大学生は多過ぎるのか、大学に行く価値はないのか?

近年、日本を含めた先進諸国で、大学生の数が多過ぎるのではないか、という議論が盛んに行われている。たとえば、アメリカでは学費の高騰に加えて、奨学金枠を縮小して教育ローン枠へと転換させようという流れも相まって、教育ローンを返済できないことによる自己破産が社会問題化し、大学生の数が多過ぎるのではないかという議論が盛んに行われるようになった。一方日本でも、提案型政策仕分けをはじめ、メディアでも大学生は多過ぎるのではないかという議論が取り上げられている。提案型政策仕分けでこの議論が取り上げた背景には、18歳人口の減少、財政赤字拡大に伴う公教育投資へのプレッシャー、大学生の学力低下、のおもに3点があげられている(http://sasshin.go.jp/shiwake/detail/2011-11-21.html#A2)。

 

しかし、日本で行われているこの議論はすべて誤りを犯している。その理由として、第一に、教育は経済発展のための人的資本投資であること、経済発展とともにより高度な教育を受けた労働力が必要となり、高度な教育を受けた人材が経済発展を推し進めることを無視している。18歳人口が減少しているから大学生の数も減らせば良いという考え方は、失われた20年と形容され経済が発展しなかった近年の日本では皮肉にも妥当性をもってしまうのかもしれないが、経済発展することを放棄しているのも同然であり、近年目覚ましい経済発展を遂げている国々がいかに人的資本投資を重要視しているか学ぶ必要がある。第二に、教育の量の拡大期には、それまでその教育段階に行けなかった低学力または低所得者層出身の学生が流入するので、平均が落ちてしまうのは仕方がないことがある。これを問題視して教育の量の拡大を止めてしまっては、いつまでたっても教育開発は進まない。

US NewsNY Timesの記事の中で、アイビーリーグで教鞭を執られている教育経済学者の先生方も主張しているが、ある教育段階が過剰であるかどうかは、「教育を受けるために支払ったコストに対して、教育を受けたことから得られるベネフィットがどれぐらいあるのか」を計算したものである「教育の収益率」からしか判断することはできない。つまり、大学教育を受けさせるために支払ったコストが、大学教育を受けさせたことで得るベネフィットに見合うか否かでしか、大学生の数が過剰かどうか、大学に行く価値があるのかどうかを判断できない。このことについて本稿では検討していこうと思う。

 

 

人的資本論・スクリーニング仮説から見る教育の私的・社会的収益率の考え方

大学生の数が多過ぎるか否かは、大学教育を受けさせるために支払ったコストが、大学教育を受けたことにより生じるベネフィットを上回るか否かでしか判断できないと言ったが、教育のコストとベネフィットがどのようなものであるかは、人的資本論とスクリーニング仮説の二つの見方が存在する。

人的資本論とは、アダム・スミスの時代から議論されてきた考え方で、教育を「人的資本を蓄積するための手段」として捉えている。つまり、ある個人に教育を施すことによって、その個人の生産性が上昇し(人的資本が蓄積され)、その個人の所得が上昇する。そして個々人の所得の上昇によって国のGDPが上昇し(経済成長が起こる)、ひいては経済発展をもたらすという考え方である。この考え方の下では、高卒と大卒の賃金差は、大学教育によってもたらされる初期の人的資本の差異や学習可能性(learnability)の差異によってもたらされることになると考えられている。

人的資本論の考え方の下では、教育のコストは、直接費用、間接費用(放棄所得)、政府支出に分類される。直接費用はおもに学費で、間接費用は教育を受けずに働いていた場合に得られたであろう賃金(放棄所得)である。教育を受けようが働こうが衣食住にはお金がかかるものなので、教育を受けている間の生活費等はコストとしては計算されない。政府支出の代表格は大学教育においては私学助成金であろうが、政府が出す奨学金や無利子教育ローン(*1)の有利子との差額も、政府が出す補助金に含まれる。

 

(*1)本稿では返済の必要がないものを奨学金、返済の必要があるものを教育ローンと呼ぶ。市場金利よりも低い金利や無利子で貸し出される教育ローンには、その分だけ奨学金の要素があるので、教育ローンに関してこの点も明確に区別して言及する。

 

教育のベネフィットは、私的なものと社会的なものの二つに分類することができる。ある教育レベルの私的な教育のベネフィットは、おもにその教育段階を受けた当事者と、その前段階の教育しか受けていない労働者の税引き後の賃金差であると考えられている。つまり、大学教育の私的なベネフィットは、大卒労働者と高卒労働者の税引き後の生涯収入の差である。一方、ある教育レベルの社会的なベネフィットは、私的なベネフィットに、その教育段階を受けた当事者が納めた税金の額と、その前段階の教育しか受けていない労働者が納めた税金の額の差が加わったものであると考えられている。つまり、大学教育の社会的なベネフィットは、大学教育の私的なベネフィットに、大卒労働者と高卒労働者の納税額の差を加えたものである。

 

 

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しかし、教育の私的ベネフィット・社会的ベネフィットは賃金差、納税額の差ように、直接金銭で表すことができるものに留まることはない。直接金銭で表すことができない教育のベネフィットとして実証されているものには、次のようなものがあげられる。同じ資金制約の下であってもより最適な消費行動を選択できるようになる能力・健康管理能力の差がもたらす医療費の差、犯罪関与率の減少による直接的/間接的コストの減少、より効果的な民主主義の実施・生活保護/失業手当などの政府支出の削減、である。

人的資本論の考え方の下では、教育に対する政府への介入が重要になる。第一に、個人が教育投資を行う際、社会的ベネフィットは当然ながら考慮されずに判断が行われる。ゆえに、教育投資を完全に家計に任せてしまうと、社会的なベネフィットの分だけ、社会全体で行われる教育投資が社会的に望ましい水準よりも過小投資になってしまう。第二に、教育投資のベネフィットは、その後40年以上にわたって回収される長期的なものであるが、現時点での資金制約によって、教育投資が行えないケースが存在する。これも教育投資を社会的に望ましい水準よりも過小な状態に留めてしまう。

第三に、とくに親の学歴が低い場合、子が親の受けていない教育段階のベネフィットを理解することが難しい。とくに教育開発が急激に進む段階で顕著に発生するが、これも社会的に望ましい水準よりも過小な教育投資の要因となる。将来、失業手当・生活保護を受け取る可能性が高い子どもを、教育によって所得税を納められるように押し上げる、という具体例が分かりやすいかと思われるが、教育のベネフィットは低学力層の子どもで大きいことが近年確認されつつある。つまり、人的資本論の考え方の下では、低学力層、教育投資に当たって資金制約に直面する層、親の学歴が低い層、にとくに政府が介入することが求められる。

一方、スクリーニング仮説は、1970年にバーグが出版した本を皮切りにノーベル経済学賞受賞者のスペンスらによって洗練されてきた考え方で、人的資本論とは異なる視点から教育のコストとベネフィットを考えている。スクリーニング仮説は、教育を「人材選抜を行い、情報の非対称性が存在する労働市場においてその人物の能力のシグナルとなる卒業証書を付与するもの」として捉えている。つまり、生産性の高い人材ほど高い学歴・学校歴を獲得できるという選抜(スクリーニング)が教育システムによって行われるため、労働市場において雇用者と被雇用者の間に存在している被雇用者の能力に関する情報の非対称性に対して、学歴・学校歴が被雇用者の能力のシグナルとして機能する、という考え方である。

教育のコストに関して、スクリーニング仮説は人的資本論とまったく同じ考え方をする。しかし、スクリーニング仮説の考え方の下では、教育は人的資本を増加させることなくただスクリーニングを行い、教育を受けた個人にシグナリングを付与するだけのものなので、社会的なベネフィットはほとんど無い。

話はやや脇道にそれるが、なぜ教育そのものが社会に対してベネフィットをもたらすわけではないのに、スクリーニング仮説の考え方の下でも教育に対して需要が発生するのかを具体例を用いて説明する。スクリーニング仮説の下では、自分の生産性に関するより正確なシグナルを得ることによって、労働市場でより高い賃金を得ることを目的に、人々は教育に対してコストを費やす。

分かりやすくするために、人の生産性を数値化した、きわめて単純な事例を考えてみる。54の生産性を持つが、得た学歴・学校歴のシグナルが50-55とやや幅をもったAという人物がいるとする。このとき、雇用者が50-55の平均である52.5をAの能力であるとして賃金を支払ってしまうのであれば、Aは真の自分の生産性よりも低い賃金しか受け取れなくなってしまう。この賃金が低くなってしまう分だけ、Aにはより自分の能力を正確に反映できる学歴・学校歴を取得するために、教育にコストを費やすインセンティブが発生する。このような作用によって、スクリーニング仮説の考え方の下でも、教育そのものが生産性を向上させるわけでもないのに、人々は教育にコストを費やすこととなる。

スクリーニング仮説の考え方の下では、政府の教育に対する介入はほとんど正当化されない。人々に教育を施してもGDPが上昇するわけではなく、教育はただ企業の人材選抜コストを縮小させる働きしか持たないので、人的資本論の考え方と比較して、つまり、スクリーニング仮説の考え方の下では、教育に費やされるコストはほとんど経済発展を生み出さない浪費となるので、政府は教育に介入する必要はない。

しかし、スクリーニング仮説はその実証の難しさも相まって、人的資本論と比べて査読付きのアカデミックジャーナルで実証されたものはきわめて少ないうえに、アメリカで使用されている教育経済学の教科書でも数ページしか扱われず、Handbook of the Economics of Educationに至っては取り扱ってすらいない。たしかに日本の大学教育の成果を考える際にも、現実は人的資本論とスクリーニング仮説が折衷していると考えるのが妥当ではある。しかし、現在の日本では教育サービスが無償ではないために、スクリーニングが本人の能力だけではなく家計の資本制約によっても起こってしまっており、スクリーニング仮説の影響力は人的資本論よりも限定的であると考えられる。このため、本稿でも比較的人的資本論に立脚した議論を進めてゆくこととする。

 

 

 

 

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