2017.01.18

ジャカルタ州知事の宗教冒涜容疑と「イスラム擁護アクション」

中村昇平 社会学・エスニシティ研究

国際 #インドネシア#イスラム擁護アクション#宗教冒涜#ジャカルタ州知事

インドネシアの首都ジャカルタで、2016年11月4日と12月2日の二度にわたって「イスラム擁護アクション」と題された大規模なデモ・集会が行われた。11月4日のデモには5〜10万、12月2日の集会には20〜40万のイスラム教徒が参加したと言われている。

これら2つの「アクション」が開催された原因は、中華系インドネシア人であり、キリスト教徒でもあるバスキ・チャハヤ・プルナマ州知事(通称アホック)に、イスラム教に対する宗教冒涜の疑いがかかったことだった。当初は、少なからぬ報道がイスラム過激派、ジハーディスト、果てはテロ組織との結びつきを強調して今回の事件を報じた。中には、国全体がイスラム過激派に乗っ取られる危険を示唆し、インドネシアの民主主義と寛容性が試されている、と警鐘を鳴らすものもあった。

インドネシアは国民の8割以上をムスリムが占め、バスキ知事のようなキリスト教徒は少数派である。また、32年に及んだスハルト権威主義体制期には中華系住民への弾圧が行われており、現在でも差別意識が根強く残っている。加えて、2017年にジャカルタ州知事選挙を控えていることから、強硬派のイスラム系組織によるバスキ氏の退任を求める運動やデモは激しさを増していた。

しかし11月4日以前の運動はイスラム急進派・強硬派とその支持者のみが参加するものであり、広範な大衆の支持を得てはいなかった。なぜ今回に限ってこれほどの人数が集まったのだろうか。以下ではまず事件の概要を紹介し、11月4日以降に動員が大規模化した要因を説明する。その上で、一連の事件がインドネシア社会にとってもつ意味を考察したい。

デモに至る経緯

事件の発端はバスキ州知事の発言に宗教冒涜の疑いがかけられたことである。しかし、その背景にはイスラム教の指導者による選挙活動の問題があった。ジャカルタ各地のイスラム教指導者の中に、「非ムスリムの政治的指導者を選んではならない」と住民に訴えかける者がいたのだ。彼らの主張は、コーラン食卓章51節の「キリスト教徒とユダヤ教徒を仲間としてはならない」という部分を根拠にしていた(インドネシア語では「仲間」の部分がしばしば「指導者」と訳される)。

こうした動きはモスクなどにおける行事の場に留まらず、強硬派イスラム団体として知られるイスラム擁護戦線(FPI)によるデモにまで発展していた。バスキ知事はこうした動きに対して以前から反発を示していた。実際、彼は9月21日にも「食卓章51節のみを理由に候補者を選ばないように」と発言していたが、大きな問題にはなっていなかった

しかし、27日に再びコーランに言及した発言をすると、その映像がSNS上に拡散されて大きな話題となった。州知事としての職務の一環でジャカルタ北部沖に位置するプラウ・スリブ県のプラムカ島を訪れた際、住民を前に話をする中でバスキ知事は次のように発言した。

「……あなた方が本心では私を選べないということも十分ありうる。そうでしょう?食卓章51節の文言を使って騙されたり、色々とそういう風に。それはあなた方の権利です。……」

州政府のアカウントに9月28日付でアップロードされた映像

前後の文脈を見ればこの発言は、州政府の出資による養殖漁業計画の説明をする中で、仮にバスキ氏が知事に再選されなくても進行中の計画が中止になることはないから、他の候補者に投票してくれてもかまわない、という意味だとわかる。コーランの一節を根拠に対立候補への投票を訴えかける人々を冗談めかして皮肉った発言だったのだろう。

元の映像から問題の発言部分が切り取られ、「宗教に対する冒涜?」というタイトル付きで10月6日にフェイスブック上にアップロードされると、映像はSNS上で瞬く間にシェアされ、大きな話題となった。10月6日から12日にかけて、イスラム団体やNGOから14件もの通報が警察に届けられた。通報の中には強硬派団体によるものだけでなく、ムハンマディーヤなど穏健派イスラム団体(の支部)によるものも含まれていた。

この発言が9月21日の発言と比較してセンセーショナルに受け取られた理由の一つは、コーランに言及する発言の中で「騙される」という単語が使われたことだろう。前述したフェイスブックのポストに付された当該発言部分の引用で「使って」という単語が欠落していたことが事態をさらに悪化させたとも言われている(注1)。元の発言では「コーランの文言を使って信者を騙している」イスラム指導者への批判であったものが、この説明文だけを見れば、「信者はコーランに騙されている」という意味になり、コーランの内容自体が「嘘」であると批判しているように読める。

世論の盛り上がりをみてバスキ氏は10月10日、報道陣の囲み取材の場でイスラム教徒に対する謝罪を行った。しかし、刑法にも規定のある宗教冒涜罪に関わる問題とあって事態は収束しなかった。翌11日には、インドネシアウラマー評議会(MUI)が「宗教的意見と態度」と題した公式声明を発表した(注2)。この声明は、バスキ氏の発言がコーランおよび/あるいはイスラム指導者と信者への冒涜にあたり、いずれにしても法的責任を免れないとするものだった。14日には、イスラム擁護戦線(FPI)が知事逮捕を求めて州庁舎などで数千人を率いたデモを行った。

「第2回イスラム擁護アクション」

2回目のデモが11月4日に予定されていることが知れ渡ると世論はさらに盛り上がりを見せ、1回目を大きく上回る動員がなされることが報じられ始めた。デモはいつしか「第2回イスラム擁護アクション(Aksi Bela Islam II)」と呼ばれるようになり、著名なイスラム指導者や政治家、イスラム団体も続々とデモへの支持を表明した(注3)。同時に、デモが平穏に行われることを望む声明が各団体から出された。SNS上にも「411平和アクション(#AksiDamai411)」などのキーワードとともにデモが平和裡に行われるよう望む声が広がった。第2回デモの目的は、バスキ氏への法的手続きの開始を求める住民の「感情を示す(unjuk rasa)」ことだとされた。

こうして11月4日、5万から10万といわれる人々が参加した第2回デモが行われた。それまでのデモの規模を遥かに超える人数が参加し、ジャカルタ以外にも複数の都市で行われた。この時点で、一連の「アクション」はもはや一部の強硬派による反社会的活動とはみなせないものになっていた。デモ自体の性格も、強硬派組織の支持者が参加者の多数を占め、全体を通して投石が行われるなど暴動の様相を呈していたこれまでのデモとは対照的だった。強硬派以外の組織が多数参加したことに加え、個人の意思で参加する人も多かった。参加者への飲料水・食べ物の無償提供が行われたことや、ビニール袋を用意して自発的にゴミを片付ける活動があったことも盛んに報じられた。ただし、バスキ知事の退陣を求める声や個人攻撃が多数聞かれるととともに、中華系住民をターゲットとしたヘイトスピーチも散見された。

デモは当初の終了予定時刻である18時まで概ね平穏に行われた。しかし、ジョコ・ウィドド大統領がデモ主催者と面会しなかったことに不満をもった参加者の一部が18時以降も大統領宮殿前に居座って暴徒化し、投石するなどした。警察も群衆を散らすために放水車や催涙ガスを使用した。その結果、一般車両を含む21台が破壊され、参加者250人が負傷、警察官や一般市民などデモ参加者以外にも100人の負傷者を出す被害が出た。また、デモの開催地から離れたジャカルタ北部の中華系住民集住地区でも商店が壊されるなど小規模な暴動があり、10人余りの逮捕者が出た(注4)。

画像「Aksi 4 November」VOA / Fathiyah Wardah https://id.wikipedia.org/wiki/Aksi_4_November
画像「Aksi 4 November」VOA / Fathiyah Wardah
https://id.wikipedia.org/wiki/Aksi_4_November

大統領の対応

これまでにイスラム強硬派が主催してきたデモとの対比もあって、世論からの第2回デモに対する評価は総じて肯定的なものだった。イスラム保守主義的価値観の拡大を危惧する声がある一方で、前例のないほど大きな規模で行われたにもかかわらず平和裡に行われた点を肯定的に評価する声も多く見られた。特にデモ賛同者の中には、平和的に行われたことをもって「民主的」な行動であったと認識する者が多かった。第2回デモの終了時点で主催者は、11月25日に第3回デモを開催すると発表していた。

大統領はデモ当日深夜に開いた記者会見で、バスキ氏への法的手続きを迅速かつ透明性をもって進めるよう警察に要請した。また、夕方までの平穏なデモと夜の暴動との区別を強調した上で、暴動の背後に「政治アクター」の存在があったことを明言した。この発言からもわかるように、ジョコ大統領の事態収束に向けた動きは大きく2つに分けられる。一つは、公正な法的手続きの実施をアピールするとともに、イスラム団体や政党関係者に根回しをすることによって第3回デモの開催を阻止する動きであり、もう一つは、一連の騒動を政治的に利用しようとする勢力を牽制する動きである。

前者について、大統領は第2回デモの開催と前後して事態収束へ向けた根回しを始めていた。まず、国軍・警察の関係機関への訪問を繰り返して連帯をアピールした。加えて、強硬派を除くイスラム系社会組織と近隣地域のイスラム教指導者、および各党党首(一部野党を含む)を中心とした政党関係者との面談の機会を設けて、第3回デモへの不支持を訴えた。また大統領は、こうした会合のたびに、自身が捜査や公判の過程に介入しないことを繰り返し強調し、法的手続きの公正性を印象付けるよう努めた。その成果か、多くのイスラム組織や政党から、バスキ氏への法的手続きの進展をもって第3回デモの正当性を否定する声明が出された。

事前捜査の結果、バスキ氏は15日に検挙され、被疑者となった。ただし、逃亡や証拠隠滅の恐れはないということで、勾留はされず、国外に出ることが禁じられたのみだった(注5)。法的手続きが進展してバスキ氏が被疑者となったことは前回デモの目的達成を意味する。これは結果として、事態の収束を狙う大統領や警察が第3回デモの正当性を否定するための根拠を与えることになった。

一方で、イスラム擁護戦線を中心とした強硬派勢力は、「インドネシアウラマー評議会ファトワ保護国民運動(GNPF-MUI)」の名で声明を出し、12月2日に「イスラム擁護アクション第3部(Aksi Bela Islam Jilid III)」と題したデモを行うことを発表した。バスキ氏が被疑者となったにもかかわらず勾留されていないことが不公正だと訴え、勾留を求めることが第3回デモの目的だと主張した。

この動きに対しては、警察と国軍も圧力をかけた。まず11月18日、警察庁長官はインドネシアウラマー評議会を訪れた際、同評議会が傘下に強硬派組織の主導するGNPF-MUIの成立を許したことを、社会組織にそぐわない政治的な動きであるとして厳しく批判した。また、21日には警察庁長官が国軍司令官同席のもと記者会見を行い、被疑者の勾留の是非は法に従って決定されていること、「法的手続きの開始」という当初の目的は既に達成された以上、デモに正当性はないことを主張した。その上で警察庁長官は、11月25日の騒ぎに乗じて政権転覆を計画している勢力があると発表した(ただしこの勢力が誰なのか具体的な言及はなかった)。12月2日に予定されているデモについても、公道の使用を禁止すると発表した。

大統領の根回しの結果イスラム系組織や政党の多くがデモ不支持を発表して強硬派が孤立し始めていた状況での警察庁長官の一連の言動は、結果的に強硬派にプレッシャーを与えることになった。デモ主催者のGNPF-MUIは翌22日に記者会見を行い、政権転覆とは無関係であることを強調するとともに、11月25日にはデモを行わないことを初めて明言した。そして、12月2日に「平和アクション」のみを行うことを発表した(警察庁長官はのちに、政権転覆を狙う勢力がGNFP-MUIではないと補足した)。さらに28日には、GNFP-MUIが警察庁長官同席のもと記者会見を行い、「イスラム擁護アクション第3部」は独立記念塔周辺の公園内で、朝8時から昼の金曜礼拝までのみの開催とすることを発表した。

デモを政治的に利用しようとする勢力に関しては、第2回デモの前後から様々な憶測が流れていた。今回の騒動を2017年のジャカルタ州知事選と2019年の大統領選に利用するために背後で動いている勢力がいるという懸念は多くの人々が感じていた。第2回デモの時点で特に世間の注目を集めたのは、デモに参加表明をした野党系の政治家と、デモ直前に異例の記者会見を開いたスシロ・バンバン・ユドヨノ前大統領だった(注6)。

デモに参加した政治家のうち演説などで政権の打倒や大統領の失脚に言及した者は、第2回デモ後に国会倫理法廷(MKD)ほかに訴えられた。また警察は、18時以降の暴動に参加したイスラム学生同盟のメンバー数人を逮捕し、その背後にいたアクターを特定すべく捜査を行なっている。こうして、一連の騒動を政権打倒にまで繋げようとする動きを牽制する流れの延長線上に、先述の「政権転覆」に関する警察・国軍の発表があった。第3回アクション当日の12月2日午前、警察は政権転覆を企図した疑いなどで10名あまりを逮捕した。【次ページにつづく】

「イスラム擁護アクション第3部」

こうして12月2日、「イスラム擁護アクション第3部」は行われた。正確な参加者数は分かっていないが、その数は20万とも40万とも言われている。参加者数が膨れ上がったために、独立記念塔公園の中に収まりきらず、周辺の道路にまで人が溢れ出すことになった。しかし、集会の主たる目的はデモではなく、あくまで昼の金曜礼拝と認識されていた。事実、礼拝が終わると参加者は速やかに会場を後にし、午後3時頃までには公園に残る人はほとんどいなくなっていた。また、昼の礼拝にジョコ大統領が参加したことも話題となった。

第3回アクション当日までの大統領の対応は一定の成功を収めたと言えるだろう。「アクション」の主たる目的はデモではなく礼拝となり、主たる開催場所も公道ではなく公園となった。集会の名目が礼拝となったことで参加者数は増加したが、それを考慮しても大統領にとっては利点の方が多かったと言える。一つには、昼の礼拝が主目的となったために、集会の終了後全ての参加者が速やかに帰途につくこととなり、第2回デモのように暴徒化するリスクが回避されたことである。

もう一つは、大統領が集会に参加することができたという点である。第2回デモで大統領が主催者と面会しなかったことに対して、民衆の声を無視しているという批判は強かった(注7)。それでも面会を避けたのは、強硬派支持者以外の市民も多数参加したとはいえ、運動が大規模化し始めた当初に強硬派組織から成るデモ主催者と面会することで、大統領が強硬派の主張に正当性を認めたという印象を与える危険性があったからだろう。しかし、数十万の市民が集まる礼拝に参加するとなると話は別である。結果を見れば、事前の政治的駆け引きによって集会の趣旨を公園における礼拝とさせるところまで追い込んだからこそ、大きな政治的リスクを負うことなく大統領が集会に参加することが可能になったとも言える。一連の対応によって大統領は、大衆感情の高まりに乗じた強硬派の勢いをある程度抑え込むと同時に、国民の声を無視しているという批判を抑え込むことにも成功した。

画像「Aksi Damai 212 / Bela Islam pt.3」Abraham Arthemius https://www.flickr.com/photos/razgriz2520/31684075795/
画像「Aksi Damai 212 / Bela Islam pt.3」Abraham Arthemius
https://www.flickr.com/photos/razgriz2520/31684075795/

大規模化の要因

バスキ知事の退陣を求めるデモは強硬派組織によってこれまで何度も行われてきたが、これほど大規模になることはなかった。ではなぜ今回これほどまでに動員規模が拡大したのか。一連の「アクション」は、一貫した計画に基づいて行われたわけではない。このことは、第1回から第3回に至るまでのデモ・集会の呼称や形式の変遷にも見て取れる。多くの偶発的要素が重なって世論が過熱したことにより動員が大規模化したと見るのが妥当である。運動の趣旨が普段デモに参加しない一般市民にまで訴求力を持ったことを考えれば、様々な要因の中でも、バスキ氏に対して大衆が持っていたイメージは特に重要である。以下ではバスキ氏の政治家としてのイメージについて説明した後、動員の大規模化をさらに促進したその他の要因について述べる。

バスキ氏は、2012年のジャカルタ州知事選挙でジョコ・ウィドド氏とペアを組んで副知事として当選した(注8)。その後、2014年にジョコ氏が大統領に就任したことで、選挙を経ることなく州知事に昇格した。バスキ氏の州知事としてのイメージはなによりもまず、抵抗勢力に対して妥協を許さない強硬姿勢で臨み、行政の透明化と汚職の撲滅を推し進めるリベラルな改革者としての姿だった。直接選挙制の導入後に地方首長から大統領にまで上り詰めたジョコ氏と同じく、地方首長を経てジョコ氏の州知事時代に副知事を務めたバスキ氏もまた、民主主義の発展を体現する存在としてリベラルな中間層から熱烈な支持を得てきた。

しかし、バスキ州知事の政治家としてのイメージは、「対話」を何よりも重視するジョコ氏のそれとは、ある意味で対照的である。実際、彼の政策で問題視されてきたのは、数件の汚職疑惑を除けば、貧困層の強制退去に関わる政策において対話プロセスが極端に軽視されているということだった(注9)。ただし、強制退去の被害者や反対運動参加者をデモの大規模化の主な要因とする議論もあるが、これは適切とは言えない。そもそも、こうした問題への反対運動は直接の利害関係者や支援団体を除いてはさほど広がっていなかった(注10)。リベラルな中間層の間ではかえってこの政策を支持する声が大勢を占める上に、保守層の住民の間でも厳密な法の執行を支持する声は多い。実際、大半の住民は強制退去や汚職など個別の問題を批判的に見てはいても、州政全体としては肯定的に評価している(注11)。

バスキ州政への全体的評価の高さには、メディアの果たした役割も大きい。メディアを通して頻繁に流される、抵抗勢力に対する歯に衣着せぬ発言や州政府の役人を厳しく叱責する姿は、改革者としてのイメージ形成を大いに助けた。しかし、メディアを通した明快なイメージ形成は危険性も孕んでいた。明快で強烈な個性をもつ政治家としてのイメージを強めて政策への支持を高めることは、裏を返せば「対話の意思がない」、「口が悪い」といった負のイメージを増幅することも意味したからである。11月4日以降の動員拡大の背景には、メディアを通して形成された大衆感情があった。第2回デモへの自発的参加者の規模を考えると、その多くを占めていたのは、個別の政策に反発していたというよりも、バスキ氏のイメージに漠然と反発を覚えていた層の人々であったと考えられる。

その上に、強硬派勢力に属さない組織・個人による賛同の意思表明と金銭・物資の支援が市民のデモ参加を促進した。まず、強硬派以外のイスラム組織や著名なイスラム指導者や説教師がデモを支持した(注12)。加えて前節に述べたような、野党の政治家を中心とした政治アクターによるデモへの積極的参加やデモを強く肯定する声明も市民の参加を促した。第2回デモにおいては、こうした人々の参加をさらに容易にしたのが組織的・個人的な資金援助とボランティア団体の参加だった(注13)。

さらに、「(権力者である)州知事への公正な法的手続きの執行」がデモの目的として前面に押し出され、「コーランの擁護」「平和で民主的なアクション」といったスローガンが用いられたことは、強硬派支持層以外の参加を促した。第3回のアクションがさらに大規模化したのは、第2回デモが平和裡に行われたことに加えて、行動の内容がデモですらなくなり、「平和裡に礼拝を行うこと」となったことによって参加のハードルがさらに下がったことだろう。

社会的寛容性に向けた課題

今回の騒動は、短期的に見ればバスキ知事のイメージに一部住民が感じていた反発が最悪のかたちで噴出した結果と見ることができる。バスキ知事の政治姿勢には、人種差別主義への強い反発と、インドネシアをより良い国にするために自身のモラルと正義を貫き通す信念が見て取れる。こうした姿勢は既に多くの住民から支持を受けているが、彼の信念を貫き通す「やり方」に賛同しない住民は多い。

中長期的な政治動向をみても、今回の事件は重要な出来事だった。ここ数年、宗教関連の法律制定や政府決定がイスラム少数派を含む宗教的マイノリティに対する弾圧を助長する要因となっていた[見市 2015]。その中で、イスラム擁護戦線などの強硬派イスラム組織やインドネシアウラマー評議会は重要な役割を果たしてきた。当初は、一連の騒動で強硬派イスラム組織の主導する運動が広範な大衆の支持を獲得したかにも見えた。しかし、動員の大規模化に至る流れを考慮すれば、急進派イスラム組織が喧伝するアジェンダに賛同する市民層が一挙に拡大したわけではない。

今回の騒動に際して、大統領と警察は足並みを揃えて強硬派の動きを抑えることに尽力した。大統領はその後も強硬派イスラム組織や宗教的不寛容を批判する発言を繰り返しており、社会的不寛容を促進する急進主義・原理主義的な組織や運動への対決姿勢を明確にしている。しかし警察は、治安と社会秩序の維持という目的があればこそ今回はデモの大規模化を阻止する方向に動いたが、この後も宗教的不寛容と対決する姿勢を示すことができるかは定かでない。

また、宗教的マイノリティ弾圧の看過や助長が今回の騒動の遠因になっているという事実は、インドネシア社会の民主主義と公正性を考える上でも示唆的である。今回の事件との関係では、貧困層の権利の問題や中華系住民への差別の問題は見過ごしてはいけない。どちらも権威主義体制期から続く問題であり、1998年の民主化以降状況は改善しているが、根本的な解決は見ていない。宗教冒涜疑惑を巡る一連の騒動は、こうした社会の歪みやトラウマから目を逸らさず改善の方向にもっていくことが民主主義の安定と社会の寛容性のためには不可欠であるということを、改めて思い知らせる事件でもあった。

注釈

(注1)当該フェイスブックポストの作成者は、宗教・人種などに基づいた憎悪の感情を喚起する情報を流布した罪で警察の捜査を受けており、既に被疑者となっている。

(注2)インドネシアウラマー評議会は1975年に政府の主導で設置された。非行政機構ではあるが、その法的見解(ファトワ)はイスラム教関連の事件をめぐる政府機関の動向や世論の形成に一定の影響力をもってきた。

(注3)インドネシア最大のイスラム組織であり、穏健派団体として知られるナフダトゥール・ウラマー(NU)とムハンマディーヤはデモを支持しない声明を出した。しかし、デモへの個人的参加は市民の権利だとして禁止はしなかった。NUはデモに組織名を用いることを禁止し、個人の参加も、バスキ知事への法的手続きを求めるというデモの目的が達成されるまでに限って支持すると明言した。

(注4)警察は、デモと暴動との関連はないと発表した。ジョコ大統領とバスキ氏も、暴動とデモの関連を強く否定している。

(注5)事前捜査(penyelidikan)では調査員の間で意見が分かれたが、公開の場に持ち越して判断を下すべきということで意見が一致し、11月15日、バスキ氏を被疑者(tersangka)とする運びとなった。現在行われている捜査(penyidikan)・公判の結果起訴されれば被告人(terpidana)となる。

(注6)11月2日、ユドヨノ前大統領は自宅で記者会見を開き、デモの裏に政治的動員の存在があると疑うことは民衆への侮辱であるとして警察を牽制するとともに、民衆の声が聞き入れられない限り騒動はいつまでも続くだろうと発言してデモを強く擁護した。息子であるアグス・ユドヨノ氏が2017年ジャカルタ週知事選に立候補していることから、ユドヨノ前大統領がデモを政治的に利用しているという批判が囁かれていた。先述の政党への根回しの中で大統領は、連立与党を構成する党だけではなく、野党グリンドラ党の党首であり、2014年大統領選挙でジョコ大統領の対立候補であったプラボウォ・スビアント氏とも複数回会談していた。しかし、同じく野党で、ユドヨノ前大統領が党首を務める民主党との会談は行っていない。

(注7)民衆からの批判だけでなく、イスラム系組織や政治家からの批判も多かった。第2回デモの不支持を明言した穏健派イスラム組織ナフダトゥール・ウラマーの代表も、この点では大統領を批判した。

(注8)インドネシアの大統領選挙、地方首長選挙は、正副大統領/首長候補がペアを組んで立候補し、そのペアに投票するかたちで選挙が行われる。

(注9)洪水と不法居住という都市問題の「正常化(normalisasi)」を掲げて行われる強制退去は、恣意的な法の執行、対話・説明プロセスの欠如、軍・警察の直接的動員といった側面が人権の観点から問題視され、NGOや現地住民から批判・反対運動が起きていた。さらに、埋め立てに関わる一連の政策は、その過程で行われる強制退去への批判に加え、大資本家の利益の為に庶民の生活を犠牲にしているという批判もある。これらの問題はドキュメンタリー映画にもなっている。

(注10)貧困層比率自体もこの10年余りで大きく減少している。CMEAとJICAの調べによれば、月の世帯収入が90万ルピア(約7,000円)以下の世帯は2002年の約25%から2010年には15%以下となっている[Arai 2015: 464]。

(注11)例えば10月末から11月はじめにかけて実施された世論調査によると、埋め立て問題で7割、宗教冒涜問題で8割の回答者がバスキ知事に非があると答えているにもかかわらず、州政の全体的評価に関しては5割以上が肯定的に捉えており、「普通」と答えた3割弱と合わせて、否定的に評価した1割強を大きく上回っている。

(注12)デモに否定的だった穏健派イスラム団体のナフダトゥール・ウラマーとムハンマディーヤも、デモが民主主義で保障された市民の権利であるという理由で個人としてのデモ参加を禁止しなかった。このことはデモの社会的評価を考える上で示唆的である。

(注13)例えば、インドネシアウラマー評議会には35億ルピア(日本円で約3,000万円ほど)の寄付があり、うち10億ルピアは1日で集まったと報じられた。また、複数のイスラム系慈善団体が数百人単位でボランティアを投入して食料や飲料水の供給を行うなど、人的資源の投入も様々な方面からなされた。

参考文献

Arai, Kenichiro. 2015. Jakarta “Since Yesterday”: The Making of the Post-New Order Regime in an Indonesian Metropolis. Southeast Asian Studies, 4(3).

見市建. 2015. 「ユドヨノの保守的宗教政策とジョコウィ政権における変化」『アジ研ワールド・トレンド』241: 25-27.

プロフィール

中村昇平社会学・エスニシティ研究

1986年生まれ。同志社大学社会学部卒業、京都大学文学研究科博士前期課程修了、2012年より同研究科博士後期課程に在籍。専門はエスニシティ研究。論文に、「ブタウィ・エスニシティの歴史的変遷過程──現代ジャカルタでバタヴィア先住民が示す「異質な他者」への寛容性の起源」『ソシオロジ』59(1): 3-19頁(2014年)、「近隣コミュニティへの帰属意識とエスニシティの観念──ジャカルタにおけるブタウィの日常的認識枠組みから」『京都社会学年報』23: 75-100頁(2015年)など。

この執筆者の記事