2017.03.08
「ボキャブラリー」の変化が、人間の思考を変化させている――思想を歴史的に研究する意味とは
人文系の学問は、とにかく本を読むのが仕事というイメージがあります。しかし実際には、本を読んで、それから何を考えているのでしょうか? 特に抽象的な思想や哲学の本は、いったい何の意味があるのでしょうか? 今回お話を聞く重田先生は、「意味はあるかって、そんなのあるに決まってる」と喝破します。
明治大学4年生の私、白石が今までずっと気になっていた先生方にお話を聞きに行く、短期集中連載『高校生のための教養入門特別編』の第7弾。現代思想・政治思想史が専門の重田園江先生に、高齢者問題からトランプ現象の特異性まで、思想家のミシェル・フーコーを経由して熱く語っていただきました。(聞き手・構成/白石圭)
ある本が50年経っても読まれている理由について、私たちはもっと深く考えるべき
――先生のご専門である現代思想と政治思想史について教えていただけますか。
まず現代思想ですが、これは定義がしっかりと決まっていないんです。「ポストモダン」というのを現代思想だという人もいて、その場合は1960年代以降の、近代を批判するかなり最近の思想を指します。
その一方で、近代思想の次に出た現代思想という考え方もあって、その場合は近代がどこで終わるかというのが問題になります。人によって考え方は違いますが、私は1880年代あたりが近代の終わりで現代の始まりだと思っています。近代と現代の区分がなぜ難しいかというと、そもそもヨーロッパには「現代」に相当する言葉がないからです。近代も現代もすべて「モダン」と呼ばれていますからね。
近代と現代を区別するのは、実は中国語、漢字文化から来ています。じゃあ中国における近代と現代の境目はどこにあるのかということが問題になるのですが、今の日本ではあまり中国の概念は意識されていない。「現代」は言ってみれば英語の「コンテンポラリー」に近いのですが、コンテンポラリーよりはスパンが長い。だから日本における「現代」は日本語独特の概念なんですよね。
政治思想史についてもなかなか難しいです。政治思想というのは、もともと政治学そのものだったんです。政治学の源流は中国やエジプトなど「文明」と呼ばれるたくさんの地域にあったはずですが、ヨーロッパ政治思想の始まりといわれているのが古代ギリシャです。古代ギリシャの政治思想は現在まで継承され続けています。ですので政治思想とは何かといえば、それはかつては政治学そのもので、言い換えれば政治学のなかには政治思想以外の分野がなかったということになるんですね。
では、政治思想が政治学の一分野になっていくのはいつからかというと、かなり最近のことです。人によって考え方は違うと思いますが、戦後のアメリカで「ポリティカル・サイエンス」とよばれる分野が誕生したことが大きな変化になりました。
これはたとえば投票行動分析など、政治をデータなどを用いて実証的に捉え、それによって科学としての客観性を保証しようとするような研究のことですね。そこではじめて政治思想以外の政治学の分野が登場したともいえます。もちろん、行政学、財政学といった分野は存在していました。しかし、ポリティカル・サイエンスの登場によって政治学に新しい分野が次々と生まれたのも事実なんです。
――となると、先生が研究されているのは、いわゆる「政治学」とは違うということですね。
政治思想研究者のなかには、「ポリティカル・セオリー」という英米発の理論的な研究をする人も多いです。思想というより理論として捉えるのがアメリカ流なんですよね。たとえば正義とは何か、平等とは何か、民主主義とは何か。ある思想家の考えをトータルに捉える、あるいはある言葉が歴史的にどのように使われてきたかをたどるより、正義についての一般的な理論を作ろうとする。
このような考えは、先ほどのポリティカル・サイエンスとある面では対立するのですが、歴史や思想の来歴をたどること自体を学問の核とするという発想がない点はどこか似ています。これに対して、私の手法はヨーロッパ発の思想史研究なので、非常にクラシカルです。一見すると昔のことばかり話しているように見えるはずです。
――お話を聞いていると、英米流のポリティカル・サイエンスは時代の要請によって始まった学問なのかな、と思いました。つまり「今の時代にはこれが必要だ」ということで誕生した学問なのだと思うんですね。その一方で、クラシカルなヨーロッパ流の政治思想史を今研究する意義はどこにあると思いますか?
それはあるに決まっています。今の人が考えていることなんて浅はかなんですから(笑)。昔の人はすごいですよ。だって50年、いや数百年経っても読まれている本を残しているわけですから。
今は毎月たくさんの本が書店に出ていますが、1年と経たずに消えていくものばかりじゃないですか。そうすると、50年経ってもまだ読まれている本には、何か重要ことが書いてあるという考え方もできますよね。実際、アリストテレスの本にもなると千年単位で残っているじゃないですか。そういう本は、やっぱり内容もすごいんですよ。
――人文系の学問全体に言えることかもしれませんが、いろんな著作を残した昔の人について研究するって、どういうことなんでしょうか。つまり、読んで、それでどうするんでしょう。
すでに多くの人によって解読され読み尽くされてきた本を改めて読んで、何か新しいものが出てくるのだろうかと思うかもしれませんが、あるんですよね。それはなぜかというと、時代が変わるからです。
時代によって著作へのスポットの当て方も変わってくるし、読む側の関心が変わるとまったく違って読めるんです。つねに新しい読みをするなんて無理だと思うかもしれませんが、時代ごとに自然とその時代にふさわしい読みが出てくるんですよね。だからこそ偉大な本というのは数百年経っても読まれ続けるわけです。
普通の人の考えというのは、時代に寄り添っているものです。だから時代が終わるとともに消えていく。でも偉大な思想家は、時代が変わることによって新たな側面を見出すことができるんです。
たとえばジャン・ジャック・ルソーなど、比較的古い人物の研究をやっている人ほどその喜びは分かると思います。「これだけ読まれてきたものに自分が新たな読み方で接近しているんだ」という感じを持つことができますから。それが、ある時代に生きつつ、思想家を読むということなんでしょう。
――ルソーは「『社会契約論』がフランス革命のきっかけになった」と教科書では理解しているんですが、それとは別のルソーの捉え方があったりするのでしょうか?
たとえば戦後の日本においてルソーは、人民主権の思想家として読まれていました。戦前の軍国主義の反省として民主主義を大事にしようという空気のなかでルソーが読まれた結果、そのような解釈がされたんですね。
でも、今の読まれ方は全然違います。『社会契約論』のなかには、人権とは関係ないけれども国民や国家についての重要な話がたくさん書かれています。だから今は、今まで注目されてこなかったそこの部分を読み直そうという研究者もいます。
他にもルソーには『政治経済論』という本があるのですが、それが非常に根本的な近代批判になっています。そもそも生活必需品でもないものを皆が欲しがって、それを人に見せびらかしたりする社会を全部くだらない、というんです。
いらないものを持って喜んでいる人々は倒錯していると言うことで、文明批判をしているんですね。これをどう解釈するか。「時代遅れの批判だ」と退けるか、それとも「いったいルソーは本当は何を言いたかったのだろう」と考えるかが、読み手の力量の試されるところです。
思想家の話というのは、もちろんその人が生きていた時代について語られているんですが、批判が根源的であればあるほど時代が変わっても生き延びる。だから「もしかして今の時代に当てはめるとこういう話になるんじゃないの?」と考えることが重要なんです。
思想家の全体を捉えるということも大事ですが、思想家というのはたくさんの仕事を残しているので、全体を完璧に捉えるのは到底できません。そこで、ある角度から思想家を読んで新しい側面を取り出そうとするのが、思想史という学問の面白いところです。
そもそもどうして犯罪者は監獄に入れられるのか。その必然性は、ない。
――そのなかで、先生はミシェル・フーコーという思想家について研究されているんですよね。フーコーはどういうところが面白いのでしょうか?
その前に聞きたいんですが、今、皆の間で流行っている思想ってありますか?
――……ないと思います。
ないですよね。つまり今私たちは、新しい流行の思想というものを持たない時代に生きている。しかし、私が学生の頃は、状況が違っていました。最初に言ったポストモダンの思想が流行っていたんです。逆に今流行りの思想がないというのは、それはそれで不思議な現象だとも言えます。
私は当時流行していたポストモダンの思想に触れたのですが、そのなかでもフーコーは、これから先のことを予言しているように思えました。フーコー自身は16世紀から18世紀の、かなり昔のことを書いているんです。にもかかわらず、現在のことについて書かれているように読めてしまう。そこに魅力を感じました。
ほかには、彼の思想が領域を横断しているのも理由のひとつですね。政治思想という学問領域の限界を考えるのにちょうどいい。社会科学系の思想は政治と社会と経済の3つがあるのですが、それぞれの役割分担が決まっているような感じで、互いの領域を侵さないという約束事があったんです。私はそれが変だと思っていました。
現在の政治を捉えるには、これまでのように政治思想の内側だけでは無理なのではないかという感じをもっていました。そこで、領域を横断するフーコーが考えるヒントをくれると思ったんです。
領域と境界の話は重要です。たとえば政治思想をやっていたら、政治思想ってなんだろう、と問うわけです。自分が研究している学問分野の成立の基盤・根拠を問うということです。そして、自明に見えている根拠を揺るがすということをしたいわけです。
それが思想とか哲学の営みです。だから政治思想をやるからには、政治思想批判をやらなければいけないと思いました。フーコーは哲学者であって政治思想の人ではないのですが、だからこそ政治思想の根拠を揺るがすための手がかりが多いと思ったんです。
――先生は今、フーコーについてどのような研究をされているのでしょうか?
研究をはじめてからずっと、フーコーの統治性について研究しています。英語だとガバメンタリティですね。その前に少し方法の話をすると、人間の思考は言葉でできていますよね。そのため、言葉遣いが変わると思考も変わるわけです。その言葉使いがどう変化したのかを調べることで、人間の思考の変化を分析するというのが、今の思想史の研究です。要するに、ボキャブラリーの話を通じて思想史に接近するということです。
たとえば日本において戦後の民主主義、つまり個人や人権の問題は、どれくらい法が人権を擁護してきたか、行政がどの程度法に則って機能しているかという枠組みで研究されてきました。しかし実際の政治は法とは異なる原理と仕組みで機能しているのではないか、というのがフーコーの問題提起です。ではどんな仕組みなのかというと、それは「統治」であるというんですね。
――統治というのは、具体的にはどういうことを指すのでしょうか。
たとえば、悪いことをすると裁判にかけられて、「有罪です」と言われる。これは法による裁きですよね。でも判決が下りた後にどうなるか。痛めつけられるのか、罰金を払わされるのか。それは統治の問題なんですよ。
刑務所はその統治機構のひとつですが、刑務所の運営には、法は直接関わっていません。判決を出したところで統治の領域に手渡される。だから人の生活の中に政治が入り込む時のことを考えるには、法だけに着目していたのではあまり役に立たないんです。つまり人を管理したり、たくさんの人を平和に治めたりするのは法だけではできないということです。
統治について言うなら、そもそもどうして監獄に犯罪者を入れることが普通だと考えられているのか、本当は分からないのです。なぜそれが許されているのか。その根拠は何か。もちろんムチ打ちやギロチンはひどいのでやめよう、という声もあるかもしれませんが、その代わりになる刑罰はいろいろあるはずじゃないですか。
そこでなぜ閉じ込める方向に行ったのかというと、その必然性はないんですよね。少なくとも法的な理由はありません。そこで法ではなく統治という観点から、どうして監獄が誕生したのかということを考える必要がある。これがフーコーの統治性の話です。
エコノミカルな言語が政治に差し込まれていくアメリカ
――先生の本(『ミシェル・フーコー:近代を裏から読む』筑摩書房)を読んで面白いと思ったのは、警察なんていう制度は犯罪者がいなければ誰も認めるわけがない、という話です。そもそもどうして近代は警察という制度をよしとしてきたのかも謎ですよね。これも統治の問題でしょうか。
「警察がいてよかった」「警察が犯罪者を捕まえてくれている」と思うのはおかしいという話ですよね。何が犯罪で誰が犯罪者なのかを定義しているのは政府であって、その一部が警察なのだから。職務質問は迷惑ですが、みんななぜがまんしているか。それは犯罪があるからです。
だから近代の刑務所制度は犯罪を本気でなくそうとしてはこなかった。犯罪があるために人々が警察の存在を許すからです。過激なことを言っているようですが本当のことだと思います。
でも一方で、交番にいるおまわりさんとか、警察の人も大変ですよね。最近だと、「家を出て徘徊している高齢者を保護してほしい」と通報されたりするらしいんですよ。ほかにも「迷い犬を保護してほしい」とか。それから、夫婦喧嘩している夫婦の妻の方がDVだと言って交番に駆け込むことも多いそうです。夫婦喧嘩の仲裁までも警察がやらされる。
今言ったような行為はすべて統治行為です。統治行為というのは、人間の日常生活を秩序づけていく行為です。警察がやっていることというのは、本当は誰がやるべきことなんでしょうか。誰もやらないから仕方なく警察がやっている。だから警察が良いか悪いかというのは難しくて、確かに警察という存在が犯罪者をつくっているというのもあるんですが、一方で彼らは大変な仕事を押しつけられてもいる。
では、どうして警察の仕事が増えているのかというと、社会が壊れかけていて、面倒を見てくれる人が減ってきているからですよね。そういった状況で、どのようにして人の面倒を見ていくのかは統治の問題ですが、ちゃんと議論されていません。
たとえば高齢者の面倒をどう見るか。これから高齢者はもっと増えるわけですし、すべて警察に任せるわけにもいかないですが、家族が担うには重すぎる。つまり、統治というのは、あらゆる社会問題とつながっています。それは政治学の対象とすべき問題なのですが、政治学は統治についてあまり議論してきませんでした。だから社会問題を統治の観点から考え直すというのは新しい試みだと思います。
――なるほど。統治の観点から社会を見ると、また別の考え方をできるかもしれないということですね。
はい。ただ、私の考えでは、今の社会で一番重要なポイントは経済なんですよ。今、法でも行政でも統治でもなく、経済のボキャブラリーがあらゆるところに浸透している。どういうことか分かりますか?
――経済的な合理性で政治を決定している、ということですか?
でも、単に「財政が赤字の時は黒字にするように頑張る」というのは昔からやっていることじゃないですか。そうではなくて、今ボキャブラリーが変わっていることの象徴は、たとえば今年アメリカ大統領に就任したドナルド・トランプ。
彼はもともと政治家ではなく経営者・投資家です。そのためビジネスの発想で政治をやろうとしている。たとえばロシアのプーチン大統領と仲良くしようとしているのも、政治的イデオロギーやパワーポリティクスの発想からは出てこないですよね。こういう戦略は政治の世界の常識ではありえないかもしれませんが、ビジネスの世界では功を奏すのかもしれません。
経済のボキャブラリーが政治の世界に入ってくるというのは、今まではこのような形ではなかったと思います。政治家はあくまで政治家。日本の安倍首相は政治家であって、経営者ではないですよね。だから彼は政治的なボキャブラリーで政治をやろうとしているはず。
でもトランプはまったく違っていて、ビジネスの発想、経営と投資の考えをそのまま政治に持ち込もうとしているんですよ。これは、政治の世界に経済のボキャブラリーが入り込んでくる時代が行き着くところまで行ったことの象徴になっているという例だと思うんです。
つまり、今起こっているのは、経済の言語が強くなって、政治の言語が弱くなっているということとも言えます。たとえば規制緩和というのは、国が手出しをしていたことを止めるということですよね。これは考えてみれば変ではないでしょうか。政治をやっている人間が、政治の仕事を減らしましょう力説するのですから。
この発想は、政治のボキャブラリーが非常にエコノミカルになっているということを示しています。ほかにも今、政府の諮問会議や審議会がたくさん開かれていますよね。こうした会議に財界の人がたくさん呼ばれています。昔から入っていたかもしれないけれど、その割合と影響力はどんどん強まっている。むしろ政治家がビジネスの声を聞きたがっているんです。それが今の統治の傾向です。
フーコーはその昔、今言ったようなことが起きるだろうとすでに予言していました。それで実際に数十年後ですがトランプが登場した。彼はポピュリズムの政治家に分類されますが、ポピュリズムはフランス国民戦線党首のマリーヌ・ル・ペンのような排外主義・ナショナリズムの方向に行くことが多いです。だから、ヨーロッパのウルトラ・ライトのような政党はクラシックな政治の左右の布置の中に辛うじて置くことができる。
トランプも排外主義ではありますが、ナショナリストのように愛国主義的に考えるというよりは、国家運営というビジネスがうまくいくかどうかで考えている。だから彼は、ビジネスの論理とうまく整合するかぎりでナショナリズムを利用していると思います。
――トランプ、プーチン、ル・ペンは並べて語られることもあるかと思うのですが、トランプは違う発想で政治をやっているということですね。
はい。だから先がまったく見えないですよね。あの人は政治家としてはこれまでにいない人で、アメリカは良くも悪くも最先端が突出して出てくる国なのだなと思いました。アメリカに代わる国はまだないですよね。中国が代わりになるのかもしれませんが、まだ文化的なヘゲモニーを得ていないので、中国が世界をリードするようになるのは当面は難しい。それまではアメリカが経済的・ビジネス的な考えで世界政治を動かしていく時代が続くでしょう。
ここ十数年の間、タリバンやアルカイダ、ISなどが出てきましたよね。これらはみんな基本的にアメリカの経済主義に対する挑戦です。つまり、エコノミカルなボキャブラリーに対する反発がテロという形をとって、今とても強まっているわけです。その2つの対立で今の世界は揺れ動いているといえます。だから今、エコノミカルな言語が政治に差し込まれていくのはどのようにしてなのかを、フーコーを通じて考える必要があるんです。
「何かのスペシャリストになろう」と思わなくてもいい
――そもそも先生はどうして哲学に興味をもたれたんでしょうか? すごく難しい学問だと思うのですが。
中学生や高校生は、哲学の抽象性を具体的な事柄に置き換えて理解することが難しいかもしれません。社会人になれば、今までの人生経験からなんとなく哲学の話であっても、身近な経験や具体例にあてはめてイメージできるようになると思います。でも、私がフーコーに興味をもったのは、中学時代の経験がきっかけなんです。その時は哲学につながるとは思ってもみませんでしたが。
名古屋という文化が何もない場所で過ごしたんですが、そこの中学校が刑務所のような管理教育だったんです。体罰はあるし竹刀を持って歩いている先生もいたし、異様な世界でした。それで大学に入ってフーコーの『監獄の誕生』を読んだ時、そこでフーコーが言っていた「規律権力」というのが、まさに私の通った中学校と同じだと思ったんです。実体験を違った角度から確かめるような、どこかでああそうかと思い当たる経験がなければ、哲学や思想はなかなか入ってこない学問ではないでしょうか。
もし高校生でこのインタビューの記事を読んでいるような人がいたら、その人の大半は中高一貫校に通っている恵まれた学生かもしれません。でもそうではない人の方が哲学の言葉は響くかもしれないですよね。
中学高校を楽しんで過ごしてきた人には何も思想なんて必要ないですし。苦労した時にはじめて必要になるんじゃないかと思います。だから私はあの愛知県名古屋市で過ごしたことを今でも恨んでいるんですが(笑)、それがあったからこそフーコーを読んだ時にこれだと思えたわけで、その意味では感謝しています。
――高校生へのメッセージをお願いします。
若い時は「自分はどうやって生きていけばいいんだろう」とか「自分がやっていることって何の意味があるんだろう」とか悩むと思います。私も学生のころはなんとか世の中の役に立ちたいって思っていて、青年海外協力隊に入りたいと突発的に思ったりしました。いろんな天候変化に強い新種の稲を東南アジアなどに植える活動をしようと。
――それは……本当に実践的な方法で世の中を良くすることを目指していたんですね。
そうです。でもこれはやらなくてよかったなと思っています。なぜかというと、「緑の革命」の話を聞いたからです。発展途上国の農業、とくに米作における技術的な生産性の向上が、化学肥料への依存や在来の農村文化の破壊に結びついたという例です。緑の革命に関しては、何が正しく何が間違っていたかの評価は難しいと思います。
しかしその話を聞いた時、私は科学の応用によって人の生活を物質的に改善しようとすること自体の限界と、そこに肥料を売る会社や技術を売る先進国などの政治的経済的な思惑が必ず入り込むのだなと思いました。つまり、技術ではなく社会的価値や政治の観点から、生活の豊かさや改善を捉えるべきだと思ったということです。
要するにODAなどで国を支援するということは、とても政治的なことなんですね。政治とは無関係に、純粋に技術的な支援をすることは難しくて、たとえば大企業の商業的な思惑が差し込まれてしまう。原発事故もそうなんですが、技術的なものと政治的なものは絶対に切り離せない。
結局、大学卒業後は銀行に就職したんですが、やはり現実に近すぎて近視眼的になるなと思いました。もう少し現実と距離を取りたいと。距離を取らないと自分の立ち位置も分からないし。それで「現実と距離を取るために辞めたい」と話したところ、「そんなこと学生にうちにやっとけ」と怒られたんですね。今さら遅すぎるだろうと。でも私は全然遅いとは思わなかったんです。だってまだ22、3歳だったんですよ。
だから高校生には、何かのスペシャルになろうとこだわらないでほしいですね。迷ってるなら間口の広いところに行ってほしいです。私は政治学科に入ったのですが、それは間口が広いと思ったからです。本当は文学や哲学が好きだったのですが、まあ文学は人から教えられなくても、あるいはその方が読めるし書けるだろうと(笑)。
それに哲学を専門にすると、社会について勉強できなくなるんじゃないかとも思ったんですね。だから政治学科を選びました。入ってからあまりの退屈さにのけぞりましたが。でも哲学は政治思想として勉強できたし、悪くはなかったと思います。
就職のことを考えて大学を選んだりするとこぢんまりとしてしまいます。だから、人から急かせることもあるかもしれませんが、将来についてあまり狭く考えなくてもいいと私は思います。
高校生におすすめの3冊
これから大学生になるみなさんには、持っているだけでドキドキする本を見つけてほしいです。私にとってはこれがその本でした。内容は分からなくてもいんです。分からなくてもかっこいいのです。
悪霊はやばいですよ。麻薬をやりたくなったら代わりに悪霊を読んでください。経験したことがないので分かりませんが、おそらく近い効果が得られますから。はじめて読んだ時は本当にそう思いました。麻薬をやっている人はこういう気持ちになるんだろうなと。ドストエフスキーのなかでも最も麻薬感が強い一冊です。
おそらくまれに見る珍本なのですが、ニーチェというのは本当にいいんですよ。小人とかピエロとか蛇が出てきて、綱渡りしている人が綱から落ちて死にそうになって、「ツァラトゥストラ……」とか言って。全然意味が分からないんですよ(笑)。ちなみにニーチェには「この人を見よ」という本があるんですが、その「この人」がニーチェ自身なんですね。そして目次には「なぜ私はこんなにも賢いのか」とか書かれているんですよ。だからニーチェを読むと、ああ、自分は何を言ってもニーチェに比べれば恥ずかしくないな、と思うことができます(笑)。
プロフィール
重田園江
1968年生まれ。明治大学政治経済学部教授。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)を経て、東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。著書に『統治の抗争史ーフーコー講義1978-79』(勁草書房、