2016.01.13
サウジアラビアとイランはなぜ対立するのか
はじめに
1月3日、中東の二大地域大国であるサウジアラビアとイランが国交を断絶するとの報道が世界を駆け巡った。
国交断絶の直接的な引き金となったのは、サウジ政府によるシーア派聖職者ニムル師の処刑と、それに憤ったイラン市民によるサウジ大使館の襲撃であるが、両者はかねてより対立関係にあったことで知られていた。
サウジとイランの対立は、しばしば「宗派対立」という言葉で語られる。すなわち、イスラームにおける多数派であるスンナ派と少数派であるシーア派の対立であり、前者を代表するのがサウジアラビア、後者を代表するのがイランというわけだ。
そして、中東地域における対立構造は、この宗派という分断線によって敵/味方に分かれており、相互に憎しみ合いながら争い続けていると説明される。
今回のサウジ・イラン間の関係悪化に際しても、多くのメディア、そして欧米諸国の政府ですら、こうした宗派対立の枠組みにしたがって両者の対立の激化を懸念する声を上げた。こうした枠組みを現在の中東地域の紛争に適用することは妥当なのかという疑問、あるいは宗派対立という概念に付随する問題については、今回の一件においても既に複数の専門家が指摘している。(注)
(注)例えば酒井啓子「サウディ・イラン対立の深刻度」『ニューズウィーク日本版』(2016年1月6日)や青山弘之「イランとサウジアラビアはシリア紛争でどのように対立しているか?」『Yahoo! News』(2016年1月6日)、髙岡豊「サウジとイランの対立激化がシリア紛争に与える影響」『Yahoo! News』(2016年1月7日)、末近浩太「サウジとイランの問題を「宗派対立」で語ってはいけない」『News Pics』(2016年1月9日)など
また、サウジとイランの間には直接的な軍事衝突こそないものの、シリア、イエメンなどの紛争で敵対する勢力をそれぞれが背後から支援している構図は、サウジとイランの「代理戦争」と呼ばれ、こうした対立関係は「冷戦」にも例えられてきた。
そして、今回の危機によって両者の対立が決定的になったことは、中東地域で新たな「熱戦」が始まるのではないかという恐れすら引き起こしている。
ここでは、いったん宗派対立や地域紛争という広い話から少し離れて、まずは今回の危機の当事者であるサウジアラビアとイランという二つの国家の関係に注目してみよう。すなわち、サウジ政府とイラン政府はいったい何を争って対立しているのか。また、どのような手段をもって対立しているのか。
本稿では、こうした「争点」と「手段」という紛争を構成する要素に焦点をあてて今回の危機について論じてみたい。
これを明らかにすることで、今回の両国の一連の行動――47人の処刑、大使館襲撃、国交断絶――についても、それぞれの意図をより正確に推測することができるだろう。また、両者の関係性への理解を深めることは、この危機が地域にどのように波及していく可能性があるのかを検討する材料の一つにもなるはずだ。
宿命のライバル?
サウジアラビアとイランは、はるか昔から対立関係にあったように言われることも多いが、歴史を振り返ると、必ずしもそうではないことが分かる。
現在のイランの地にペルシア帝国として知られるアケメネス朝が成立したのは紀元前6世紀のことであるが、アラビア半島に統一的な政体が誕生するのは20世紀になってからのことである。また、1971年に英国が湾岸地域から撤退するまで、同地域における湾岸諸国間の関係、とりわけ安全保障問題は英国によって管理されている状況であった。
そして、英国撤退後は、ソ連が親ソ的なイラクを足がかりとして湾岸地域に進出することを恐れた米国によって、ともに親米政権であったサウジアラビアとイランを二つの柱とする地域秩序(二柱政策)が描かれたのである。
サウジアラビアとイランがはっきりと対立関係に至ったのは、1979年にイランで革命が起きたことを契機とする。新たにイランに誕生した「イスラーム共和国」は、各地で抑圧されているムスリムの解放を目指し、革命的な手段によって「イスラーム体制」を実現することを呼びかけた(「革命の輸出))。
これは、スンナ派・シーア派を問わず全てのムスリムに呼びかけられたものであったが、実際にはシーア派ムスリムの間で受け入れられていき、80年代にはサウジ東部、バハレーン、クウェイトにおいて、暴動、爆弾テロが頻発したほか、クーデターや国家指導者の暗殺(いずれも未遂)といった動きにつながった。
1980年から始まったイラン・イラク戦争(~88年)において、サウジが長年の脅威であったイラクを支援する側にまわったのは、こうした背景によるものであった。
しかし、サウジアラビアとイランの関係は、そのまま悪化し続けたわけではなかった。1989年に革命を主導した最高指導者ホメイニー師が死去し、ハーメネイー最高指導者・ラフサンジャーニー大統領による新たな体制が発足すると、戦争で疲弊した国内の復興が最優先に掲げられ、これまでの急進的な政策は転換、現実主義的なアプローチが採用された。
他方、サウジアラビアの側も、1990年のイラクによるクウェイト侵攻によって、イラクの脅威を再認識し、イランとの関係改善に乗り出す動機ができた。
この結果、1991年には1988年以来断絶状態となっていた国交も回復し、1997年にはサウジのアブドゥッラー皇太子によるイラン訪問、1998年にはイランのハータミー大統領によるサウジ訪問が実現したのである。
つまるところ、考えてみれば当然のことではあるが、サウジアラビアとイランの関係は常に対立していたわけでも、常に緊張していたわけでもなかった。両国の関係性は、時の体制や政権のイデオロギー、国内の政治状況、地域・国際情勢によって左右される、一般の国家間関係に他ならない。
こうした対立と協調が繰り返されている間、スンナ派/シーア派、アラブ/ペルシア、産油国同士といった両国の特徴に大きな変化はない。すなわち、両国の間に、対立を宿命づけるような要素は存在していないといえよう。
何が変わったのか?
それでは、なぜ2016年の今、二国間の関係はそこまで悪化することになったのか。複数の要因が複雑に絡み合っているが、ここでは3つの大きな要因を指摘しておきたい。
第一に、2003年のイラク戦争の結果、プレイヤーとしてのイラクが消滅したことだ。湾岸地域は、イラン、イラク、サウジアラビアという三者のバランスによって秩序が成り立ってきた。
70年代、そして90年代にサウジとイランが接近したのは、それぞれイラクに対抗するという利害を共有していたからである。しかし、現在のイラクは地域に影響力を発揮する存在ではなく、むしろ周辺国によって影響力を行使される「場」になっている。
戦後のイラクで親イランのシーア派政権が誕生したこと、「イスラーム国」対処のためにイランの革命防衛隊がイラク国内で作戦を展開していることは、サウジにとって地域のバランスが大きくイラン側に傾いていると認識させている。
第二に、米国の中東地域への関与の低下である。イラン革命以降の湾岸地域における大きな対立軸は、サウジ(+米国)vsイランというよりも、米国(+サウジ)vsイランというのが実態に近かった。
湾岸戦争後、湾岸地域に軍隊を駐留させる米軍の存在はイラン政府にとって最大の脅威であり、2001年と2003年にアフガニスタンとイラクという東西の隣国で米国の軍事介入による体制転換の実現を目の当たりにしたことで、その恐怖はピークに達した。
しかし、ブッシュからオバマに代わり、米国がアジアへのリバランスを表明して中東への関与を低下させたことで、その構図にも変化が現れる。これまで米国の陰に隠れていたサウジアラビアは、米国が地域において果たしていた役割の一部を代替するようになり、対立の構図はサウジ(+米国)vsイランとなりつつある。こうした傾向は、2015年7月の核合意によって米・イラン関係に改善の兆しが見られることにより、更に加速している。
第三に、周辺国政府の統治機能の低下である。2014年に「イスラーム国」がシリア、イラクで猛威を振るい、イエメンではフーシー派が武力をもって政府を瓦解させた。
これらの反政府勢力が躍進したのはそれぞれ別個の文脈から成るものであるが、結果として混乱状態が発生したことは、サウジとイランにとって、それぞれの支持勢力を支援するための軍事介入の契機となった。
こうした機会主義的な介入の結果、二国間での直接的な衝突はないものの、サウジとイランはそれぞれの戦場で敵方の支持勢力との対決を余儀なくされている。
ところで、こうした地域紛争への介入にあたり、自国の影響力を異国の地で浸透させるためには、自国に親和的なイデオロギーを持つ勢力を足場とすることが定石であろう。つまり、それぞれが敵対する勢力を支援するサウジアラビアとイランは、自国の影響力を最大化するための手法の一つとして、宗派的な分断線を利用しているのである。
したがって、イラン政府がアラウィー派のアサド政権、ザイド派のフーシー派を支援するのは、シーア派という宗派的な連帯感に基づくものではなく(そもそもアラウィー派やザイド派をシーア派に分類することが妥当なのかという議論もある)、彼らがイランにとっての敵と対抗する上で有力な存在であるからに他ならない。
同時に、アル=カーイダや「イスラーム国」にとってサウジ王政は攻撃の対象になっているように、同じスンナ派であるからといって一枚岩になっているわけでもない。
まとめると、(1)プレイヤーとしてのイラクの消失により、サウジ・イラン間で協調を維持する誘因がなくなった、(2)米国の関与が低下したことで、イランとの対立でサウジが前面に出てきた、(3)周辺国での混乱にそれぞれが介入した結果、各地で対立する場が増えた、ということが指摘できよう。
これらの要因のうち、(1)と(2)は構造的な変化であり、直接的な関係悪化の理由ではない。サウジとイランの間の最大の争点は、(3)の互いの地域紛争への介入にある。
今回の国交断絶においても、処刑への非難という内政干渉、そして大使館襲撃に加えて、(一連の騒動とは特に関係のない)イランの地域政策が改善されない限り国交の回復はないとサウジが主張した背景は、ここにある。
どうやって争っているのか?
サウジアラビアとイランの対立の争点は、互いの地域政策にある。つまり、これは、自国の影響力を拡大させ、地域覇権を確立することをそれぞれが目指している、権力闘争的な側面が強い争いだといえよう。宗派は、この目的を達成するために利用されている要素の一つであり、地域において味方を増やすための手段として用いられている。
とはいえ、両国は無制限に紛争を拡大させようとしているわけでは、決してない。それは、能力的な制約に加えて、そもそも両国が全面戦争に発展することを望んでいないこと、そして自国の安定や発展にとってマイナスになることは避けようとしていることに起因する。
メディアではサウジとイランの間で戦争が発生する危機についても多くの言及があった。サウジとイランの間には陸上国境がなく、相手国の領土に地上部隊を送り込むような空挺・揚陸能力も保有していないため、想定されるのはペルシア湾上で航空戦力、海洋戦力が衝突することであろう。
これはサウジとイランの二国間で比較した場合はイラン側に優位があるが、仮にサウジとイランの通常戦力が衝突する場合、同盟国であるGCC諸国、そしてバハレーンに第5艦隊を駐留させている米国も巻き込まれることになり、戦力差は逆転するだろう。
したがって、イランから戦争を仕掛ける理由はなく、サウジは同盟国を納得させる理由がない限り戦争に突入することはできない。また、どれだけ戦争の被害を低く見積もったとしても、戦場となるペルシア湾の油田施設に壊滅的な打撃が発生することは避けがたく、戦争に勝利したところで得られるものはほとんどない。
今回の国交断絶においても、両国の軍隊には示威的な行動も含めてほとんど動きが見られず、こうした軍事的な対立は抑制されていると言える。
イデオロギー的な宗派対立の面では、宗派の差異自体が外交問題となることはほとんどない。実際、サウジがイランの地域政策を非難するときは、「アラブ諸国」への干渉であると非難するのであり、「スンナ派諸国」への干渉を非難しているわけではない。
そもそも「宗派主義」という語自体は否定的な意味合いを持っており、相手国の行動を非難するときに使われる用語である。サウジもイランも「正しいイスラーム」を主張するのであり、「スンナ派」や「シーア派」という言葉がスローガンとして用いられるわけではない。
他方、宗派主義を煽るような言説は、政府レベルでは抑制されていても、市井の人々や一部メディア、宗教指導者についてはその限りではない。こうした敵対的な言説を両国政府が意図的に許容しているのか、あるいは取り締まることが困難なのかは、判断が分かれるところではある。
もっとも、これは社会にとってはガス抜きの意味合いもあり、批判して良い「敵」を作っているとの見方は有力だろう。
しかし、政府レベルで政策的に宗派性を殊更に強調することは、自国に存在する少数派の宗派を排除することにつながる恐れがある。サウジには東部と南西部にシーア派、イランには北西部のクルド、南東部のバローチといった少数民族のスンナ派が居住している。
宗派対立が深まることは、これらの「自国民」との対立も深まることを意味しており、こうした地域において反政府運動が発生しかねないという問題も抱えている。
結局のところ、サウジとイランの対立の主戦場は、外交の場、そして周辺地域での紛争である。地域紛争においては、サウジがイエメンに、イランがイラク、シリアに部隊を派遣して直接的な介入を行っているが、双方が直接的に介入している戦場は未だない。
しばしば指摘されるサウジ東部、バハレーンへのイランの介入については、80年代にイランが「革命の輸出」を行っていた頃に比べると、精神的な支援はしつつも、資金や武器といった物理的な支援を行っているかどうかは疑わしいレベルである。
国交断絶を巡るサウジとイランの意図とは
さて、大きく回り道をしたが、ここで改めて、今回の国交断絶を巡る両国の意図について検討してみたい。
両国の緊張関係の高まりには、全てサウジないしイランに仕組まれたものであるという過激な陰謀論すら出てきているが、危機に際する両国の一つ一つの行動をどう解釈できるか見ていこう。
ことの発端は、サウジが1月2日にシーア派の聖職者であるニムル師を含む47人の処刑を発表したことだった。
これについては、イラン、そして国際社会からも宗派対立を煽るものであるとの非難が寄せられた。しかし、これが真に宗派対立を煽る目的で行ったのであれば、43人のアル=カーイダ関係者を同時に処刑する必要はなく、ニムル師を含むシーア派の4人のみに刑を執行していれば事足りる話である。
サウジ政府にとってニムル師は、2011年にサウジ東部でデモを扇動した主犯格であり、かつて東部の分離独立を主張したこともある危険人物である。ニムル師は必ずしも現在のイランの政治体制に賛同を示していたわけではなく、イランから支援を受けていたかどうかは極めて疑わしい。
しかし、2012年の拘束、2014年の死刑判決時には、東部で大規模なデモが発生しており、サウジ政府としては、体制の安定性を脅かし、治安撹乱の要因となる者に対して断固とした対処をとるという姿勢を示すことが主なねらいであったのだろう。
もっとも、デモを扇動したとはいえ、暴力的な手段による体制転換を主張したり、あるいは実際の暴力の使用を教唆したりした事実が確認されていない人物に死刑を執行することに反発が起きることは、サウジ政府もある程度想定していたはずだ。
2日の午後、サウジ東部ではニムル師の処刑に抗議するデモが発生したが、装甲車などが現地に早々に展開し(デモより前に展開されていたという説もある)、これを解散させている。
しかし、サウジ政府も、イランが処刑への非難の声をあげることは予想していたとしても、大使館が襲撃に遭うことまで予期するのは難しいだろう。実際、大使館襲撃の発生は、イラン政府にとってはマイナスの出来事であった。
ニムル師の処刑が発表された段階では、イラン政府の立場は欧米諸国と同様、それを非難する立場にあり、国際的にイランの主張の正当性――宗派主義を煽り、地域を不安定化させているのはサウジアラビアである――をアピールするチャンスであった。
しかし、3日の未明にサウジ大使館への襲撃が発生したことは、かつての米国大使館占拠(1979-81)、英国大使館襲撃(2011)の記憶を呼び起こさせ、これから核合意による制裁解除で国際社会に復帰したいイランの出鼻をくじくものであった。
イラン政府は、引き金となったサウジの行動を非難しつつも、大使館襲撃については正当化できないという難しい立場を表明することになった。これは、かつて米国大使館占拠を正当化し、英国大使館襲撃に寛容な態度を示したことと比べると大きな違いであり、イラン側が示せる精一杯の誠実な対応だと言えよう。
これに対して、3日の夜にサウジがイランとの国交断絶を発表する。かつてサウジはスウェーデンの外相がサウジの死刑制度を批判する演説を行ったことで大使を召還する措置をとったこともあり、こうした「内政干渉」には厳しい対応をとってきた。
今回は大使館が襲撃に遭ったということもあり、これまで対立関係を深めてきたイランに弱腰の対応をとることは、むしろ国内での不満を高めかねないという判断があっただろう。
サウジの行動を受け、バハレーン(4日)、スーダン(4日)、ジブチ(6日)、コモロ連合(7日)がイランとの国交断絶を、UAEが外交関係の格下げ(4日)を、クウェイト(5日)、カタル(6日)が大使の召還を行った。こうした周辺諸国の動向は、地域の宗派的な分断を深め、緊張を高めるものとして一部では見られている。
しかし、内実を見れば分かるように、サウジと最も関係の深いバハレーンですらイランとの国交断絶を発表するのに半日以上かかっており、その他の国の対応もばらばらである。こうした諸外国の動きは、サウジによる国交断絶が事前に準備されたものとは程遠く、偶発的なものだったということを物語っていよう。
おわりに――国交断絶の地域情勢への影響
以上、本稿では、サウジアラビアとイランの国交断絶を巡る危機について、両国の意図を分析すべく、対立の構造的な要因に注目してきた。まずもって、歴史的にサウジとイランは常に対立関係にあったわけではなく、協調していた時期も存在した。
しかし、地域・国際情勢の変容とともに、両国は対立を深めるようになった。これは軍事的・イデオロギー的な争いというよりは、外交的な手段を中心とする地域への影響力を巡る権力闘争である。
今回の危機は、こうした二国間の対立の文脈から考えると、ややイレギュラーな出来事であった。それは、サウジによる処刑は、対イラン外交や宗派対立の文脈ではなく、国内治安対策の文脈で理解されるべき動きだったことに起因する。歴史にifは禁物だと言われるが、もしイランで大使館襲撃が発生しなければ、サウジは国交断絶を発表する理由がなかっただろう。
そして、それはイランにとっても、自国の立場を国際社会で強化するチャンスですらあり、イラン側から国交断絶に踏み切ることになっていたかもしれないのだ。
したがって、国交断絶により、偶発的な事故から紛争がエスカレーションすることを抑制する術の一つが失われたわけだが、そもそもサウジ、イランともに両国間で戦争を起こす誘因は低いという状況に大きな変化はない。
もともと関係が希薄だった両国間で人的・経済的交流が停止することは、情勢に大きなインパクトを与えるようなものではなく、対立しているというポーズを内外に示すためだけのようなものだ。
シリア、イエメンといった周辺地域の紛争での対立は、従来から深刻な路線対立に陥っており、和解の見込みは小さかった。今回の国交断絶によりその見込みは更に小さくなったといえるが、逆に言えば、サウジとイランの対立の構図のなかでは、その程度の影響しか持たない問題である。
既にサウジ側からはムハンマド・ビン・サルマーン副皇太子(The Economist, 2016年1月7日)、イラン側からはザリーフ外相(The New York Times, 2016年1月10日)によって本件に関する対外的な説明がなされているが、双方とも自国の立場を正当化し、相手を非難しつつも、いたずらな紛争のエスカレーションを望まないことが表明されている。
こうした抑制的な対応が継続するためには、国際社会は両国の対立を煽るように騒ぎ立てることを控えるべきだろう。
<本稿で示したサウジとイランの対立の構造については、拙稿「サウジアラビアとイランの「冷戦」――「権力闘争」か「宗派対立」か」『中東研究』第523号(2015年5月)を参照されたい。>
プロフィール
村上拓哉
公益財団法人中東調査会研究員。2009年9月、桜美林大学大学院国際研究科博士前期過程修了。クウェイト大学留学、在オマーン日本国大使館勤務を経て、2014年4月より現職。専門は湾岸地域の安全保障・国際関係論、現代オマーン政治。著書に「湾岸地域における新たな安全保障秩序の模索――GCC諸国の安全保障政策の軍事化と機能的協力の進展――」『国際安全保障』第43巻第3号(2015年12月)など。