2013.05.27
「慰安婦問題」の基礎知識 Q&A
橋下徹大阪市長の発言「慰安婦は必要だった」が引き金となって、あらためて、内外で、慰安婦問題に対する批判と憂慮が高まっています。各国メディアの日本報道が橋下発言を辛辣に紹介・解説するいっぽう、国連の社会権規約委員会は5月21日、日本政府に対して、慰安婦を「売春婦だ」と侮辱するヘイトスピーチ(憎悪表現)を繰り返す国内の排外主義的グループの行動に関して状況改善を求めました。
私も現下の状況を深く憂慮しています。なぜならば、橋下氏はいうまでもなく、石原慎太郎元都知事、一部の国会議員が、慰安婦と慰安婦問題についての日本政府の公式見解を逸脱する発言をくりかえしており、そのことが人目をはばからない被害者への侮辱の素地のひとつになっているからです。
さまざまな歴史問題について、日本政府の公式見解やこれまでの施策は、内外を問わず、一定の評価を受けるいっぽう強い批判も受けてきました。この論稿では、慰安婦問題の基礎知識について、まず、日本政府の公式見解と、政府と「協力」して慰安婦問題に取り組んだアジア女性基金(正式には、財団法人 女性のためのアジア平和国民基金 / National Fund for Asian Peace and Women)の活動について、もっぱら外務省とアジア女性基金の報告書をもとに紹介したいと思います。
(本稿を読んでいただくにさいして、あわせてシノドス記事「橋下徹大阪市長『米軍の風俗業活用を』はいかなる文脈で発言されたのか(2013年5月13日)」を参考にしてください。)
Q1.「慰安婦問題」とはどんな問題ですか。
日本政府が慰安婦問題について公式の見解を出しています。ネットで検索すると簡単にみつかります。まず、外務省の公式サイトにある「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」や「歴史問題Q&A 問5」を見てください。以下に主旨を抜粋します。
外務省「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」より
この問題は当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとして、心からのお詫びと反省の気持ちを表明し、以後、日本政府は機会あるごとに元慰安婦の方々に対し、心からのお詫びと反省の気持ちを表明している。
外務省「歴史問題Q&A 問5」より
日本政府としては、慰安婦問題が多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた問題であると認識しています。政府は、これまで官房長官談話や総理の手紙の発出等で、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げてきました。
このように、日本政府は、慰安婦問題について、「心からのお詫びと反省の気持ち」を表明しています。これに先立ち、日本政府は、この問題に関して、「平成3年(1991年)12月以降、全力を挙げて調査を行い、平成4年(1992年)7月、平成5年(1993年)8月の2度にわたり調査結果を発表、資料を公表し、内閣官房において閲覧に供している」と明言しています。
さらに、平成5年(1993年)8月4日の調査結果発表の際に表明した「河野洋平官房長官談話」において、同内閣官房長官は次のように述べています
「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(抜粋)」
「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。」「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。」
この河野談話を受けて、日本政府は、(1)慰安婦問題を含めて、第二次世界大戦に係る賠償や財産、請求権の問題は法的に解決済だが、政府として、既に高齢になられた元慰安婦の方々の現実的な救済を図るため、元慰安婦の方々への医療・福祉支援事業や「償い金」の支給等を行うアジア女性基金の事業に対し、最大限の協力を行ない、(2)アジア女性基金は平成19(2007)年3月に解散したが、日本政府としては、今後ともアジア女性基金の事業に表れた日本国民及び政府の本問題に対する真摯な気持ちに理解が得られるよう引き続き努力していくと約束しました。
Q2.「慰安婦」とは誰のことですか。
日本政府が「最大限の協力」を行なったとするアジア女性基金は、平成19(2007)年3月に『「慰安婦問題」とアジア女性基金』と題する報告書を刊行し、あわせて同書のテキストを骨子とし、資料、記録、写真を多く含んだデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」を開設、国立国会図書館の中に収めました(http://warp.hd1.go.jp)。
『「慰安婦問題」とアジア女性基金』は、慰安婦について、次のように説明しています。
かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所に集められ、将兵に対する性的な行為を強いられた女性たちのことです。
これらの人々のことを日本で戦後はじめて取り上げた書物の著者たちは「従軍慰安婦」と呼んできました。したがって、日本政府がこれらの人々の問題に最初に直面した時も、アジア女性基金がスタートした時も、いわゆる「従軍慰安婦」という言葉を用いていました。しかし、戦争の時代の文書では、「慰安婦」と出てきます。それで、いまでは、「慰安婦」という言葉を使っています。
このような慰安所の開設が日本軍当局の要請ではじめておこなわれたのは、中国での戦争の過程でのことです。1931年(昭和6年)「満州事変」の際に、民間の業者が軍隊の駐屯地に将兵相手の店を開くことがあったと、軍の資料に報告されています。翌年第1次上海事変によって戦火が上海に拡大されると、派遣された海軍陸戦隊のために最初の「海軍慰安所」、海軍専用の慰安所が上海につくられました。慰安所の数は、1937年(昭和12年)の日中戦争開始以後、飛躍的に増加します。
陸軍では、慰安所を推進したのは上海派遣軍参謀副長岡村寧次といわれています。その動機は、占領地で頻発した中国人女性に対する日本軍人によるレイプ事件によって中国人の反日感情がさらに強まることを恐れて、防止策をとらねばならないというところにありました。また将兵が性病にかかり、兵力が低下することをも防止しようと考えたようです。中国人の女性との接触から軍の機密がもれることも恐れられました。
慰安婦を集めた慰安所は組織化され、当時は支邦事変と呼ばれた日中戦争の勃発の翌年(1938年)6月には、日本陸軍の北支邦方面軍参謀長が、「日本軍人の強姦事件が全般に」広がり、深刻な反日感情を醸成させているため、個々の将兵を「厳重に取締る」とともに、「成るべく速に性的慰安の設備」を整え、そうした設備がないために強姦事件を起こす者をなくすようにとする通牒を出しました。
Q3.日本軍の関与はあったのですか。
軍事史に詳しいかたであればおわかりのように、一般的に、戦地や占領地で「民間人」がまがりなりにも「安全」に活動するためには、政府と軍との関係が必要です。
慰安所設置にさいしても、軍が業者を選び、依頼して、日本本国から女性を集めたり、国内の関係当局が便宜をはかったり、ときには反発されたりすることもありました。なので、日中戦争がはじまった翌年の1938年2月には、内務省警保局長が通達を、3月には陸軍省副官が通牒を出し、当時日本が加入していた「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」に違反しないように、満21歳以上とする年齢制限を設けました。
内務省や陸軍省は、慰安婦とは「醜業婦」で、その募集にさいしては慎重を期さないと「軍の威信を傷つけ」ることがあると承知していたのです。そして、慰安所の数が増えれば増えるほど、両省はいよいよ関与を深めないわけにはいかなかったのです。
Q4.植民地では慰安婦をどのように集めましたか。
慰安婦は当初から、当時は日本の植民地であった台湾や朝鮮半島からも募集されました。問題は、上に述べたような日本本土での募集形式が、常に守られていたかどうか不明である点です。日本政府は「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」を批准するに際して、植民地を適用外としたからです。この点について、アジア女性基金の報告書は次のように述べています。
最初の段階では、朝鮮からもまず「醜業婦」であった者が動員されたと思われます。ついで、貧しい家の娘たちが、いろいろな方法で連れて行かれたと考えられます。就業詐欺もこの段階から始まっていることは、証言などから得られています。甘言、強圧など、本人の意思の反する方法がとられたケースもあり、朝鮮からは、内地では禁じられていた21歳以下の女性が多く連れて行かれたことが知られています。中には16、7歳の少女も含まれており、ごく普通の娘たちも連れて行かれました。そのような少女たちなら、性病に感染していることもなく、また朝鮮人だから中国人との連絡もありえず、軍の機密が漏れる心配がないと考えられたようです。内地では守られた条件は朝鮮では最初から守られていなかった、守るように統制されていなかったのでしょう。
Q5. 太平洋戦争が始まり戦線が拡大すると、慰安婦はどのように集められましたか。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まると、日本軍はシンガポール、フィリピン、ビルマ、インドネシアに攻め込みました。南方に占領地が拡大していくとともに、そこにも慰安所がつくられました。この新しい局面での南方占領地の慰安所への女性の確保については、決定的な転換がおこったようです。1942年(昭和17年)1月14日付けの外務大臣の回答によると、「此の種渡航者に対しては『旅券を発給することは面白からざるに付』軍の証明書に依り『軍用船にて』渡航せしめられ度し」とあります。外務省も、内務省・警察も関わらないところで、南方占領地への「慰安婦」の派遣は軍が直接掌握することになったようです。それは内務省通達によるコントロールが外されることを意味したのです。
結果、日本国内での募集の際に警保局がつけた条件が守られないケースや、業者に欺かれ本人の意志に反して集められた事例が出てきます。「慰安婦」を募集していると業者が告げなかったために求人に応じる女性たちが続出することになります。
この「役務」の性格は明示されなかったが、病院に傷病兵を見舞い、包帯をまいてやり、一般に兵士たちを幸福にしてやることにかかわる仕事だと受け取られた。これらの業者たちがもちいた勧誘の説明は多くの金銭が手に入り、家族の負債を返済する好機だとか、楽な仕事だし、新しい土地シンガポールで新しい生活の見込みがあるなどであった。このような偽りの説明に基づいて、多くの娘たちが海外の仕事に応募し、数百円の前渡し金を受け取った。(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第5巻、203頁)
Q6.強制連行はあったのですか。
大きくわけて二つの強制連行のタイプがあったと、私はアジア女性基金の報告書をふまえて言えると思います。第一に場所によっては明らかに強制連行されたケース(抗日ゲリラに参加していた女性への報復レイプや抑留されている女性を慰安婦にするために連れ去ったケースなどを含む)、第二に上述のように騙されて求人に応じたケースです。
日本から慰安婦として現地に赴く女性たちがいた一方で、フィリピンやインドネシアなどでも、地元の女性が慰安婦とされました。インドネシアでは、倉沢愛子氏の研究によれば、居住地の区長や隣組の組長を通じて募集がおこなわれたようです。占領軍の意を受けた村の当局からの要請という形の中には、本人の意志に反して集められた事例も少なくなかったでしょう。
インドネシアでは、抑留者収容所に入れられていたオランダ人女性を連れ出して慰安所におくりこむことも行なわれました。アジア女性基金の報告書によれば、「一部の日本軍関係者は、収容所内と収容所外に抑留されたオランダ人女性をスマランと他のアジアの地の慰安所に強制的に連れていって、そこで日本の将兵に対する性的奉仕を強いました」とあります。スマランでのケースは戦犯裁判で裁かれ、1人の日本人将校が処刑されているのはよく知られています。
フィリピンでは、「軍の占領地域で現地部隊が一般女性を強姦した上に、暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、一定期間連続的に強姦をつづけたことも多かったことが証言」されています。こうした被害者も慰安婦と考えるべきでしょう。父や夫を目の前で殺された人もいたといいます。
慰安婦とされた人びとの実数(女性だけでなく、一部に男性も含まれます)、上のような強制連行とそれ以外の人数比率、さらに、現在もっとも日韓関係を悪化させている歴史問題のひとつである朝鮮人慰安婦の比率、慰安婦であったあいだに死亡・殺害された女性たちの数は、いまだにはっきりしていません。さまざまな総数についての見解は提示されているものの、すべてそれぞれの研究者の推算です。
アジア女性基金の報告書では、20万人、36~41万人などを容れず、「金原節三業務日誌」にもとづき、秦郁彦氏の1999年の研究である約2万人という数字を「真実に近かったのかもしれません」と示唆しているように読めます。
金一勉氏は、慰安婦の「8割~9割」、17~20万人が朝鮮人であると主張しましたが、推算です。朝鮮人慰安婦は多かったとさまざまな資料から伺うことはできるものの、絶対的多数となると、日本人慰安婦と比べて多かったといえるのかどうかは、明示できる根拠資料が現段階では発見されていません。
また、強制連行とは呼べずとも、慰安所に強制抑留させられた慰安婦は多かったといえるでしょう。さらに、就業を拒否することは容易なことではなかったのです。とくに前線ないしは前線に近い慰安所は、それだけで過酷な状況にあったとじゅうぶん推察できると私は思います。逃亡もできなかったでしょう。
アジア女性基金の報告書によれば、戦況の悪化とともに慰安婦の生活もさらに悪化し、たとえば東南アジアで日本軍の敗走が始まると、「慰安所の女性たちは現地に置き去りにされるか、敗走する軍と運命をともにすることになりました」。帰国できなかった女性たちも多数いたでしょう。
慰安婦たちの「戦後」について、アジア女性基金の報告書は次のように述べています。
1945年(昭和20年)8月15日、戦争が終わりました。だが、平和が来ても、生き残った被害者たちにはやすらぎは訪れませんでした。帰国することをあきらめた人々は、異郷に漂い、そこで生涯を終える道を選びました。帰国した人々も傷ついた身体と残酷な過去の記憶をかかえ、苦しい生活を送りました。身体の障害や性病に冒され、子どもを産めない状態にされた人が多かったのです。そうでなくとも、結婚もできなかった人もいました。家族ができても、自分の過去を隠さねばならず、心の中の苦しみを他人に訴えることができないということが、この人々の身体と精神をもっとも痛めつけたことでした。
軍の慰安所で過ごした数年の経験の苦しみにおとらぬ苦しみの中に、この人々は戦後の半世紀を生きてきたのです。
Q7.元慰安婦に対する日本政府の施策とはどんなものだったのですか。
これまで述べてきたように、慰安婦の歴史は多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた歴史でした。このことを日本政府と国民が「お詫びと反省の気持ち」をこめてかたちにしたものが、アジア女性基金とその活動でした。
アジア女性基金は日本政府による元慰安婦の方々に対する償いの事業として、「道義的な責任を果すという観点から、同年8月、アジア女性基金の事業に対して必要な協力を行うとの閣議了解を行い、アジア女性基金が所期の目的を達成できるように、その運営経費の全額を負担し、募金活動に全面的に協力するとともに、その事業に必要な資金を拠出する(アジア女性基金設立以降解散まで、約48億円を支出)等アジア女性基金事業の推進に最大限の協力を行って」(外務省)きました。
同基金は平成19年3月6日解散発表し、平成18年度に解散しました。その間、日本政府は、「アジア女性基金と協力し」、アジア女性基金のフィリピン、韓国、台湾における償い事業は平成14年9月までに終了しています。また、アジア女性基金は、オランダ及びインドネシアにおいてもそれぞれ国情に応じた事業を実施しており、オランダにおける事業は平成13(2001)年7月に、インドネシアにおける事業は平成19年3月にそれぞれ終了しました。
同時に、女性の名誉と尊厳に関わる今日的な問題への取り組みも行ないました。具体的には、日本政府は、アジア女性基金が行なってきた今日的な女性問題の解決に向けた諸活動に政府の資金を拠出する等の「協力」をしたのです。
むろん、アジア女性基金の成果や問題点については、設立当時から今日に至るまで、内外で多くの議論や論争がくりひろげられました。国内については、まさに国民的な議論がなされた時期もありました。
Q8.アジア女性基金とは何だったのですか。
アジア女性基金は、村山談話(1994年8月31日)において表明された、元慰安婦への「心からの深い反省とお詫びの気持ち」と、この気持を国民に分かち合ってもらうための「幅広い国民参加の道」そのものでした。当時、与党三党(自民、社会、さきがけ)は「戦後50 年問題プロジェクト従軍慰安婦問題等小委員会」を設置し、検討を進め、終戦50年の節目をまえに、第二次世界大戦に関わる諸問題、とくにあらたに国家として個人補償を行なうことができるかどうかについて論議を展開しました。政府の立場は、サンフランシスコ平和条約とそれに関連する二国間条約をもって、この問題は法的解決済みという立場でした。一方、与党の中には個人補償を行なうべきだという意見も出されました。戦後補償(個人補償)をめぐるこうした意見対立のうえで、慰安婦問題については、(1)道義的な立場から責任を果たさなければならないこと、(2)慰安婦にされていたかたがたへのお詫びと反省の気持ちから国民的な償いをあらわすことを決めました。
結果、アジア女性基金は、日本政府の謝罪と補償を要求してきた民間団体から、強い批判を浴びることになります。これらの民間団体は「慰労金など受け入れられない」と反発しました。
韓国政府の反応は複雑でした。アジア女性基金の設立にあたって「一部事業に対する政府予算の支援という公的性格が加味されており」、「当事者に対する国家としての率直な反省及び謝罪を表明し」、「真相究明を行い、これを歴史の教訓にするという意志が明確に含まれている」として、これを「誠意ある措置」として歓迎する意向を示した韓国政府は、上のような民間の元慰安婦支援運動の反発から影響を受け、態度を変えてしまったとアジア女性基金の報告書は分析しています。実際、アジア女性基金が韓国で事業を開始し、ソウルで7人のハルモニに基金事業を実施すると、猛烈な非難を浴びました。
民間の元慰安婦支援運動グループは、問題の本質は戦争犯罪である、ゆえに日本政府は法的責任を認め、責任者を処罰することを国連人権委などで訴えました。国連人権委の「女性に対する暴力に関する特別報告者」に任命されたクマラスワミ氏は、日本政府がその道義的責任を認めていることを「出発点として歓迎する」と述べ、アジア女性基金を「『慰安婦』の運命に対する日本政府の道義的配慮の表現」だと認める一方で、(1)慰安婦問題は「軍事的性奴隷制」の事例であった、(2)日本政府は国際人道法の違反につき法的責任を負っている、(3)アジア女性基金の活動によって「国際公法の下で行なわれる『慰安婦』の法的請求を免れるものではない」と主張しました。
クマラスワミ報告の内容の信用性をめぐる議論にいまだにあります。ともかく、同報告は、日本政府は法的責任を認め、補償を行ない、資料を公開し、謝罪し、歴史教育を考え、責任者を可能な限り処罰すべだと勧告しました。
「戦争と女性への暴力」日本ネットワークは、みずから中心となり、民衆法廷「日本軍性奴隷制度を裁く女性国際戦犯法廷」を開廷し、昭和天皇らを被告人として裁き、オランダのハーグで判決をくだしました。この間、NHKのETV2001シリーズ「戦争をどう裁くか」の第2回「問われる戦時性暴力」が放映されると、番組改編問題が起きました。平成11年(2009年)、放送倫理検証委員会はNHKを批判する意見書を発表しました。
Q9.アジア女性基金に対する評価は。
私はまだ中間的な評価しかできないと思っています。同時に、アジア女性基金が解散してしまったのは非常に残念です。新しい公的機関が必要だと考えています。
アジア女性基金は、市民と政府の協力のうえに被害者への償いを行ない、現代社会に生きる女性の人権を保護するために設立され、活動を行ないました。他方、慰安婦問題への国家関与を否定する人びと、あるいは国家賠償や責任者処罰を求める人びと、さらには、大沼保昭氏が『「慰安婦」問題とは何だったのか』(中公新書)で述べているように、マスメディアによる歴史問題のとりあげかたによって、しばしば内外の抗議や批判にさらされました。
外務省によれば、(1)平成9年(1997年)8月、国連人権委員会(当時)の下部機関である差別防止・少数者保護小委員会において、本問題の解決に向けてこれまでなされた「前向きの措置(positive steps)」であると評価する趣旨の決議がなされている、(2)平成10年(1998年)のクマラスワミ報告書も、我が国の慰安婦問題に対する取り組みを「歓迎すべき努力(welcome efforts)」と評価しているとして、「本問題に関する我が国のこれまでの取り組みに対し、国際社会が一定の理解を示していると考えている。今日的な女性問題に関する国際的な相互理解の増進という観点からも、このような活動には大きな意義がある」と自己評価しています。
アジア女性基金の報告書は、平成10年(1998年)6月22日、国連の差別防止・保護小委員会特別報告者ゲイ・マクドゥーガル氏が同小委員会に提出した報告書「奴隷制の現代的形態―軍事衝突の間における組織的強姦、性的奴隷制、及び奴隷制的慣行」の付録報告「第二次大戦中の慰安所にたいする日本政府の法的責任についての分析」について強く批判しています。同付録報告中にある、「日本政府と日本軍は1932年から45年の間に全アジアのレイプ・センター(rape centers)での性奴隷制を20万以上の女性に強制した」「これらの女性の25パーセントしかこのような日常的虐待に堪えて生き残れなかったと言われる」の記述の論拠を否定しているのです。
アジア女性基金の報告書によれば、マクドゥーガル報告書の該当部分の論拠である「第二次大戦中に14万5000人の朝鮮人性奴隷が死んだという日本の自民党国会議員荒船清十郎の1975年(ママ)の声明」は根拠のない主張であり、慰安所をひとしく「レイプ・センター」と呼ぶことも不適切なうえに、「慰安婦」にされた者は20万人以上だという断定も、総数のほぼ4分の3、すなわち14万5000人が死んだ、彼女たちはみな朝鮮人「慰安婦」であったというのも論拠がないとしています。
歴史問題はシンプルでわかりやすい主張を
以上述べてきたように、慰安婦問題についての日本政府の公式見解やアジア女性基金の活動もまた批判の対象とされてきたことを思えば、慰安婦の歴史をいわゆる売春婦の歴史であるかのように修正しようとする動きや、慰安婦は必要だったとする発言は、歴史の文脈を無視し、政府が果たそうとしてきた日本の「道義的責任」から逃れようとするものです。国益はもとより地域の信頼・互恵関係、さらには人類益を損なうものであるといわなくてはなりません。
みずからを、みずから語る声をもたなかった元慰安婦の女性たちがようやくあげた声を中傷したり、侮辱したりすることは、日本が果たしてきた「道義的責任」を台無しにしてしまう恐れがあります。さらに、この問題に関して積極的かつ越境的に進められてきた民間交流さえ危うくしかねません。内海愛子氏は、これに関連して、次のように述べています。
冷戦のなかの賠償交渉では、アジアの被害者の声が押さえ込まれてきた。冷戦の崩壊がかれらを閉じこめてきた壁をもつきくずした。戦争のトラウマに苦しみ、障害に苦しむ被害者の姿がその中から見えてきた。被害者の声は一九八〇年代のはじめには小さな訴えだった。だが、その声に耳を傾けた日本の市民が、アジアへの加害の視点を欠いた歴史認識を問い直し始めていた。被害者の訴えを支える活動が各地で始まった。(内海愛子「アジアの被害者の声を聞く」『過ぎ去らぬ過去との取り組み』岩波書店)
また、慰安婦問題について、『慰安婦問題という問い』(勁草書房)の著者のひとり、毎日新聞学芸部長の岸俊光氏は、「『慰安婦』問題に取り組む過程で作られた二つの談話――河野談話と村山談話――は、時に批判を浴びながら、歴代内閣が政府見解を踏襲し、海外からも評価されている。それらを継承したうえで、記憶をつなぎ、未来に架けるために何をすべきか。日本の次なる行動が求められている」と、この春バンコクで開催された国際シンポジウム「アジア未来会議」でも発言しました。
さらに、「法的責任」については、朝日新聞社が、いまから20年前の平成5年(1993年)11月7日、8日両日に、日本全国の有権者3000人に「戦後補償問題を国民はどう受けとめているか」について、日本で初の本格的世論調査をしています。当時、第二次世界大戦の終戦から約半世紀が過ぎ、90年の国勢調査では戦後生まれの世代が全人口の63・5パーセントに達し、成人の50・5%を占めていました。それでも、同調査では、「戦後補償」問題に関心がある人は57%に達し、20歳代で5割、60歳以上の世代6割が関心を持ち、世代差はそれほどなかったのです。むろん戦後補償問題をどう受けとめているのかについては、戦争体験世代では全体に慎重な姿勢が多めでした。しかし、戦争から遠ざかる若い世代ほど肯定的で、20歳代では7割が日本政府は戦後補償要求に応じるべきだと答えたといいます(朝日新聞戦後補償問題取材班『戦後補償とは何か』朝日新聞社)。あれからおよそ20年の歳月を経ていま、40歳代になった当時の20歳代は、この問題についてどんな意見を持っているのでしょうか。
政治家は、とりわけ歴史問題に関する限り、数学の公式のようにシンプルで、交差点の信号のようにわかりやすい見解や主張を出さなくてはなりません。そして、とりわけ政治家がデリケートな問題について反論する時、相手の忍耐力に期待しすぎると失敗するということを、忘れないでいただきたいのです。
略年表を作成しましたので、次ページをご覧ください。
略年表
プロフィール
小菅信子
1960年東京都生まれ。山梨学院大学法学部教授。上智大学大学院文学研究科史学専攻後期博士課程修了。著書等に、『戦後和解』(中公新書・第27回石橋湛山賞)、『ポピーと桜』(岩波書店)、『14歳からの靖国問題』(ちくまプリマ―新書)、『東京裁判とその後』(中公文庫)、『歴史和解と泰緬鉄道』(朝日選書)、『歴史認識共有の地平』(明石書店)など。