2014.04.10
『映画で学ぶ憲法』――アパルトヘイトの記憶が刻まれた南アフリカ憲法
■憲法とは何か――国際社会が凝視した国家建設・憲法制定 / 江島晶子
憲法とは何か:1996年南アフリカ憲法
1996年南アフリカ憲法は、世界の憲法のなかでは新参者だが、それだけに斬新な内容をもつ。
たとえば、情報に対する権利、環境に対する権利(日本国憲法中にはない)。他方、水に対する権利、住居に対する権利と、これまた生存権(25条)しかない日本国憲法ではお目にかかれない具体的権利が存在する。なかでも白眉は、前文である(日本国憲法の前文と比較してほしい)。
「我々南アフリカの人民は、過去の不正義を認め、この地で正義と自由のために苦難に耐えた人々を称え、この国を建国し、発展させるために働いた人々を尊敬し、南アフリカはそこに住む全ての人々に属して…いることを信じている。したがって、自由に選挙された我々の代表を通じて、共和国の最高法としての憲法を採択し、以下のことを実現する。過去の分断を解消し、民主的価値、社会的価値および基本的人権に基づく社会を確立すること。政府は人民の意思に基づき、すべての市民が法によって平等に保護されている…こと。国家の集まりの中で主権国家としての正当な地位を占めることができる…南アフリカを建国すること。(以下略)」
黒字で強調した部分が注目ポイントだといってもぴんとこないだろう。南アフリカの人々にとってそれがどんな意味を持つのか、そして、憲法とは何かを考えさせてくれるのが、映画『遠い夜明け』である。この映画は南アフリカのアパルトヘイト政策がもっとも苛烈だったときに、これに立ち向かった黒人活動家ビーコウと彼に出会って目を開かされた白人ジャーナリストのウッズの物語である。
黒人(そして一部の白人)たちの運動を抑圧するためにどんな手段も厭わない警察は、黒人を動かす力のあるビーコウを何とか逮捕しようとする。白人であるウッズさえ南アフリカにいられない。映画のエンディングでは、警察による拘束中に死亡した人々の名前が、警察発表の死亡原因とともに流れる。自殺、階段から転落、シャワールームで転倒、自然死、原因不明……。ビーコウは、生前ウッズに告げた。自分が警察に拘束され後に当局からビーコウは自殺したという発表があったら、警察によって殺されたと思ってくれと。正義と自由のために苦難に耐えた人々とは、こうした人々、ビーコウやウッズのことである。
アパルトヘイトはどうして可能だったのか?
前述の憲法前文にいう「過去の不正義」とは、アパルトヘイトのことである。アパルトヘイトとは、白人とそれ以外の人種を分断する人種隔離政策である。たとえば、白人と黒人の交際や結婚は禁じられ、黒人の居住地は限られ、他の場所で働くには許可証(自分の国なのに!)が必要である。南アフリカは人口の15%でしかない白人のものである。選挙権は白人だけ。法で保護されているのは実際には白人だけ。これを聞けば誰もがそんなのはおかしいと考えるだろう。
アパルトヘイトは、昔からある古い制度で、文化や歴史と結びついていて、改革・撤廃するのがむずかしいのだろうか。民主主義や法の支配が、議会や裁判所が存在しない国なのだろうか。答はいずれも否である。確かに南アフリカに根強い人種差別は存在したが(詳細は、映画『ガンジー』の冒頭シーンを見てほしい)、アパルトヘイトが法的に強化されるのは、第二次世界大戦後、1948年に南アフリカに国民党政権が誕生した後である。奇しくも、ホロコーストを経験した国際社会が、人権はもはや「国内問題」ではなく、「国際社会の問題」であることに同意し、「世界人権宣言」を制定した年である。国際人権規約(1966年発効)、人種差別撤廃条約(1969年発効)と、人権が国際社会の標準になっていく傍らで、南アフリカでは、雑婚法(1949年)、人口登録法(1950年)、集団地域法(1950年)、背徳法(1957年)と、人々を政治的、経済的、社会的に分断する法的仕組みを法律によって構築していった。
では、南アフリカに住んでいた白人は、時代錯誤の、とんでもない人種差別主義者なのか。白人は、こうした状況に疑問をもたなかったのか。映画の冒頭シーンはこの状況をうまく伝える。黒人は自分のホームランド以外の地域に移動するにはパスが必要である。しかし、ホームランド(多くは不毛の地)には仕事がないので食べていけず、仕事を求めて都市に移動する。こうした人々は都市のはずれにスラム街を作って生活している(政府から見れば不法占拠者であり、水道や電気といったインフラは存在しない)。
映画は、スラム街の朝の静けさが、突然、警察の強制的な追い出しによって破られるところから始まる。警官が容赦なく黒人たちを家畜のように追い立て、掘立小屋をブルドーザーでつぶしていく。子どもだろうが女性だろうが一切手加減しない残虐非道なシーンは本当に耐え難い。これをみておかしいと思わない人はいないだろう。すると、突然、映画のシーンは静かな寝室に転換し、ラジオにスイッチが入る。英語のニュース「公衆衛生のために、警察当局は、警告を発した後に、不法居住区から労働許可証を持たない居住者を立ち退かせた。誰もが、抵抗せず自発的に従った」。これが、多くの人々の知る「事実」である。
本来、市民に情報を伝えるジャーナリストであるウッズ自身も、当初はビーコウのことを、白人に対する憎悪を黒人の間に煽る危険な存在とみなしていた。ジャーナリストならば、実際に本人に会って話を聞いてもよさそうなものを、そうはせずに判断していたのであるから、ジャーナリストではない白人一般市民が、どのように事実を把握していたのか推して知るべしである。ウッズを含め白人たちは、自分たちの表現の自由が制約されているとは思っていない。だが、その表現の自由は、あくまでもアパルトヘイト体制下での自由で、そのことに気がつくのは、体制に強い疑問をもってからである。
偏見・差別からどうやって自由になるのか
映画の前半は、黒人ビーコウと白人ウッズの出会いから始まり、互いに信頼関係を築き、心を開きあっていくプロセスが中心である。ウッズは、リベラルな考え方を持った良心的ジャーナリストだが、決して活動家肌の人間ではない。プールつきの家や住み込み黒人家政婦のサービスを享受している。だからこそ、このプロセスに意味がある(映画の随所で交わされる2人の会話は、ウッズが後に執筆した『ビーコウ』という著作にもとづく)。黒人たちが黒人居留区(タウンシップ)でどのような生活をしていて、どんなことを考えているのか知ることがなかった白人が、実際にそこを訪れ、会話して、白人とか黒人とかではなく、「人」として魅了されていくプロセスである。
ウッズは、最初のうちはおっかなびっくりで落ち着かないが、扇情的な黒人至上主義者とは正反対のビーコウの魅力的な人柄、ユーモアのセンスに打ち解けて、お互い質問を自由にぶつけ合う。このシーンのポイントは、映画を観る者が自分をウッズの立場におき、黒人たちの考えを知っていくことである。
このシーンが、親密なコミュニケーションは心の垣根を低くするという過程を表しているとすると、サッカー場でのビーコウの演説は別のプロセスを象徴的に示している。サッカー競技場では、選手が試合前のウォーミング・アップをしている。そこにビーコウがどこからか現れて演説をする。そこにいる大勢の黒人が固唾を呑んで聞き入り、拍手とともに共感を示す。多数人がある意見に共感している場面に立ち会い、新たに意見の賛同者になり、漠然と持っていた疑問が裏付けられ自分の確信が強まっていく過程である(集会の自由の意義が感じられるシーン)。この演説を聴いた白人ウッズも思わず拍手している。
表現の自由を成り立たせる基礎的条件
実際には、ビーコウは、命令によって自分のタウンシップ外への外出は禁止されている。インターネットも携帯電話もない時代、移動の自由の制約は、表現の機会の大幅な制約である。しかも、ビーコウは、危険人物とみなされ一度に一人以上の人と会ってはいけないという命令に服している。よってサッカー場での演説には大きなリスクが伴う。実際、サッカー場にいた黒人の匿名密告によって、ビーコウは警察に逮捕される。
興味深いのは、この後のシーンである。警察の取調べシーンで、ビーコウは、匿名証人の証言が裁判で証拠として使えるのかと嘲笑する。ビーコウの絶妙な弁に、かっとなった取調官がビーコウを殴ろうとすると、同僚が「顔はやめておけ」と制止する。顔に殴打の跡があれば、後の裁判で、取調べの際の証拠が採用されない可能性がある(日本国憲法38条2項参照)。ビーコウの表現活動は一定程度、適正手続によって保護されている。
続く法廷でのビーコウと検察側の言論の応酬シーンは、対審構造の醍醐味である。検察側は、ビーコウが黒人の間に白人憎悪を煽る危険な人物(テロリスト)であると裁判官に何とか印象づけようとして、ビーコウの過去の言論を次々と引用する。ところが、ビーコウは、当の検察官に対して、私たちは今こうして対立しているけれども、これは暴力でもなんでもないですよねと応答する。勝利の軍配は両者の言論のどちらにあるのか、裁判官にも(そして映画の観客にも)一目瞭然である。
言論は、話した文脈から切り離して取り出すと、別の意味を持ちうる。だからこそ、反論の機会が必要であり、反論の結果を判断するのは裁判官であるにしても、その判断を一般公衆が見ていることが重要である(公開裁判の原則)。裁判官が説得力のない方を勝利させれば誰もがその裁判はおかしいと思うだろう。
このシーンは、まさにビーコウの理想が言論によって伝わる過程のクライマックスである。だからこそ、ここからビーコウの死に至る急降下は、並みのホラームービーよりも恐ろしい。見事な法廷劇は、結局、本気になった体制側の暴力の抑止力ではない。白人ウッズでさえも、体制に抵抗したとたんに、それまでの表現の自由や適正手続は消えてしまう。議会も裁判所も存在しない独裁国家ならばこの結果に驚くこともないが、議会も裁判所もちゃんとある国家でこんなことが起きるということが怖いのである。ウッズはまさか自分の身にこんなことが起きるとは思っていなかったのではないだろうか。そして、これはアパルトヘイト体制下にある白人に対する警告でもある(今、自分が享受しているものを全て犠牲にしてまで疑問の声をあげるべきか)。
映画という表現によって何が変えられるのか
今、この映画を観ると、前半のもりあがりと後半の脱出劇は一つの映画作品としてはバランスがやや悪いと感じられるかもしれない。それには重要な理由がある。映画作成時にはアパルトヘイトは存続中だということである。南アフリカでは撮影できず、隣国ジンバブエで撮影された。ウッズは、そしてアッテンボロー監督は、アパルトヘイトの存在を世界中の人に知ってもらいたいという意図で作っている(映画の冒頭で2人の登場人物の身元以外は全て事実だと明言)。そして、アパルトヘイトの実情を紹介する他の多くの映画と並んで、国際世論の惹起に役割を果たした。
この映画は、なんと日本の国会にまで届いている。参議院決算委員会で、ある国会議員がアパルトヘイト問題に対する日本政府の対応を質問した際に、同議員は外務省の肝いりで国会の中で『遠い夜明け』を鑑賞したと述べている(1998年5月23日参議院会議録第112国会決算委員会第6号)。
アパルトヘイトの実情が知られれば知られるほど、他国は、南アフリカとの付き合いを敬遠するようになり、南アフリカは国際社会のなかで孤立を深めていく。多くの西側諸国が南アフリカに対して経済制裁を課す。多くのミュージシャンやスポーツ選手は南アフリカでコンサートや試合を行うことを敬遠する。他方、国内では、反体制運動がより激しさを強める。そして、ついに、南アフリカ政府はアパルトヘイト廃止を宣言し、1994年に全人種が参加する総選挙を行う。1996年南アフリカ憲法が、「国家の集まりの中で主権国家としての正当な地位を占めること」を前文に掲げたのには、こうした深い意味がある。他方、国際社会の一員として最低限みたすべき標準を示した好例ともなった。
アパルトヘイト後の南アフリカ
アパルトヘイトが終了してハッピー・エンディングとはならない。ハリウッド映画にありがちな善玉対悪玉ととらえたのでは、この映画の意図に反する。ビーコウ自身が白人を悪玉とはとらえていなかった。アパルトヘイト後に設置された、真相究明と民族和解をめざした真実和解委員会は象徴的で、憎しみの負の連鎖を断ち切って、新しい社会を構築するための新しい試みである。南アフリカが国際社会にもたらした正の遺産といえる。
人々の暮らしは依然としてよくならない。むしろ経済格差は開く一方であり、治安悪化やHIVなど問題が山積し(映画『Totsi』〔2005〕は現状を垣間見せる)、初代大統領マンデラ後の南アフリカ政治は混迷を極める。冒頭で言及した水に対する権利、住居に対する権利は、水や住む家がないという厳しい現実の反映である。憲法に権利は書き込んだ。それを実現できるかは、いまや一部の人の責任ではなく、全南アフリカの人々の肩にかかっている。そして、国際社会は関心を持ち続ける(南アフリカでの2010年ワールドカップサッカー開催実現は一つのベンチマーク)。これが、20世紀末に誕生した新しい憲法の醍醐味ではないだろうか。
〔引用・参照文献〕
ドナルド・ウッズ(常盤新平訳)『ビーコウ : アパルトヘイトとの限りなき闘い』(岩波書店、1990年)
『映画で学ぶ憲法』「憲法とは何か――国際社会が凝視した国家建設・憲法制定」江島晶子」より
■リアルと普遍――『映画で学ぶ憲法』 / 志田陽子
憲法をリアルに感じ取る手がかりとして
憲法について知りたい、学び直したい、という声を今、いろいろなところで聞きます。そこにあるのが当然と思っていたものが形を変えていくかもしれない、下手をすれば変えてはいけない骨のところをいじって大失敗をするかもしれない、となれば、「まず知ろう」という思いに駆られるのは自然なことだと思います。
しかし憲法は、抽象度の高い言葉で書かれているため、条文を読んでいるだけでは生きた意味がつかめないと思います。「…の自由は、これを保障する。」という言葉だけでリアルな感覚はつかめないでしょう。そんな行き詰まりを感じたとき、映画を見て急に自分の知識に血が通い始めたという経験をした人は多いと思います。自分の中でイメージ把握ができると、法学的な知識や思考方法の習得は格段に早くなると思います。その橋渡しになれば、と考えて『映画で学ぶ憲法』という本を作りました。
憲法はもともと、現実の歴史の中から生まれてきた、大変にリアルな問題を扱った文書です。普通の人間にとって苦痛で耐え難い出来事、二度と繰り返してはならないと決意せずにはいられない出来事があり、その「繰り返してはならないこと」を防ぐための防波堤として考案されたものが憲法だと言えます。だから、「その人権がなかったならば人間はどれだけ生きにくい状況に置かれるか」「その統治システム(憲法保障)がなかったならば社会はどれだけ自滅の危険にさらされるか」といった問題意識をもちながら、それらが獲得されてきた歴史への想像力をもって見るならば、憲法を知ることは文学や大河ドラマに匹敵する魅力的な知的営為となってきます。映画は、この魅力的な知的営為を手助けしてくれる、もっとも心強い表現ジャンルでしょう。
憲法は人権を守ること(まずは侵害しないこと、そして権利の性質によっては人権実現のために必要な役割を果たすこと)を国家に命じている法です。その憲法がたとえば「思想良心の自由は、これを侵してはならない」と定めているということは、国家に向かってそう言わなければならないような事実があったのだろうか?と考えてみてください。「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」(2005年ドイツ)など、そうした歴史的事実を題材とした作品は多く、「こういうことを防ぐために憲法があるのか」という気付きを与えてくれるでしょう。
私は美術大学で憲法や芸術・表現に関連する法律を教えています。そこでは、「そこから何を読み取るか」という姿勢で映像作品に向き合うことを日常自然に行っている学生がとても多く、学生との映画をめぐる議論や情報交換が楽しみです。そんな環境の中で、授業や共同研究や公開講座を通じて、映画を使って憲法問題を少しでもリアルに理解してもらう工夫をする機会に恵まれました。
また、同じ方向で工夫をしてこられた憲法研究者・教育者の方々と意見交換もできるようになりました。本書『映画で学ぶ憲法』は、その中から出来てきた本です。本書はこのような経緯を積み重ねた結果、大勢の憲法研究者・教育者が「憲法について知りたいと思っている人にぜひ見てほしい」と思う映画作品を持ち寄った成果が詰まっています。
学生・司法試験受験生のみなさんにとっては鋭利な理論家と見える人々が、じつはその仕事の奥にこんな素顔の感性をもっておられたのかと感銘を受ける所も多々あるのではないかと思うのですが、じつはそれもまた、本書の狙いの一つです。
近年、中学・高校の教員の方々が人権啓発や法学教育のための参考となる映画作品を探しているという話もよく聞きます。中学・高校の教育でも、まずは社会問題に《触れる》、《想う》という心的体験が重要だと考えている教員が多くいらっしゃることを感じます。憲法について考えるということは、様々な社会問題を考えるジェネラルな姿勢を養うことにつながるので、感受性の鋭敏な10代の人々にぜひ、そうした心的体験の機会を十分に得てほしいと私も思っています。本書がそうした機会を作ろうとしている教員の方々のお役に立てれば、これほど嬉しいことはありません。
憲法の抽象性には意味がある
さて、これはと思う映画に出会うことができたら、その後のお話としてぜひ付け加えたいことがあります。それは、映画で得たイメージはあくまでも「入口」や「きっかけ」であって、そこでイメージの固定を起こさないでほしい、というお願いです。
映画は、生の現実そのものではなく《作品》です。それは作者の視点で再構成され、物語化・映像化された作品であって、憲法を取り巻く社会的現実や歴史的背景について、あくまでもひとつの見方を提供してくれているにとどまります。それに映画の作者は、憲法を学んでもらうために映画を作ったわけではなく、もっと純粋に作品世界をエンジョイしてほしいと思っているに違いありません。憲法を学ぶ橋渡しにさせていただこうというのは、もともとこちらの身勝手な読み込みなのです。私たちは、作品への敬意を見失わないために、このことをわきまえておく必要があると思います。
もうひとつ付け加えておきたいのは、映像によってリアルなイメージを得たあとは、もう一度、憲法の抽象性(普遍性)に思考を戻そう、ということです。たとえば、「アミスタッド」(1997年アメリカ)、「グローリー」(1989年アメリカ)、「アメイジング・グレイス」(2006年イギリス)といった映画を見れば、私たちは「奴隷制」の問題の深刻さやその克服のために費やされたエネルギーを強烈なイメージをもって知ることができます。
けれども、憲法に書かれている言葉の意味は、それらのエピソードを超えた広がりをもっています。言葉が抽象的なのは、さまざまな具体的事情を捨象し、言葉を濾過して、すべての人に憲法の保障がいきわたるように純化された言葉になっているからです。だから憲法の言葉は、アメリカやフランスで近代的な憲法が生み出されてから200年以上が経った今でも、国家と人間とをつなぐ要としての生命力を持ち得ているのです。だから、それが濾過・純化を経る前の具体的で切実なニーズを想像する力を得たあとは、もう一度、憲法の言葉の抽象性に戻ってほしいのです。
たとえば「奴隷的拘束の禁止」の条文ですが、私たちは、肌の色の黒い人々が鞭打たれているエピソードや映像にイメージを固定して、「それはもう終わった過去の出来事だ」とか「日本には存在しなかった外国の話だから日本国憲法にこの条文は不要だ」と考えるべきではないでしょう。人間にとって強制されるべきではない奴隷的状況とは何をいうのかという本質を考え、本質的に同じ状態に置かれている人々が今日の世界にいるならば、それは「憲法問題」として認識しなければならないでしょう。
その《本質》を言い表す言葉は当然に抽象的になるわけですが、これが憲法の《普遍性》を支えているのだと思います。そう考えると、たとえば人身売買問題などが今日の国際社会の中にはまだ残っており、問題はまだ過去のものになったとは言えないのです。そうしたところにも想像力を広げていくきっかけとして映画の力を借りたいというのが、本書の立場です。
この文章も、抽象的で、具体的な映画の話がほとんど出てきませんでしたね。それは本書の本文にたくさん出てきますので、ぜひご一読ください。
本書が、さまざまな立場から「憲法について知りたい、伝えたい」と思っている人々にとって、楽しめる入口であったり、心の扉をノックする刺激になったりして、憲法の世界への橋渡しの役に立つことを願っています。
(この文章は、『映画で学ぶ憲法』「はしがき」および「あとがき」(志田陽子)より抜粋・加筆したものです)
※本書の内容作成にあたっては、武蔵野美術大学共同研究助成(平成22-25年度)による助成を得ました。また、その前身となる公開講座は、「文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業(平成20年-平成24年)」の採択を受けた武蔵野美術大学造形研究センターの研究事業の一部として行われました。本書の巻末に収録した公開座談会《抜粋》の完全版は、武蔵野美術大学イメージライブラリーから、「2012 映像特別講座・『映画で学ぶ憲法』の記録(1)~(3)」として、以下のURLで公開されています。ここで紹介させていただいた書籍『映画で学ぶ憲法』のきっかけとなった公開講座です。
・映像特別講座「映画で学ぶ憲法(1):憲法研究者が見た『カサブランカ』」の記録
http://img-lib.musabi.ac.jp/event/event_eigademanabukenpo01.html
・映像特別講座「映画で学ぶ憲法(2):民主社会における『君主』の表象」の記録
http://img-lib.musabi.ac.jp/event/event_eigademanabukenpo02.html
・映像特別講座「映画で学ぶ憲法(3):南アフリカに見る国家の変動と人権」の記録
http://img-lib.musabi.ac.jp/event/event_eigademanabukenpo03.html
プロフィール
江島晶子
明治大学法科大学院教授。専攻分野:憲法学、国際人権法学。博士(法学)。研究テーマ:
憲法と国際人権条約による多層的人権保障システム、グローバル世界におけるトランスナショナルな司法対話・立法対話。著書・論文に、『人権保障の新局面』(日本評論社)、「多層的人権保障システムにおけるグローバル・モデルとしての比例原則の可能性」(『現在立憲主義の諸相』有斐閣)、「問題は、人権規定なのか、人権を実現する仕組み(統治機構)なのか」(『改憲の何が問題か』岩波書店)、「憲法の未来像における国際人権条約のポジション」(『憲法理論の再創造』日本評論社)
志田陽子
武蔵野美術大学造形学部教授、「シノドス」編集協力者。憲法と芸術関連法を専門にしている。本稿と関連する編著図書として、『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)、『映画で学ぶ憲法 2』(法律文化社、2022年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)がある。