実質賃金についてどのように考えるか?――「統計不正」と「実感なき景気回復」のあいだ

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毎月勤労統計(厚生労働省)をめぐる問題が大きな注目を集めている。この問題は「統計不正」という言葉で一括りにされることが多いが、統計処理の「不正」をめぐる報道には誤解もみられる。そこで、本稿ではこの問題について、実質賃金をめぐる議論を中心に論点整理を行うこととしたい。本稿の主たるメッセージは、

 

・この「不正」をめぐる問題は、統計調査の手続きをめぐる行政上の問題と統計データの処理そのものの問題を分けて議論するほうが話の見通しがよくなる。

 

・昨年(2018年)の実質賃金の伸び率(対前年比)に注目が集まっているが、18年の実質賃金の話はやや強調され過ぎというきらいがある。実質賃金が大きく下がったのは13年の年央から14年の春にかけてであり、その背景には円安と消費増税に伴う物価上昇がある。最近時点については、実質賃金はほぼ横ばいというのが実際のところだ。

 

・「戦後最長の景気回復にもかかわらず、景気回復が実感できない」ということの大きな理由は、景気の勢いそのものが弱いことに加え、実質賃金・実質所得の低下の影響を受けて14年春に実質消費が大きく落ち込み、その後も十分な回復がみられていないことにある。

 

というものだ。以下ではこれらの点について順を追ってみていくこととしよう。

(実質賃金の動向について関心のある方は「1.」をスキップして「2.」から読むことも可能です)

 

 

1.「統計不正」をめぐる事業仕分け

 

毎月勤労統計をめぐる今回の問題については、「アベノミクス偽装」「政権への忖度」といった視点から問題を政治的にとらえる向きもある。だが、これまでの経過を冷静にながめれば、基本的に関係行政機関の不適切な事務処理や関係者の不注意に帰せられる事案であり、この問題を理解するうえでは事業仕分けのような地道な作業が最もなじむ。

 

今回の問題をいくつかの局面に分けてみると、以下のようになる。

 

(1)調査方法の変更(全数調査からサンプル調査への移行)には総務省との調整が必要であるにもかかわらず、厚生労働省が適切な手続きを経ずに独自の判断で調査方法の変更を行ってしまった。

 

(2)調査方法の変更に伴って必要となる統計処理(母集団の状況を踏まえたデータの復元)が適切に行われなかったために、歪みのあるデータが公表され続けた。

 

(3)2018年1月分のデータから所要の統計処理(データの復元)を行った数値をもとにした調査結果の公表が行われるようになったが、その際に17年以前のデータについては復元の作業がなされず、元の誤ったままのデータが利用されたため、前年同月比の数値が不自然な動きになるなどの問題が生じてしまった。

 

(4)不適切な統計処理の問題が発覚するまで、統計の処理方法の変更が行われたことについての説明がなされなかったため、公表値における賃金の上振れはサンプルの入れ替えやベンチマークの更新の影響とされて、雇用情勢や景気動向の把握などに無用な混乱が生じる結果となった。

 

(5)「特別監察委員会」の調査報告書について、厚生労働省があたかも第三者機関による報告書であるかのような説明を行ったために、調査報告書の内容自体に疑念を抱かれるような状況が生じてしまった。

 

このうち(1)、(4)、(5)は関係行政機関や関係者の過失により、調査方法の変更について適正な手続きによる対応がなされなかったという行政運営上の問題であり((4)と(5)については虚偽の説明がなされたことが疑われる可能性も)、これに対し(2)と(3)は統計データそのものの取り扱いにおける不備の問題である。

 

両者はもちろん密接に関連するが、たとえば全数調査をサンプル調査で置き換えるという対応がなされたことへの評価はやや異なったものとなる。すなわち、総務省との調整を経ないまま厚生労働省が独自の判断でサンプル調査への移行を行ったことは、法令違反に当たる(あるいはそれを疑われる)事態であり、行政運営上の問題としては、このようなことはもちろんあってはならないことということになる。この意味ではサンプル調査への移行はまさに「不正」な行為だ。

 

これに対し、統計データそのものの問題としては、サンプル調査に移行したことよりも、調査方法の変更に合わせて適切な統計処理(復元)がなされなかったことのほうがむしろ問題となる。一部の報道ではサンプル調査に移行したこと自体が問題というような指摘もみられたが、家計調査(総務省)をはじめ多くの政府統計はサンプル調査をもとに作成されており、調査対象とする個人や企業について十分な人数・事業所数(企業数)が確保されていれば、サンプル調査によって統計を作成すること自体には特に問題がない(毎月勤労統計においても、従業員数が499人以下の事業所についてはサンプル調査をもとに統計処理が行われている)。

 

今回の事案は東京都の対象事業所のうち従業員数が500人以上の事業所について、本来であれば全数調査をすべきところ、サンプル調査による置き換えがなされ(調査対象となった事業所の数は本来調査すべき事業所の数の3分の1程度)、サンプル調査への変更後も適切な統計処理(母集団の性質に合わせて復元を行うこと)がなされてこなかったということが具体的な問題ということになるが、行政上の問題としては前者のミスが、統計処理の問題としては後者のミスが大きく問われることになる(問題が発覚したあとの対応については、より大きな責任が問われることになるかもしれない)。

 

このように「統計不正」の「不正」の内容をきちんと分けて冷静な環境のもとで議論を進めていくことが、この問題について見通しのよい議論をするうえで重要な留意点ということになる。

 

 

2.「実質賃金」はどのようにして求めるか?

 

毎月勤労統計をめぐる議論では2018年の実質賃金の伸び率がプラス・マイナスいずれだったのかということに注目が集まっている。この点について検討するための準備として「実質賃金」とは何なのか、どのように算出されるのかということについて簡単にまとめておくこととしよう。

 

毎月勤労統計は全国の3万3千ほどの数の事業所(実際は3万程度)を対象に、毎月の賃金や労働時間の状況などを調査して月次単位で公表を行っている重要な政府統計(基幹統計)である。このうち賃金のデータとして利用される代表的な指標が「現金給与総額」だ。現金給与総額は「きまって支給する給与(定期給与)」と「特別に支払われた給与(特別給与)」の合計額であり、事業所規模が5人以上の事業所を対象としたデータと30人以上の事業所を対象としたデータがそれぞれ公表されている(以下では事業所規模5人以上の事業所を対象としたデータを利用する)。

 

賃金について名目値と実質値が区分されるのは、支給される給与の額面(名目賃金)が同じでも、支給される時点の物価の状況によってお金の使いで(購買力)が異なったものとなるからだ。そこで、給与の額面(名目賃金)をそれぞれの時点の物価水準を考慮して調整する作業(実質化)が必要になる。実質化を行う際の物価のデータとしては消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)が利用され、名目賃金を消費者物価指数で割ることで得られる数値が実質賃金ということになる。 

 

 

3.3つの実質賃金を比べてみると?

 

それではこのようにして定義された実質賃金の推移を実際にながめてみることとしよう。現在、毎月勤労統計では従来の公表値(適切な統計処理を行っていないデータ)と再集計値(適切な統計処理を行った改定後のデータ)という2つの系列のデータが公表されている。最近の報道では「参考値」というものがよく登場するが、これは17年と18年に継続して調査対象となっている事業所(共通事業所)をもとにしたデータのことであり、参考値については名目額の前年同月比のみが公表されている。参考値についても従来の公表値と再集計値の2系列があるが、煩雑になるのを避けるため、ここでは再集計値のみを利用することとして、これを参考値(共通事業所系列)と呼ぶこととする。 

 

3つの系列(従来の公表値、再集計値、参考値)がいずれも利用できる2016年~18年の期間について実質賃金(対前年同月比)の動向をみると(図表1)、18年中については再集計値が従来の公表値をほぼ一貫して下回って推移している。これは18年の各月の賃金の比較対象となる17年の各月の賃金について、再集計値では従来の公表値よりも水準が総じて高めに出ることから、18年のデータを分子、17年のデータを分母として前年同月比を求めると、その分だけ伸び率が低くなるためである。

 

 

図表1 最近時点における実質賃金の推移

(資料出所)厚生労働省「毎月勤労統計」、総務省「消費者物価指数」より作成。

 

 

ではなぜ17年の賃金について、再集計値のほうが従来の公表値よりも賃金の水準が総じて高めに出ることになるかといえば、適切な統計処理の行われていなかった東京都の事業所(従業員数500人以上)の賃金が、他の道府県の事業所の賃金よりも総じて高いものとなっているからだ。

 

このため、適切な統計処理(復元)がなされてこれらの事業所の比重が高まると、その分だけ従来の公表値よりも17年の賃金の水準が上方修正されることになる。逆に言えば、不適切な統計処理が行われていた結果、従来の公表値では17年の実質賃金の水準が相対的に低めに算出されており、その結果、18年中の実質賃金の伸び率が見かけ上高めに出ていたということになる。

 

これに対し、16年と17年については、わずかではあるが再集計値における賃金の伸び率が従来の公表値の賃金の伸び率を上回って推移しているケースが多い。このような傾向は13年~15年のデータについても総じて同様に認められる。不適切な統計処理によって18年中の賃金の伸び率が上振れしたことについては、これを「アベノミクス偽装」と評する向きもあるが、もし仮にこのような見方が妥当であるとするならば(もちろん真偽のほどは定かでない)、13年から17年にかけては逆にアベノミクスを貶めるような方向のバイアスをもった統計処理が続けられてきたということになり、「偽装」を主張する場合にはこの点についても同様に指摘しないといけないということになる。

 

3つの系列の推移についてもうひとつ特徴的なことは、従来の公表値と再集計値の乖離よりも、再集計値と参考値(共通事業所系列)の間の乖離のほうが総じて大きく、データの時系列的な推移も異なった動きを示しているということだ。この点を踏まえると、統計処理の「不正」(データの復元を行っていなかったこと)によって生じた問題よりも、対象とする事業所の範囲をどのようにとるかのほうが、実質賃金の推移に対する見方により大きな影響を与えるということになる。【次ページにつづく】

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.267 

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