2014.10.21
香港デモは、中国民主化の希望となるのか
9月27日から今も続く香港のデモは、解決の糸口が見つからず、混迷状態が続いている。
香港警察は、デモが市民生活に悪影響を及ぼし、市民からも不満が上がっていることを名目に、10月13日からバリケードの撤去など実力行使に出た。確かにデモに参加する人の数は激減し、デモへの不満を耳にする機会も増えた。しかし、デモ隊を排除しただけで、一連の騒ぎが収まるとは思えない。もし香港警察が再び催涙ガスを用いるなどの強硬手段に出れば、再度、大規模なデモに発展する可能性がある。それだけ香港政府のバックに立つ中国政府に対する香港市民の反感は根強いと感じる。
香港市民による非暴力の抵抗
今回のデモは、時期によってその性質がやや異なる。最も大規模なデモに発展し、内外の注目度がとりわけ高かった9月28日~10月2日の期間の参加者と、その前後にあたる、9月22日の学生による授業ボイコットからセントラル占拠にいたる初期の活動、そして膠着状態に陥った10月3日から現在にいたるデモの参加者の様相が異なっているのだ。
筆者が実際にデモを見たのは9月28日夜から10月2日午前で、今回のデモが香港各地に広がり、最も大規模だった時期にあたる。この期間について言えば、参加者の大半は当初からデモに参加した学生たちではなく、警察が警棒や催涙ガスなどでデモを鎮圧しようとしたことに抗議して立ち上がった一般市民だった。路上を埋め尽くす人の中には高齢者、夫婦、会社帰りの人などさまざまな人がいて、彼らは政治的要求を叫ぶことはあまりしないものの、泊り込みを続ける学生を励ましたり、演説に温かい拍手を送ったりしていた。
この期間に日本のメディアから取材を受けた際、「今回の民主化デモ」「今回の学生デモ」という言い回しを聞き、やや違和感を覚えた。というのも、セントラル、銅鑼湾の街を埋め尽くす人の圧倒的多数が老若男女さまざまな一般市民で、必ずしも民主化を声高に叫んでいたわけではなかったからだ。
そもそも中国本土と違い、香港は日本なみ、もしくは日本以上の言論・集会の自由があり、独裁国で起きる民主化デモとは趣きが異なる。その中で、中国返還以前から存在しない行政トップの選挙権を要求する民主化デモを支持する人は、さほど大勢ではなかったのではないかと思われる。筆者は今年6月4日、7月1日も香港を訪れ、やはり大規模な集会・デモを目にしたが、その当時、いたるところで配られていたセントラル占領や普通選挙実現のチラシに関心を示したのは参加者の中でごく一握りだった。
それが9月28日になって、香港の各繁華街を埋め尽くす規模にまで発展したのは、香港警察の暴力が市民に反感を抱かしたからにほかならない。デモの中で知り合った30代の会社員男性は「香港で1989年の6・4を思わせる出来事が起きてほしくない。そのことを表明したくてデモに来た」と語ったが、同じような思いでデモに足を運んだ人は多かったはずだ。そのことはデモに参加した一般市民の、中国政府に見せつけるかのごとく披露された、きわめて穏健な行動ぶりにも現れていたと思う。
デモの現場は日本で言えば隅田川の花火大会を思わせるほどの大勢の人で埋め尽くされていた。しかし、ゴミを散らかすこともなく、全体として静かで、通行の際も道を開けるなど整然とし、警官を怒鳴るどころか、夜勤が続く警官の体調を心配する声さえ上がっていた。有志でゴミ箱を整理する市民、寝泊りするデモ隊に水や食料を配給する市民もいて、彼らの圧倒的多数は政治信条はともかく、温かくデモの学生たちを声援し、結果としてセントラル占拠計画が当初から掲げる「愛と平和」という謳い文句通りに、非暴力による抗議活動が展開されたのだった。
日本のメディアの取材を受けた際にもう1つ違和感を持ったのが、こうした平穏なデモを「迫力がない」「いい加減だ」とするネガティブな捉え方だった。確かに「普通選挙実現」などと一斉に叫んで激しく警官とやりあうような緊迫した光景は乏しかった。
しかし大勢の市民が集まったのは、そのような緊迫した攻防を望んだからではない。暴力を振るう香港やそのバックにいる中国政府に反発し、香港市民の持つ洗練された文明の民のありようを見せつけたかったから、というのがデモに参加した一般市民を中心に話を聞いた上での実感である。独裁国家における民主化デモを基準にすれば、「迫力がない」に違いないが、平穏で秩序正しい抵抗こそが、強大な権力と暴力的支配をたのみに一国二制度を踏みにじろうとする中国政府に対する効果的なやり方だったのではなかろうか。
民主化デモと反中国政府デモ
今回のデモは、学生たちによる急進的な動きと、彼らに声援を送りにデモに駆け付けた市民の動きが同一視され、解釈が混乱しがちだ。しかし中国政府の一国二制度を踏みにじる態度に反発し普通選挙実現を要求する学生たちと、香港警察が暴力で鎮圧しようとしたことに強く反発してデモに参加した人びとを同一視して、民主化デモと呼ぶのには無理がある。双方を結びつけるのは、民主化ではなく、中国政府に対する反発にほかならない。一括りにして語るなら民主化デモと言うより反中国政府デモと言うべきであろう。
もちろん、香港市民の全員が中国政府に反感を持っているわけではない。デモ隊に向かって悪態をつく“親中派”らしき人は、10月3日以前にも見かけたし、デモに全く関心を示さない人もいた。中国本土からの人の流入が相次ぐ香港には、中国政府の恩恵を受けて仕事をしている人や、香港の一連のデモに「反中国人」のニュアンスを感じ取って反感をおぼえる人も一定の数は存在する(大半ではないとしても何割かはいると筆者は考えている)。また、香港市民と言っても、今回のデモでは、昨年春の港湾労働者による大規模なデモ・ストライキ活動の際には至る所で目にした東南アジア、インドなどからの移民の姿を、少なくとも筆者は見かけなかった。
また、香港市民が中国政府に反発すると言っても、反発の内容や度合いは人それぞれなはずで、「香港人は香港人であって中国人ではない」(デモに初期から参加した20代会社員男性)と中国を毛嫌いする人もいれば、「香港から中国を変えていくべきだ」(デモに初期から参加した50代会社員女性)と中国の民主化に思いを寄せる人もいた。今回のデモにしても、このままでは香港が中国に踏みにじられると危機感を抱いて粘り強く闘う人もいれば、香港警察の対応がおとなしくなるとデモから離れていく人もいた。
このようにデモに参加した人たちの間でも、中国に対する考え方が分かれる。しかし、確かなことは大勢の香港市民が中国に反感を抱いていることだ。筆者は日ごろ香港で「普通話」と言われる中国標準語を話すが、年々通じやすくなる一方で、反感が強まっていることも身をもって感じる。バラバラな思いも、いったん香港警察や中国政府が強硬な姿勢を示せば、再び大規模なデモにまとまっていく可能性がある。
香港で民主化を求めるデモは03年以降、たびたび起きているが、03年頃と比べて今は中国本土から香港に行く人の数が激増している。中国人のミルク買い占めや地下鉄でのマナーの悪さなどが発端となって、たびたび大規模なバッシングも起きている。しかも、10年前に比べ今は中国政府自体が国内的にも周辺国にも強硬な姿勢で臨むことが際立っていて、香港市民が中国に対して反感を持つのはある意味至極当然だとも言える。
プロフィール
麻生晴一郎
1966年生まれ。東京大学国文科在学中、中国ハルビン市において行商人用の格安宿でアルバイト生活を体験、農村出身の出稼ぎ労働者との交流を深める。以来、ルポライターとして中国の農村出身者や現代アーティストたちを取材し、現在は草の根からの市民社会形成を報告するなど、中国動向の最前線を伝えている。2013年8月に『中国の草の根を探して』で「第1回潮アジア・太平洋ノンフィクション賞」を受賞。またNPO「AsiaCommons(亜洲市民之道)」を運営し、中国内陸部から草の根の市民活動家を招く「日中市民交流対話プロジェクト」を12年、14年に東京などで開催した。主な単著に『北京芸術村:抵抗と自由の日々』(社会評論社)、『旅の指さし会話帳:中国』(情報センター出版局)、『こころ熱く武骨でうざったい中国』(情報センター出版局)、『反日、暴動、バブル:新聞・テレビが報じない中国』(光文社新書)、『中国人は日本人を本当はどう見ているのか?』(宝島社新書)、『変わる中国「草の根」の現場を訪ねて』(潮出版社)、共著に『艾未未読本』(共著、集広舎)『「私には敵はいない」の思想』(共著、藤原書店)など。