2017.06.13
幼児教育の無償化はマジックか?――日本の現状から出発した緻密な議論を
4-5歳の無償化のリターンはほぼゼロ
政府は幼児教育の無償化を早期に実現するという。子どもの貧困や教育格差が解決されるかのような美しい響きとは裏腹に、その目的は曖昧で、何が達成できるのかもほとんど議論されていない。どのような政策決定も、事実確認と論理的思考に基づく必要があるが、「幼児期の教育投資は収益率が高い」「国際的に見劣りする公的教育支出」と言った大義名分だけが先行して政策が作られようとしている。
我が国で幼児教育を無償化すべきという根拠として、幼児教育の収益率、すなわち所得上昇や経済成長への寄与が高いというノーベル賞受賞者のヘックマン氏の研究結果が「エビデンス=根拠」として引用されることが多い。しかしこれは米国と日本の社会的背景の違いを無視した暴論である。
米国は先進国の中でも就学前教育(米国では5歳から学校教育が始まるため4歳までの教育を指す)の普及が最も遅れている国だ。OECD統計(2014年)(注1)によると、4歳で何らか幼児教育施設(保育所と幼稚園)に通っている比率は、米国では68%(統計のある32ヵ国中29位)、日本では95%(同12位)である。3歳児に至っては、米国は39%(29ヵ国中27位)、日本は69%(同14位)である。
(注1)OECDによる就学前教育の統計はTable C2.1 – Enrolment rates in early childhood and primary education, by age (2005 and 2014)を利用。
ヘックマンの主張の主たる根拠は、50年前の米国で、養育環境も悪く、教育機会にめぐまれない就学前の子どもに、質の高い教育を施したときの効果が収益率としてはきわめて高かったというものである(Heckman et al. 2010)。しかしそれは、幼児教育の普及が遅れている米国にとっての話だ。また別の研究(Duncan and Magnuson 2013)は、近年の幼児教育は、ヘックマンが分析した調査データのときほど、効果は高くない可能性があり、その背景には、50年前と比較すると、貧困家庭であっても養育環境が大きく改善していることがあるのでは、と議論している。
(参考資料)
James J. Heckman, Seong Hyeok Moon, Rodrigo Pinto, Peter A. Savelyev, Adam Yavitz, The rate of return to the HighScope Perry Preschool Program, Journal of Public Economics, Volume 94, Issues 1–2, February 2010, Pages 114-128
Duncan, Greg J., and Katherine Magnuson. 2013. “Investing in Preschool Programs.” Journal of Economic Perspectives, 27(2): 109-32.
幼児教育を施されていない子どもに良質の教育を施すと高い効果が得られる-その結果が正しいとしても、日本の4-5歳については、幼稚園や保育園の就園率を向上させる余地はほとんどない(ちなみに日本の5歳児の就園率は96%)。米国と比べて、日本の保護者は、幼児教育にきわめて熱心であり、義務でなくても、費用がかかっても、自発的に子どもに教育を施す意欲が高い。日本人は、幼児期の教育が子どもの将来に及ぼす影響をそれなりに理解しているのであろう。
したがって、日本で4-5歳の幼児教育を無償化することは、保護者が自発的に行ってきた私的支出を税金で肩代わりするとことに過ぎない。つまり、幼児教育無償化のための公的支出は社会にとっては追加的投資をもたらさず、その結果、社会のリターンはゼロに近い。幼児教育が経済成長率を引き上げるのであれば、国債で資金調達をすべきという主張もあるが、これだけなら国債の発行などは許されない。
教育格差の解消?
では無償化は教育格差の解消にはなるか?保育所や幼稚園の保育料は、国の補助により低所得世帯に対しては減免が可能である(注2)。生活保護対象の世帯は保育料を免除されているので、真の貧困世帯にとっては無償化による恩恵はゼロであるといえる。
その一方保育料を払っていた中高所得世帯にはゆとりができるため、習い事や塾に通わせるための支出を増やすことができる。結果、低所得家庭と中高所得家庭の教育支出格差は広がる可能性が高い。中所得世帯と高所得世帯の間での教育格差はどうなるかは予測が難しいが、中所得世帯に対する保育料減免の程度によっては、やはり無償化により教育格差は広がる可能性がある。
中高所得家庭が幼児教育への支出を増やすのであれば、社会全体として高いリターンが期待できるのでは、という意見もあろう。リターンはゼロではないだろう。しかし、過去の研究でのエビデンスはほとんどが貧困家庭の子どもに対する効果である。すでに週5日間、半日以上幼稚園や保育所に通っている中高所得家庭の子どもに対し、さらに習い事をさせたときに高いリターンあるどうかについては、確立されたエビデンスは見当たらない。
そう考えると、日本では、4-5歳児に対する一律の無償化は、必要性ないどころか教育格差のさらなる拡大をもたらす可能性さえある。幼児教育への公的投資に意味があるとすれば、4-5歳で幼稚園や保育所に通っていない5%の子どもへの支援と、3歳以下の子どもの教育とケアの充実に結びつくとしたらである。これらの子どもの焦点を当てた政策でなければ意味がない。
そのために必要なのも一律の無償化とはいえない。5%の子どもがどのような状態なのか、徹底的に調査した上で、対応を検討すべきであろう。これらの子どもが(たとえ保育料が減免されていても)就園できない理由が親の無関心であれば、それは無償化では解決できない。そのような調査と分析を進めながら、家庭へのきめ細かい指導と補助金との連携を模索すべきであろう。
3歳以下にこそ手厚く支出すべき
3歳児以下に対しては、すべての幼稚園での3年保育実現にむけた地道な補助金の拡大と、増大し続ける保育需要に対応した保育所の増設が優先されるべきだ。危惧するのは、必要性に乏しい4-5歳への無償化により、保育所や幼稚園の3歳以下の定員拡大のための補助金の充実や、現在の保育の質の向上(これには保育士等の待遇の改善も含まれる)のための支出の余地がなくなってしまうことである。保育の質の向上は、それ以外の習い事への需要を減らすことに繋がる。すなわち教育格差を減らす方向に働く。保育料を無料にするのではなく、徴収したまま質を上げる方向にお金を使った方がよいのではないか?
付け加えると、3歳以下の保育所については、無償化されれば需要は格段に増えるはずだ。今でも容易ではない3歳以下定員の増加はますます困難になる。すなわち、待機児童の解消への道は遠くなる。
また、5%の子どもに手をさしのべるためには幼児教育の義務化が必要だから、その前提として、無償化を先行させるべきという意見があるかもしれない。そこには2点の問題がある。第一に、無償化は義務化の前提とはいえない。事実、義務教育である小中学校段階で、私立は無料ではない。第二に、幼児教育段階で義務化が望ましいかも検討が必要だ。日本の教育政策では、義務化すると、「何を義務として教えるべきか」と教育内容や時間への統制強化が伴う。自由と多様性が保たれている幼児教育文化において、国の介入が強化されることを社会は望むであろうか。
95%の人がほぼ満足し、自発的に保育料を払って子どもを通わせている現状に対し、5%の子どものために膨大なコストを払ってすべてを義務化や無償化するよりも、別の方法で、5%の子どもにきちんと連絡がとれ、一定水準の教育環境が与えられていることを強制的に確認できるようなシステムを作る方が、よほど効率的ではないだろうか。
そうはいっても、教育費の私的負担の高さが少子化の原因になっているのではないか、という主張もあろう。それはもっともである可能性が高いが、相対的には、学費が上昇し続けている高等教育や学校外教育(塾・習い事)の負担が重いことが大きな原因ではないだろうか?少なくとも、教育投資の収益とは別次元で精査と議論されなければならない。
現在の政策の決定過程の最大の問題は、事実の確認も、それを踏まえた当たり前の議論もほとんどなされていないことだ。他国の結果や権威の主張を盲信することは、科学ともエビデンスに基づく政策とも相容れないことを心に刻むべきである。
プロフィール
赤林英夫
慶應義塾大学経済学部教授。1996年シカゴ大学より経済学博士号(Ph.D)取得。通商産業省、マイアミ大学、世界銀行などを経て、2006年より現職。2010年より「日本子どもパネル調査(JCPS)」の収集と分析を主導している。編著に『学力・心理・家庭環境の経済分析』(有斐閣)がある。また、2011年より学校教育情報サイト「ガッコム」の運営代表も務める。