2014.04.19
「なぜ日本では運動部活動なるものがあるのか? Amazing!」――『運動部活動の戦後と現在』(中澤篤史)ほか
『運動部活動の戦後と現在』(青弓社)/中澤篤史
本書のテーマはいわゆる部活。日本の中高校に通ったことのある人なら、だれもが知っている運動部活動である。だがつぎのような事実はご存じだろうか?
じつは運動部活動が日本ほど盛んな国はほかにない。ヨーロッパや北米では運動部活動は存在するものの、地域社会のクラブのほうが規模も大きく活動も活発であるし、ドイツなどそもそも運動部活動が存在しない国もめずらしくない。中国や韓国では運動部活動が中心だが、そこに参加するのは一握りのエリートだけだ。「部活動は日本独特である」といわれる所以である。
ところが、教師や生徒の声に耳を傾けるならば、日本にあっても部活動はもろ手を挙げて受け入れられているわけでは決してない。カリキュラムに含まれない課外活動である部活は、指導や運営に携わる教師にとって多大な負担だし、関心がなかったり運動が苦手だと忌避する生徒も少なくない。にもかかわらず、半分以上の教師が顧問に就き、7割の中学生と5割の高校生が加入しているのが実態だ。
しかも奇妙なことに、この決して歓迎されているわけではない部活動が、日本にあっては教育の一環となっている。つまりスポーツと学校教育が結びついているのが部活なのだ。本書が迫ろうとしているのは、この奇妙な結びつきの由来であり、またこの結びつきを教育現場が「自発的に」拡大させてきた力学である。
運動部活動の起源は明治時代にある。しかしながら、現在にまでつづく部活の原型がかたちづくられたのは、戦後の学校教育改革においてであった。戦前の軍国主義への反省から、民主主義的な国家と人間を形成することが目指されたのだが、そのとき高い価値を見出されたのが自由と自治を象徴とするスポーツだった。
要するに、子どもの自由と自主性をスポーツを通じて実現しようとした、(自主性を教育するという点で)多分に緊張関係をはらんだ教育実践が部活動だったわけである。(そして現在、運動部活動の新自由主義的/参加民主主義的な再編プロセスのなかで、子どもの自主性の意味内容は変容しつつある-追記)
外国人研究者たちは「なぜ日本では運動部活動なるものがあるのか? Amazing!」と驚くという。本書はこの驚きに答えを与えるべく書かれた好著である。(評者・芹沢一也)
『「あいつらは自分たちとは違う」という病――不毛な「世代論」からの脱却』(日本図書センター)/後藤和智
「今の若者は……」「あの世代はいいよな……」といった言説を耳にしたことがない人はおそらくいないだろう。むしろほとんどの人が自らそのような愚痴的な議論をしたことがあるのではないか。
本書は、現代の若者論は「愚痴」に留まらず、社会を好ましくない方向に動かしているのではないかという問題意識から、政治的にも、文化的にも「世代」という枠組みが前面にでてくるようになってきた1970年代(「全共闘世代」「団塊の世代」)から現代に至るまでの「世代論」「若者論」を検証。「若者論の失われた40年」という枠組みを提示する。そこから見えるのは、科学的根拠のない若年層へのバッシング、あるいは擁護論であり、そうした「若者論」の想像以上の害悪である。
特に、1990年代に「若者論」を大流行させる下地を作った、1980年代の知識人が自らを売り出すために、メディアを意識した戦略的な振る舞いを行ったことによって、「理論」や「知見」ではなく、「自分たちはこういう世代である」という「アイデンティティ」が売り物になったという指摘は、現代の若者論の問題点を認識する上で重要なものだろう。
1990年代、2000年代を経て、若者論の語られ方は徐々に変わりつつも、アイデンティティの形成という視点を軸にしていることに変わりなく、結局、他の世代との断絶を生み出し、それによって新たなバッシングと擁護論が生み出されていく。それらがアイデンティティに基づくものである限り、データを使った検証などの客観的な分析は行われず、誤った議論が展開され続けてしまう。
「……それで、若者層は幸福になりましたか? 少なくとも、本当にリアルな姿で捉えられるようになりましたか? 世代論は、本当に政策などを構築する上で役にたちましたか? ……本書が提示するのはまさに、現代の世代論がよって立つ価値観そのものへの根本的な懐疑なのです」
本書を読み通すと、著者の後藤氏のこの言葉に込められた問題意識が非常に逼迫しているものだということが分かる。専門知に基づいた、適切な社会分析が行われるためにも、必読の一冊ではないだろうか。(評者・金子昂)
『坂口恭平躁鬱日記(シリーズケアを開く)』(医学書院)/坂口恭平
僕は治ることを諦めて、「坂口恭平」を操縦することにした。(本文より)
路上生活者の暮らしを描いた『TOKYO0円ハウス0円生活』(河出書房)で脚光を浴び、独立国家を設立し新政府総理に就任した際の経緯をつづった『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書)がベストセラーになるなど、数々の注目作品を発表してきた坂口恭平。そんな彼が、自らの躁鬱の波と共に、2013年4月から7月までの日々を記述した本が『坂口恭平躁鬱日記』である。
「躁のときには鬱の記憶が完全に取り除かれ、鬱のときには躁の活躍がまったく理解できなくなる」という作者は、躁鬱病を直すことをあきらめ、飛行機に乗るかのごとく操縦することを決意する。
本書の画期的な点は、躁と鬱、両方の日記を掲載しているところだろう。躁のあふれんばかりのイマジネーション。幼い娘を乗せて疾走する姿は、読んでるだけでのびのびと自由な気持ちになる。熊本の自然を織り込みつつ書かれる日々は瑞々しい。
一方で、鬱のときに書かれた『鬱記』の重い重い自責の念。そのあまりの重さに読んでいて少し気が滅入ってしまう。全く違う人間が「坂口恭平」という個人の中にいるようだ。しかし、読み進めていくうちに、躁と鬱は表裏一体であり、躁は鬱を支え、鬱もまた躁を支えていると感じてしまうから不思議である。
また、本書には、妻のフーさん、4歳のアオ、生まれたばかりの弦、の3人の家族も登場している。特に妻のフーさんは驚くようなおおらかさで彼を包む。「娘と息子に鬱状態の自分を見せたくない」作者が泣いていると、フーさんはこう言う。
「どうせ隠せないんだから、全部を見せればいいのよ。べつに私はなんとも思っていないよ。鬱のときのあなたも悪くないんだから」(本文より)
その逞しさに、作者だけではなく私たち読者も救われる。本書は様々な読み方ができる。躁鬱を操縦する苦悩の日記として、「坂口恭平」の当事者研究として、坂口家の家族ドラマとして。「躁鬱なんて自分には関係ない」と思っている人もぜひ手に取って欲しい本だ。(評者・山本菜々子)
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