2016.10.05
日本とオーストラリア――“西洋コンプレックス”の似たもの同士
アジアの東の端に赤道を挟み北と南に位置する日本とオーストラリアは、一般的にとても違う国と認識されている。実際、歴史、民族、文化、自然、そして国土の広さはもちろん人口規模も二国は大きく異なり、ある意味好対照の国ということが言える。したがって、日本とオーストラリアは似た者同士だ、と言うと、奇異に思う人が多いだろう。しかしながら、両国の国際舞台、とくにアジア地域における言動を注視してみると、その相似性が鮮明に浮かび上がって来る。
日本とオーストラリアは、その過程は大きく異なりつつも、共に時代が新しい世紀-20世紀-に入る頃に近代国家として成立している。その意味で両国は世界の歴史の流れ中で同世代に属する国家であり、それぞれが国家としてのアイデンティティを形成していった時期が重なることから、必然的にどこか似た“性格”を持ち合わせているのである。近年、日豪は“アジアにおける最良の友”とか“特別な戦略的パートナー”と称され、関係が緊密化しているが、それはその相似性に理由の一つがあると思われる。
潜水艦燃え尽き症候群?
今年の夏(オーストラリアは冬だが)の日豪関係は、あの2年前の熱狂は“真夏の夜の夢”だったのか、あるいは“から騒ぎ”だったのか、と思わせるぐらい、静かなものとなっている。2014年の7月、安倍首相はニュージーランド、オーストラリア、そしてパプアニューギニアを歴訪する7日間に亘る大洋州訪問を行った。中でもオーストラリア訪問の内容は濃く、トニー・アボット首相(当時)のほぼフルアテンドの手厚い歓迎を受け、二国が“特別な関係”に至ったことが強調され、日豪関係は湧いていた。
それから2年、二国間関係の話題が低調なのは、一つには、この7月は日豪共に“選挙の月”となり、両国の視線がそもそも国内を向きがちだったことがあろう。と、同時にここ2年ほど日豪関係で注目を集めた案件の一つ、オーストラリアの将来潜水艦建造事業を日本が受注できなかったことで、とくに日本からオーストラリアに対して向けられていた熱い視線が一気に冷えた感がある。
日本がこの案件を受注できなかった理由については、安倍首相との間にはケミストリーがある、とまで言われ、この案件についても熱心に日本にアプローチしていたアボット首相が昨年9月に党内から不信任を突きつけられて、首相の座を追われていたことや、後任のマルコム・ターンブル首相が“中国寄り”と評され、今回の案件も中国に配慮して日本は受注に至らなかったのだ、というような解説がメディア上で展開された。
潜水艦という国防に関わる案件であり、オーストラリアがフランス案を選択するに至った理由は、当然のことながらその性能の問題などいくつかの要件が複雑に絡み合ってのことであろうが、大きな要因の一つは、フランス案であれば造船産業が存在する南オーストラリア州に雇用機会を生むことができたことである。労働者の権利主張が強いオーストラリアでは、労働者を無視してコトを進めることは非常に困難で、今回も国内で一番失業率の高い南オーストラリア州への配慮がなされた結果と言えるだろう。
したがって、今回日本が受注できなかったのは、主要因はオーストラリアの国内事情によるもので、日豪関係云々とは無関係の理由だったと言えるわけだが、確かにこの案件に関しては、元々オーストラリア側が日本に持ち掛けてきたもので、当初ほとんど日本ありきで走り出し、日本としてもそれに応えるべく「武器輸出三原則」も「防衛装備品移転三原則」に変えるなど満を持して受注を準備していただけに、何かメンツを潰されたようで、オーストラリアに対して苦々しい思いを抱いている日本側関係者がいても不思議ではない。結果、メディアの報道などを見ていると、今回のことで日豪関係が疎遠になってしまうのでは、と読む向きもあった。
しかしながら、この問題に関しては、むしろこのような案件がそもそも両国の間に持ち上がったこと自体に注目すべき点がある、と捉えるべきなのではないだろうか。
日豪関係の来し方
日本とオーストラリアは、ここ3、40年安定した友好関係を築いてきた。しかし、歴史を振り返ると国対国の関係が信頼に基づく良好な関係だった時期は必ずしも長くない。1788年に英国が入植を開始し、アジアというその出自とは異質な空間に、ヨーロッパの出先機関として存在してきたオーストラリアは、19世紀半ばから同じく英国の植民地であったインドにおける地元民の蜂起(セポイの反乱)、ゴールドラッシュをきっかけとした中国人の流入、そして開国以来急速な近代化路線をひた走る日本の台頭を目の当たりにし、自らの後背地に大きな人口を抱えるアジアが存在することを強く意識するようになった。当時オーストラリア大陸に住む人たちの数は少なく、南東部に比較的集中して住んでいたために、大陸の北部には大きな空白があると捉えられ、そこにアジア人が大挙して押し寄せて来るのではないか、と脅威を感じていた。
それが連邦政府設立直後の移民制限法の制定に繋がる。これは入国時にヨーロッパ言語での聞き取りテストを実施することによって、アジア人を中心とする有色人種の人たちの移民を妨げる、言い換えればオーストラリアの中をなるべく白く保つ政策で、「白豪主義」と称されるようになる。この政策の導入は一般的には中国人労働者流入阻止のためだった、と解説されることが多いが、同時に日清戦争に勝利し、軍事的にもプレゼンスを益してきていた日本を警戒しての措置でもあった。
したがって、1941年12月8日に始まった戦争は、豪北部地域への90回を越える爆撃や、シドニー湾における特殊潜航艇による攻撃など、直接国土を攻撃されたことから、正にその恐れていた日本による“侵略”が現実のものとなってしまった戦争、と捉えられた。加えて、東南アジア戦線にて日本軍に捕えられ、日本国内外で使役された戦争捕虜の人たちへの非人道的扱いがあったことから、オーストラリアは戦後長らく日本に対して怒りや嫌悪感、また不信感を抱いてきた。そのようなことから、戦後両国は人的交流、そして貿易を通じて、地道に健全な二国間関係を築いていったが、安全保障、あるいは戦争の文脈で日本がポジティブに言及されることは皆無に等しかった。
それが21世紀に入ってから事態が一般の我々にもはっきり見えるかたちで変化していった。現在の日豪の親密さを安倍・アボットの人的関係に求める解説は多いが、実際にはそれより前から二国の安全保障面での連携強化は始まっている。
最初の特筆すべきでき事は、2003年に米国主導で始まったイラクの侵略戦争に日本が自衛隊を派遣した際、その護衛を豪州軍が引き受けたことである。当初自衛隊の護衛はオランダ軍が担ってくれていたが、オランダがイラクから2005年3月で撤退することが決定。オランダの後を引き受けてくれる国がないと、自衛隊は撤退しなければならない事態に直面していた。
その時に救いの手を差し伸べたのがオーストラリアである。イラク戦争は国内で実に評判の悪い戦争で、豪州軍の増派となる決定には当然のことながら批判が起こった。加えて、過去の敵国日本を豪州軍が護るという構図は、オーストラリアでは必ずしも歓迎されるものではなかった。しかし当時のジョン・ハワード首相は日本がイラクに留まることの重要性を説き、また過去のことは決して忘れはしないが、過去が現在、そして未来を縛ることもさせない、と述べて、増派を決行した。このことはオーストラリア国内では日豪関係の歴史的転換点と報道された。
そして、このイラクでの協働は2007年の「安全保障協力に関する日豪共同宣言」への署名に繋がる。これは日本にとってはオーストラリアを、「日米安全保障条約」で繋がる米国の次に近しい国にするものであった。そしてこれは米国とはアンザス条約(Australia, New Zealand, United States Security Treaty)で繋がるオーストラリアから見ても、日本が米国に次いで特別な安全保障上のパートナーとなった瞬間だった。
この「日豪共同宣言」への署名をきっかけに、日豪間では日豪外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の開催が定例化され、これまでに日豪双方で計6回実施されている。そして、2010年には「物品役務相互提供協定」、2012年には「日豪情報保護協定」、そして2014年には「防衛装備品及び技術の移転に関する協定」を結んでいる。「物品役務相互提供協定」については、2013年のフィリピン台風30号災害救助時、2014年のマレーシア行方不明航空機捜索時に、国際救助に参加した自衛隊と豪州軍が現地でスムーズに連携することを可能にした。
このように、両国は安全保障面での連携を着実に深化させ、人的交流や貿易と併せ、“特別な戦略的パートナーシップ”関係にあると称するようになったのだ。
日豪関係とアジア、そして“西洋コンプレックス”
では、過去にそれだけわだかまりがある微妙な関係だったにも関わらず、日豪を急接近させたものは何だったのだろうか。日豪の国際舞台、とくにアジア地域における立ち位置を良く観察すると、それは、日豪両国がこれまで西洋に対する劣等感、すなわち“西洋コンプレックス”を同様に抱えて来たことにあるのではないか、と思われる。
日本とオーストラリアは共に“アジア”に対してつねに微妙な距離感を持って歩んできた。オーストラリアの場合はそもそも西洋の出先機関として突然アジアという非西洋の空間に現れた国であり、アジアはどこまで行っても「他者」という存在だった。また日本も、出自はアジアにありつつ、明治維新以降アジアとは一線を画す態度を取り続けて来た。
両国はその帰結として、前者は「白豪主義」というアジア人をあからさまに差別する政策を国の政策としてほぼ70年もの間掲げた。そして後者は“脱亜”を謳い、その後大東亜共栄圏を構想、最終的にはアジアを戦禍に巻き込んだ。このように見て来ると、日豪はどちらもアジアに対して脛に傷を持つ国だということがわかる。
それではなぜ両国が同じようにアジアを蔑視する態度を取ったのかを考えると、両者が共に“西洋コンプレックス”を抱えていることが挙げられるのではないだろうか。日本とオーストラリアは、歴史ある古い国と新しく誕生した若い国、と対照的に見られることが多い。しかしながら、この二国が近代国家として成立した時期に目を向けると、実はそれほど時間的な差はない。日本が大日本帝国憲法を公布し、国内外に近代国家として成立したことをアピールしたのが1889年。一方、6つの植民地が集まり、連邦政府の下に一つの国、オーストラリア連邦が形成されたのが1901年。そこには10年ちょっとの差しかなく、世界の歴史の大きな流れの中で、日豪は同世代に属する国だということが言える。
この二つの近代国家の成立は一見バラバラのでき事が偶然同時期に起こったことのように見えるが、その成立の背景にヨーロッパの大国および米国のアジア太平洋地域への勢力拡大があったことを考えると、二つのでき事にはじつは関連性があり、建国直後に二国が体験したことにも共通点がある。両国がそれぞれ足を踏み入れた国際社会はすでに西洋の大国が支配している世界で、日豪両国は共にその世界に遅れて参加した新参者だったのだ。
以後、日本とオーストラリアは“西洋の大国”の仲間入りをすべく注力をしてきた。日本が開国当初諸外国から押し付けられた不平等条約の解消に奔走し、西洋から学び、近代化を進め、国際舞台で名誉ある地位を獲得することに腐心してきたことは改めて説明するまでもないだろう。そして、オーストラリアも大英帝国の自治領という立場ながら第一次世界大戦戦後処理や国際連盟設立について議論したパリ講和会議や、第二次世界大戦期に話が進んだ国際連合の創設時の話し合いの場などに積極的にコミットし、国際社会でのプレゼンスを高めることに力を入れて来た。
しかしながら現在に至るまで、日本もオーストラリアも“西洋の大国”になることはなく、どこかずっと半人前の国家であるという意識を持ち続けて来た。結果、両国の社会の深層には“西洋コンプレックス”が漂い、翻って西洋の対照である“アジア”に対して優越意識を持つことで、そのコンプレックスを無意識の内に払拭しようとしてきた跡が見える。
日豪が国際社会にデビューした頃、アジアの大半はまだ西洋の支配下にあり、それは近代化という意味で“遅れた”存在であった。そのような中で、日豪はアジア地域では近代化の先頭を走る存在として“進んだ西洋”の眼差しで“遅れたアジア”のことを見、それを“他者化”することで、自らが少しでも“進んだ西洋”に近い存在であることを確認したのだ。このことを念頭に昨今の日豪の接近について考えると、アジアの周辺国と上手に対等の関係が築けない二国は、同地域の“孤児”とも見える存在で、似た者同士が自然に引き寄せられて行ったと見ることはできないだろうか。
さらに、西洋コンプレックスを共有する二国は、これも当然の帰結として西洋の大国に寄って行く、という似た行動癖を持っている。以前寺島実郎氏が20世紀の日本の外交を総括して、キーワードは「アングロ・サクソン同盟」であると指摘したことがあった。これは日本が20世紀前半は日英同盟に頼り、戦後は米国との同盟関係に頼って来たことを指しているが、英国の植民地として出発し、英国のアジア太平洋地域における力が低下してからは米国を頼ったオーストラリアにも同じことが言える。
先に言及した「安全保障協力に関する日豪共同宣言」はこの文脈で読まれる必要がある。日豪はそれぞれ前述の「日米安全保障条約」と「アンザス条約」で米国と結ばれており、「日豪共同宣言」の署名は日米豪を頂点とする三角形の最後の一辺が結ばれた、と解説された。実際のところこの三か国の間では「日豪共同宣言」の署名前の2006年に「日米豪閣僚級戦略対話」が開催されており、署名の年にはシドニーでのAPEC開催の際に三者の首脳会談が行われた。以後、閣僚級戦略対話については6回開催されている。
そして何と言っても、日豪が安全保障面で急接近したイラクでの協働も、両国が米国に対してその存在をアピールした結果と見ることができる。日本は戦後初めて紛争地帯へ自衛隊を出すことで米国に貢献。オーストラリアもいち早く派兵をしたこともさることながら、先述の自衛隊を護る役割を引き受けたことで、さらに米国にその存在を示すことができたのである。
最後に:日本とオーストラリアのこれから
この夏、日豪関係は2年前に比べると随分と静かな状態だった。それでも7月25日にはラオスでのASEAN関連の会合の際に、第6回の日米豪閣僚級戦略対話が開催され、外務省の報道発表によれば南シナ海、東シナ海、北朝鮮、テロ対策について突っ込んだ話し合いが行われ、共同ステートメントを発表している。そして8月末にはマライス・ペイン防衛相が昨年9月の就任後初めてとなる来日を果たし、新任の稲田朋美防衛大臣と会談を行っている。ドラマティックなことはないまでも、日豪関係は淡々とルーティンをこなしている感がある。
今後近いところで1つ注目されるのは、次はいつ安倍首相がオーストラリア訪問を果たすのかだ。2年前のオーストラリア訪問時の首脳会談で、日豪は首相の相互訪問を定例化しようとの取り決めをしている。昨年はオーストラリア側では首相交替があったものの、ターンブル首相は何とか12月に慌ただしいスケジュールでではあったが、来日を果たした。したがって、今度は日本側がオーストラリアを訪問する番である。もしこれが近い将来実施されるとして、何を主題とした訪問になるのか。
日本のメディアや一般の人々の目はどうしても米国そして欧州に向きがちである。しかし、宿命の相手かもしれないオーストラリアとの関係は、今後とくに注視して行く必要があるだろう。
プロフィール
原田容子
1962年、東京生まれ。セゾングループに勤務の後、2003年、University of Wollongong(オーストラリア)留学。修士号(2003年)、博士号(2009年)取得。2010年から2年、研究フェローとしてメルボルンのDeakin Universityに勤務(研究テーマ:日豪間の捕鯨問題)。2013年8月帰国後、任期付き職員として外務省アジア大洋州局大洋州課(豪州・ニュージーランド班)に1年勤務。現在は個人でオーストラリアに関する研究を継続する傍ら、多摩大学、慶應大学にて非常勤講師を務める。
UIT㈱のウェブサイトにブログ「オーストラリア備忘録:備えなければ憂いなし?」を執筆中。
http://telescopium.uitinc.io/tag/australia-biboroku/