2013.09.11
イスラーム過激派とは?Q&A
Q1.中東やイスラーム世界での紛争やテロ事件、政治的な混乱についての報道や議論で、「イスラーム過激派」と呼ばれる個人や組織が話題になることがよくありますが、一体どのような人々なのでしょうか?
各国の政府・報道機関や、そのほかさまざまな分野で大まかな共通のイメージはあると思いますが、「イスラーム過激派」についてきちんと定義されているわけではありません。各国の政府や報道機関は、「各国政府・報道機関の利益や価値観に反するような行為をイスラームによって正当化する」個人や団体に対し、イスラーム過激派との呼称を用いる傾向が強く、用語法は恣意的になりがちです。また、単にイスラーム教徒(=ムスリム)が政治・軍事的な紛争に関与するだけで「イスラーム過激派」と呼ぶことも、もちろんできません。このため、各国の政府や報道機関の間で類似する現象や運動を表す場合でも、用語の使用はまちまちです。
例えば、イスラーム過激派という用語の他にも、イスラーム原理主義、イスラーム急進派、戦闘的イスラーム、ジハード主義/ジハード主義者(jihadism/jihadist)などの用語が同種の現象や個人・組織を形容する際に用いられていることがあります。こうした状況ではありますが、あえて単純化してイスラーム過激派を暫定的に定義づけるとすれば、以下のような個人や団体を指すものと考えることができます。
1. イスラーム世界全体がユダヤ・十字軍とその傀儡の侵略を受けていると考える。
2. 上記の侵略を排除し、イスラーム法による統治を実現することを目指す。
3. 2.を実現する手段は現存する国境に拘束されない広範囲で武装闘争(=ジハード)とそのための資源の調達を行うことであると考え、既存の国家・議会や非暴力の政治行動に否定的な態度をとる。
4. 非合法の活動を行う。
ここで注意すべき点は、イスラーム世界の地理的な範囲や境界、イスラーム法の解釈やその実践のやりかたが、もっぱら「イスラーム過激派」と呼ばれる個人や団体の「彼らなりの」理解にもとづくものだという点です。要するに、イスラーム過激派が考えるイスラーム世界の姿やイスラームの解釈・実践は、一般的なムスリムが理解するそれとは異なっており、ムスリムのほとんどにとって受け入れることも理解することもできないものの場合が多いのです。
また、上のように定義づけると、イスラーム過激派とのレッテル貼りにより機械的に同一視されていたさまざまな主体を、思想や活動の実態に応じてより的確に分析することが可能になります。
例えば、パレスチナのハマース、イスラーム・ジハードやレバノンのヒズブッラーの場合、いずれもパレスチナやレバノンの民族主義・愛国主義運動としての側面を持ち、武装闘争やそのための人員確保の場をパレスチナ、レバノンに限るという立場をとっています。また、ハマースとヒズブッラーは、各々が活動する領域内での政治過程に合法的に参加し、選挙や議会制度、そしてイスラーム法が実践されているとは言えない既存の政治・行政制度を容認しています。こうして考えると、ここであげた諸派はイスラーム過激派の要件を完全には満たしているとは言えません。
Q2.イスラーム主義やサラフィー主義という思想潮流がイスラーム過激派の思想的なよりどころと言われていますが、どのような思想なのですか?
イスラーム主義とは、「イスラームの理念を掲げ、最終的にはイスラーム法によって秩序付けられた国家(ウンマ)を建設しようとする政治(時として社会、文化)運動、およびそのイデオロギー。とりわけ、近代以降に生まれたものをさす」とされています[岩波イスラーム辞典 138頁]。
イスラーム主義が近代以降の思想・イデオロギーとして重要なのは、イスラーム主義を掲げる運動がさまざまな領域に宗教を持ち出す時代錯誤的な運動ではなく、重要な近代思想のいくつかの部分を取り入れ、科学技術とその成果を積極的に利用するからです。つまり、イスラーム主義は近代以降の政治・経済・社会分野での運動やイデオロギーと対置され、競合するものと考えられます。
また、イスラーム主義の思想や運動をになった指導者たちの多くは、伝統的なイスラーム教育ではなく理工・医系も含む近代的な高等教育制度の高学歴者です。イスラーム主義にもとづく運動は、既存のイスラームのありかたを批判し、「真正な」イスラーム共同体を確立しようとする、イスラーム世界の内側からの改革運動としての性質も帯びています。
一方、「真正な」イスラームとは外来思想など後代につけ加わった逸脱を排除し、イスラームの初期世代(=アラビア語でサラフと呼ばれる世代)の原則や精神への回帰することだと考える思想潮流を、サラフィー主義と呼びます。サラフィー主義の思想的な源流は中世までさかのぼることができますが、近代に入ってイスラーム世界が西洋列強に対してあきらかに劣勢になったことが、近代的なサラフィー主義の発展の契機です。つまり、イスラーム世界の弱体化の原因をイスラームの信仰や実践の衰退・堕落に求めた自己点検作業としてサラフィー主義が伸長したのです。
イスラーム過激派は、彼らが正しいと考えるイスラームをイスラームの初期世代の正しいイスラームであると主張しますので、彼らもサラフィー主義者と呼ばれます。しかし、サラフィー主義やサラフィー主義者すべてが政治的指向や戦闘的な行動様式をもっているわけではありません。サラフィー主義者や彼らが起こす運動の中には、政治活動から離れ、イスラームの教学・教宣や、日常生活での実践に傾倒しているものも多数あります。このため、イスラーム過激派のようにイスラームに基づいて政治的主張をし、それを武装闘争によって実現しようとする潮流をとくにサラフィー主義ジハード主義と呼ぶ場合もあります。
Q3.イスラーム主義やサラフィー主義は「イスラーム原理主義」とは違うのですか?
イスラーム原理主義という用語は、イラン革命などの政治色の強い急進的なイスラーム主義運動をさして用いられた用語で、イスラーム主義・サラフィー主義にもとづくさまざまな運動や現象に対して広く用いられた時期もありました。
しかし、原理主義という用語は本来20世紀初頭のキリスト教プロテスタントの特定宗派をさして用いられたfundamentalismという用語の邦訳です。このため、本来原理主義と呼ばれていたプロテスタントの宗派の信条・思想的特徴は、イスラーム原理主義と呼ばれたさまざまな現象の信条・思想的特徴にそのままあてはめることができません。そして、元来キリスト教独自の用語だった原理主義という用語をイスラームなどの他の宗教などに分析概念として適用することについての異論も多かったため、イスラーム主義などの分析概念が提案されました。こうした経緯もあり、イスラーム原理主義という用語の使用や、それにもとづく分析は近年減少しています。
Q4.イスラーム過激派はなぜ政治に宗教を持ち込むのですか?
イスラーム過激派に限らず、理念上イスラームには政治と宗教を分離するという発想がありません。これは、632年にアラビア半島のマディーナで成立したイスラーム共同体の指導権も統治上の権限も預言者であるムハンマドがつかさどっていたことに由来します。
ムハンマドの死後、しばらくの間はカリフと呼ばれる彼の後継者たちが共同体を指導しましたが、カリフたちは「アッラーからの啓示を受け取る」という機能以外のムハンマドの役割を一体的に継承したため、宗教と国家が明確に区分されない、政教一元的な社会のありかたが生まれたのです。そして、そのような社会の生活のすべてを律する法がイスラーム法なのです。
19世紀以降、国家の原理から宗教を排除・分離する思想としての世俗主義が西洋から持ち込まれ、世俗主義は政教分離と同義としてとらえられました。イスラーム世界でも、近代国民国家として成立した諸国家は事実上世俗主義を前提とする国家を建設しました。しかし、政教一元論のイスラーム的世界観は民衆の間で根強く、イスラーム世界の諸国でもイスラーム法を部分的に取り入れたり、モスクなどの宗教施設を国家が管理したりするなど、厳密には西洋的な世俗主義、政教分離に反する運営がされてきました。
また、西洋的な政教分離の発想に立つと「聖」「俗」と区別される領域は、イスラームの世界観では一体のものとしてイスラーム法によって律せられると考えられますので、イスラーム法を尊重して生きる上では、西洋的な政教分離を厳密に適用するのは非常に困難です。
このため、イスラーム法による統治を実現することを目指すイスラーム主義者、中でもイスラーム法による統治は武装闘争によってのみ実現すると考えるイスラーム過激派にとっては、世俗主義を前提とする既存の諸国家も、共産主義のような無神論も、世俗主義にもとづくさまざまなイデオロギーも、反イスラーム思想の代表とし敵視の対象となるのです。
その一方で、イスラーム世界で世俗主義を唱導・擁護する側もイスラーム主義を思想的な敵と位置付けていると考えられています。2011年の政変以降のアラブ諸国、とくに軍とムスリム同胞団が対立しているエジプトの政局は、軍が体現する世俗主義と、ムスリム同胞団が掲げるイスラーム主義との思想的対立という側面もあるのです。
Q5.イスラーム過激派の軍事活動はテロですよね?
この問題についても、重要な点はテロ、テロリズムという言葉が明確に定義づけられることなく政治的な敵対者を貶めるためのレッテルとして使用されていることです。イスラーム過激派に限らず、敵方の武装闘争をテロ、テロリズムと決めつけることにより、彼らが武装闘争によって実現しようとしている目的や、武装闘争を通じて主張したい要求事項について、第三者が考えたり、耳を傾けたりする機会を奪う、という行為は「テロ対策」の常とう手段です。
ここではテロリズムを単なる破壊や殺戮ではなく、仮に「暴力の行使や暴力行使の威嚇によって相手方に要求をのませる政治行為の一形態」として議論を進めます。
イスラーム過激派は、彼らが「イスラーム世界」だとみなす場所から十字軍・シオニズムの侵略を排除し、彼らがそれと信じる「イスラーム法」を施行するという政治的な目的を掲げています。そして、その目的を実現する手段は武装闘争のみだと考えています。
彼らの活動がテロリズムとみなされるのは、敵となる主体(特定の国や、その国の世論)に対し、武装闘争の目的や要求事項を適切に広報した場合となります。したがって、ある場所で外国人が誘拐された際、「某国を占領する十字軍(=外国軍)の撤退、資源を収奪する外国企業の追放」の様な要求が出された場合、そうした行為はテロとみなされますが、「異教徒や異端宗派の根絶」のような交渉や妥協しようのない要求や、「身代金」要求だけが出された場合は、それをテロ行為とはみなしがたいのです。
日本人も多数犠牲となった2013年1月のアルジェリアでの石油施設襲撃事件の場合、犯行の主体は一見イスラーム過激派のように見えますが、彼等は石油施設襲撃事件に際し、自らが掲げる政治的目的や要求事項を明確に表明したり、十分広報したりしていません。このため、当該の事件については、一般的な刑法上の犯罪、あるいは単なる山賊行為と考えるべき要素も多数あるのです。
また、武装集団の構成員がムスリムでも、その武装集団がもっぱら敵対する国の軍・治安部隊との直接戦闘や支配領域の奪取に努めたり、破壊と殺戮の量・質を誇るだけで政治的効果を期待しない広報をしたりするのみの場合も、そうした集団の行為はテロ行為というよりは純然たる戦闘行為や戦争犯罪に類するものと言えるでしょう。
上記のような発想に立つと、イスラーム過激派がいわゆる西側諸国やその国民・権益を攻撃対象として重視することは、ある意味合理的・理知的な選択といえます。なぜなら、そのような諸国が攻撃される事件が発生した場合、攻撃そのもの、そして犯行の主体とその主義主張について、世界中で大々的に報道されることになるからです。その結果、イスラーム過激派は自らの目的や要求を広く知らしめ、場合によっては彼らが関心を持つ分野で攻撃対象となった国の政策を変更させたり、敵対的な政策をとる政府を選挙で敗北させたりすることができるからです。
一方、報道の自由の無い国、あるいは自国民の人命や企業の損失の優先順位が低い国や社会を攻撃した場合、報道が規制されて事件そのものが「なかったこと」にされたり、いくら大きな被害を与えても何の社会的反響も呼ばなかったりします。この場合、自らの主義主張や要求事項を広く世に知らしめることができませんので、「戦果」がどんなに大きくても「テロ行為」としては失敗作となります。皮肉なことですが、報道の自由・表現の自由・情報を得る自由が保障されている社会、自由で優秀な報道機関を擁する社会であればある程、「テロ攻撃」の魅力的な標的となってしまうのです。
したがって、イスラーム過激派の個人・団体についても、彼らの行為がテロにあたるか否かは、個々の主体が自己の主義主張・要求事項を明示しているか、実際の戦果と広報を連動させてそうした主張を効率的に流布させる能力はどの程度かについて判断する必要があるのです。
Q6.イスラーム過激派は世界中で監視され取り締まられているはずですが、どのようにして資金や人員を調達しているのですか?
たいていの場合、実際に非合法活動を行ったイスラーム過激派の個人や団体は、厳しい監視や弾圧にさらされます。ただし、実際に取り締まりの対象になるような団体に公然と加入して活動する人数は多数ではありません。イスラーム過激派による資金や人員などの資金調達は、さまざまな形態・名目で行われており、はた目から見てすぐにそれとわかるような形では行われてはいないのです。
1980年代にアフガニスタンで活動したイスラーム過激派の場合、当時のソ連と闘うため、西側諸国と親西側のアラブ・イスラーム諸国からアフガニスタンへの資源の流れは、事実上奨励・黙認されていました。
一方、1990年代以降のチェチェン、ボスニア、そして2000年代のアフガニスタンやイラクの場合、実際に戦闘員として現地におもむいた者は、1980年代にアフガニスタンで活動経験のある者との親族・友人関係といった直接的な人間関係に基づいて勧誘された例が多いようです。イラクや最近のシリアでの事例を分析しても、直接戦地に赴いて戦闘員・活動家となるためには、出発地であらかじめ潜入の経路や受け入れ団体を決めておかないと、潜入は成功しないことがあきらかになっています。
それでは、戦闘員や活動家として勧誘される人々は、どのような人々なのでしょうか? 一般には、そうした人々は貧しく、無学な人々であると考えられているかもしれませんが、少なくともイスラーム過激派で指導的な地位にある人々はそうではありません。アル=カーイダで著名なウサーマ・ビン・ラーディンはサウジアラビアの富豪の出身でしたし、アイマン・ザワーヒリーはエジプトの名望家出身で、元々は医師でした。
イスラーム過激派が何らかの政治的主張を掲げている以上、その構成員は自分の周辺や世界の政治・経済・社会情勢に関心を持ち、それなりに思考を巡らせなければ、「イスラーム過激派の一員となる」、という選択をすることができません。本当に貧しく無学な人々は、日々の暮らしに追われて周囲の政治・経済・社会状況に関心を持つことができませんし、仮に関心があったとしてもそれをどのように表現していいのかわからないため、本当の意味でイスラーム過激派の構成員になることはできません。
一部のイスラーム過激派により自爆攻撃の実行者として貧しく無学な者が勧誘される例がありますが、そのような者は文字通り「鉄砲玉」であり、組織の重要な構成員とはなりえません。となると、実はイスラーム過激派の人員の勧誘は、貧困や無教養よりも、政治的自由・表現の自由が無いところの方が容易だということができます。政治や表現活動の自由がある社会の場合、イスラーム過激派が行う非合法活動に加わる以外にも個人・団体が政治的主張をする選択肢はたくさんあります。非合法活動以外に政治的主張をすることができない社会に住む人々が、よりイスラーム過激派に惹きつけられやすいのです。
イラクに潜入したアル=カーイダの外国人のうち、約半数はサウジアラビア人でした。最近のシリアに潜入した外国人戦闘員の中では、チュニジア人とリビア人の割合が急速に伸びています。いわゆる「アラブの春」によって「独裁者」を放逐したはずの両国でイスラーム過激派戦闘員の志願者が伸びているのは、実に皮肉な現象です。両国ではイスラーム過激派の活動の自由さえもが認められるようになったのか、あるいは期待されたほど政治や表現の自由が確立されていないのか、いずれにせよ、いわゆる「アラブの春」の実態について批判的に考察する必要があります。
一方、イスラーム過激派による資金調達や広報活動は、宗教団体や慈善団体を通じて行われている場合があります。
「ジハード」とは、戦闘に参加することだけでなく、ムスリムとして正しく生きるためにさまざまな努力に励む、ということを意味する用語です。つまり、直接戦闘に参加しなくても、資金集めや広報活動で実績を挙げれば、イスラーム過激派として立派な活動家として評価されうるのです。紛争地には人道支援が必要となることが多いですが、イスラーム過激派もそうした需要に応じるよう装って紛争地に浸透したり、各地で資源を調達したりしている例があります。そうした活動を行うものとして、サウジアラビア、カタル、クウェイト、パキスタンなどで具体的な個人や団体名が挙げられています。
このようなイスラーム過激派の活動は、本来国家権力が一律に取り締まるべきものかもしれませんが、実態は異なります。個々の国毎に取り締まりのための体制や能力も異なりますが、政策的に一部の活動を黙認したり奨励したりする国もあるようです。そのような国は、本来自国の政府に向けられるイスラーム過激派の資源を、黙認や奨励によって自国の外の紛争地に誘導し、自国の国内でのイスラーム過激派の弱体化を図る、という手法が用いられているようです。
最近の具体例では、「イスラーム的マグリブのアル=カーイダ」が、チュニジアの若者たちに対し他国(=シリア)にジハードに赴くのではなく、チュニジアに留まって自派の下に結集するよう呼びかける声明を出すなど、マグリブ諸国の事例が注目されます。
イスラーム過激派の中での女性の役割も無視できません。イスラーム活動家諸派の間での女性役割についての意見は、イスラームの教えを厳格に解釈して家庭の経営や子女の教育に専念させるべき、というものから、自爆攻撃要員として用いることに躊躇しないものまで多様です。しかし、最近の展開で憂慮すべき事例として、「結婚ジハード」と称する行為があります。
これは、シリアで活動するイスラーム過激派の間で公然と行われるようになった行為で、さまざまな場所で女性を勧誘してシリアに送り込み、「婚姻」を通じて現地のイスラーム過激派戦闘員の性的欲求を充足させるという行為です。こうした行為は、ムスリム一般は無論のこと、イスラーム過激派の間でもほとんど認められない特異なイスラーム解釈・実践で、シリアでの反体制武装闘争やイスラーム過激派の活動の道徳的堕落の典型例として、彼らの活動史の汚点となるでしょう。
Q7.「アラブの春」と称されるアラブ諸国の政治変動は、イスラーム過激派にどのような影響を与えたのでしょうか? 今後イスラーム過激派はどのようになるのでしょうか?
2011年の春先は、いわゆる「アラブの春」がアラブ諸国の社会に好影響のみを与えるとの非常に楽観的な見通しが主流でした。イスラーム過激派については、各国での政治や言論の自由が拡大する結果、政治活動の選択肢が増え、イスラーム過激派が採用するような非合法の武装闘争によって政治的主張をしようとする人々が劇的に減少するとの見通しが立てられました。そして、2011年5月にビン・ラーディンが殺害されたことと併せて、イスラーム過激派の時代は終焉を迎えたとさえ言われました。
いわゆる「アラブの春」によって、イスラーム過激派の扇動や宣伝への関心が著しく低下したことは事実でしたが、実際の情勢は、上記のような憶測や期待とは異なる様相を見せました。例えば、いわゆる「アラブの春」の後にチュニジア、モロッコ、エジプトで行われた国政選挙では、イスラーム主義の政党が第一党の座を獲得し、政権与党となりました。
また、一部の国では、そうした政党よりもさらに厳格なイスラーム解釈をする、俗に「サラフィー主義政党」と呼ばれる政治勢力が勢力を伸ばしました。さらに、2012年9月には、アメリカで製作された預言者ムハンマドを冒涜する動画に対する抗議行動として、チュニジア、リビア、エジプトでアメリカ大使館・領事館がイスラーム主義者によって襲撃されました。
ただし、こうした動きをイスラーム過激派の伸長とみなすのは早計です。ここで言及したサラフィー主義政治勢力、イスラーム主義者は、いわゆる「アラブの春」によって政治活動やデモを行う自由を獲得しましたが、彼等は本質的には現存する国家と政治過程を所与のものとし、その中での勢力拡大・権益獲得を目指す人々です。この点は、既存の国家と政治過程を打倒しようとするイスラーム過激派の思考・行動様式と著しく異なります。このため、イスラーム過激派は、いわゆる「アラブの春」後のイスラーム世界において、宣伝・扇動の効果が見込めない苦しい状況に置かれていました。
イスラーム過激派の今後を予測する上では、2013年7月のエジプトでのクーデターのような、選挙で勝利したイスラーム主義者が違法な手段によって政権から放逐される事例が重要です。こうしたできごとは、イスラーム過激派の支持者になるかもしれない人々の間で、「選挙や政治過程に参加しても自分たちの政治的主張はかなわない」という機運を醸成しかねません。イスラーム過激派は、そうした人々に対し「現状打開の唯一の手段は武装闘争によって親米勢力や世俗主義者を打倒し、イスラーム法による統治を実現することだ」と宣伝する好機を得るわけです。こうした扇動が成功しやすい政治情勢が続けば、イスラーム過激派が資源を獲得し、積極的に活動する環境が整うでしょう。
サムネイル「Osama bin Laden portrait.jpg」English: Hamid Mir
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Osama_bin_Laden_portrait.jpg?uselang=ja
プロフィール
髙岡豊
中東調査会上席研究員。上智大学大学院外国語研究科にて博士号取得。在シリア日本国大使館専門調査員、財団法人中東調査会客員研究員、上智大学研究補助員を経て現職。専攻分野は現代シリアの政治、イスラーム過激派モニター。著書に『現代シリアの部族と政治・社会』。