人試験」について考える
2012年の正月にシノドスで「新春暴論」というのを書いたら、少しは受けたのか、2014年も「新春暴論」というテーマで書いて欲しいという依頼を受けた。正月というのは暴論にふさわしい時期なのかもしれない(というか正月ぐらいしか暴論が許される時期はないということだろう)。
というわけでさっそく、暴論スタート。
「大人」ってなんだ?
大人を認定するための試験をやったらいい、という話は、あちこちで語られる、いわば定番の与太話だ(ウソだと思うなら「大人試験」とか「大人免許」のようなキーワードで検索してみるといい)。
もちろんまじめに語られることはめったにない。まあたいていは「最近の若い者はだめだ」論がセットでついてくる主張であって、真顔で言うと「どうかしてる」と思われるから表立った場では口に出さないのが常識というものだ。ネタとしてもいわゆる「政治的に正しくない」部類に属するから、居酒屋談義のネタがせいぜいといったところだろう。
ところが、そういうネタ議論が、実は世間で正論とされるものと意外に近い、なんていうことがよくある。ちょっと違ったカバーをかぶせてあったり、少しアレンジしたものだったりすると、ああそうだよねまったくその通りだ、という反応になったりする。そういう人が愚かだといいたいのではない。もともと、議論の余地なく正しいとかまちがいとかいう話はそうそうないのだ。正しいとされる考え方が実は視点をずらすとけっこうあやふやな根拠しかなかったり、一見暴論としか思えないものが、よく考えてみるとそうでもなかったりすることはけっこうよくある。「大人試験」もそんなケースではないかと思う。
そもそも「大人」とは何か。大上段に構えると、いくらでも議論の余地があるわけだが、多くの場合、その条件とは一定の年齢に達することであり、いくつかの項目では、これが法律で定められている。
選挙権や被選挙権を得る年齢、国民投票権を得る年齢、民事上の完全な責任能力を得る年齢、結婚が可能になる年齢、刑事責任を問われる年齢、タバコや飲酒、パチンコなど許される年齢、成人向けとされる書籍や映画などが許される年齢。他にもあるだろうがまあこのあたりで。
これらは項目によって異なる場合もあるし、国によってもちがったりするが、暴論らしく乱暴にまとめるなら、概ね20歳前後だ。人間の肉体的、精神的に成熟するのがそのあたりだからなのだろう。
分野や国によって法定年齢は上下に数年ずつ幅があるが、そもそも人間の成熟プロセスは完全変態する昆虫などとちがって連続的なものだから、社会的環境の変化に伴うものを除けば、その数年間で許容しがたい差が生じるということでもないはずだ。であれば、その範囲内でどこに定めるかは、はっきりいって大きな問題ではない。ポイントは、「大人」かどうかが基本的には年齢で判断されるということ、そしてそういう決め方を社会が概ね受け入れているということだ。
なぜ「大人」と「子ども」にわける?
一方、「大人」を試験制や資格制にしている国は、知る限りない。参政権についていうなら、少なくとも現時点で、主だった国(これをどう定義するかにはいろいろ議論があろうが)はほぼ例外なく普通選挙制をとっている。いうまでもなく、これは世界の人々が自由と権利を求めて戦ってきた成果であるわけで、いまどき制限選挙がいいとか言い出せば、「何を考えてるんだ馬鹿野郎」と古今東西の賢者の皆様に集中砲火を浴びること必至だ。
参政権以外の部分も、概ね似たようなものだろう。喫煙や飲酒に免許が必要になる、なんていう法案が出たらどんな激しい反発を受けるかは想像してみるまでもない。
年齢による「大人」認定を是とする「根拠」は、いくつかあるだろう。3つほど挙げてみる。
(1)平均的にみて子どもは大人より能力が劣る
あくまで平均的にみればという話だが、体力、知力、経済力、いずれにおいても、子どもは大人より未成熟であり、劣るのがふつうである。それを大人と同等に扱えば何かと実害が生じるのはいうまでもない。弱者たる子どもを保護するためにこそ権利の制限が必要なのだ。
(2)コストを節約できる
もちろん能力は個人差が大きい。12歳で優れた能力を発揮する人もいれば、35歳で全然だめな人もいる。しかし、個々人の能力を1人1人見分けるのは大変なので、その代理指標として、簡単に把握できる年齢を用いるわけだ。個別にみればそぐわない取り扱いを受けて不満を持つ人もいるだろうが、全体としては概ね適切な結果が期待できるから、不満を持つ「例外」の皆さんには我慢してもらおう。
(3)制度や慣習と整合的
このような考え方は古くから受け入れられてきたもので、現在の私たちの社会の制度や慣習も、この考え方を前提としている。仮に現状で何らか問題があるとしても、そこから動かすこと自体がコスト増加や弊害などの新たな問題を生むおそれがある。
以上を抽象化してまとめるとこうだ。「平均的にみて能力が劣ると思われるグループの人々は自由にさせると危ないから権利を制限すべきだ。個人レベルでは例外もあるだろうが1人1人能力を測定するのはコストがかかるから、たとえ不満があってもあきらめてもらおう。社会がそういうしくみでできてるんだし、いいよね? よね?」
何歳から「大人」?
こうやってまとめるとやや乱暴な感じにも見えるが、このような考え方は、少なくとも子どもに関しては、それほど違和感がないらしい。たとえば、先日、内閣府が「民法の成年年齢に関する世論調査」を行ったが、その結果が注目を集めた。
民法の成年年齢に関する世論調査
http://www8.cao.go.jp/survey/h25/h25-minpou/
この件がいま話題に上っているのは、国民投票法との関係だ。憲法改正手続きを定めた国民投票法は、投票権者を18歳としているが、これは公職選挙法に定める選挙の投票権を得る年齢や民法上成人とされる年齢とされる20歳と齟齬がある。合わせるためにこれらも18歳にそろえてはどうか、という考えだ。
しかし報道では、どうもこの「18歳成人」、あまり世間の評判がよくない。
「「18歳成人」反対が69% 根強い抵抗感、内閣府調査」(共同通信2013年12月14日)
http://www.47news.jp/CN/201312/CN2013121401002054.html
内閣府が14日付で発表した民法の成人年齢に関する世論調査によると、親が教育や財産管理といった親権を持つ未成年の年齢を現在の20歳未満から18歳未満に引き下げることに反対と回答したのは「どちらかといえば」を含め計69.0%に上り、賛成の計26.2%を大幅に上回った。2008年の前回調査は反対が計69.4%、賛成が計26.7%で、大きな変化はなかった。依然として「18歳成人」に根強い抵抗感があることが浮き彫りとなった。
親権年齢引き下げ 反対が69%(NHK2013年12月15日)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131215/k10013840121000.html
反対の理由を複数回答で尋ねたところ、▽「経済的に親に依存しているから」が58%▽「自分自身で判断する能力が不十分だから」が56%でした。
内閣府のページでクロス集計データを眺めてみると、男女間、世代間で微妙な差があって面白かったりするが、細かいところを措いとくと、まあ傾向は性や世代であまり大きくちがっているというほどではない。要するに、経済力・判断力に欠けるからだめ、が世間の「総意」ということだ。
しかし、もしこの理屈が通るのだとすると、おかしなことになる。年少者ではなく、高齢者の方が、だ。たとえば昨年公職選挙法改正によって実現した成年被後見人の選挙権回復を取り上げてみる。成年被後見人は高齢者に限らないが、高齢者が多いのも事実なので、主に高齢者の問題といってもさほどずれてはいないだろう。
この改正は、これまで「民主的意思形成に参加する能動的市民としての資格・適性が疑われる者であり、基本的には選挙権を有しないとされることに真に必要やむを得ない理由がある」(戸波1994)とされてきた成年被後見人も、能力の欠如や不足ゆえに選挙権を奪われるべきではない、という考え方に基づいたものだ。
しかし、もし成年被後見人に対して判断力を問わずに選挙権を認めるなら、なぜ同じく判断力に欠けるとされる未成年者にも選挙権を認めよという議論にならないのだろうか。これは明らかに矛盾だ。もちろん、だからといって成年被後見人の選挙権を認めるべきでないと主張するわけではないが、この矛盾に無自覚なのだとすればやはり問題だと思う。
戸波江二(1994)「在外日本国民の選挙権」『法学教室』162号42.
戸波江二(2013)「成年被後見人の選挙権制限の違憲性」『早稻田法學』88-4: 1-29.
有田伸弘(2009)「成年被後見人の選挙権」『社会福祉学部研究紀要』 12: 19-26.
高齢者は「大人」?
一方、成年後見制度自体は、年齢ではなく、個々人の能力にもとづいて権利制限を認定するしくみだ。仮にこれを年齢で一律に認定するとなったら、やはり強い反発を受けるだろう。しかしこれには当然コストや時間がかかる。申し立てに基づくものであることもあり、またイメージなどの点からハードルが高いのだ。
利用件数も急速な拡大が続いているものの、全体で2012年12月末で166,289人にとどまっており、3,000万人に達する規模の高齢者人口、そのうち1割を占める認知症の高齢者人口からみれば、決して多いとはいえない。
法務省「成年後見関係事件の概況-平成24年1月~12月-」
http://www.courts.go.jp/vcms_lf/koukengaikyou_h24.pdf
「認知症の高齢者、300万人超す 10年で倍増 厚労省推計」(日本経済新聞2012年8月24日)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2400T_U2A820C1MM0000/
認知症の高齢者が300万人を超えたことが24日、厚生労働省の推計で分かった。149万人だった2002年から10年間で倍増しており、65歳以上人口に占める割合は約10%になった。
高齢者の認知機能が加齢とともに低下していくのはよく知られた事実だ。もちろん大きな個人差はあるが、一般的な傾向として、認知症でなくても、判断力や記憶力は次第に衰える。そして、そうであるにもかかわらず適切な保護を受けていない人が少なくない現状は、実害を生んでいる。
たとえば「オレオレ詐欺」「母さん助けて詐欺」などの名で呼ばれる金融系の「特殊詐欺」の件数は、さまざまな啓発運動や関連諸機関などの取り組みにも関わらず、急速な拡大が続いている。そしてこれらの詐欺のターゲットが70歳以上の高齢者かつ女性に集中していることは、データからもはっきり見て取れる。これらがすべて認知症や認知機能の低下に起因するわけではなかろうが、関係がないとは考えにくい。
「【図解・社会】振り込め詐欺など特殊詐欺の被害額推移」(時事通信)
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikenfurikome
「特殊詐欺の認知・検挙状況等について(平成24年)」
http://www.npa.go.jp/sousa/souni/hurikomesagi_toukei2012.pdf
この他、高齢者に関しては、金融商品取引や通信販売など、さまざまな取引において、トラブルに巻き込まれる事例が数多く発生している。高齢者層は、明らかにこうした被害におけるハイリスクグループなのだ。
金融商品取引法などでは、「証券会社や銀行などの金融商品取引業者等が、顧客に対して有価証券・その他の金融商品の投資勧誘を行う場合には、顧客の投資に関する知識・経験および財産の状況、投資の目的を十分に把握するとともに、当該顧客の意向や実情に適合した勧誘を行わなければならない」といういわゆる「適合性の原則」を定めている。この問題では、事業者が説明義務を果たしたかどうかが主な論点となりがちだが、事業者側が顧客の知識や経験を把握するのは実際にはなかなか難しいとも指摘されており、事業者だけを責めるのもやや一方的であるように思われる。
国民生活センター「高齢者に多い相談」
http://www.kokusen.go.jp/jirei/j-top_koureisya.html
江原直子(2012)「金融商品取引業者の法的義務と民事責任についての一考察―説明義務と適合性原則を中心として―」早稲田大学審査学位論文(博士)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/37792/1/Gaiyo-5986.pdf
もし、子どもと大人を分けるように、年齢による一律の権利制限をよしとするなら、少なくとも被害が発生しやすい一定のタイプの商行為について、高齢者に対しては一律に現在レベル以上の制約を課す方向を考えることは、被害の増加や高齢化の進展を考えれば、必ずしも的外れなものとはいえないように思う。たとえば自動車運転免許については、高齢者は特別な講習の受講や予備検査が義務付けられている。これらは年齢によって一律に課されるから、自分は充分な能力があると主張して通るものではない。
もちろん、第三者に大きな被害をもたらしうる自動車運転免許と一般の商行為とは事情がちがうだろう。年齢で一律に制約を課すのはあまりに乱暴だという意見もあるかもしれない。しかし、個人差の把握は実際には難しく、本人の意志に委ねれば、保護が行き渡らない状況が生じることは、成年後見制度の利用状況や特殊詐欺の増加傾向をみれば明らかだ。
もし、個人差があるから権利の制約を行うなら能力差に応じて行うべき、というなら、何らかの試験的なしくみを一律に課すことによって、社会生活に必要な能力を有しているかどうか可視化するよう求めることは、現実に即したものとはいえないだろうか。こうした「大人試験」の導入を提言するのは暴論だろうか。
たとえば特殊詐欺に関しては、高齢者の銀行口座開設やカード発行に際して、何らかの試験を行うといった方法が考えられるかもしれない。金融商品取引についても、適合性の原則を機能させるために、同様の試験を課す考え方はありうると思う。上記の江原(2012)はドイツの例にならって、顧客側が知識・経験を偽った場合の事業者の免責を法定すべきと提言しているが、試験等によって能力の可視化を図ることも1つの対策になりうるだろう。
これらの場合、重要なことは、デフォルトを「試験を課す」方に置くということだ。こうしたトラブルの被害者へのアンケートでは必ずといっていいほど「自分が巻き込まれるとは思っていなかった」という答えが多数寄せられている。リスクを本人が事前に察知することはできないと考えるべきだろう。
ひとまわりして「子ども」に
干支が一巡する60歳は「還暦」と呼ばれる。生まれた時に帰るという意味を込めて、赤色の衣服(頭巾やちゃんちゃんこなど)を着る習慣がある。つまり、干支がひとまわりして、赤ちゃんに還る、ということだろう。赤ちゃんに還るのなら、そこから子ども時代が再び始まるわけで、子どもとして再び「学び」の時期に入るのも悪くないのではないか。
いっそ、金融や商取引に限らず、ひとまわりして「子ども」に戻った高齢者にもう一度、「義務教育」を受けてもらう、ぐらいのことをやった方がいいのかもしれない。もちろん内容は高齢者向けのものとすべきだ。古びた知識をリフレッシュして、老後を生き抜く知恵を授かって、試験で力を試すのだ。力があれば、再び「大人」として社会を担う存在になってもらえるといいし、そこまで至らなければ、必要なサポートを受けて、できる範囲のことをすればいい。それぞれの人が、その力に応じてそれを発揮できる機会を得られる社会になればよい。
以上、暴論終了。もちろんこれが実現するなどとはまったく思っていないが、少しでも考えるきっかけになればいいと思う。
今年もよい年でありますように。
サムネイル「Les Quatre Cents Coups」Paul Lowry
プロフィール
山口浩
1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。