2012.12.11

「二つの悪」の悪い方と戦う ―― リフレーション政策と政策ゲームの変更 

矢野浩一 ベイズ計量経済学 / 動学的確率的一般均衡理論

経済 #デフレ#リフレ#ハイパーインフレ#インフレ期待#インフレ#流動性の罠

著者からの注釈:この小文は(この節の要約)だけを読んでも概要が理解できるように書かれているため、忙しい方はそこだけでも読んでいただければ幸いです。

 

「二つの悪」の悪い方

(この節の要約)この小文では「二つの悪の悪い方=デフレーション」と戦うための方策である「リフレ政策」について説明します。

「インフレが良いと言うのではない、デフレが悪なのである」

石橋湛山(エコノミスト・政治家であり、第二次大戦前から戦中にかけて反軍国主義の論調を貫いたことでも知られる。以下、湛山)は生前そう繰り返し述べたそうです(半藤一利「戦う石橋湛山」東洋経済新報社)。湛山は、昭和恐慌(後述)の惨禍を目の当たりにしたエコノミストの一人ですが、その彼が死去してから約40年。我々はまだ、この二つの悪(インフレとデフレ)との戦いを強いられています。

湛山の言葉を待つまでもなく、「インフレとデフレの両方が悪である」ということに疑問を持つ人は少ないでしょう。しかし、「デフレの方が、より悪い方である」ことを知っている人はあまり多くないかもしれません。現在では少なくなりましたが、筆者がいわゆる「リフレ派」の一員に加わった2001年当時は、「デフレは悪くない。むしろ良いことである」とする良いデフレ論を耳にすることも少なくありませんでした。

しかし、近年では新聞・雑誌・インターネット等で「デフレの弊害やデフレ脱却の必要性」が論じられ、その解決策として「リフレーション政策(以下、リフレ政策)」が取り上げられることも多くなってきました。とは言え「リフレーションとは何か」「リフレ政策とは何か」について明確に理解されているとは言いがたい状況です。

そのため、この小文では(1)デフレがなぜ「より悪い方」なのか、(2)そして、その「より悪い方=デフレ」と戦うための手法である「リフレ政策とはどのようなものか」について皆さんにご説明したいと思います。

インフレと貨幣価値

(この節の要約)インフレーション(以下、インフレ)とは貨幣(お金)の価値が低下することです。逆にデフレーション(以下、デフレ)とは貨幣(お金)の価値が上昇することです。

皆さんは「ハイパーインフレーション(以下、ハイパーインフレ)」という現象をご存知でしょうか?これは「1ヶ月で50%を超えるインフレーション」のことで、平たく言えば、1ヶ月で物価水準(経済における商品やサービスの全般的な価格)が1.5倍以上になることです(Caganの定義による)。1年(12ヶ月)を通じ見ると物価水準は約130倍以上になります。古くは1920年代のドイツ(ワイマール共和国)、近年ではジンバブエで発生したことが知られています。

ハイパーインフレが起こった場合、貨幣(特に紙幣)の価値はあっという間に低下してしまいます。つまり「紙幣がただの紙屑」になる訳です。それがマイルドなインフレ(たとえば年率2%から3%程度のインフレ)の場合は、「ゆっくりと貨幣の価値が低下していく」ことになります。逆にデフレ(商品やサービスの全般的価格の低下)とは貨幣(お金)の価値が上昇することを意味します。

デフレが経済を蝕む

(この節の要約)デフレとは「現金・預金をただ保有する人」にとって得な状況であり、逆に「今、働き収入を得ている人」にとっては不利な状況(給料が低下する)です。つまり、デフレは経済活動を停滞させます。

前節の「インフレと貨幣価値」の知識があれば、インフレ(やハイパーインフレ)の場合は「現金をただ保有する」人が愚かであることは明らかでしょう。なぜなら、マイルドなインフレの場合、「現金をただ保有する」だけだとその価値が徐々に下がってしまうからです(ハイパーインフレの場合、貨幣価値は急激に低下します)。逆にデフレとは「現金・預金をただ保有する人」にとって得な状況であることも自明でしょう。なぜなら、デフレの場合、「現金をただ保有する」だけでその価値が徐々に上昇するからです。

また、デフレ下では給与も低下していくことが知られています。デフレとは「商品やサービスの全般的な価格低下」であり、「サラリーマンやOLである自分にとってはうれしいこと」と思っている人もいるかもしれません。しかし、実は働いている皆さんは日々「自分の労働力を会社に売って、その対価として給与を得ている(皆さんは会社に労働というサービスを売っている)」訳ですから、当然、「デフレでサービス価格が低下する」=「皆さんの給与は下がる」わけです。

まとめると、デフレとは「現在、既に現金・預金を保有している人」にとって有利な状況であり、逆に「今、そしてこれから働き収入を得る人」にとっては不利な状況(給料が低下する)です。言い換えるとデフレ経済においては、「既に現金・預金を保有している人」はどんどんと(何もしなくても)豊かになり、「今、そして、これから働く人達」はどんどんと貧しくなる経済です。

つまり、デフレは経済活動(皆さんの日々の仕事)を停滞させます。なぜなら働く人よりも現金・預金を持ってじっとしている人のほうが得な状況だからです。

インフレ期待の重要性 ―― クルーグマンの提案

(この節の要約)インフレターゲットを使ってデフレ脱却を行うという方法はポール・クルーグマン(2008年ノーベル経済学賞・アメリカ民主党の熱狂的な支持者としても知られる)によって1998年に提唱されました。

クルーグマンは「日本経済のデフレ脱却には『現在の貨幣発行量増加は効果がなく』、将来の貨幣発行量の増加が信認されることが重要である」と論じました(著者の意見の大半はクルーグマンの分析と「昭和恐慌の研究」(後述)に依拠しています)。なお、「現在の貨幣発行量増加による(デフレ脱却や景気浮揚)効果がなく」なるような状態を「流動性の罠」もしくは「ゼロ金利制約」といいます。

そして、彼はデフレ脱却の手法として「インフレーションターゲット(インフレ目標)」の採用を提案しています。彼の分析によればデフレから脱却するには「インフレ期待(インフレ予想)」が重要であり、将来の金融緩和が人々に信用されればデフレからの脱却は可能となります。

なお、言うまでもないことですが、クルーグマンは「流動性の罠」もしくは「ゼロ金利制約」からの脱却にはインフレターゲットだけではなく財政政策を併用することも重要であると指摘しています。

リフレーションとは何か

(この節の要約)リフレ政策とは『インフレターゲット+無制限の長期国債買いオペ』のことです。ただし、無制限の長期国債買いオペはデフレから脱却するまでの限定された期間に実施されるだけであり、デフレから脱却した後は通常のインフレターゲットに移行します(デフレ脱却時点で無制限の長期国債買いオペは終了します)。

「インフレ期待(インフレ予想)が重要である」というクルーグマンの分析を受け、さらに1930年から1931年にかけて日本で発生した昭和恐慌の研究を踏まえ、2004年に発行された「昭和恐慌の研究」(東洋経済新報社)の中で「リフレ政策」は提案されました(なお、「昭和恐慌の研究」は2004年度の日経・経済図書文化賞を受賞しています)。その記述によれば:

「本書の筆者たちは、『インフレ目標政策+無制限の長期国債買いオペ』をリフレ政策と呼んでいる」(p. 300)「リフレーション政策(リフレ政策)とは『物価水準を貸し手と借り手にとっての不公正を修復する水準まで戻す政策』と定義される。」(p. 301)

「クルーグマンが提案する4%のインフレ経路を選択する場合には、2%のインフレ経路の場合の目標物価水準に到達するのは、6年10ヶ月後の2010年4月である。これまでの期間がリフレ政策になり、その後は通常のインフレ目標政策になる」(p. 302)pp. 300-302

強調すべきことは、無制限の長期国債買いオペはデフレから脱却するまでの限定された期間に実施されるだけであり、デフレから脱却した後は通常のインフレターゲットが実行されるだけである(デフレ脱却時点で無制限の長期国債買いオペは終了する)点です。特にリフレ政策は「何が何でもとにかく無制限の長期国債買いオペを提案している」とよく思われているようですが、それは大きな誤解です。

また、リフレ政策は「昭和恐慌の研究」で「インフレターゲット+無制限の長期国債買いオペ」と定義されましたが、財政政策の併用を妨げるものではありませんし、リフレ派の中には財政政策積極派は少なくありません。

インフレ期待と日銀法改正 ―― 政策のルールを変える

(この節の要約)1998年の日銀法改正以後、14年に渡ってデフレが続いたことは、現在の日銀法に欠陥があることを示唆しています。日銀法を改正し、インフレターゲットを導入する、つまり政策のルールを変えることが重要です。

さらに「昭和恐慌の研究」では政策レジーム(日銀が取る戦略やルール)の変更が必要であると提唱しています。なお、この政策ルールの変更という考え方はニューヨーク大学のトーマス・サージェント教授によって始まり、現代マクロ経済学の基礎になっています(サージェント教授は2011年ノーベル経済学賞受賞者)。

政策レジームとは「政府・日銀が政策を実行する上で守っている戦略やルール(複数形)」のことで、政策レジームの変更とはそれらの「(政府・日銀の)戦略やルールを変えること」を意味します。サージェントは「政府・日銀(中央銀行)がある戦略やルールに従って行動している時、民間部門(日々働く皆さんや会社)はそれに反応して行動する」というゲーム理論の考え方を応用しており、「昭和恐慌の研究」ではそれを採用してリフレ政策が提言されました。

1998年の日銀法改正以後、14年に渡ってデフレが続いたことは、現在の日銀法という政策レジーム(日銀が取る戦略やルール)に欠陥があることを示唆しています。特にデフレ脱却に失敗しても日銀に課されるべき罰則は存在しないため、「デフレ脱却しなくても(日銀にとっては)何も支障がない」というルールになっています。そのため、日銀が「デフレ脱却に積極的にならない」という戦略を取ることは極めて自然であり、それは日銀の責任ではなく、彼らを責めるのも適切とは言えません。

むしろ重要なのは(現代マクロ経済学が示すように)デフレ脱却とインフレの安定化には政策レジームの適切な変更・選択である考えられます。つまり日銀法を改正し、インフレターゲットを導入する、つまり政策ゲームのルールを変えることが重要です(なお、余談ですが、サージェント(と共同研究者ハンセン)が提案した”シュタッケルベルグ解”を用いてゼロ金利制約とデフレ脱却について分析した論文にYano (2012)があります)。

今まさにデフレ脱却に向けて「政策レジームの変化(政策ゲームのルール変更)」が求められています。

まとめ

この小文では、(1)インフレは貨幣(お金)の価値が低下すること、デフレはその逆、(2)デフレでは「ただ何もせずに貨幣を持ち続けている人が強い」、つまり経済が停滞する、(3)リフレ政策とは(元々は)『インフレターゲット+無制限の長期国債買いオペ』を意味する(ただし、無制限の長期国債買いオペはデフレから脱却するまでの限定された期間に実施されるだけ)、(4)デフレから脱却するには「中央銀行に新しい政策ルールを与えてやる必要がある(つまり、日銀法改正を通じた政策レジームの変化)」が必要、以上の4点を解説させていただきました。

結論:今こそ「二つの悪の悪い方=デフレーション」と戦うための方策である「リフレ政策」の実行が必要です。

[著者による注釈] この小文では「自然利子率の低下」や「インフレ期待の上昇を通じたマイナスの期待実質金利」等の重要なテーマが抜けていますが、その解説には大幅な紙数が必要であるため、別の機会としたいと思います。

 

参考文献

岩田規久男編著(2004)『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社)

Economist, (2009), “The greater of two evils: Inflation is bad, but deflation is worse(「2つの悪の悪い方」),” http://www.economist.com/node/13610845.

Krugman, Paul R., (1998), “It’s Baaack: Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap,” Brookings Papers on Economic Activity, Economic Studies Program, The Brookings Institution, vol. 29(2), pages 137-206.

Sargent, Thomas J. , (1982), “The Ends of Four Big Inflations,” NBER Chapters, in: Inflation: Causes and Effects, pages 41-98 National Bureau of Economic Research, Inc.

Yano, Koiti, (2012), “Zero Lower Bounds and a Stackelberg Problem: A Stochastic Analysis of Unconventional Monetary Policy,” Available at SSRN: http://ssrn.com/abstract=2031586 or http://dx.doi.org/10.2139/ssrn.2031586

プロフィール

矢野浩一ベイズ計量経済学 / 動学的確率的一般均衡理論

1970年生まれ。駒澤大学経済学部准教授、内閣府経済社会総合研究所客員研究員。総合研究大学院大学博士課程後期修了。博士(統計科学)。専門はベイズ計量経済学と動学的確率的一般均衡理論。

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