シャルリ・エブドという最悪の事態を生まないために必要なこと

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ここ数日で私たちは、かろうじて残っていた純朴さとまではいわないまでも、かすかな希望を失ってしまった。イスラム過激派の活動が遠い海外の出来事ではないことは、前から知らされていた。それが単なる脅威ではなく現実のものであったこと、すぐ近くまで押し寄せていたことも知っていた。武装イスラム集団(GIA)のテロから15年以上が経ってから、2012年3月にモントーバン市とトゥールーズ市で起きたモハメド・メラによる警察官と学童の射殺事件は、フランス本土における新たなタイプのジハーディス・テロの最初の警告となった。

 

フランス人がこの事件に震撼したのは確かだ。しかし反応はそれ以上のものではなかった。というのも、このテロの標的となったのはイスラム教徒とユダヤ人で(この事件の恐ろしい本質を物語っている)、多くのフランス人は事件を外部の紛争の延長と見なしたからだ。この事件に対する相対的に抑制された反応も、モハメド・メラという「ローン・ウルフ」を迅速に排除できたこともあって、早々に忘れ去られるに至った。それは不公平な態度であり、同胞の犠牲者(トゥールーズの事件では子供が犠牲者だった)にみせる態度としても不適切極まりないものだった。

 

しかし、今回のテロは事情がまったく異なった。シャルリ・エブドの編集者、職務中の警官、ポルト・ドゥ・ヴァンセンヌの食品店人質事件でのユダヤ人の死は、全国的な、大規模な、多くの注目が集まるような国民的な覚醒をもたらした。わずか数日で、フランスは時代の悲劇の渦に巻き込まれたのである。無自覚や無頓着は、もはや通用しない時代を迎えた。

 

テロの起きた週末に行進した群衆が一致団結したことは、被った衝撃の深刻さのみならず、国民のうちにテロが意識化されたことを物語るものだった。自らの考えに従ってデモに参加した者もいれば、各国首脳のように、それぞれの思惑を優先した者も確かにいた。しかし私たちは、テロリストなど怖くないと宣言し、同時に犠牲者を追悼するために行進したことは疑いない。

 

テロの悲劇と続くデモ行進は、私たちがいかに多くを背負うことになったのかを明らかにした。わたしたちは、正しい選択をしなければならない、危機的な時代を生きている。最悪の事態を再び起こさないため、人々は「その後」を作るため協働し、それぞれが貢献することだろう。だから、これから指摘する問題は、わたしたちが体験した惨事と比較すれば副次的なものかもしれない。しかしそれがかなり前から、とくに左派がなおざりにしてきた問題だとすれば、取り上げるのに相応しい問題であるはずなのだ。

 

 

「状況を誤解すると、世の災いは増える」(アルベール・カミュ)

 

「状況を誤解すると、世の災いは増える」とアルベール・カミュは記した。3日間に渡って振るわれた暴力の責は、何よりもテロリストたちが負うべきことである。この評価に異議を唱える者はいないだろう。そして、そのテロリストたちはイスラム教を標榜していた。彼らは、シャルリ・エブドで風刺された預言者ムハンマドの仇をとること、さらにイスラム国への軍事介入の罪をフランスに、パレスチナ攻撃の罪をイスラエルに償わせるためにテロ行為に及んだと公言していた。したがって、これらテロリストたちがジハーディストであること、すなわち暴力を用いて行動する過激化したイスラム教徒であることは間違いない。

 

こうした事実は、フランスのライシテ(政教分離)の原則に照らし合わせた場合、どのように国民的な議論をすべきで、それをどう考えたらよいのかということについて、多くの示唆を与えるものだろう。

 

まず、ジハードとイスラムが無関係であるということ、暴力的な過激化が信仰でもたらされる真理や宗教的実践と無関係だとすることは、間違っているばかりか、政治的に非生産的である。テロ実行犯とムスリムを同一視することの間違いと危険は、まさにこの事実を否認することから生まれる。宗教的な事象は、時代を問わずいつも過激派を生み、その暴力が同じ宗派の者、違う宗教を信じる者、不信心者に対して向けられてきたのだ。

 

それゆえ、そのような事実を指摘することでテロリストとムスリムが同一視され、ムスリムや礼拝所への攻撃につながる危険があるかもしれないということにこそ、一層の注意が払われるべきなのだ。公権力は、宗教を問わず、信教の自由を守ることを使命とする。国民的な議論をするのであれば、テロリストが仮にイスラム教を標榜するとしても、彼らと敬虔なイスラム教徒には関係がないということを前提にして進めるべきだ。

 

次に、それゆえムスリムやムスリム団体に対して、彼らの宗教の名を騙ったテロ行為を公然と非難するよう求めることは論外である。このような期待をすることがまさにテロリストとイスラム教徒を同一視するような間違いを犯すことになるからだ。それと同じように、テロ行為があったからといって「ムスリム・コミュニティ」を支持するデモをすることも場当たり的かつ無責任な行動である。

 

保守か左派を問わず、テロリストとイスラム教徒を混同しようとするこうした政治的な見解は、パターナリズム(あるいは植民地主義)の一種だと断定してもよいだろう。それは、まずムスリムを共通の信仰で結びついた単一の集団としてみなし、また彼らが何をすべきか、どうすべきかを理解していない無責任な人々だとみなすからだ。

 

最後に、イスラム教内部での論争と、その微妙な宗教解釈に首を突っ込むことには慎重であった方が良い。市民から成り立つ場、国民的な議論の場においては、何が良きイスラム教徒であり、何が良き実践なのかについて、外部の者が軽々に口出しすべきことではない。テロリストたちがアウトローとなるのは、自らをどう正当化したのかによってではなく、彼らが行った行為ゆえであるということを忘れてはならない。

 

もちろん、宗教と政治との間の関係が民主的な空間で生まれているとみなすのであれば、政治的、文化的、イデオロギー的なかたちでその関係を断ち切ろうとする意思も否定されるべきではない。ただ、今課題となっているのは、イスラム教やコーランが矛盾しているかどうかの断定などではなく、信仰心あるなしに関わらず、いかに公共の秩序と個人の自由を両立させ、名高い「共生社会」を作り上げていくか、なのだ。

 

世界のあらゆる場所で行われているイスラム過激派に対する戦いと、さまざまな宗教的混乱の影響に対する、公共空間における教育と説得を通じての戦いが関連していること、このことは今日では明らかになっている。しかし、法に基づく世俗的な民主主義にあっては、もろもろの秩序を区別し、原因や責任を正確に特定することが本質的なことである。【次ページにつづく】

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.267 

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