2017.12.13
司法における「ブラック校則」問題と、これからの政治の役割
ブラック校則をめぐる悲鳴
法や規則というものは、さまざまな背景を有する人が存在する社会において、その多様性を尊重し、個人の尊厳を守るために存在する。ルールを作るということは、社会秩序を守ることそれ自体が目的ではなく、ルールを制定するという手段によって、各個人の権利を守るものだ。ペナルティ等は、あくまでそのための一手段、それも最終手段にすぎない。しかし実際には、合理性が認められないルールが温存され、「ルールはルール」として人を不当に抑圧や排除をし、場合によっては懲罰を課すというような事態も起こりうる。
本稿は、最近インターネット上などで話題になっている「ブラック校則」について取り上げる。「ブラック校則」とは、子どもの健康や尊厳を損なうような、近代的な市民社会では許容されないような理不尽な学校内のルールのことを指す。
筆者らはtwitter上で「#ブラック校則」というハッシュタグを用い、「かつて子どもだった大人たち」を中心に、実際に経験した理不尽な校則の事例を収集した。そこに集まってきたのは、髪の毛の色や長さ、地毛証明、下着チェックなど、身だしなみに対する過度な制約や、水分補給の禁止、給食を食べ終わるまで放課後になっても居残りさせること、果ては学内恋愛の禁止や防寒対策の禁止まで、さまざまな事例だ。
これらの中には、「校則」として明示されているもののみならず、明示がなくても、学校の雰囲気として、あるいは校長や担任などの裁量によって、「当然のルール」として機能しているものも含まれている。
「ブラック校則」に関する話題は、最近報道されたひとつの事件に端を発している。その事件とは、生まれつき地毛の色素が薄いにもかかわらず、黒髪を強要されたことを苦痛に感じ、不登校になってしまったと訴える大阪府立高校の生徒が、府に対して損害賠償請求を行ったというものだ。
これは特異な事例というわけではなさそうだ。2017年4月、朝日新聞が行った調査報道によれば、東京の都立高校のうち、約6割の高校が、生徒が髪の毛を染めたりパーマをかけたりしていないかを確認するため、一部生徒に「地毛証明書」を提出させていることが分かっている。
地毛証明は、生徒の「黒くまっすぐな髪ではない」という身体的特徴に着目し、自己申告させるものであり、当該生徒が「他と異なる」ことをことさらに強調してしまう。「申告しなければならない生徒」の心情に対する配慮を著しく欠くものだ。同時に、本来生徒を守る立場にあるべき学校が、生徒に不当なレッテルを貼るにも等しく、からかいや排除を助長させる可能性からしても問題である。
校則は、これまで学校が子どもを「管理」するために活用されてきた。もちろん、すべての校則が不要であるわけではないし、学校にも広い裁量は必要だ。だが、校則が不当な抑圧や排除のツールとして機能し、子どもの人権を侵犯するようなケースがあるのであれば、それは是正されなくてはならない。
また、しばしば、厳しい校則が教育的効果と結びつけて論じられることがある。しかし、その効果は、個人の経験則にもとづくものが多く、学術研究等にもとづくものはきわめて少ないと感じる。子どもの人権に対して制約を課す以上は、適切な根拠にもとづく校則の運用が必要であり、これにもとづかないで行われる厳しい制約は見直されるべきだろう。
「社会に出たら理不尽なことがたくさんある、だから子どものうちから理不尽なことに慣れなければ、温室育ちでダメになる」という主張をよく聞く。この理屈にはいくつも問題がある。学校は、社会で適切に生きていくための能力を培う場所である。社会にはさまざまな理不尽があるが、そこで必要なのは、そうした理不尽さに慣れ、過剰適応し、疑問を抱かないようにすることではない。
本来必要なのは、理不尽さに疑問を抱き、そこから距離を取り、改善を求めるような力である。そのため、「社会に出たら理不尽なことがたくさんある、だから子どものころから理不尽さにNOを言えるようにし、同時に大人たちが理不尽さをなくすように取り組んでいこう」と主張すべきであろう。
校則に関わる判例
今回の裁判だけではなく、これまで何度も、不当な校則やそれに基づく処分について争われてきた。司法がこれまでどう判断してきたのか。以下に、代表的な判例をいくつか紹介する。
熊本丸刈訴訟(熊本地判1985.11.3判時1174号48頁)
男子生徒に丸刈を強制する公立中学校の校則が問題となった事件。熊本地裁は、「本件校則の合理性については疑いを差し挟む余地のあることは否定できない。」としながらも、同校則に従わない場合の懲戒処分が訓告の措置にとどまることなどをあげ、「丸刈の社会的許容性や本件校則の運用に照らすと、丸刈を定めた本件校則の内容が著しく不合理であると断定することはできない」とした。
私立高校パーマ退学訴訟(最判1996.7.18 判時1599号53頁)
高校卒業の間際に校則に違反して普通自動車運転免許を取得し、その罰としての早朝登校期間中にパーマをかけたことなどを理由として、学校が生徒に自主退学するよう勧告したことの適法性が争われた事件。最高裁は、「私立学校は、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針によって教育活動を行うことを目的とし、生徒もそのような教育を受けることを希望して入学するものである。」とした上、当該高校が教育方針を具体化するものの一つとして校則を定めていることや、パーマの禁止が「高校生にふさわしい髪型を維持し、非行を防止するため」であることに鑑み、本件校則は社会通念上不合理なものとはいえず、民法1条、90条に違反しないとした。
大阪カラーリング訴訟(大阪高判2011.10.18判例地方自治357号44頁)
公立中学校で染髪をしていた女子生徒が、保健室において、教師数名に髪を黒く染めなおさせられたことが体罰に当たるなどとして、親が市に対して損害賠償請求した事件。大阪高裁は、本件染髪行為が教員の生徒に対する有形力の行使であったことを認めながらも、本件染髪行為が当該生徒の任意の承諾の下に実施されたことに加え、「その目的、態様、継続時間等から判断して、教員が生徒に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではな」いから、学校教育法11条ただし書にいう体罰には当たらないとした。
商業高校バイク謹慎事件(高松高判1990.2.19判時1362号44頁)
原付免許取得に関し、「免許試験を受けるには学校の許可を得ることを要する。学校の定める地域外の生徒には受験を許可しない。」との校則がある学校において、当該「学校の定める地域外」の生徒が、学校に無断で原付免許を取得したことに対し、無期自宅謹慎処分が課されたことの適法性が争われた事件。
高松高裁は、原付免許を取得する権利について、憲法13条が保障する国民の私生活における自由の一つとして、高校生の原付免許取得の自由を全面的に承認すべきとしながらも、「高等学校程度の教育を受ける過程にある生徒に対する懲戒処分の一環として、生徒の原付免許取得の自由が制限禁止されても、その自由の制約と学校の設置目的との間に、合理的な関連性があると認められる限り、その制約は憲法一三条に違反するものでないと解すべきである。けだし、高等学校における生徒の懲戒処分は、生徒の教育について直接に権限をもち責任を負う校長や教員が、学校教育の一環として行うのであり、処分の適切な結果を期待するためには、学校内の事情はもとより、生徒の家庭環境を含む学校外の教育事情についても、専門的な知識と経験を有する処分権者の広範な裁量に委ねるのが相当であると認められるからである。」とし、学校が謹慎中も生徒に教科指導を行ったことや2週間で自宅謹慎処分を解除したことなども考慮して、当該処分を違法でないとした。
じつは、校則を誰がどのように定めるのか、どうして学校側が生徒側に校則を強制しうるのかという点について、直接的にこれを根拠づける法令は存在していない。学校と生徒との関係を特別な権力関係であると考え根拠づける説や、学校設置者と生徒・保護者の間に在学契約があると考える説などさまざまあるが、各判例がどの考え方を採用しているのかは一義的には明確でない。
つまり、現在の学校現場では、法的に明確な根拠のないまま、子どもたちの基本的人権を校則によって制約しているということである。かかる現状に対しては、不明確な根拠にもとづいて憲法上保障された権利に強い制約を課すことは困難であるとの批判や、子どもの権利条約との関係から慎重な検討を要する旨の声などがあがっている。1994年に批准した子どもの権利条約では、表現の自由等の市民的権利の行使に対する制約を子どもに行う場合を法律によって定めるときに限っているからである(同条約13条2項、14条3項、15条2項)。
法的根拠を持たないということは、校則の内容を教育現場に漠然と委任しまうことにもなりかねず、校則が生徒を不当に抑圧・排除する手段として用いられる可能性を高めてしまう。そして、同時にかかる現状は、こうした不当な抑圧・排除を抑止するために、司法がきわめて大きな役割を担っていることを意味する。
にもかかわらず、上記判例から見て取れるように、これまで司法は、「ブラック校則」問題の解決にきわめて消極的であるばかりでなく、学校側に広い裁量を認めるかたちで、子どもたちの人権が制約される点について「不合理ではない」または「著しく不合理とはいえない」としてきた。
これは、司法がこれまで教育現場の専門性を尊重してきたと見ることもできるが、他方で、幾度も教育現場に一石を投じ、不当な抑圧・排除を抑止する機会があったにもかかわらず、これがなされてこなかったと見ることもできる。これには、ただただ残念というほかない。
他方、学校側の違法性を認めた判例がないわけではない。次の事例は、そのうちのひとつである。
・私立高校バイク退学処分事件(東京高判1992.3.19判時1417号40頁)
校則に違反してバイクの免許を取得し、乗車していたことが発覚したことを受け、退学処分としたことの適法性が争われた事件。「退学処分は、生徒の身分を剥奪する重大な措置であるから、当該生徒に改善の見込みがなく、これを学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って選択すべき」であり、とくに人格形成途上にある高校生の場合には慎重な配慮を要するとした上で、当該生徒が学校生活上問題のある生徒ではなかったことやバイク乗車の事実を素直に認めていた事実を考慮すれば、本件処分は「いささか杓子定規的で」教育的配慮を欠いており、合理的裁量の範囲を超えた違法な行為であるとした。
かかる判例は、教育現場に対し、「たとえ校則違反があったとして慎重な配慮なく退学処分としてはいけない」という線引きを行ったという点では大変意義がある。ただ、校則によるバイク規制そのものについては、それが教育目的に関連することや、全国的に行われて多くの父母の支持を得ていることなどを理由に「社会通念上十分合理性を有している」としており、基本的な姿勢は上述した判例とほぼ同じといえる。
では、そもそも「社会通念上の合理性」とは何か。現在でも免許を取得したことで退学させられることを、「当たり前」だと感じる人はいるかもしれない。しかし、暴走族などが盛んで「バイク=非行」と考えられていた時代と現在とではバイクに対する「一般人」の感じ方は大きく異なるだろう。社会通念は、時代とともに変遷していくものだ。判決当時に合理性があったとしても、現在でも合理性を有するとは限らないということに注意する必要がある。「前例だから」といってルールの見直しを怠るようなことはあってはならない。
これまでの判例を見る限り、司法の力だけで、ブラック校則や理不尽な指導が教育現場からなくなるということはないだろう。しかし、かかる私立高校バイク退学処分事件の例のように、司法には「これ以上は行き過ぎてはならない」と線引きする力がある。それは、子どもへの抑圧に対する大きなブレーキとなる。冒頭で触れた大阪府立高校の生徒の事件において、ひとまずは司法がその役割を果たしてくれることを願っている。
それと同時に、司法以外の役割も重要だ。いま求められているのは、国会と行政の役割である。曖昧な位置づけで、不可思議な校則が多数生まれているのであれば、すべきことは簡単だ。(1)ブラック校則についての実態調査を行ったうえで(2)省令等により、不当な校則の是正を促しつつ、(3)校則の法的な位置づけについて国会で議論をし、(4)子どもの人権に配慮したうえで、適切な発達を促すための環境についての現代的議論を広げていく、ということである。
ただし重要となるのは、「一部の人で制度を変えられればそれでいい」ということではない。ブラック校則が広く温存されているのは、司法や政治の問題だけではなく、それを是認してきた世論があるからだ。かかる世論が上述の「社会通念」を形成している。その点、今回のようにブラック校則がインターネット上で話題になるなど、「かつての子どもたち」が声を上げ始めたことは、事態をより良い方向に導くのではないかと思う。
何かおかしいと気づいた人々が少しずつでも動いていくことで、学校や教育行政に関わる人々の意識は変わっていくだろう。また、他の教育問題でもそうであるように、教員の側にもまた、ブラック校則を子どもたちに「守らせねばならない」として、見回りや指導など、不必要な仕方で労働時間を奪われているケースもあるだろう。社会で通用しないルールが、学校内でのみ聖域化され、横行していることに日々葛藤している先生方も多いと聞く。
たんに何かを悪者にするのではなく、これからの適切な教育の在り方を構想する。そうした議論が広く求められている。私たち「NPO法人 ストップいじめ!ナビ」も、こうしたブラック校則の問題について実態調査を行いつつ、その是正に向けてのアプローチを行っていく所存である。
参考文献
姉崎洋一ほか『ガイドブック教育法 新訂版』三省堂
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プロフィール
真下麻里子
早稲田大学教育学部を卒業し、
荻上チキ
「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。