分裂とばら撒きがもたらした勝利――フセイン政権崩壊後の第3回イラク選挙

投票日の2014年4月30日の夜、首都バグダートのラシード・ホテルで記者会見に臨んだマーリキー首相は、イラク国民に対して「過去を捨てて未来に向かって進もう」と呼びかけた。選挙での勝利を確信した、余裕のある表情だった。

 

4月30日に実施されたイラク戦争後3回目の国会選挙は、制憲議会選挙や地方選挙を合わせると7回目の選挙となり、2011年末の米軍撤退後初めての国政選挙にあたる。

 

それから約3週間後の5月19日、同じ場所で選挙管理委員会が暫定結果を発表した。結果は図表1の通り、マーリキー首相率いる「法治国家同盟」が92議席を獲得して第1党に返り咲いた。単純に獲得議席数だけをみると、他勢力の追随を許さない、まさに圧勝と言ってよい結果となった。

 

そもそも今回の選挙前には、マーリキー首相率いる法治国家同盟の優勢がしきりに報道されていた。情報の出どころは、首相府を中心とするイラク政府であった。それを欧米のメディアが報道し、日本も追従していたというわけだ。

 

実のところ、こうした報道には多くの人が違和感を抱いていた。というのも、過去1年以上にわたり、マーリキー首相は窮地に陥っていたからだ。詳しくは後に述べるが、法治国家同盟を除くほとんどの政治エリートは反マーリキー姿勢を前面に押し出しており、首相はまさに四面楚歌であった。イラク政府が首相優位の報道をことさらに強調したのは、こうした状況に対抗する選挙キャンペーンだったのだ。

 

イラクのある知識人は、「政権交代を望む有権者は極めて多い」と話していた。今度こそ、マーリキー首相は大幅に議席を減らし、政権交代が起こるかもしれない、選挙前にはそんな雰囲気が支配的であった。

 

にもかかわらず、蓋を開けてみるとマーリキー首相が圧勝した。それはなぜなのか。反対勢力に包囲され、自らの政治基盤が揺らぎ、孤立無援にみえたマーリキー首相が、なぜ選挙で勝利することになったのか、本稿ではこの問題について、できるだけ分かりやすく説明してみたい。

 

 

[注]一部の選挙区では複数の政党が大連合を形成して統一の候補を立てた場合(たとえばKDPとPUKの大連合など)、候補者の所属政党が明確でない点や、たとえ当選者の所属政党が判明しても比例代表制のもとでは得票率の計算が困難であることを鑑み、それらの大連合の議席は「その他」に含めた。また、明らかな分派(法治国家同盟の分派のイラク忠誠同盟や解放同盟の分派のエリート潮流など)も、「その他」に含めてある。一部のメディアでは、大連合内の配分と分派の議席を加味して、法治国家同盟95、解放同盟34、ムワーティン31議席と報じている。 [出所]選管HP(http://www.ihec.iq/ar/)をもとに、筆者作成。

【図表1:議席獲得数】
[注]一部の選挙区では複数の政党が大連合を形成して統一の候補を立てた。その場合(たとえばKDPとPUKの大連合など)、候補者の所属政党が明確でない点や、たとえ当選者の所属政党が判明しても比例代表制のもとでは得票率の計算が困難であることを鑑み、それらの大連合の議席は「その他」に含めた。また、明らかな分派(法治国家同盟の分派のイラク忠誠同盟や解放同盟の分派のエリート潮流など)も、「その他」に含めてある。一部のメディアでは、大連合内の配分と分派の議席を加味して、法治国家同盟95、解放同盟34、ムワーティン31議席と報じている。
[出所]選管HP(http://www.ihec.iq/ar/)をもとに、筆者作成。

 

 

新たな独裁政権の誕生か――困難だらけの第2次マーリキー政権

 

はじめに、マーリキー首相が選挙前に陥っていた危機的な状況について簡単に振り返っておこう。

 

2005年12月の第1回国会選挙を経て成立した第1次マーリキー政権は、その発足直前に勃発した内戦への対応にあたることになった。当初はどこにも確たる基盤を持たず、政権党のなかでも最重要人物とはみなされていなかったマーリキー首相は、内戦によって無法地帯となっていたイラクで、米軍や部族の力を借りながらも、治安を回復することに成功した。

 

当時のイラクは、内戦で国家分断の危機に晒されていた。そこで、治安と秩序を回復し、国民統合を進めるために中央集権的なナショナリズムを強化する政策を採ったマーリキー首相には、次第に支持が集まるようになった。その結果、2009年に行われた第2回地方選挙では、マーリキー首相率いる法治国家同盟が圧勝をかざった。治安の回復という業績が評価され、国家の分断を回避するためにナショナリズムを強化する政策が、国民に評価されたのだ。

 

だからこそ、マーリキー首相は大きな自信を付けるようになった。そして、首相府の予算を拡大し、その予算を使って支持基盤である部族に資金を配分し、加えて治安機関や軍に首相府から直接つながる指揮系統を作り上げた。こうしてマーリキー首相は次第に権限を強化していったのである。

 

ところが、こうした政策は裏目に出ることとなった。というのも、以上のような第1次マーリキー政権後半の首相の権力拡大に反対する勢力が、2010年の第2回国会選挙で「野党」大連合を形成したからである。「野党」大連合は「イラーキーヤ」と名付けられた。中心となったのは、2004年にイラク暫定移行政府の首相を務めたアッラーウィーで、彼はこのときスンナ派やシーア派の世俗派を統合した。

 

他方、それまでひとつにまとまっていたシーア派勢力も、マーリキー首相を支持する法治国家同盟と、それに反対する「イラク国民同盟」の2つに分裂した。こうして、第2回国会選挙では、イラーキーヤが第1党(91議席)に躍進し、マーリキー首相率いる法治国家同盟は僅差で第2党(89議席)に落ちた。マーリキー首相は手中に権限を集中させたつけを払う形になったのだ。

 

誰もが政権交代を予想した。イラク戦争以降、シーア派イスラーム主義の寡占状態にあった政権が、初めてスンナ派や世俗主義勢力の手にわたるかもしれないと考えられた。ところが、政権交代は実現しなかった。なぜか。

 

それにはもちろん理由があった。選挙前に分裂したシーア派政党が再び統合し、マーリキー首相の首班指名に合意したからである。そこにクルド勢力も加わり、マーリキー首相を支持する勢力が多数派を形成した。マーリキー首相の首班指名に合意が集まった背景には、様々な利権配分や外圧があった。こうして、「野党」大連合からも多数の政治家が入閣する第2次マーリキー政権(挙国一致内閣)が成立したのである。

 

ただし、選挙から第2次政権の成立までには、選挙時の政党連合が何度も組み替えられ、複雑な交渉が行われた。それゆえ8カ月以上もの時間がかかった。その間、法律(の解釈)の改正も行われた。憲法には「首班指名権を持つのは最大政党」であるとされているが、最大政党とは「選挙で最大の議席を獲得した政党」を意味するのか、それとも「選挙後の合従連衡を経た最大政党」なのかについては、明記されていない。通常は前者を指すと考えられるのだが、最高裁判所は後者、つまり選挙ではなくその後の最大政党が首班指名権を有するという解釈を発表したのである。

 

第2次マーリキー政権は、以上のようなかなり微妙な経緯を経て成立したため、当初から混乱や問題が山積していた。幸か不幸か、第2次マーリキー政権が発足したのは、おりしも「アラブの春」真っただ中であった。その余波を受けて、イラク国内でも改革を求めるデモが広がった。選挙で第1党になったにもかかわらず、政権をとれなかったイラーキーヤの主要勢力は、このデモに乗じてマーリキー首相に反対する運動を始めた。イラーキーヤは国会をボイコットし、マーリキー政権の様々な政策を阻止しようとした。

 

業を煮やしたマーリキー首相は、イラーキーヤの重鎮であるハーシミー副大統領に逮捕状を出した。国会議事堂前の爆破事件に、ハーシミーが関与したという容疑だった。2011年11月末のことである。真実のほどは判然としない。ハーシミー副大統領が本当に武装勢力と繋がっていたという報道もある。だが、重要なのは、マーリキー首相が司法を利用して、政敵を排除したようにみえる、という点である。言うまでもなく、首相が逮捕状を出すように司法に圧力をかけたという明確な証拠もないのだが。

 

ともあれ、こうした司法の政治的利用が明らかになると、反マーリキー姿勢を明確にする政治エリートが増大した。マーリキー首相をサッダーム・フセインになぞらえて、独裁者だと非難する声が出てきたのも、この頃からである。

 

年が変わって2012年の4月、マーリキー首相の不信任決議案を国会に提出する動きが活発になった。不信任決議は、イラーキーヤの一部やシーア派政党が離反したため実現しなかったが、この頃からマーリキー首相に対する包囲網が形成されていった。第2次マーリキー政権の基盤は崩れ始めていた。さらに悪いことに、その年の暮れには、スンナ派の重鎮であるイーサーウィー財務相の警備員が拘束される事件が発生した。司法が再び利用されたようにみえた。それに反対するデモが、マーリキー政権の打倒を叫び始めた。デモは瞬く間に西部のアンバール県に広がった。こうして、政治エリートに加えて、市井の人々からも反マーリキーの声が上がるようになったのである。

 

反体制デモが拡大するなかで、2013年4月と6月にはなんとかして第3回地方選挙が実施されたが、年末になると、アンバール県はシリアから流入したとされるアルカーイダ系武装勢力とイラク軍が攻防を繰り返す凄惨な戦場と化した。

 

このように、第2次マーリキー政権の4年間を振り返ってみると、首相が政敵や反対派を抑え込むために司法をはじめとする政府機関を利用すると、こうした首相の政策に対してさらに批判が拡大するという、極めて困難な状況にあったことが分かる。独裁と批判されるようになったマーリキー首相は、まさに四面楚歌だったのである。

 

 

 

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