2017.04.19

日本の道徳教育、どこが問題なのか?

辻田真佐憲×池田賢市×荻上チキ

教育 #荻上チキ Session-22#道徳教育#教科化

来年度から正式な教科となる小学校の道徳教育。戦前からその変遷をたどり、フランスの市民教育との比較も交えながら、今後のあり方を考える。2017年4月4日放送TBSラジオ荻上チキ・Session22「来年度から『道徳』が正式教科に。 日本の道徳教育、その変遷と今後」より抄録。(構成/大谷佳名)

■ 荻上チキ・Session22とは

TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。様々な形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホームページはこちら →http://www.tbsradio.jp/ss954/ 

戦前の道徳教育「修身」とは

荻上 今夜の一人目のゲストをご紹介します。文筆家で近現代史研究者の辻田真佐憲さんです。よろしくお願いします。

辻田 よろしくお願いします。

荻上 来年度から道徳が正式教科になることで、学校現場ではどのような変化があるのでしょうか。

辻田 これまで、道徳の授業内容は学校や地域によってバラバラだったのですが、それが一律でコントロールされるようになります。

すでに「数字や記号で成績を評価されたり、特定の価値観を押し付けられるのではないか」という懸念の声も上がっていますが、これに対して今のところ政府は否定しています。ただ、日の丸、君が代と同様、いつの間にか強制になっていた、となる恐れもあり、油断できません。

荻上 今回の教科化について考える上で、まずは道徳教育の歴史を整理したいと思います。まず、道徳教育の起源はいつごろなのでしょう。

辻田 1871年に文部省が設置されると、少し遅れて道徳教育も始まりました。「修身」という名前で、はじめは他の科目と比べても扱いが低い科目でした。というのも、当時は福沢諭吉が唱えた「一身独立して一国独立す」のように、独立独歩の個人が育ち、ボトムアップで国家を作っていく、啓蒙思想的な考え方が主流だったからです。

しかし、それでは自由民権運動を抑えられず、国をまとめられないということで、明治政府は、上から国民を形成する道徳教育を行おうと動き出しました。そして、1880年の教育令の改正から、修身がすべての学科の中で筆頭に位置づけられるようになったのです。

荻上 そのころはどのような教科書が使われていたのでしょうか。

辻田 最初はどんな本を使っても良かったのですが、徐々に取り締まりが強くなり、1904年以降小学校では文部省が作成した国定教科書を使用するよう定められます。

とは言え、最初の国定教科書が作られたのは日清戦争の後、つまり日本が近代化の途上にあった時代でしたので、書かれていた内容は「約束を守る」、「清潔にする」など、近代市民としての道徳と言えるものでした。

しかし、日露戦争後の1910年に、教科書の内容は大幅に改訂されます。当時は社会主義が広まっていたので、それを抑えるために「天皇を敬え」、「家族を大事にしなさい」という国家主義・家族主義的な内容に変化しました。この後も第3期、第4期、第5期と、時代に応じて教科書の内容は改訂され、その都度、右に左にぶれていったというのが、修身の教科書の特徴です。

荻上 教えられる内容や、教科書に登場する人物の変化はあるのでしょうか。

辻田 はい。たとえば第1期の教科書では、「勇気」という項目がありました。それが、第2期の教科書では「忠義」に変わるのです。つまり天皇のために尽くす勇気に変わる。また、教科書で偉人として紹介される歴史上の人物も、第1期では外国人も広く含まれていたのですが、第2期からは二宮金次郎など日本人の扱いが大きくなったのも特徴です。

荻上 その後も、第3期、第4期、第5期と改訂が続くのですね。

辻田 はい。第3期は、第一次世界大戦を受けて改訂されました。今度はまた、「これからの日本は大国として国際主義に視線を当てなければいけない」ということで、国家主義と国際主義の中間を取るような、ややリベラルな内容となっています。

そして、次の改訂がなされたのが満州事変後の1934年です。日本精神や国体観念が強調されていた時代を受け、修身の教科書でも、国民を天皇の臣民として教育するという側面がかなり強くでました。また、初めて「君が代」が単独の項目で修身教科書で紹介されたのも第4期です。「君が代」の“君”は天皇のことを指しますので、天皇を讃える歌として教えられました。

荻上 第2期よりもさらに国家主義や天皇主義の傾向が強い内容となっているんですね。

辻田 はい。ここまでの流れを見ると、「リベラル、国家主義、リベラル、国家主義」となっているので、その次の改訂ではリベラル寄りになるのかと思いきや、第5期は超国家主義、超軍国主義の方に驀進してしまいます。日中戦争中に改訂が行われたため、陸軍の軍人も教科書編纂に介入し、戦争関係の教材もかなり増えました。また、教えられた内容としては、個人が全体の中でいかに貢献するかという、全体主義の思想が全面的に打ち出されました。

荻上 戦前の日本で英雄として教えられていた人物で、日清戦争で戦死した兵士・木口小平の「(敵の銃弾が当たったが)死んでもラッパを口から離さなかった」という話が有名ですよね。

辻田 木口小平の話は第4期までは掲載されていました。しかし、第5期では消されてしまいます。全体主義の中で、個人の勇気や努力は重要とされなくなったからです。

荻上 なるほど。時代の要請に合わせて、ある意味、政治利用されながら、修身の内容は変化してきたわけですね。

大津市中2いじめ自殺事件がきっかけ

荻上 第二次世界大戦以降はどのように変化していったのでしょうか。

辻田 占領軍が日本にやってくると、修身は真っ先に廃止されました。教科書も回収され、代わりに「社会科」が新設されました。それからは「天皇の臣民」ではなく、「民主主義の担い手としての国民」を目指し、市民としての権利や三権分立など、政治や社会の仕組みが教えられるようになります。

荻上 これまでの修身にあたるような科目は必要ないとされたのでしょうか。

辻田 はい。ただ、修身の廃止に反発する意見もありました。とくに戦後間もないころは社会が混乱したので、「修身や教育勅語がなくなったから犯罪が増加した」という主張が現れた。修身を復活させようという声は保守派の一部からは根強く発せられるようになりました。

やがて、1958年、ちょうど第2次岸内閣のころに小中学校の学習指導要領の改訂が告示されて、「道徳の時間」が特設されます。日の丸、君が代も、この時に初めて記述されました。しかし、当時は日教組や社会党などリベラル勢力も強かったため、正式な教科ではなく、特設道徳という宙ぶらりんな形で導入されることになりました。その結果、具体的な授業内容も学校ごとにバラバラのまま、今に至っているわけです。

荻上 一方で保守派からは教科化の要請が根強くつづき、ようやく今、第二次安倍内閣のもとで実現したわけですね。

辻田 はい。そのきっかけとなったのが、滋賀県大津市で起きた中学2年生のいじめ自殺事件です。「いじめ対策に道徳が有効だ」という声が、教育再生実行会議という首相の諮問機関から上がってきたのです。ただ、これまでの流れを見ていると、道徳を教科化したいがために、この事件に飛びついた、という印象を持たざるをえません。

荻上 もともとその議論をしたかった人々が事件をうまく利用した、というように感じますね。僕は今、大津市のいじめの防止に関する行動計画の策定に参加しているのですが、あの事件の被害者の生徒が通っていた小学校は、実はもともと文科省に指定されていた道徳教育推進のモデル校だったんです。

さらに、当時の第三者委員会の報告書を読むと、よりによって道徳の授業の直後の休み時間にいじめがエスカレートしているという記述もあります。そして、この報告書の結論にはこのようなことが書かれています。「道徳偏重の議論はいじめ対策につながらない。子どもたちが他人に共感できるような感性を育んでいかなければならない。また、多忙な教員の負担を減らすべく人員を配置していくなど、多角的な議論が必要だ」。いじめ対策のためには、道徳教育の限界を見ていかなければならないのに、逆の方向に進んでしまっている。

辻田氏
辻田氏

内心の自由と道徳教育

荻上 ここでもうお一方、ゲストをご紹介します。教育学が専門で、中央大学文学部教授の池田賢市さんです。よろしくお願いします。

池田 よろしくお願いします。

荻上 リスナーの方からこんな質問が来ています。

「道徳教育が今まで正式教科ではなかったとは知らなかったです。これからは、テストの点数や成績にも反映されるのでしょうか。」

池田 実は現場の先生にも「これまで教科じゃなかったんですか?」と驚かれる方がいらっしゃるようです。というのも、学校現場において先生が生徒一人一人の道徳性を評価するということは、すでに日常的に行われているのです。算数や国語などの教科においても「この子はこんなに努力している」からテストの点数にプラスして高く評価するとか、掃除当番や係の仕事をいかに頑張っているかなど、行動全般に対して公的な評価の目線を向けてしまっているんですね。

道徳が教科になるということは、評価をつけなければいけない。文科省は、数字や記号による評価は行わないと言っていますが、評価する限りはなんらかの基準が必要です。そして、評価することにおいては学校の先生方はすでに慣れている。その怖さもあるなと思っています。

たとえば、文科省の話では「個人内評価」にすると言っています。つまり、道徳の内容項目ごとに評価するのではなく、生徒一人一人の道徳性の発達を見て、良いところを見つけて励ます。ところが、誰から見て良いところなのか、判断基準はどこなのかという問題がありますよね。

そして子どもの側も、先生に褒められると嬉しいので、褒められるように行動するようになります。また、心の中でどう思っているかは外からは見えないので、子どもは評価してもらうために見えるように表現するようになりますし、先生もそれを望むようになります。

いずれにしても、道徳は内心の自由に関わることなので、その人がもつ価値観や心の中までを公教育における評価の対象とすること、それ自体が問題です。今回の教科化の最大のポイントはそこだと思います。

荻上 なるほど。リスナーからこのようなメールも来ています。

「今議論されているような道徳教育を行うと、教える側と生徒側の両方に、無意識のうちに良し悪しの振り分けが生じそうです。良しとされる方が悪しとされる方を排除したり、批判の対象とするようになると、かえっていじめの素地になってしまうのではないでしょうか。」

池田 文科省は「良いところを探して評価する」と主張していますが、「いいとこ探し」は「悪いとこ探し」と構造的には同じですよね。文科省や教科化を推進している人たちは、価値の押し付けにはならないと言っているのですが、自分の中の何が良いところとして評価されるかという経験を通して、子どもたちには結果として一定の基準に基づく価値が権力的に伝わっていってしまうと思います。つまり、多様性はここでは意識にのぼらなくなってしまいますから、当然、リスナーからの指摘にあったように、いじめにつながることはありうることだと思います。

荻上 そうですよね。辻田さん、戦前では国民同士の間でも「あるべき国民」と「非国民」の振り分けがされていましたが、これは修身や教育勅語がもととなっていると言えるのでしょうか。

辻田 はい。当時は『よい日本人』という修身の教材もあったくらいで、天皇のために貢献するのが良い国民であり、貢献しないやつは非国民だ、という認識が教育によって浸透していった側面もあります。

荻上 戦前の手記や証言集を読んでいると、こういった認識のもとで子ども同士がいじめあったという話がたくさん出てきます。たとえば、「天皇が神様なんて信じられない」言うと、「神様じゃないと思うなら、天皇陛下の写真を踏んでみろ」とはやしたてられ、仲間はずれにされたという話があったり。当時の「良い子」は、「良い国民」像を内面化していたということが伺い知れます。

パン屋が和菓子屋に

荻上 さて、今回の教科化に伴って、文科省による道徳教科書の検定が実施されました。その際、一部の出版社が教科書全体の表現について指摘を受け、その結果、文科省の意図を汲み取る形で“忖度”し、表現を改めたことがニュースとなりましたね。

いくつかの例を挙げますと、たとえば、東京書籍社の小学校4年生の教科書に掲載されている「しょうぼうだんのおじさん」というタイトルのお話。これに対しては、学習指導要領が求める「高齢者に尊敬と感謝の気持ちを持って接する」という扱いが教科書全体に不足している、ということで、「しょうぼうだんのおじいさん」に変え、挿絵を高齢の男性に差し替えたという訂正がありました。

また、今回とくに話題となったケースとしては、東京書籍社の小学校1年生向けの教科書で、全体として「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」という点が足りないと指摘を受け、パン屋を和菓子屋に変更したところ検定に通ったとのことでした。また、学研教育みらい社の小学校1年生の教科書も同様の指摘を受け、アスレチックのある公園の画像を和楽器店の画像に差し替えたところ検定に通ったという事例があります。

こういった修正について、池田さんはいかがお感じですか。

池田 どれも取ってつけたような内容になっていますよね。そもそも、形式さえ整えればよいといったことになってしまっているのが問題だと思います。結局、教科書を作ろうとすると、こういうことになってしまうのだと思います。

本来、道徳は生活に根ざしているものです。具体的な人間関係や社会的環境に応じて「優しさ」や「思いやり」といった価値観の中身も変わってきます。この場面ではこの行動が優しさのあらわれかもしれないけど、違う場面では異なるかもしれない。そういった部分も見ていかなければいけないのに、教科書にはそういうことは具体的過ぎて書ききれないので、結局、実際の複雑な価値判断の部分は排除して、単純化した、しかも子どもたちの生活から遊離した場面での特定の徳目を示すだけになってしまいます。道徳的判断には柔軟性が要求されますが、教科書になることで、かえって子どもの方も融通が利かなくなってしまうのではないかと思います。

たとえば、今回の教科化のきっかけにもなったいじめ対策ですが、そもそも、いじめが悪いことだと知らない子どもなんていません。「仲良くする」という価値を知らないからいじめているわけではないんです。子どもは、言葉を覚えると同時になんらかの価値もセットで覚えています。

たとえば幼稚園生の遊びの場面でも、「○○ちゃん、ずるい」と言ったりしますよね。すでに、ずるいかずるくないかの価値判断をしているということです。ただ、その判断基準は人それぞれ異なります。そして小学校に入学すると、その基準が周りの人とぶつかり合うかもしれません。その時に、みんなと生活する場面をどう調整していくのか。それは、形式的な道徳教育ではなく、市民教育という範囲で調整していくべき課題になると思います。

荻上 今回の教科書検定の基準となっている、学習指導要領が定める22の内容項目というものがあります。これはどういった内容なのでしょうか。

池田 自立、正直、節度などさまざまな項目がありますが、これらの項目自体は、これまで教科ではなく「道徳の時間」であった時のものと大きく変わっていないんですね。言わば、それが今回の教科化で文科省が「今までとあまり変わりませんよ」と言える根拠の一つではあると思います。

ただ、学習指導要領は法律ではありませんから、簡単に変更することができるんです。教科化さえ実現されれば、さまざまな内容項目も後からいくらでも変えることができる。評価に関しても、文科省は「数字・記号での評価はしない」と言っていますが、今後どうなるかは全くわかりません。国旗・国歌法の時と同じで、当初は強制しないと言っていたのに、実質はそうなっていない、ということになりかねません。

荻上 今回の学習指導要領は他の教科でも話題となっています。たとえば歴史の教科書で「聖徳太子」という表記を、「厩戸王(聖徳太子)」に変えようとしたところ、「児童が混乱する」「ナショナルアイデンティティーが損なわれる」という反対の意見が集まり、見送られたという経緯がありました。

また、セクシュアルマイノリティの人権について保健体育の授業で教えるべきという意見が出ていたのですが、これに対しては、「まだ国民の理解が得られていない」という理由で不採用となりました。しかし、「誰もが異性に関心を持つ」というのは、多様な性を生きる人が存在するという確かなファクトがあるので、社会科学的に見ても誤りだと言えます。道徳教科書の訂正についても言えることですが、国の側が、科学的根拠に基づかない“なんとなくの空気”で判断していることが問題ですよね。

池田 そう思います。道徳を教科にするとはいっても、今回のものは倫理学や哲学の研究を背景としているわけではないので、どうしても教科にはなりえないのです。文部科学省としてもそれは分かっているからこそ、「特別の教科」と言わざるを得なかったのではないでしょうか。実践としては、どうやら徳目と言われている事柄を読みもの教材を中心に形式的に示していくことになりそうですし、「議論する道徳」だと言われても、評価の重圧があるので、議論の多様性は実際には確保できないでしょうから、今後の動向はまったく楽観視できない状況だと思います。

池田氏
池田氏

道徳教育はいじめ対策に有効なのか

荻上 また今回は、すべての教科書に「いじめ」に関する内容が盛り込まれました。教科書におけるいじめの扱われ方や、いじめ問題について池田さんはどうお感じですか。

池田 戦前にもいじめはあったわけですから、道徳教育を充実したからといっていじめがなくなるわけではないと思います。また、行動の面だけをとって「暴力はいけません」と言うのではなく、「いじめがなぜ起こるのか」についてもっと丁寧に見なければいけませんよね。

たとえば、なぜ暴力をふるってしまったのか、なぜ意地悪なことを言ってしまったのか、この子は日常の生活の中で簡単に他者には言えないような苦しい状況にあるのかもしれない、あるいは、学力競争でストレスが溜まっていて、つい心にもないことを言ってしまったんじゃないか。いじめのことを真剣に考えようとするなら、こういった子どもたちの置かれている環境を構造的に見なければいけないと思います。

現在の教育政策全般に言えるのは、見た目上の良さ・悪さばかりに着目して、それをモグラ叩き的に潰せばいいんだ、という考え方をしていることだと思います。

荻上 環境要因に着眼したいじめ対策では、どんなストレスがいじめにつながったのかを分析し、教室や学校の環境改善につなげようという議論が行われています。そのため、道徳の授業の時間だけではなく、学校生活のさまざまな場面でアプローチを取る必要性がある。しかし、道徳が教科化されることによって、「道徳の時間にいじめ対策をしているんだから、いいだろう」と学校側が気を抜いてしまう可能性があるような気がします。

池田 それは子どもたちの側にも言えることですね。授業だけで良い答えを言っていればいいと判断するようになってしまうかもしれません。一方で、個人の価値観に対して常に公的な眼差しを向けられている中で学校生活を送るというのは、子どもたちにとって非常にプレッシャーだと思います。

荻上 いじめに関してはさまざまな統計が取られていますが、同調圧力が強かったり、学校の先生が道徳的な価値観を押し付けがちな教室では、いじめが起きやすいことがわかっています。たとえば、「一人の失敗はクラスみんなの責任だ」と言って罰したり、服装チェックを厳しくする、集団行動を増やすといじめが増える傾向があります。一方で、多様性に寛容なあり方を教える教室ではいじめが少なくなります。

「道徳」と聞くと、一つの型にはめるものなのか、共生するための知恵を身につけるものなのか、全く違う二つの方向性が連想されますよね。この取り扱い方も、現場に委ねられてしまうのでしょうか。

池田 多様性という観点については、今の教育政策で盛んに取り上げられていて、文科省も尊重すると言っています。しかし、それが現場にどう降りてくるのかは難しいところですね。一方で、学力向上という目標もあるため、しかも新しくなった学習指導要領では、「できる・できない」が重要な基準になっています。また、本来は個人の自由であっていいはずの学ぶ意義についても踏み込んでいますし、教育方法にも踏み込んでいる。そこまで細かく決めておきながら、かつ多様性も尊重すると言われても、現場の先生はますます混乱してしまうと思います。

荻上 教科書を読んでいて、いじめに触れられている部分で気になる表記があったので一つ紹介します。教育出版の小学校4年生の教科書の「プロレスごっこ」という話の中で、「いじめを見て見ぬふりをする傍観者ではいけない」といった内容があります。

いじめ研究においては、「いじめの4層構造論」という有名な理論があり、いじめの被害者、加害者だけではなく、それをはやし立てる大衆と、見て見ぬふりをする傍観者がいて、いじめが成り立つとされています。この理論が誤って一人歩きするがために、「傍観者ではいけない。いじめを注意する仲裁者にならなくてはいけない」というイメージが広がってしまっています。

大人でも、目の前でトラブルが起きていたら自分で止めに入るのではなく、警察に通報するなどプロフェッショナルに頼りますよね。いじめにおいても、まずは先生に通報しやすい制度を作って、通報者となる子を増やす。あるいは、いじめられている子に対して、いじめられていないところで「私は味方だよ」とメッセージを出して居場所を作ってあげる。そういった様々な方法があるにも関わらず、十分な議論は蓄積されていません。

池田 いじめ研究は、現状を分析して記述しているので、そのことから必然的に望ましい行動のあり方が直接的に導かれるわけではありません。これは、とくに社会学的な研究が人々に誤解を与えてしまう点ですね。「傍観者」という存在がいじめの構造的分析によって明らかになったとしても、「傍観者でいてはいけない」という価値がそこから導かれるわけではありません。少なくとも、いじめを社会的な課題として設定すれば、今おっしゃったような多様なアプローチを示すことになっていくと思います。ただ、道徳はあくまでも個人の心の問題に着目するので、どうしても自分の行動のあり方の話になってしまう。そこが、人権教育と道徳教育の決定的な違いです。人権教育は、社会的な課題として問題状況に迫ろうとします。

フランスの市民教育と日本の道徳教育

荻上 池田さんはフランスの教育政策についても研究されているとのことですが、フランスにも道徳教育はあるのですか。

池田 英語に直せば「モラル・エデュケーション」と呼ばれるような教科はあります。ただ、フランスはもともと市民教育がベースにある国で、共和国としての価値観を大切にしているので、基本となるのは「みんなで共に過ごす社会を作るためのルールを教える」という内容で構成されることになります。ですから大前提として、個人の価値観に関することを公教育で取り扱うなんてありえないわけです。また、フランスでは知識を伝える場所が学校であり、徳育は基本的には家庭に任せるという大原則があります。日本の道徳教育と似ているように見えて、根本のところが違うわけです。

荻上 異なるルーツや宗教を持つ子が同じ教室で学ぶことも少なくないので、学校では特定の価値観を押し付けないことが前提となっているんですね。

池田 フランスで言われている「モラル」も、その教科書を見ると、一見すると日本の道徳教育と似ています。社会や国家との結びつきを重視する記述もあります。しかし、そもそも「国家」とは何でしょうか? 「日本という国を図で描いてください」と言われたら、みなさんは何を描きますか。大概の人は、日本列島の形、地図を書いてしまうと思うんです。一方で、ヨーロッパの言語では、英語で言えば、国とはState、つまり状態とか地位を意味の言葉で表されるわけです。要するに、システム、統治機構のことを指しているんです。ですから、「国を図で描け」と言われれば、たとえば三権分立の図を描くわけです。あるいは選挙制度の図を描くかもしれません。これが国家ということです。

フランスの憲法に「愛国心」と訳せる一節はあるのですが、正確にいうと、共和国を成り立たせている民主主義の原理に愛着を持ちましょうという意味です。しかし、「国家」として日本列島という土地をイメージしてしまう日本では、「国を愛する」と言うと簡単に「国防」という発想にスライドしてしまう。そして、日本という国は初めから、今日のような日本列島という土地の形で存在していたのであり、そこに初めから住んでいる人が日本人なのだ、というイメージになってしまいます。

荻上 そこに古事記やさまざまな神話が加わって、島の意識と国体のイメージが天皇制の元で結びついてしまう、ということなんですね。

池田 はい。国を描けと言われて三権分立の図を描くような人たちは、自分たちでどうやって社会を作ろうかと考えます。だからこそ、多様性を尊重しなければ自分たちの生活が成り立たないと認識しているわけです。それは、日本の道徳教育における、個人の価値観をコントロールしようという考え方とは全く違うわけです。

荻上 なるほど。最後に、これからどんな道徳教育のあり方を議論すべきだと思いますか。

辻田 具体的には、戦後すぐに導入された社会科を再評価すべきだと思います。本来は、まさに今お話にあったフランスのような市民教育を目指していたわけです。それを潰すために道徳が作られたわけですから、まずは社会科のあり方を考え直すことが、道徳教育について議論する上で参考になるかと思います。

池田 道徳は価値観の教育なので、当然、ぶつかり合うことがあります。そのぶつかり合いをどう調整するかを、しっかりと学校教育で取り組まなければいけません。

今の状況を見て、私個人としては、戦前の日本に戻ってしまったと感じています。2002年に健康増進法という法律ができましたが、日本国憲法25条では、健康は国民の権利と書かれているのです。しかしこの健康増進法では、健康であることは国民の責務、つまり義務だと書かれています。一人一人の生活習慣のあり方、たとえば何時に寝て、何を食べるかといったことまで公的に問題にしてよい、監視の対象としてよいということになりました。つまり、わたしたちの身体はすでに国家の管理下に入っているのです。

そして今回の道徳の教科化によって、心の中までも、公の眼差しのもとに晒されることになりました。そして昨年、安全保障法制も成立しました。健康にまず着目して生活の在り方を統制し、教育を通して心の統制をしていく、そして、武力行使可能な法整備もできた。これはまさに、かつてのドイツ、ナチスがやったことと同じです。非常に危機感を覚えます。政策の謳い文句として盛んに「教育再生」と言われていますが、その「再生」とは、戦前への「リピート」という意味だったことが明らかになったと思います。

荻上 そうした歴史の反復を避けるためにこそ、これまでの歴史を知る意義があります。そこから今後の国のあり方を考えることを、道徳を巡る議論の一連から学ばなくてはいけないなと思いました。池田さん、辻田さん、ありがとうございました。

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『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』(文春新書)

辻田真佐憲

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『フランスの移民と学校教育』(明石書店)

池田賢市

プロフィール

辻田真佐憲作家・近現代史研究者

1984年大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。現在、政治と文化芸術の関係を主な執筆テーマとしている。著書に『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)、『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』(文春新書)などがある。

この執筆者の記事

池田賢市教育学

1962年、東京都足立区生まれ。筑波大学大学院博士課程教育学研究科を出たあと、1990年より盛岡大学文学部講師、97年より中央学院大学商学部(教職課程)助教授、2005年より中央大学文学部(教育学専攻)教授となり、現在に至る。博士(教育学)。大学では、教育制度学・行政学、公民科教育法などを担当。専門は、フランスにおける移民の子どもへの教育政策。1993~94年、フランスの国立教育研究所(INRP・パリ)に籍を置き、学校訪問などをしながら移民の子どもへの教育保障のあり方について調査・研究。また、2005年にインクル―シブな教育制度に改革をしたフランスの事例も含めて、共生や人権をキータームとして、国内外をフィールドとして研究を進めている。著書として、『フランスの移民と学校教育』(単著、明石書店)、『世界の公教育と宗教』(共著、東信堂)、『教育格差』(共編著、現代書館)、『法教育は何をめざすのか』(編著、アドバイテージサーバー)など。

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荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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