2020.08.24
ビッグデータ時代の教育実践――EdTechの可能性と課題
1.本稿の目的
アメリカの詩人ロバート・フロストが「良い垣根は良い隣人を作る」と書いたように、明確なルールに基づいて棲み分けるのは、互いにとって有益なことである。しかし、良き隣人とは、共通の目的に向かってお互いを助け合うこともできるはずだ。
コロナ禍において、デジタル・テクノロジーを介した教育が実験的に進められていることに鑑みれば、教育と技術の関係を考えることは、社会学者や教育学者、デジタル・テクノロジーの専門家にとっては、そのようなプロジェクトかもしれない。そこで、近隣の住民が互いを参照し合うのを促すために、隣接する専門領域を隔てる垣根にあえてまたがってみたい。
この論考での私の目的は、教育実践にいまどのような技術が介在しようとしているのか、それにはどのような課題があるのか、そして、そのような課題にどのように向き合っていくべきなのか、これらの問いに向かって、いくつかの分野を緩やかにつなぎ合わせることである。それゆえ、この論考は、先行研究(1)をガイドに複数の分野をめぐる弾丸ツアーとなるだろう。
2.EdTechの賛否
現代社会を特徴づける過去30年間の最大の特徴は、デジタル・テクノロジーの継続的な発展である。情報通信技術や情報処理技術の高度化は、スマートな製品を次々に生み出し、第三次AIブームを牽引する起爆剤ともなっている。Porter and Hepplemann(2014)によれば、スマート製品は従来の製品を機能拡張したものというよりも、市場競争や価値共創にも大きな影響を与えるものであるという。
彼らは、スマート製品が有するケイパビリティは、「モニタリング」・「制御」・「最適化」・「自律性」の順に4つのレベルがあり、各性能はそれ自体が有用であると同時に、次のレベルの土台としての役割も果たすと論じている。
事実、センシング技術の高度化は、センシング対象の状態や外部環境、稼働状況(以下、これらを合わせてステータスと呼ぶ)をリアルタイムで捕捉し、ステータスの変化を「モニタリング」することを可能にした。このようなステータスの「モニタリング」履歴は、高度な情報処理技術と結び付くことで、センシング対象を「制御」する性能を飛躍的に向上させ、効率を劇的に改善する「最適化」という性能を備えるに至っている。そして現在、こうした「最適化」性能を拡張することにより、ステータスに応じて適切なアルゴリズムを自動的に切り替えて作動させたり、アルゴリズム自体を生成し自己適用したりする、かつてはサイエンス・フィクションでしかなかった高い「自律性」を備えた製品の研究開発が進められている(堀内 2018:27)。
段階の違いはあるとしても、このようなケイパビリティを持つデジタル・テクノロジーが社会生活の隅々にまで深く関わっていることは否定できず、しかるに、現代の教育実践にも多大な影響を与えていることは驚くに値しない。事実、教育機関でのオンライン学習システムやiPad・電子黒板の利用拡大といった学習面のみならず(Melhuish & Falloon 2009, Allen and Seaman 2011)、学習者と教育者の双方に対する業績管理システムを通じて、教育実践の有効性を指標化するためにも、デジタル・テクノロジーの活用は進んでいる(Facer 2012)。
教育実践にデジタル・テクノロジーを介在させる試みは、教育(Education)とテクノロジー(Technology)を掛け合わせることから、「EdTech」と呼ばれることがある。EdTechの市場は、いまでは7兆ドル以上の価値があると推定されており(Facer & Selwyn 2013:9)、Pearson、Cengage、McGraw-Hillなどの多国籍企業がしのぎを削る、収益性の高いビジネス領域と目されている。教育行政の側でも、オーストラリアの教育当局が2016年に全国学力テストにEdTechを導入したことも手伝って、EdTechはこれまでの教育管理や形式的な教育環境に代わる新たな実践として、好意的に語られている。
他方、社会の情報技術化を批判的に捉える文脈では、Castells(2006)が再燃させている「技術決定論」という表題の下、EdTechの導入は、教育実践の脱専門化や教育目的の矮小化をもたらす新自由主義的な改革と目されているほか、「失敗の教育的価値」が損なわれるとの理由で、EdTechは教育と学習のレジリエンスを狭めるのではないかと懸念されている(Willis 2014)。また、これらの懸念に加え、EdTechは、教育実践を計画可能で測定可能なものに切り縮めるゆえに、紆余曲折しながら思考や判断を深める機会を奪い、「学習に関する意思決定プロセスから、子ども自身の具体化された経験と声を消し去っている」(Lupton & Williamson2017:790)とも批判されている。
このような賛否はしかし、Hamilton & Friesen(2013:1)の言葉を借りれば、「テクノロジーに対する暗黙の哲学的視点によって制限された」総論的な見方に過ぎず、デジタル・テクノロジー無しでは済まなくなった社会の中で、EdTechを虚心坦懐に評価する役には立たない。目下の社会の中でテクノロジーを批判的に見ることは、破壊的ではなく建設的な作業でなければならない(Castañeda & Selwyn 2018:7)。しかるに、どのテクノロジーもそうであるように、EdTechも、総論的な評価より個々の課題に即した具体的な検討が必要である(2)。そうした作業では、EdTechがミクロにもマクロにも何を再生産するのか、誰の利益になるのかも併せて考察することが必要だろう。というのも、これまでの教育学や教育社会学がさまざまな形で示してきたように、教育や学習は、教室の中で行われるミクロな実践であるだけでなく、政治・経済・文化に関わる諸制度と不可分な、マクロな実践でもあるからだ(Apple 2010)。
3.EdTechの可能性
「技術が社会を決めるのではなく、社会こそが決めるのだ」(Castells 2006:3)という強い信念は、しばしば、技術の介在は主体性を蔑ろにするという結論に至りつく。こうした結論のすべてが間違いだとは言えないが、教育における新自由主義的な改革が、学習者を消費者に変え、教育そのものを公共財よりも私的財として位置付け始めているという一連の分析(Brown 1997, Holmwood 2011)と合わさると、この傾向はいっそう強化される。そうなると、デジタル・テクノロジーがもたらす解放的な可能性や自由奔放な創造性(Ruckenstein 2010:7)も、新自由主義的な起業家精神として否定的にカテゴライズされ、一顧だにされなくなってしまう。それでは、産湯もろとも赤子を流すのも同然である。
学校や教室が教育や学習にとっての「聖域」であることを願う研究者や教育者たちは、国家や市場の圧力から、教育の現場が相体的に自律的であることを求めてきた。国家や市場にとって直接役に立つことや、それらに順応する仕方だけを教えるのではなく、教育実践は、それらに抵抗する仕方も含めた人格陶冶を担うものだというのが、彼らの主たる主張だ(Brown 1997, Holmwood 2011, Biesta 2015)。この主張には、確かに肯首できる点が多い。
しかし、この主張が粗雑な技術決定論と結び付くなら、その時には再考を迫る必要がある。というのも、デジタル・テクノロジーはしばしば、「学習者がシステムに従うのではなく、システムが学習者に従う」(Green et al. 2006:3)ようにも機能するからである。Hope(2010)をはじめ、いく人かの研究者たちは、生徒や教師たちが教育現場や組織を「逆監視」することで、監視者から否定的なレッテルを貼られることに抵抗し、自らを主張するためにテクノロジーを用いていることを明らかにしている。このような可能性は、個々の学習者の福祉と発展に関心がある者には魅力的であり、不平等を結果的に再生産してきた既存の教育に対抗することを望んでいる者にとっても同様に魅力的なものである。要するに、このような機能は、本来、民主的教育の理想や、学習者自身を教育実践の共同作業者として位置づけようとする、昨今の教育理念とも親和的なはずである。
繰り返せば、デジタル・テクノロジーを介した教育実践は、教育や学習を相対的に自律させようとする関心の下で、教育を外側から構造化しようとする圧力や、伝統的かつ形式的な教育機関から個人を解放し、学習者のより多様なニーズとリソースに開くものとして、ポジティブに評価することもできるはずなのだ。
4.教育的思考と技術的思考のアマルガム
EdTechの可能性を評価し、それを軌道に乗せるには、デジタル・テクノロジーを介した教育や学習を不当に評価しがちな、窮屈で、説得力のない教育的思考のアマルガムを取り除く必要がある(Facer & Selwyn 2013:6)。そうしたものの典型は、EdTechは、学校での教育実践を「コモディティ化」するという批判だろう。後述するように、EdTechが人間の教師を不要にする技術として求められる時には、確かに学習の質や教育機会の平等の観点から、この批判は有効なものだと言える。しかし、この批判が、EdTechは課題解決型学習(Project-Based Learning)に資するばかりで、問題発掘・発見型学習 (Problem-Based Learning)を蔑ろにする、と含意するものであるなら一利もない。EdTechは必ずしも、課題解決という目標に準拠した評価を中心とする、いわゆる「工学的アプローチ(technological approach)」にのみ親和的で、学習経験の質を複眼的に評価する「羅生門的アプローチ(rashomon approach)」をお座成りにするというわけではないからだ(Albion 2007:11)。実際、いくつかの研究(3)では、EdTechが問題発掘・発見型学習において成果を上げたことを報告している。
何れにしても、技術開発は日進月歩であるのだから、このような先入観に基づく教育的思考のアマルガムは、やはり取り除くべきである。しかし、それと同じだけ技術的思考が陥りがちな、希望的観測を取り除くことも必要だ。ここに言う希望的観測とは、「データによる統治」と表現されるもののことである。
冒頭に述べたスマートデバイスのケイパビリティが、いわゆる「ビッグデータ」の蓄積と利用を推進し、「データによる統治」は、ガバナンスと説明責任を根本的に民主化する潜勢力として理解されるまでになっている(Davies & Edwards 2012)。デジタル・テクノロジーとビッグデータは、いまや政治・経済・文化をはじめ、さまざまな分野を調整する土台になりつつある。データ駆動型の学習分析の利用が増加していることに鑑みれば(Selwyn 2014:2)、この土台が教育実践にも適用され、「データを通じた教育の統治」(Ozga 2009)が推進されているのは明白だろう。
しかしながら、Kitchin & Dodge(2011:6)が指摘しているように、この土台は、特定の意図のもとに「コード化されたインフラ」なのであり、中立的な技術的手段とは言えない。実際、中国やアメリカなどは、治安行政の「最適化」を目的に、「モニタリング」対象者の将来の行動を予測し、それを「制御」することを試み始めている(4)。そして、Knox(2010)によれば、予測に基づく「最適化」は、EdTechを通じて教育でもすでに起こっている。
EdTechは、喧伝されるところでは、教育者や学習者の実践を「最適化」するものである。しかし、そうした見方は、教育実践をミクロに捉えた場合であって、マクロに目を向ければ、教育者と学習者の実践をデータ化し、その活用を「最適化」しようとする別の主体がいることに気付く(Lewis & Holloway 2019)。
その主体とは、EdTechのためのデバイスやアルゴリズムを提供する、民間企業のことである。EdTechの活用は、いまやオンラインで行われる知育に限ったことではない。学校で行われる保健体育でも、アクティビティトラッカーやバイオセンサーを用いる「eHPE:electronic health and physical education」が始まっており、学校の内外を問わず、教育実践に対する民間企業の影響力が増大している(Williamson 2014)。Selwyn(2016:131)の誇張された表現を借りれば、「EdTech」に関わる民間企業は、「影の教育省」になりつつある。
要するに、Kenway et al.(1994)が早くから予測していたように、デジタル・テクノロジーが教育実践に占める割合の増加は、民間企業が教育政策に占める割合の増加をも意味するようになってきているのである。これは当然、学校教育やカリキュラムの目的を誰が決定すべきか、という重大な問題を引き起こす。公教育の目的や意図が、教育ビジネスの営利的動機によって侵食される可能性を含んでいるなら、デジタル・テクノロジーを介した教育実践を、手放しで評価することはできない。この点でも希望的観測は、やはり割り引かれるべきである。
5.Digitalisation―補完か、代替か
以上では、「デジタル・テクノロジーを介した教育実践」という表現を用いてきた。この表現の含意を正しく伝えるには、「Digitization」と「Digitalisation」の相違に言及しておく必要がある。前者が、アナログ情報をバイナリ形式にエンコードするプロセス、すなわち紙の文書や印刷された画像のデジタル化を意味するのに対して、後者は、アナログなプロセスをデジタルプラットフォームに移行させることで、新しい価値を創出することを意味する。この点を踏まえれば、「デジタル・テクノロジーを介した教育実践」とは、後者の「Digitalisation」であると言える。
その具体例の一つは、コンピュータ適応型テスト(CATs: Computer Adaptive Testing)であろう。CATsは、既存のペーパーテストをデジタル化したCBT(Computer-based Testing) とは異なり、受験者が認知的・感情的にどのようにテストに取り組んだかについて(5)、教師や受験者にリアルタイムにフィードバックすることができるほか、受験者の能力とテスト項目のマッチングを「最適化」することで、学生に興味を失わせること無くテストを確実に終了させることができる(Shapiro & Gebhardt 2012:296)。また、Wang et al.(2013:381-382)によれば、CATsは、解答時間に関するデータを収集することができるので、不正行為を検出するためにも利用できる。
EdTechは、これまで収集できなかった学習の側面に関するデータを収集し、それらのデータを新しい方法で組み合わせて分析することで、学生の理解力やパフォーマンスを向上させたり、教師や管理者と共有して教育システムを改善したりすることができる(Mayer-Schönberger & Cukier 2014)――そのように期待されているのである(6)。
しかるにHill & Barber(2014)は、CATsは従来のペーパーテストよりも、教師の教育学的な考察に役立ち、ひいては学校や教室の集団から個々の生徒へと、教育実践の焦点を変える潜勢力を持つと評価している(7)。
このようなCATsの役割は、既存の教育実践を技術的に「補完」するものだと言える。しかし、希望的観測の下ではむしろ、CATsをはじめとしたEdTechには、既存の教育実践を技術的に「代替」するティーチング・マシンであることが期待されている(Hwang 2003:219)。つまるところ、EdTechは、人間の教師なしに、より効率的な教育や学習を可能にすると期待されているのである。実際、最大の教育費が教員給与である低・中所得国の学校教育制度では、コストを削減する目的で、EdTechは、人間の教師に置き換わる可能性があると示唆されている(Sellar & Hogan 2019, Riep 2015)。
EdTechに関する教育実践に固有の懸念(8)は、実は、このような「代替」的な役割が期待されるところに生じている。
先述の通り、低・中所得国ではすでに経費削減を目的に、EdTechが人間の教師の代替として活用される可能性が増している。EdTechによる代替は、今後、高所得国でも進む可能性がある。これにはどのような問題があるのだろうか。
先行研究の多くは、「教師の脱・専門化」を挙げている。例えば、Sellar & Hogan(2019:4)やJunemann et al.(2015:26)、Riep(2015)は、EdTechが代替するようになれば教職資格は重要ではなくなるので、無資格の教師とEdTechが教育全般を担うことになるのではないか、と懸念している。この懸念は、「性能的に不十分なEdTech」と「能力的に不十分な教師」の組み合わせでは質の良い教育実践は提供できない、と心配したものであるなら妥当なものだと言える(9)。というのも、実証的な研究によって、教師の役割を担う者の専門的な知識と実践の質(10)こそが、学習向上の鍵だと明らかにされているからである(Hattie 2008)。
しかし、そうであればEdTechの性能が向上すれば――問題発掘・発見型学習も十分に可能にするなら――、この懸念は早晩無くなるかもしれない。EdTechが十分な性能を備え、教育の面では無資格ながらケアマネジメントに長けた人物が補助に回れば、「教師の脱・専門化」を懸念する声は、専門職たる教職の雇用環境を憂う声でしかなくなる。教育実践の質の確保をめぐる問題と、教職の雇用環境をめぐる問題は必ずしも一続きのものではないことを踏まえれば、「教師の脱・専門化」という批判は、EdTechの現段階にのみ妥当性する、限定的なものだと言えよう。
では、EdTechの次段階、つまり性能が向上した場合はどうか。先述の通り、教師の役割を担う者の専門的な知識と実践の質が学習向上にとっての鍵であるなら、EdTechの性能向上は、学習面での教育実践のミクロな問題を解決する、と言えそうである。しかし、確かにそうだと言うためには、マクロな問題についても検討しておくことが必要だ。
つまり、EdTechに関するデバイスやアルゴリズムの大半が、民間企業によって提供されている事実を思い出す必要がある。EdTechは、教育機関や学習者にとっては教育実践をサポートするツールの一つだが、それを提供する民間企業にとっては収入源となるサービスや製品だ。そのため、組織や個人が活用できるEdTechのコンテンツやカリキュラムは、基本的には、それらを提供する民間企業との間でどのような契約を結んだか、要するにコンテンツやカリキュラムの購入額に依存するということになる(Sellar & Hogan 2019:14)。この事実は、教師の役割を担う者の専門的な知識と実践の質が、すなわち学習向上の可能性が、EdTechを活用する組織や個人の支払能力によって左右されるということを意味する。
この論点は、EdTechの性能がどうであれ妥当するゆえに、「教師の脱・専門化」という論点よりも遥かにシリアスなものだと言える。
この論点はさらに、学習向上の可能性だけでなく、教育の集団的、社会的、公民的な目的がEdTechのコンテンツやカリキュラムに反映される時には――先述の通り、それを民間企業に一任してよいのかという別の問題もあるが――、それらとの接触頻度が、民間企業との契約内容(購入額)によって変化すること意味するようになるので、教育の公的な目的が一律に伝達されなくなる、という別の懸念も生じさせることになる。
必要な対策を講じることなくEdTechに「代替」的な役割を持たせるのは、教師の能力差を平準化し、その意味で教育機会の平等を促進するという期待に反して、教育機会の不平等をさらに悪化させる可能性があるのだ。
6.EdTechを活かす道
このようにEdTechには、アルゴリズムやビッグデータに起因するテクノロジー問題とは異なる、教育実践に固有の懸念がある。こうした固有の懸念への対策は、そもそもどのような懸念があるかの検討も十分ではないゆえに、テクノロジー問題に比べて遥かに立ち遅れている。EdTechを用いるか否か、といった「あれかこれか式」の思考が、実践的な対策や改善を不十分なものにしているとすれば、既存の教育と新規のテクノロジーを組み合わせる「あれもこれも式」の思考に、早急に切り替える必要がある。
遅かれ早かれビッグデータをリアルタイムで分析・予測する学習分析と、サイコインフォマティクスのプラットフォームを組み合わせたアプローチは、教師と生徒の双方のパフォーマンスに影響し、なおかつ教育実践を学校という制度的な枠組みの外へと連れ出すことになる。このアプローチに対する批判は有意義であるほど、結局はこのアプローチの改善へと、つまり存続につながっていく。
こうした中で教師の役割や専門知識は変化を迫られることになるが、本稿ではむしろ、積極的に変化していくことが不可欠だと主張したい。というのも、EdTechが「補完」的な役割に留まる時でも、教師が教育学的な考察のために参照しうるデータの量や質は、個々の学習者を詳細に把握するにも、EdTechを活用するすべての学習者との比較をするにも、以前とは大きく異なるだろうからである。そうしたデータは、学習経験の質を複眼的に評価する役にさえ立つだろう。
データの質と量の変化は、他の分野と同様に教育実践においても、現在の介入モデル(問題の特定後の行動)を、「モニタリング」対象のステータスに基づいた予防モデル(問題の発生前の行動)へと移行させるはずである。しかるに、Cope & Kalantzis(2016:8)が言うように、「このような環境で教え、学ぶには、新しい専門的で教育的な感受性が必要であり、誰もがある程度データアナリストになる」ことが不可欠だ。
「補完」的な役割を果たすEdTechの学習分析・評価を鵜呑みにするのでなければ、EdTechと協働する教師の側にも、当然、複数のデータソースの理解、データの正確性・適切性・完全性に関する理解、データの評価目的、分析結果を指導に転化するスキルなど、あらゆるタイプのデータを実行可能な教育知識と実践に変換する能力が必要になる(Mandinach & Gummer 2016:367)。
そして、教師はこうした能力だけでなく、データ利用に関する「新しい専門的で教育的な感受性」を身につけることも必要になるはずだ。というのも、教師のデータ利用に対する信念や自己効力感、態度が、教育実践においてデータ利用を効果的なものにするか否かを大きく左右することが、複数の研究(11)において明らかにされているからである。
繰り返せば、教育関係者の多くが、デジタル・テクノロジーに精通していないユーザーのままであるなら、EdTechを提供する民間事業者の営利目的と相まって、EdTechは、ポジティブな可能性よりもネガティブな可能性を増大させることになる。しかるに、EdTechを「補完」的手段として有効活用し、その「代替」的役割を牽制するにも、人間の教師の側もそれに見合った能力や資質を身に付けねばならないのである。
教育実践に直接にも間接にも関わる者が取り組むべき仕事は明らかに多い。それは教育を対象とする研究者も含まれるが、研究者はさらに、上記の方向に沿って教育実践をマクロにも支援する道筋を考えることが必要だろう。みなで知恵を絞ることが必要だが、本稿では残されたスペースで、追求する価値があると思われる4つの道筋を示しておきたい。
その第一は、EdTechを推進する政治的なプロセスを「再政治化」すること、すなわち教育ビジネスにEdTechを開発する権限を移譲するのではなく、開かれた論議の的にする道筋を見つけることである。開発でも運用でも、公共性や公平性を実現する方途を考えねばならない。
第二は、EdTechの開発資金にも増して、それを使いこなす教師の能力開発のための資金を捻出する道筋を見つけることである。EdTechの開発費に、教師の人材育成のための費用が割り当てられることがあってはならない。政策立案者にも、市民にも、EdTechと人間の教師は相補的であると理解させることが必要だ。
第三は、EdTechがデータサイエンスの技術だけでなく、教育実践の技術を反映するように、研究分野を超えた協働を可能にする道筋を見つけることである。それには、本稿で触れたように、教育的思考と技術的思考のアマルガムを取り除くことや、課題解決型学習と問題発掘・発見型学習の両立を図ること、そして、学際領域を拡充することも必要になるだろう。
そして最後に第四として、教育的価値とみなされてきたものが、今後もなお価値あるものである保証がどこにあるのか、これからの時代の中で論証する道筋を見つけることが必要だ。例えば、失敗や努力の教育的価値は、なお重要だと言えるのだろうか。失敗を未然に防ぎ 、闇雲な努力を不要とする技術的な介入は、そうした価値に照らして「悪」なのだろうか。かつて、アルベルト・アインシュタインは「調べられるものを、いちいち覚えておく必要などない」と言ったというが、この言葉は、かつてよりいまの方が有意義であるかもしれない。
これらの課題はどれも、教育実践に携わる者に、EdTechに対して垣根の内側からコメントすることを許さず、当事者として、開発者として、設計者として自分自身を再配置することを、つまり垣根を超えることを求めている。
【謝辞】本研究はJSPS科研費(20H01582)の助成を受けたものである。
【註】
(1)本稿では特に、Facer & Selwyn(2013)、Wyatt-Smith et al.(2019)を参照した。
(2)本稿では詳細に検討することはできないが、EdTechに関しては、ユーザーとなる学習者の年齢や発達段階によっても、どのような内容をEdTechに反映しうるか、どのように活用するか、利用する頻度はどうあるべきか、といった問いに対する答えは変わってくる。その意味でも、個別具体的な検討が必要だと言える。
(3)例えば、Taradi et al.(2005)、Tambouris et al.(202)を参照されたい。
(4)このような傾向は、監視社会という枠を超えて、情報技術を介して「他者の可能的行為の領域を構造化する」(Foucault 1982:790)規律訓練社会の再来とみなすこともできる(堀内2019)。
(5)EdTechの機能の一つに、「感情的学習分析(emotional learning analytics)」がある。これは、学習者の感情状態をリアルタイムで自動検出し、評価、分析、予測するものである。詳しくは、Rientes & Rivers(2015)を参照されたい。
(6)Williamson(20018:62)は、EdTechに用いられている「予測学習分析とサイコインフォマティクスのプラットフォームの背後にある究極の目的は、学習の認知的・感情的相関のシグナルを学生の身体から『読み取る』ことであり、そこから具体的な行動や感情的行動の好ましい形に向けて彼らの能力を『彫刻する』ために介入すること」であると述べている。
(7)Hill & Barber(2014:45)は、次世代の学習システムについて次のようにも述べている。「次世代の学習システムは、評価データを継続的に照会し、学習と教育のプロセスに即座に詳細なフィードバックを提供するアルゴリズムが組み込まれることになるだろう。……これは、教室内で日常的に発生する膨大な数の取引の中からパターンや関係性を発見するためのデータマイニングとデータ分析の応用によって、ますます実現可能になるだろう」。
(8)先行研究において、EdTechに関する懸念として論じられているものの大半は、アルゴリズムやビッグデータの問題である。例えば、Polonetsky & Jerome(2014)やWilliamson(2017:121)、Lupton & Williamson(2017)は、EdTechが収集するデータに関して、データ収集における学習者・教育者の同意やプライバシー保護、所有権など、未解決の懸念が残っていると指摘している。また、Wyatt-Smith et al.(2019)は、Mittelstadt et al.(2016)などを引用しつつ、EdTechに用いられるアルゴリズムも、バイアスのかかった学習評価を行う可能性があると指摘している。これらは何れも重要な問題だが、法的な整備も含め、すでに対策が検討され始めている。他方、EdTechに関する教育実践に固有の懸念は、本稿で論じる通り、上記の懸念が払拭されても残るが、固有の懸念とは何かという検討そのものが、依然として不十分だと言える。
(9)Chmielewski(2019)は、低・中所得国で性能的に不十分なEdTechが人間の教師を「代替」するようになれば、そこで教育を受けた生徒と、高所得国で質の高い教育実践を得られた生徒の間に教育実践上の格差が生まれ、学校教育の経験と成果における不平等を悪化させる危険性があると指摘している。
(10)ここに言う「専門的な知識と実践の質」には、課題解決型学習のみならず、問題発掘・発見型学習 を可能にするものとの含意がある。
(11)詳しくは、以下を参照されたい。Bertrand & Marsh(2015:872)、Datnow & Hubbard(2015)、Van Gasse et al.(2016)。
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プロフィール
堀内進之介
1977年。博士(社会学)。東京都立大学客員研究員、Screenless Media Lab. 所長、株式会社JTB 新宿第三事業部 上席顧問ほか。単著に『善意という暴力』(幻冬舎新書、2019年)・『人工知能時代を〈善く生きる〉技術』(集英社新書、2018年)・『感情で釣られる人々』(集英社新書、2016年)・『知と情意の政治学』(教育評論社)、共著に『AIアシスタントのコア・コンセプト: 人工知能時代の意思決定プロセスデザイン』・『人生を危険にさらせ!』(幻冬舎)ほか多数。翻訳書に『アメコミヒーローの倫理学』(パルコ出版、2019年)・『魂を統治する』(以文社、2016)がある。