なぜわれわれは「新しい能力」を強迫的に追い求めるのか?

「現状の高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜は、知識の暗記・再生に偏りがち」であり、「真の「学力」が十分に育成・評価されていない」。こう言われると、素直にうなずいてしまう人は多いだろう。そして、グローバル化し激変する世界に適した「新しい能力」が必要だと説かれると、抜本的な教育改革が必要だと思い込んでしまう。だが、こうした言説は現実を反映したものなのか? 『暴走する能力主義』著者、中村高康氏に話を伺った。

 

暴走する能力主義 (ちくま新書)

暴走する能力主義 (ちくま新書)書籍

作者中村 高康

発行筑摩書房

発売日2018年6月6日

カテゴリー新書

ページ数242

ISBN4480071512

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――どのような経緯で本書をお出しになったのでしょうか?

 

わたしの専門は教育社会学という、教育を社会学的に研究する分野です。その分野のなかでも、とくにわたしが関心をもって研究してきたのが、「教育と選抜」というテーマでした。若い頃は、大学生の就職場面での選抜の研究や、大学入試制度の研究などをしていました。比較的最近でも、学歴の研究や高校生の進路選択の研究などをしていました。

 

人が人を選ぶ場面においてこそ、社会の本音といいますか、その本質がよく現われるのではないか、そんな気がしていたためです。そのような研究を続けていくなかで、社会の変化をとらえる枠組みが自分の中で徐々にできあがっていき、それを博士論文としてまとめました。この博士論文は、東京大学出版会から『大衆化とメリトクラシー』というタイトルで2011年に出版されています。

 

今回の『暴走する能力主義』の基本アイデアである「メリトクラシーの再帰性」は、じつはこの『大衆化とメリトクラシー』ですでにその骨格は提示されていたものです。しかし、いかんせん専門書ということもあり価格も高く(笑)、一般読者の方が手に取りにくい本でした。そのうえ、研究者にも十分に咀嚼されていないとの思いを刊行当初から抱いていました。

 

そこで、できるだけ多くの方にとって理解可能なかたちで、なおかつ中心概念のアイデア力だけで勝負するような、明快な本を出せないだろうかとかねがね思っていました。そこに筑摩書房さんからお声がかかり、一も二もなく執筆にとりかかったという次第です。

 

 

――長い間温めてきたアイデアだったんですね。

 

はい。そして、本書のモチーフとしては、改革病ともいえる現代の社会風潮への強い違和感があります。どちらが本当の改革政党なのかを与党と野党で競うような政治状況のなかで、わたしの専門である教育の領域でも、昔では考えられなかったような大改革が、十分な議論もないままに延々と提案され続けています。また、実際にそれらが制度化され続けていくような状況がありました。

 

このような現実を理解する道具として、自分の考えている理論や研究成果を使えないか、そしてそれを使って現代の改革病批判の足場を提供できないか、そうしたことを考えながら本書を書きました。

 

 

――そこで、キー・コンセプトとなるのが「メリトクラシーの再帰性」になるわけですね。まず、「メリトクラシー」とはどのような意味なのでしょうか?

 

「メリトクラシー」という言葉は、日常的にはあまり使われませんが、使われるとしてもほとんど「能力主義」と同様の意味で使われています。ただ、社会学の文脈では、もう少しその言葉の出てきた経緯を意識して使われることも多いです。

 

そもそも「メリトクラシー(meritocracy)」という言葉は、イギリスの社会学者であるマイケル・ヤングの造語だといわれています。ヤングは、1958年に刊行されたThe Rise of Meritocracyという自著において、この用語を打ち出しました。それは空想小説のスタイルを取るかたちで、特権階級が世襲的に重要な地位を占めて社会を支配していた貴族主義的支配体制(aristocracy)の時代から、社会が近代化するなかで能力(merit)によって重要な地位を占めた者が支配する能力主義的支配体制(meritocracy)の時代への転換を示したものだったのです。

 

ですので、社会学的に「メリトクラシー」という場合には、社会全体の政治的支配体制のひとつのかたち、という意味もあるといえます。日本語の「能力主義」は、日常生活のなかでの人々の営みや思想・理念にも使える言葉であるわけですが、それ自体がマクロな支配体制を意味するわけではないですよね。その点でやはり少し異なるニュアンスがあります。○○cracyという英語には、○○主義という訳語が当てられると同時に、○○による政治支配体制という含意もあります。democracyは日本語訳としては民主主義であると同時に、民主制でもあるというのと同じです。

 

一方で、社会学者も含めて、メリトクラシーという言葉に込められた本来の皮肉な意味は、しばしば忘れられがちです。それは、ヤングが、能力による支配体制、すなわちメリトクラシーを必ずしもユートピアとしては描かなかったという点に関わります。能力主義を徹底し、知能検査や遺伝子検査のようなもので支配者を決めるグロテスクな世界を描くことにこそ、ヤングの意図がありました。そうでなければ未来小説にする必要は無かったはずですので。メリトクラシーが政治支配体制の一種である以上、そこに矛盾や葛藤を内包するものであることは、他の○○cracyとも、程度の差はあれ共通することなのです。

 

 

――そもそも、近代社会ではなぜ能力(merit)が重視されるようになるのでしょうか? 

 

近代社会の特徴のひとつとして、人々が自分の氏素性とは関係なく、自由に仕事を選んでよいということが、規範として成立している点があります。前近代の社会であれば、先祖代々の田畑や身分を守ることが当然視されていたがゆえに、自由に仕事を選べるものではありませんでした。少なくとも、そうした自由な選択が当然だという規範はなかったと考えられます。

 

しかし、近代化の過程のなかで、それではあまりに不自由でかつ不平等であり、適材適所でもないために効率も悪く不合理だということになり、自由に選ぶことが基本となる社会に至ったと考えてよいかと思います。ただし、仕事といっても、報酬の大きい仕事と小さい仕事、権力のある仕事とない仕事など、仕事によって人々の処遇は大きく異なるのも現実です。

 

そして、処遇の良い仕事は希少である一方で、それにつきたいと考える人は逆に多いため、恵まれた仕事につくことができるのは誰なのか、ということを決めなければなりません。同時に、それを決める基準はみんなが納得できるものでなければ、職業選択の自由のシステムはすぐに行き詰ってしまうでしょう。そこで、おおむねみんなが納得できる基準が使われるようになりました。それが「能力」だったということです。

 

 

――「身分」から「能力」へ、社会の支配的な基準が転換したわけですね。目に見えない「能力」をどのように測定するのですか?

 

そう。今度は「能力」をどうやって測るのかということが大問題となります。拙著でも述べましたが、能力は簡単には測れないものだからです。そこで人々が目を付けたのが、「学歴」でした。

 

学歴は仕事の能力そのものを示すものではありませんが、知識の量やその運用能力をなんとなく示しているように見えるので、近代社会になって急増するホワイトカラー的職業の選抜にはとくに有効でした。学歴主義がほぼ万国共通に見られるのは、こうした事情のためです。もっとも、現代においてはそれが揺らいでいるというわけですが。

 

 

――学歴主義が揺らぐなか、近年、新しい時代にふさわしいコミュニケーション能力や協調性、問題解決能力といった、従来の「学歴」では測れない「新しい能力」の必要性が各所で叫ばれています。先生はこうした主張や動向に否定的ですね。

 

理由は非常に単純です。少し時代をさかのぼって歴史を調べてみれば簡単にわかることですが、ご指摘のような「新しい能力」はどれもみな、昔から言われていたものばかりだからです。

 

たとえば、コミュニケーション能力や人間力などの、人間関係を円滑に進めるためのスキルは、現代においてもさまざまな場面でその重要性が指摘されていますが、では昔はそれらを無視してきたのかというと、まったくそんなことはありません。拙著でも多くの例を紹介していますが、わかりやすいところでいえば、日本の企業が採用人事の際にしばしば掲げる「人物重視」の採用方針などはその典型です。

 

わたしたちは「今までは学歴や知識ばかりを問うてきたが、最近は人物重視の採用だから…」などと考えがちですが、「人物重視」の採用は、じつは今から100年近く前にすでに多くの企業が掲げていた方針だったわけです。こうした歴史を知っていれば、「人物」を「新しい時代に対応した新しい能力」とする主張には、とても簡単に同意する気持ちにはならないというわけです。

 

 

――とはいえ、「現状の高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜は、知識の暗記・再生に偏りがち」であり、「真の「学力」が十分に育成・評価されていない」と言われると、素直にうなずいてしまう自分がいます。なぜそう思ってしまうのでしょうか?

 

おっしゃるとおり、そのように思ってしまう方はたいへん多いと思います。わたしが大学入試の研究を始めた20年ほど前に、最初に驚いたことが、日本では予想以上に推薦入学制度が普及しているという事実でした。具体的には、その当時の私立大学の三分の一程度の入学者が推薦経由でした。わたし自身も研究開始前は、「知識の暗記・再生に支配された大学入試」のようなイメージしか持てていなかったのです。

 

ちなみに、現在ではおよそ私立大学入学者の半分程度が推薦・AO入試経由となっており、さらに拡大しています。また残りの半分も、一般入試をしているといっても、1科目しか課していないとか小論文のみとか、そうした軽量化した入試もかなり広く行われています。高校入試でも、内申書重視の選抜が強調されたのは50年も前のことです。

 

こうした諸事実を踏まえれば、「知識の暗記・再生」とか「試験地獄」のような見方は、日本の入試や教育選抜の現状を的確にとらえていないといえるでしょう。

 

 

――現実を反映したものではなく、思い込みのようなものなのですね。

 

はい。では、なぜ多くの人々が、「知識の暗記・再生に偏った日本教育」という見方に頷きがちであるのか? 

 

まず考えられるのは、かつてわたし自身がそうであったように、多くの方々はそうした実態をあまりご存じないのではないかということです。それはある程度やむをえない部分があります。しかし、問題なのは、審議会などに列席する有識者と呼ばれる人々や、改革論議を先導する知識人・政治家などにもしばしば同じことがあてはまるということです。

 

もうひとつ考えられる理由は、「不安」です。何がこれからの時代に必要な教育なのか、非常に見通しが立ちにくい時代のなかで、「でも今のままでいいはずがない、何かを変えなければ」という不安な心理が湧き上がってくることもあろうと思います。そうしたときにわたしたちは、しばしば簡単に批判できる部分をとりあえず探してきて批判をするということをやりがちです。それが「知識の暗記・再生」ではないかと。

 

 

――藁人形なんですね。

 

ほとんどの日本人は少なくとも1~2回は受験経験がありますので、テストのために知識の丸暗記を嫌々やった記憶を、必ずみんな持っています。その点で非常にわかりやすい。そうしたわたしたちの負の記憶に訴えかけることができる明快な批判点が、「知識の暗記・再生」だったと考えることができるのです。

 

ただ、ここでよく思い出していただきたいのは、わたしたちが受験生だった頃、本当に知識の暗記・再生だけでやっていけたのかどうかということです。よく思い出していただければ、知識の丸暗記だけではない勉強もそれなりにやってきたはずです。日本の教育システムには問題も多々あるのですが、批判する論者たちがいうほど単純で愚かなシステムだったら、ここまで持続できなかったとわたしは思います。【次ページにつづく】

 

 

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